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 学校に戻るのは、そう苦労はしなかった。普段なら人でごった返している通りにもほとんど人がおらず、ところどころに騎士団の兵がうろついている以外は空いていたからだ。広場を横切り、学校へと続く通りに駆け込んだイヴァンは、その勢いのまま階段を駆け上がって玄関を開いた。
 「きゃあっ」
受付の奥にいた女性が驚いて悲鳴を上げる。
 「…サーレ、さん?」
 「あーすんません、あと、ただいまです」
 「お、お帰りなさい…。」
走ってきたせいでかいた汗を拭いながら、彼は辺りを見回した。
 「…なんか、静かですね」
 「ええ。みんな、騎士団を手伝いに出ているんです。でも、もうじき戻ってくるはずですよ。」
部屋に戻る階段を登る。誰もいない宿舎は妙な感じだ。三階の一番奥、以前使っていた部屋は、出て行った時のまま何一つ変わっていない。寝具が片付けられ、枕元に残していった荷物が一まとめにしてかばんとともに置いてある。そして、制服は壁にかけられたままになっていた。
 (…なんか、これに袖通すのも久し振りだな)
取り上げた黒い上下の揃いを身につける。それから、予備の一式を取り上げて小脇に抱え込んだ。
 (あと一枚…)
廊下のほうから、賑やかな声と足音が響いてくる。生徒たちが帰って来たようだ。イヴァンは、そろりと階段に近づいて下を見下ろした。
 「いいですか皆さん。明日は授業はありませんが、学校からは出ないように。」
ハーミスの良く通る声が響いている。「朝食後は食堂に留まるように。各学年の担任の先生から指示が出ます。分かりましたね」
生徒たちの返事。階段を上がってくる足音を聞いて、イヴァンは廊下で待った。やがて、上がってきた生徒たちがぎょっとして足を止める。
 「あれ、あんた、…」
イヴァンは口に指を当てる。
 「先生にはまだ内緒な。アステルは?」
 「あいつなら、ほら」
階段の下でエデルと話している姿がある。「呼んで来ようか?」
 「そうしてくれ」
下で話し声がした。ややあって、アステルが階段を駆け上がってきた。エデルまで一緒だ。
 「イヴァン! お前、何時の間に」
 「しっ。ちょっと来い」
 「え? 何…」
イヴァンは、二人の腕を掴んだまま自分の部屋のほうへ引きずっていく。
 「何だよ一体。戻ってきたかと思えば」
アステルは不機嫌そうだ。「町の状況は見ただろ? 今、みんなギスギスしてるんだ。避難したい奴はとっくに町を出た。なんでわざわざ戻って来たんだよ」
 「それに、さっき一緒にいたのは騎士団の人だったよね? あと、本屋によく来てた人もいた…」
エデルは流石によく覚えている。
 「ああ。そいつらに協力しなきゃならねぇんだ。状況なんてお前らより良く知ってるくらいだよ。時間無いからちゃっちゃと言うぞ。お前らの力と制服を借りたい」
 「…制服?」
 「あと一着必要なんだ。ちょい背が高めだから、アステルに予備を借りようと思ってた」
 「何の話だ? 背が高いって誰のことだよ」
 「さっき一緒にいた女だよ! あの二人に制服着せて、お前らと入れ替えて町の外に連れ出す。俺の頭だと、それしか思いつかなかったんだよ」
 「……。」
アステルとエデルは顔を見合わせ、イヴァンの真剣そのものの表情も見やる。
 「どういうことなんだよ…」
 「話が、よく見えない」
 「だから。下の町にいるスヴェイン王子と話をしなきゃならねえんだって。アジズ子爵領の旗があったのは見たろ? マルティンの家だ」
その名を聞いたとたん、アステルの表情が強張った。
 「…あいつも来てるのか」
 「それは知らん。けど、来てて欲しいと思ってる。制服着てマルティンに会いたいからって行けば、通してくれると思うんだ。子分になりたいとかそっちに着くからとか言えばさ。あいつ、そういうの好きだろ」
 「それはわかる。でも、スヴェイン王子がそこにいるとは、限らないんじゃないか…。」
話がよく分かっていないはずなのに、アステルは冷静だ。「マルティンに会うことは出来るかもしれないが、下のあの軍勢の中で、どうやって王子を探すんだ」
 「…赤い天幕だ」
