5



 「ぐっ」
小さなうめき声を上げて、マルティンが地面の上に伸びる。イヴァンはその体を引きずって物陰の目立たないところに押し込んだ。イモ袋の間だ。
 「さてと。ここまではなんとか来られたが、問題は、どうやってあの中に忍び込むかだな」
イヴァンは、灯りに照らされた天幕を裏側から見上げた。さっきマルティンの居た天幕と同じくらい派手で、大きさからいって、マルティンの父親のアジズ子爵が使っているものに間違い無さそうだった。マルティンの天幕が無防備だったのに引き換え、こちらは正面入り口にも裏口にも見張りが立ち、出入りは簡単に行きそうにない。
 「スヴェイン様だけおびき出せるでしょうか?」
 「うーん、一つ試してみるとすれば…」
アルヴィスは、側に積み上げられた食料に視線をやると、その中から一塊の包みを取り出した。
 「もしかしたら、これでワンデルを呼べるかもしれない。」
 「ワンデルって、スヴェイン王子と一緒にいるっていう近衛騎士?」 
 「彼は獣人なんだ。人間よりはるかに嗅覚が発達している」と、アルヴィス。「そして、これに目が無い」
 「…干し棗ですね」
と、ティアーナ。干した棗が糸でひとつなぎにされたものが、アルヴィスの手元にぶら下がっている。料理の風味づけに使う、どこにでもあるものだ。
 「どういうわけか、彼はこれが大好きで…。でも、見た目がほら、…あれだから、肉ばっかり出されるらしいんだよね」
 「いい考えです。でも、どうやって匂いを?」
 「あそこに見張り用の篝火が燃えてる」
 「なるほど。」
アルヴィスの手から棗を受け取ったイヴァンは、実を幾つか糸から引きちぎって、狙いを定めてぽいと火の中に放り込んだ。ぱちっ、と火花がはぜて、香ばしい棗の匂いが辺りに立ちこめる。しかしそれも一瞬のことだ。
 「これじゃ気づかれそうに無いな」
まとめてひと繋ぎぜんぶ放り込んで、イヴァンは半信半疑で炎を見上げた。匂いが漂うにしても、ほんの微かなもののはずだ。人間の嗅覚では、誰か酔っ払いが、どこかで火の中に食べかすを放り込んだくらいにしか分からない。
 「風向きは?」
 「こちらが風上です、アル。天幕のほうにも匂いは流れると思いますが…、中にいるのなら、匂いはほとんど感じられないかもしれませんよ」
 「侮っちゃだめだよ。獣人の嗅覚はすごいんだ、人ごみの中からだって僕らを見つけられる。特に、ワンデルは…」
言いかけた時、荒っぽい鼻息の音が聞こえてきた。はっとして振り返った三人は、暗がりの中から何か黒っぽいものが地面を這うようにしてこちらに近づいてくるのに気づいて口を閉ざした。毛玉の塊…犬にしては大きい。イヴァンは思わず剣に手をかけそうになったが、ティアーナが警戒していないのに気づいて止めた。
 彼女のほうは落ち着き払って、アルヴィスより一歩前に進み出ると、地面に集中したまま前を見ていないらしい毛玉の前に立ちふさがった。
 「…くんくん、…くんくん… む!」
ティアーナのブーツの先まで来たそれは、大きく鼻をヒクつかせると、勢い良く顔を上げた。
 「このニオイ! ティアだぞ」
 「ええそうよ。こんにちは、ワンデル」
毛玉のように見えていたものが、むくりと体全体を起こした。それは、顔だけ見れば犬のような――だが全体的には小人のようでもある――不思議な姿をした人間だった。
 「わふん!」
アルヴィスに気づいて、それは慌てて後ろ足で立ち上がって気を付けの格好をすると、びしっと敬礼した。耳をぴんと立てたつもりだったのだろうが、片方の耳はすぐに半分折れて、目の前に垂れ下がる。そのときイヴァンは、その生き物の腰のあたりに細いベルトが回され、実用的とは思えない小さなナイフがぶら下げられていることに気が付いた。ナイフの柄には、見覚えのある金色の房飾りがついている。
 (近衛騎士の飾り…?)
なるほど。形式上とはいえ、こうして武器を提げているのはこの房飾りのためでもあるのか。
 「アルヴィス殿下っ! お久し振りなのであります!」
 「しっ、声が大きいよワンデル」
笑顔になって、アルヴィスは顔がワンデルと同じ高さになるよう膝を折った。
 「よく来てくれた。君なら気づいてくれると思ったんだ。」
 「わふん。いい匂いがしましたので」
アルヴィスが差し出した干し棗を見ると、黒い小さな目が輝いた。「わふん〜 これです、これ! 食べていいのです?」
 「いいよ。僕のじゃないけどね」
彼は、イモ袋の間から突き出している足のほうをちらりと見た。
 「…スヴェイン兄さんは、ここにいるの?」
 「はいです。監視されてますです」
 「監視?」
 「疑われているのです。わふん。多分…、逃げたり裏切ったりしないかどうか」
三人は顔を見合わせる。
 「ってことは、ここにいる連中はスヴェイン王子が命じて集めたわけじゃねーのか」
 「当たり前です。殿下は、…もぐもぐ、…冬の会議で退位を要求すればいい、と仰っていたのです。…もぐもぐ。時間がないから武力を使ってでも、と言い張ったのは、ベニールこーこーって奴なのです」
 「ベニ…ヴェニエル侯爵のこと?」
 「そいつです! カンリに見つかりそうだから、もう誤魔化せないとかなんとか。」
成る程、少しは話が見えてきた。こんな性急な方法を取ったのは、それだけ追い詰められていたからなのだ。
 「兄さんを連れ出せるかな、ワンデル。大事な頼みごとだ。どうしても話をしなくちゃ」
 「わふん、やってみます。今はみんな酔っ払ってるのです」
糸に繋がれた棗の最後の一つまでぺろりと飲み込んでしまうと、毛むくじゃらの獣人は、満足したように腹をさすり、ちょこちょこと短い二本の足で走り出した。
 「言っちゃなんだけど、まるで犬…だなぁ」
 「見た目はね。でも、知能は人間と同等。それに寿命も人間の二倍はあるから、私たちよりずっと年上なんです」
ティアーナが言う。「先代王の頃からお仕えしていて、近衛騎士の中でも最古参よ。」
 「へえ…。初対面だと見た目で誤魔化されるだろうな」
 「それが狙いで、スヴェイン様につけているんでしょうけどね」
物陰で待っていると、やがて天幕のほうから賑やかな声が響いてきた。
 「はっは、ただの小用です。お気遣いは無用…」
 「兄さんだ」
アルヴィスが呟く。ひどく酔っ払ったような声だ。
 「夜は暗い。足元にどうぞお気をつけて」
 「なぁに、ちょっと外の空気を吸うだけです。すぐに戻りますよ…ひっく」
ワンデルを傍らに連れて、気取った服装の若い男がよろめきつつ天幕を離れる。見張りの兵がついてこようとするのを断って、彼はアルヴィスたちの隠れているほうへ近づいてきた。
 「わふん。連れてきたのです。」
 「さすがね、ワンデル」
 「…おおっと。ティアまでいたのか、それは聞いてなかったな」
男は乱れた髪を慌てて撫でつけ、意味深な笑みを浮かべて見せた。酒を飲んでいるのは確かだが、思っていたほど酔っ払っているわけでもなさそうだ。それとも、酔った振りも演技の一つなのだろうか。彼は視線を自分の正面に立っている少年のほうに向け、真顔になった。
 「よくこんなところまで入り込めたな、アル。」
 「どうしても、話をしたかったので」
 「無茶をしたものだ。」
一つ溜息をついて、スヴェインは恨めしそうな顔でティアーナのほうを見る。「どうして止めてくれなかったんだ。あれほど言っておいたのに」
 「理由が知りたかったからです」
彼女は表情を動かさずに答える。
 「あなたが、こんなことを始めた理由を」
 「理由? 見てのとおりだよ。父上の代わりに、私が王になりたくて――」
 「うそつき」
アルヴィスは、低く呟いた。「囮になるつもりだったくせに。」
 「えっ、シグルズそんなことまで喋ったのか?!」
 「……。」
 「あっ」
スヴェインは思わず口に手をやったが、もう遅い。ティアーナの表情が変わっていく。
 「…やっぱり、このことはシグルズ様もご存知だったんですか?!」