イヴァンは、お茶会のさなかにシンディが言っていた言葉を思い出していた。「赤い天幕、近衛騎士のワンデルが一緒」
 「ワンデル…って、獣人の?」
 「"黒ブチの騎士"だな。ありそうな話だ。けど――」
言いかけて、アステルは口を閉ざした。「…分かった。制服を取ってこよう」
 「え、え? アステル」
 「今は細かい話を聞いてる時間は無さそうだ。つまらん冗談じゃないことくらいは分かる」
 「悪い、アステル」
 「いいさ。お前には借りもあるしな」
アステルが持ってきた制服の換えもひとまとめにして、三人は、一階の窓から表に抜け出した。日は傾きつつある。急がなければならない。
 「王宮って言ったよな」
走りながら、アステルが怒鳴る。「まさか侵入するなんてことはないよな?」
 「さすがにそれは無い。門番に言えば通してくれることになってっから! …多分」
あのあと、ティアーナが門番とうまく話しをつけてくれたかどうかにかかっている。はあ、と一つ溜息をついて、アステルは、人気のない通りを見やった。
 「どうせ、こんなことだろうと思ってたよ。家の用事で休学とか、嘘ついて」
 「悪かったよ。けど本当のことなんて言えなかったんだよ。こうなることが分かってて、その前に何とかしたかったのに」
 「…今更聞くのもおかしいけど、ってことは、イヴァンの家は王様側ってことなんだよね?」
後ろを、少し遅れて走りながらエデルが言う。「おれの故郷は…ベローナの町は」
 「気にすんな。お前はただの町人で、領主が決めたことには関係ない」
言いながら、イヴァンは少し胸が痛んだ。かつて否定していた身分というものが、今は嫌というほど実感できたからだ。
 「イヴァン、王宮ってこっちじゃない…」
 「こっちにも入り口があるんだよ。」
さっき出てきた門を見上げて、イヴァンは一つごくりと息を呑んだ。硬く閉ざされた門と両脇の見張り塔。さっきは気づかなかったが、よく見ると塔の上には弓をたずさえた巡廻の兵士がいる。怪しい真似でもしようものなら、一瞬で穴だらけにされそうだ。
 彼は言動に注意しながら塔を見上げ、さっきティアーナがそうしていたように、見張りに向かって怒鳴った。
 「イヴァン・サーレです! 戻ってきました。ここを通してもらえますか」
しばらくの間があった。じりじりするような間だ。やがて、見張りがあらわれて、じろじろとイヴァンを見やった。
 「三人? 誰か連れて戻ってくるとは聞いていたが――」
 「ええ、騎士学校の生徒二人ですよ」
イヴァンは平静を装って答える。「どちらも信頼できる者です」
 「ちょっと待っててくれ」
見張りがどこかへ引っ込んでいく。やがて、どこかで金属の軋む音がした。門が開き始めるのを見て、彼は内心で胸を撫で下ろした。どうやらティアーナはうまくやってくれたようだ。
 開いた扉の隙間から小走りに駆け込むと、正面にティアーナが待っていた。彼女は、そっけない視線で連れの二人を一瞥だけした。
 「お帰りなさい。その人たちが協力者なの?」
 「ああ。アルは?」
 「中よ。あなたが戻ってくるまで待てないと言って、エカチェリーテ様を説得に行った」そう言って、小さく肩をすくめる。「…無理でしょうけれど」
 「やっぱこっちの案でいくしかねぇな。エデル、制服貸して」
受け取った二着の制服を、イヴァンは、ティアーナに差し出す。
 「…何ですか、これ」
 「お前とアルがこいつに着替える。で、こいつら二人と入れ替わってここを出るって寸法だ」
 「は?」
ティアーナは、馬鹿にしたような顔になった。「あなたの案って、…そういう…あの、…失礼」
 口にしかけた下品な言葉を飲み込むように、彼女はひとつ咳払いした。
 「とにかく。あなたたちのことは、アルをここから"出さないため"の気晴らしとして呼んだことにしてあります。話し相手というか、そういうものね。近衛騎士のシンディの前では小細工なんて通じませんよ。彼女は情報収集と隠密行動を得意とする騎士なんです。怪しい行動をとれば喉を一突きされますよ」
 「ひっ」
後ろでエデルが小さな声を上げる。そばかすの少年は、早くも青ざめていた。
 「けど、アルをスヴェイン王子んとこには連れて行きたいだろ?」
 「……それは」
 「お前だって、このまま戦いが始まって欲しくないんだろ?!」
 「当たり前です! こんな馬鹿げた話――」
建物のほうで人の気配がして、二人は口を閉ざした。アルヴィスと、その後ろにぴったりくっついてシンディが出てくる。慌ててティアーナは、手にしていた制服を近くの茂みに押し込む。
 「あれ」
アルヴィスは、顔を上げてイヴァンのほうを見た。
 「戻ってたんだ。その二人は?」
 「同じ学級のアステルとエデル。エデルは本屋で店員やってたから知ってるよな」
 「うん、見覚えがある。…そっか、友達まで連れて来てくれたんだ」少年の表情が翳る。「ごめん、何も出来ないのに迷惑ばっかりかけて」
その様子からして、やはり"説得"は巧くいかなかったようだ。
 イヴァンは、横目にシンディとの距離を確かめてからアルヴィスの肩を引き寄せた。
 「俺たちの制服持ってきたんだ。そこの茂みに隠してある。それを来て、こいつらと入れ替えればお前を連れ出せるんじゃないかって」
 「ええ?」
アルヴィスは驚いたような顔になった。
 「それは…出て行くときには確認なんてされないけど、でも流石に」
 「日が暮れれば少しは暗くなるだろ。なんとかうまいこと、あの怖ぇえ美人を誤魔化す方法考えないと…なんか心当たりないのか? 苦手なもんとか」
 「…うーん」
アルヴィスは顎に手をやった。「苦手なものがあるかは分からないけど、シンディはすごく強い」
 「いや近衛騎士なんだから、そりゃ強いだろ。他になんかないのか」
 「強いって褒められると喜ぶっていうか、…戦うの好きなんだよ。よく他の近衛騎士を相手させてるけど、容赦ないから最近は皆怖がっちゃって」
 「え? ベオルフでも勝てないのか」
 「兄さんとは互角ですよ、もっとも本人の談によれば"相性が悪い"らしいんですけど。」
 「…へー」
 「イヴァン、もしかして…試してみようとか思ってる?」
 「いや、ちょっとくらいならいいだろ」
 「どうなっても知りませんよ」
呆れているティアーナをよそに、イヴァンはシンディに声をかけに近づいていった。
 「……。」
黙って聞いていたアステルが、ぼそりと口を開く。
 「つまり、あの人の目をごまかせればいいんだな?」
 「ええ。でも…」
 「おれも一応、剣は扱える」
言って、アステルはイヴァンの後姿に視線をやった。「何がどうなってるのかは分からないが、少しは手伝えると思う」
 二人とも、そのあとに起きる惨劇を知っていたら、そんなことは考えなかったかもしれない。
 いずれにせよ、試みは考えていたよりはるかに大きな成功を収めた。尊い犠牲のもとで。



 その三十分ほど後、制服を着たままの三人は、町の中を全力で走りぬけていた。ぶつかりそうになった通行人が悲鳴を上げ、通りを見回りしていた衛兵が目を丸くするのも構わず町の出口を目指している。こんな方法が巧くいくとは思っていなかったが、結果として巧くいったのだ。驚くほかに無い。
 「ああ…死ぬかと思った」
 「イヴァン、大丈夫ですか?」
珍しく、ティアーナが気遣っている。イヴァンは、シンディに思い切り投げ飛ばされてしたたかに打ちつけた尻のあたりを撫でている。
 「なんとかな。戻った時に、あいつらがまだ生きてることを祈ってるよ」
その二人はというと、いまごろはまだシンディとの文字通り「必死」の剣術の特訓に励んでいるはず。シンディのほうも、久し振りに指導しがいのある見習いが来たかと楽しげだった。夢中になっている彼女は、観客席にいた三人がそろりと姿を消したことに気づいていなかった。――少なくとも、裏門を抜け出すときには。
 「あとで謝らないと」
アルヴィスは、真顔で呟いた。王宮が遠ざかってもまだ安心は出来ない。町の出入り口は一つだけだ。彼らが何処を通るのかは隠しようがない。
 町に街灯の明かりが灯りはじめている。
 広場を横切り、町の出口に至る通りまで辿り着くことは出来たが、そこから先は、昼間、騎士学校の生徒たちが積み上げた土嚢があって真っ直ぐには進めない。門の周囲には兵士たちが詰めていて、篝火が明るく照らし出している。綴れ折りの道の途中にも柵が設置されていた。
 「…城壁が」