 「いや、その」
攻めるような視線と口調に圧倒されて、スヴェインはたじろいだ。まるで母親にイタズラがばれた若者のような顔。イヴァンには、この男の本当の姿が分からなくなっていた。状況だけから見れば、父王に逆らって有力貴族たちを焚きつけた謀反の張本人。天幕を出てきたばかりの時は、貴族たちにいいように操られる酔っ払いの木偶の坊。そして今は――。
 「そうだと思ったんだ。兄さんたちが、お互い何も知らないなんてことあるはずがない。僕がクロン鉱石の調査をしてることだって、シグルズ兄さんから聞いたんだよね?」
スヴェインは、渋い顔のまま視線を逸らしている。
 「それで、どこまで調べがついているのか僕の部屋を探ったんでしょ。クロン鉱石の産地を調べていることを知って、流通経路が暴かれるのも時間の問題だと思った。だから」
 「…ああ、そうだよ」
彼は、覚悟を決めたように大きく溜息をついた。「奴らが知ったら、お前の身にも危険が及ぶと思ったんだ。だから、そうなる前に止めさせたかった。なのに――」
 「つまり、アルが調べるまでもなく、スヴェイン様もシグルズ様も、前から知っていたってことですね?」
 「ある程度は」
 「どうして陛下に言わなかったんです!」
ティアーナに詰め寄られ、スヴェインは思わず一歩、後退った。
 「言って、捕まえればよかったじゃないですか! 分かっていたんでしょう? ヴェニエル侯爵、マイレ伯爵…」
 「そうだな。捕まえられれば良かった。十数に及ぶ貴族全てとその縁者、領地、表に出ない賛同者、その全てを一網打尽に」
 「…っ」
彼女は言葉を詰まらせた。スヴェインは、自分の手元に視線をやった。
 「王権とは不思議なものだ。存在するように思っているうちは強く、存在を疑うようになったとたん、この上なく脆弱に、存在するのかどうかさえ分からないものとなる。雇用者と使用人の関係は金と契約があればそれで済む。だが王と家臣とは、ただそれだけの関係ではない。…アル、お前はどう思う? この国の三分の一の貴族たちを同時に粛清すれば、一体何が起きると思う?」
 「混乱と反感。王家の威信の致命的な凋落。繰り返される報復と疑心暗鬼にかられた粛清の繰り返し」
 「そうだ。ぼくらだけじゃなく、この国にとっての破滅が待っている。それに気づいた時、ぼくとスヴェインは役割を決めた。シグルズは国王を補佐する理想的な後継者。ぼくは国王に反感を抱く貴族たちの拠り所。ぼくのもとに集まってきた連中の情報は、すべてシグルズと共有して考えた。どうすれば彼らの力を効率的に削ぐことが出来るのか。どうすれば、破滅的な結末無しにこの国を変えられるのか」
 「…それじゃ、まさに"囮"…」 
 「そうさ。ぼくは反逆者たちを道連れにして舞台を降りなければならない。誤算だったのは、連中が考えていたより下手くそな役者だったってところさ。――ぼくみたいな大根役者でさえ呆れるほどに」
小さく笑って、スヴェインは額に手をやった。
 「ここに集まってる連中は見ただろ? とんでもない烏合の衆だ。まともに戦えるのはヴェニエルとマイレの連れて来た私兵団、それにどこかで雇った傭兵団くらいだ。残りは誇りと家名自慢だけがとりえの貴族様と、その腰ぎんちゃく。酒を飲んで騒いで町人相手に武器をひけらかすことは出来ても、大儀も使命も持ち合わせちゃいない。強いほうに靡く。そういう連中さ。――連中がおおっぴらにやらかしたせいで、さすがの父上も手を下さないわけにはいかなくなってな。先月、ローレンス男爵が逮捕された」
 「ローレンス? 王都のすぐ隣では」
 「そう。表向きの理由は税収の誤魔化しだが、実際はクロン鉱石の取引がらみだ。爵位持ちをいきなり投獄だからな。連中が焦ったのも無理はない。それで、今に至るというわけだ」
彼は、ちらりと背後を確かめた。赤い天幕のほうは静かなままだ。誰かが探しに来る気配は、まだない。