呟いて、ティアーナは頭上に視線をやった。町を取り囲む城壁は、今の今までただの"古い壁"としか認識していなかった。その壁が、今は見張りの巡廻する巨大な防御壁へと変化していた。丘の上にあり、綴れ折りの道を上がらねば町に入れない、難攻不落の"王都"。ここに住んでいるティアーナでさえ、こんな姿を見るのは初めてのようで気圧されている。
 「そこで何をしている」
立ち止まっている三人に気づいて、巡廻していた騎士が近づいて来る。はっとして、ティアーナは慌てて言葉を取り繕う。
 「任務で外に出なくてはならないんです」
 「任務? だがお前たち、学生ではないのか。騎士学校の生徒たちは、もう返したぞ」
そうだった。今は、三人とも制服を着たままなのだ。
 「違うんです。私たちは――」
言いかけて、彼女は言葉を切った。こちらに向かって歩いてくる人物に気づいたからだ。
 「…エーリッヒ」
腰に下げた剣に揺れる房飾り。騎士があわてて道を譲る。ここでは、その飾りは騎士団よりも優先されるのだ。
 「行くつもりですか」
その言葉は、アルヴィスに向けられている。
 「…うん」
アルヴィスは、小さくうなづいた。「ここを通して欲しい。どうしても駄目というなら、…」
 「私が受けている命令は、前線を構築するシグルズ様のお手伝いをすることだけです。」
そう言って、エーリッヒは、こちらに気づかないまま灯りの下で指揮を執るシグルズのほうに顔を向けた。
 「…スヴェイン様が何をお考えかは分かりません。ただ、私にとっては今もまだ、お二人ともにお仕えすべき方です」
それから、小さく付け加える。
 「そして、貴方も」
 「ありがとう、エーリッヒ」
 「どうぞご無事で」
走り出す三人の後ろで、エーリッヒの声が響いている。
 「その者たちを通せ! 私が許可する」
光に包まれた門を抜け、夜闇の色濃く支配する世界へと踏み出した。下の町へと続く綴れ折りの道。松明の火が、ほぼ等間隔に揺れている。町から見下ろす下の町とその周辺の陣地は、息を呑むほど広がっていた。
 「…昼間より増えてねぇか? あれ」
 「増えてますね。おそらく、遠方からも集まってきています」
揺れる光を見下ろしながら、ティアーナは呟いた。「傭兵でも雇って、かさ上げしているのかもしれません。いずれにせよ、脅しの効果は抜群ということですよ」
 「笑えねぇ。」
地面が近づいて来るにつれて、今更のようにイヴァンは、無茶を引き受けたという気がしてきた。このだだっ広い陣地の中から「赤いテント」を探し出すなど、至難の業だ。上から見ているだけでは分からない。――引き止めようとしたエカチェリーテのほうが正しかったのだ。
 だが、ここまで来たらもう戻ることなど出来ない。
 闇の中に目を凝らすと、彼は、昼間アジズ領の旗を見たあたりに狙いを定めた。マルティンがいるとすれば、その辺りのはずだ。、
 「ティアーナ、外套のフードを被っててくれ」
 「え?」
 「こっからは脱走した生徒を装うんだ。女が居ちゃおかしいだろ」
町を降りたあたりで、三人はそれぞれ馬を下りた。町のすぐ下のあたりにも土嚢は積まれ、明日の衝突に備えてある。交渉が決裂して、戦闘になることを見越しているのだ。イヴァンは少し暗い気持ちになった。
 「本当にうまくいくでしょうか?」
 「やってみなきゃわかんねーよ。俺だってマルティンのことはそこまで知ってるわけじゃねぇんだ」
町と町の間に広がる闇は思っていたよりも広い。王都の灯りが遠ざかると、周囲は闇に包まれた。下の町とその周辺に張り巡らされた天幕の灯りが遠くに見える。闇の中にかすかに見える旗印を目指しながら、イヴァンは、周囲の気配に感覚を研ぎ澄ませていた。
 やがて人影が見えたのは、下の町の灯りがすぐ近くに見え始めた頃のことだった。
 「誰だ」
ようやく、そう聞いてくれる相手が現われた。町と町の間には警備などいなかったのだ。逆にほっとして、イヴァンは両手を挙げると出来るだけ丁寧な口調で言った。
 「あのう――俺たちは騎士学校の生徒で…ここはアジズ子爵様の陣でしょうか?」
見張りの兵は、不思議そうな顔をして彼を見つめた。制服を見たことがないのかもしれない。
 「マルティン・ディ・アジズ様に会いに抜け出して来たんです。俺ら、その…学校で一緒だったんで…」