 「――そういうわけだ。父上のことだ、どうせ、怒り狂ってここの連中を一網打尽にするつもりで準備しているんだろ? 被害の少ない方法をとりたかったが、こうなったら仕方ない。戦いになれば、どのみちここの連中はみんな牢屋行きだ。自分たちから仕掛けた戦いが原因で処罰されるなら、連中だって文句は言わないはずさ」
 「その前に甚大な被害が出ます」
と、アルヴィス。「父さんも、兄さんも、彼らの戦力を過小評価しすぎだ。」
 「過小評価? さっき言っただろ。まともに戦えるのは、ヴェニエルとマイレの連れて来た――」
 「クロン鉱石を使った武器があるんですよ」
彼はじっと兄を見つめる。「あれがどんな威力を持つか、兄さんは知らないの?」 
 「威力って…。五分かかって弾をつめて、至近距離でようやく鋼を割れるくらいだろ。祭の時に使われたときは焦ったけど、あの時だって馬が驚いた程度で誰も怪我をしなかったし」
 「それは火筒のほう。投げて使う爆弾があるんだ。軍勢の中に放り込まれたらひとたまりもない」
アルヴィスの切羽詰った口調の響きに押されて、スヴェインの表情も変わっていく。
 「…お前たちは、それを見たのか?」
 「俺とアルは見てましたよ、ていうか使われました」
イヴァンが答える。「森の中にいたから助かったようなものだ。木が爆風を防いでくれなきゃ、王都でそうだったように吹っ飛ばされてしばらく起き上がれなくなってた」
 「……そうか。あれか」
スヴェインは口元に手をやった。「それらしきものが運び込まれるのは見ていた。ヴェニエルはやたら強気だったかが、もしかして空威張りではなく勝算が…」
 「兄さん、それは何処に? もしそれを使われたら」
 「ああ。まずいな」
 「わふん!」
ぴくりとワンデルが耳を立てる。「誰か来ますです。殿下、そろそろ戻らないと怪しまれます」
 「…ああ、くそっ」
スヴェインは、慌てて引き返そうとする。
 「兄さん!」
 「お前たちはどこか、朝まで安全なところにいろ。っていうか、安全なとこが…どこかにあれば、だけど」
 「こいつの天幕に隠れてるよ」
イヴァンは、そばで伸びているマルティンのほうをちらりと見た。「アジズ子爵の息子の天幕。そこならたぶん、誰も来ない」
 「――分かった。ええと、そうか。君がイヴァン・サーレ?」
 「ああ」
 「弟を頼む」
それだけ言い残して、スヴェインはワンデルとともに大急ぎで天幕のほうへと去って行く。暗がりから薪の灯りの下へ出た途端、酔っ払いのちどり足に変わるのは、さすがといったところか。
 「はぁー、すいませんねご心配をおかけして。大丈夫、酔ってませんよ〜」
調子の外れた大声。ついさっきまで、しらふで真面目な話をしていた男と同一人物とは思えない。変わり身の早さには唖然とするばかりだ。
 「あれが、…アルの二人目の兄さんか」
 「うん。本当は真面目な人なんだけど、ああしてると全然そうは見えないでしょ」
アルヴィスは、隣に立っているティアーナを見上げた。「やっぱりそうだよ。ティア、兄さんは変わってなかった」
 「はい」
頷いて、彼女は目を伏せた。「ばかですね。近くにいても、全然気がつかなかったなんて」
 「シグルズと二人がかりで演じてたんだ。騙されないほうがおかしいよ。でも、ヴェニエル侯爵あたりは薄々感づいてたのかもしれないね。老獪な人だから…」
スヴェインが天幕に入っていったあと、入り口は厳重に閉じられ元通りに見張りが立った。見張られているのだとワンデルは言っていた。新王として祭り上げる予定のスヴェインの意見も押し切って軍を出したからには、指導権を持っているのはヴェニエル侯爵なのだろう。元よりスヴェインのことは傀儡として利用するつもりだけだったのかもしれない。
 「陛下はどこまでご存知なのでしょうか。お二人が調べたことは、陛下には伝えていなかったのでしょう?」
 「うん。でも父さんは、確証がなかっただけで、ほぼ同じことを知っていたと思う。――それに、スヴェイン兄さんの裏切りが演技だってことは、多分、僕より早く気づいてたはずだ」
 「気づいてた? なのに軍を出して制圧するのか?」
 「そういう人なんだ」アルヴィスは俯いた。「たとえ本意でないと分かっていても、反逆の行動がとられた時点で制圧せずにはいられない。そして、それがスヴェインの望みでもある」
 「"反逆者たちを道連れにして舞台を降りなければならない"…ですか」
ティアーナは首を振った。「そんな、自分を犠牲にするようなこと。知っていれば絶対に止めたのに」
 「他の方法があれば良かったんだ」
 「そうだな…よいしょっと」
イヴァンは、イモ袋の間に隠してあったマルティンの体を引きずり上げ、抱える。酒くさい匂いがぷんぷんするが、このさい荷物の臭気には文句は言うまい。
 「こいつの天幕に戻ろうぜ。騎士学校の生徒があんまりウロウロしてちゃ目立つからな」
 「…うん」
朝まで隠れていろ、とスヴェインは言った。朝になれば、貴族たちが突きつけた要求に対する最終返答がある。おそらく国王は拒絶する。その後に起こることは、両軍の戦闘だ。その混乱に乗じて脱出するのなら、おそらくそれほど難しくはない。ただ、いったん戦闘が始まってしまえば、それはもう彼らには止められないものとなる。



 天幕に戻り、気持ちよく寝入っているマルティンを適当にソファに転がしてしまうと、三人はそれぞれに火の側に腰を下ろした。深い溜息をついたのは、ティアーナだ。
 「これからどうしましょう。私たちに出来ることは…」
 「戦いが始まることは避けられそうに無いね。とすれば、どうすれば、少しでも被害を少なく出来るのかだ」
アルヴィスは火を見つめている。
 「見た限り、こちら側の陣は塹壕も防御壁も無かった。飛び道具は考慮してないってことなのかな。王都には弓兵もいるんだけど…」
 「開幕であの爆弾を使う気じゃねぇのか」
と、イヴァン。
 「先頭集団にあれをぶちまけて、混乱したところを一気に押しつぶす。有り得るだろ」
 「なるほど。それなら、この烏合の衆でも正規軍と戦える。統制をとる必要もないからね」
 「では余計に、運び込まれたっていうそれを何とかしないと。」
ティアーナは腰を浮かしかける。
 「大丈夫、父さんたちだっていきなり全軍を突っ込ませたりはしないだろうし、最初は混乱しても後から押し返せる。王都は落とせない」
こんな時だというのに、アルヴィスは随分落ち着いている。「…ただ、このままだと両軍ともに多数の犠牲が出てしまう。それが分からないはずはないのに、ヴェニエル侯爵…。」
炎に照らされた横顔は、苦悩している。戦いになれば、人が死ぬ。そうでなくとも多くの怪我人が出る。十年前、ユラニアの森の事件が何人の命を奪い、どれほど多くの人の人性を変えたのか、イヴァンは知っている。そのうちの一人は、彼の父、領主クラヴィス・サーレだ。
 「…ん」
天幕の外にかすかな音を聞いて、イヴァンは立ち上がった。裏口のほうだ。
 布で仕切られた裏口のほうを覗いた彼は、すえたような匂いの漂う裏口のあたりに一瞬何か人影が動いたことに気づいた。あっと思った次の瞬間、彼は頭を羽交い絞めにされている。
 「がっ」
 「みーつけた」
目の前に、赤い唇を持つ妖艶な顔がある。なんともいえない残忍な笑みを浮かべた女は、イヴァンの首を締め上げたまま、まるで何も持っていないような軽い足取りで天幕の中へと向かう。
 「シンディ?!」
火の前に座っていた二人が立ち上がる。頭を羽交い絞めにされたままのイヴァンは、気を失わないよう相手の腕にしがみつくのでやっとだ。
 「どうしてここに…」
 「エカチェリーテ様に言われた使命。連れ戻す」
 「待って、その前にとりあえず話しを聞いて。」
 「このままだとスヴェイン様だけじゃなく、陛下やシグルズ様の身も危ないんです!」
まともに抵抗してもかなわない。二人は必死だ。
 「…と、とりあえず話しの前に俺を降ろしてくれないか?」
 「だめ」
シンディは口元にだけ微笑みを浮かべ、イヴァンを見下ろした。「悪いことした悪い子はお仕置きが必要。今度は逃がさない。」
 「……。」
このぶんだと、残ったアステルとエデルのほうも相当ひどい目に遭っていそうだ。いずれにせよ、誰にも気づかれずここを突き止めたシンディの"腕前"は確かなもののようだった。
 「クロン鉱石を使った爆弾がどこかにあるんだ。ヴェニエル侯爵が持ち込んでいたのをスヴェインが見たらしい。投げつけて爆発させるものだ。父さんとシグルズに伝えて欲しいんだ。気をつけるようにと。…たぶん、最初の段階でそれを使うはずだから、突っ込んでくるのは危険だって」
 「自分で伝えればいい」
 「だめだ」
アルヴィスは首を振る。「いくら君でも、何の騒ぎも起こさずに僕ら全員を連れ出すなんて出来ない。騒ぎが起きれば、スヴェイン兄さんが疑われる」
 「スヴェイン様も監視されているんです」
ティアーナも食い下がる。「私たちなんかより、本当はスヴェイン様を連れ出してもらいたいくらいです! 朝になれば、私たちは自分たちで逃げられます」
 「スヴェインにはワンデルがついてる」
シンディはそっけない。
 「ワンデル一人では…。それに、陛下はスヴェイン様もろとも攻撃するつもりなんでしょう?!」
 「反乱軍だ。騎士に私情は必要ない」
 「あなたそれでも!」
急に締め上げていた腕がゆるんで、イヴァンは地面に放り出された。
 「ぐえっ」
文句でも言ってやろうかと思ったが、シンディの纏う気配がそれをさせない。向き合う二人の女性たちの間には、言いようもなく険悪な気配が漂っている。
 「邪魔するなら斬る」
 「いいんですか? 騒ぎになれば、ここにいる全員もろともですよ。アルも巻き添えです」
 「お、おい…お前ら」
 「止めろ。」
硬いアルヴィスの声が、剣に手をかけようとした二人の動きを止めさせた。
 「近衛騎士シンディ・ラーン。君が王妃エカチェリーテ様に言いつかった使命とは、僕を王都へ連れ戻すことなのか」
 「そう」
 「彼女は君に何と命令した? 一言一句違えずに教えてくれ」
 「――"アルヴィスを危ないところから家に連れ戻して頂戴"、と」
 「"いつまでに"、とは、言わなかったんだな?」
シンディは首を傾げる。
 「僕は君と一緒に王宮に戻る。ただしそれは、朝になってからだ」
 「……!」
 「お願いを聞いてほしいんだ。クロン鉱石を使った武器のありかを探して。ヴェニエル侯爵の兵の監視下にある。君なら見つけられるはずだ。」
 「アル、それは…」
彼はティアーナに小さく頷いてみせた。「朝になって軍が動き出したら、僕らで破壊を試みるんだ。出来るかどうかは判らないけど…」
 「危険」
シンディは不満げだ。「今すぐ帰る」
 「無理やり連れ戻すなら、君を恨むからね」
 「う…」
小さく呻いて、彼女は考え込むようなそぶりをした。喉をさすりながら、イヴァンは少し離れたところからそのやりとりを眺めている。ティアーナはともかく、アルヴィスのほうは、この恐ろしく底知れない美女を全く恐れていないようだった。まるで、昔から馴染みのある親戚のような雰囲気だ。
 ややあって、彼女は仕方ない、というように肩をすくめると、何も言わずに裏口のほうへ消えていった。
 「お願いは、…通じたんでしょうか?」
 「うん」
アルヴィスは、何も無かったような顔で元のように火の側に腰を下ろす。「僕らがお願いするとね、最後には根負けするんだ、いつも。」
 「僕らって…王子様方ですか?」
 「そうだよ。生まれた時からの付き合いだから。三人とも、おしめだって変えて貰ったことがある」
 「……。」
ティアーナは何故か少し顔を赤らめた。「こ、古参だとは聞いていましたが、そうだったんですね」
 「口ではああ言ってたけど、スヴェインのことだって思ってる。だから心配しなくてもいいよ。ただ彼女は、誰よりも騎士の使命に忠実なんだ。」
外は静かで、ほとんど足音も聞こえない。夜が更けて、兵士たちの宴会の音も止んでいる。天幕の奥からは、マルティンのかく調子はずれの鼾がやけに大きく響いてくる。
 つかの間の平穏。だが、それも今だけだ。
 時間は静かに過ぎてゆく。黙って火を囲みながら、三人はそれぞれに重い気持ちで朝を待っていた。


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