 「ああー、坊ちゃまの学校のか…。ちょっと待ってろ」
兵が引っ込んでいく。イヴァンは、後ろの二人と顔を見合わせた。もう少し疑われると予想していたのだが。
 やがて、兵が戻って来た。
 「お会いになるそうだ。ついて来い」
 「は、はい」
罠かと思うくらいに順調だ。もしかしたら彼らも、これから起こる事が何なのか分かっていないのかもしれない。あるいはこれが、王国に叛旗を翻そうという旧貴族たちの実体なのだろうか。薪の火が照らす陣地の中には、そこかしこに酔っ払った兵士の姿がある。大声で笑ったり調子外れの歌を歌ったりしている者、宴会らしき声の響く天幕、道端に寝転がってイビキをかいている者…。まるっきり、緊迫感がない。ティアーナは何か言いたそうな雰囲気だが、我慢して口を閉ざしている。
 兵士に連れられて歩きながら、イヴァンは、ちらりと天幕の向こうに視線をやった。全くやる気のないお遊び気分の兵士たちのいる向こう側、ほんの僅か先に、突然雰囲気の変わる場所があることに気づいたのだ。見えない境目をつくる、武装した強面の兵の姿。ひらめく旗は、見たことの無い印。
 「…ヴェニエル侯爵家の旗だ」
後ろで、アルヴィスが小さな声で言った。彼も同じ方向を見ている。どうやらこの烏合の衆は、単純に数では測れない意識差があるようだった。
 「ここだ」
先導していた兵が足を止めた。紫の布、金糸の飾り。派手すぎて目がちかちかするようだ。入り口に一応見張りは立っているものの、ほとんど警備らしい警備もされていない。
 気がつくと、案内役の兵士はさっさと元来た道を戻って行くところだ。
 「いいのか、…こんなんで」
呆れながら、イヴァンは天幕の重たい布を捲った。中からは酒臭い臭いが漂ってくる。床に転がる酒瓶に目を留めて、彼は眉を寄せた。奥のほうから聞き覚えのある尊大な声が響いてくる。
 「おう来たかぁ。ちょうど退屈してたとこなんだよ、王都の連中はどうしてる? ん?」
マルティンだ。焦点のさだまらない目で寝台の上に寝そべって、すでに出来上がっている。側のテーブルの上には、食べかけの料理や空になった酒瓶が無造作に散らばっていた。
 「…何やってんだお前」
 「何…って…ん、んん?」
イヴァンの声を聞いたとたん、目の焦点が合いはじめた。手にしていたグラスを取り落とすと、マルティンは、椅子の上に起き上がった。その顔が見る間に青ざめていく。
 「貴様――イヴァ…!」
 「お静かに」
滑るように近づいたティアーナが、剣の切っ先をマルティンの喉元に押し当てている。「怪しい動きをしたら殺しますよ」
 「ひ、ひぃっ…」
情けない声を上げて、マルティンは両手を挙げたまま固まった。体が痙攣するように震えている。
 「ったく。無用心にも程があるぜ。つーか、誰が訪ねて来たと思ってたんだ、あんたは」
足元の酒瓶を蹴って、イヴァンは腰に手を当てた。「自分が何やってるか、分かってんのか?」
 「何とは何だ」
 「ここに集まってる貴族連中のやろうとしてることだ。王様に退位を要求してる。断られれば武力の行使も辞さない。――つまりは戦争だ。力づくで政権を交替させようとしてんだぞ。」
 「ふん、そんなこと承知の上だとも」
喉元に切っ先を当てられたまま、マルティンは虚勢を張ろうとする。「今の国王は所詮は東方の小貴族出身。王の座に居られるのは、我々名家の承認あってのことだ。その我らをないがしろにするのなら、退いてもらうしかないな!」
 「ふうん、それでスヴェイン王子を?」
 「そうだ。国王の座には、正しい血筋の者が就かなければならない! き―…貴様のような、卑しい血筋のエセ貴族もろとも、相応しくない王は退位させるのだ!」
 「子爵の息子風情が知ったような口を。お前の家にその爵位を与え、保障しているのは誰なのだ? 王国の領地を与えたのは?」
ティアーナの瞳に、激情の炎が走る。
 「陛下への無礼の数々、それだけでも今ここでお前の喉を掻き切るには十分すぎる」
 「止めとけ。そんなの切ってもつまらんだけだぞ。」
マルティンに近づいて、イヴァンは、テーブルの上の皿に積まれていた果物に視線をやった。甘酸っぱい臭いが漂う。西方から取り寄せられた珍しい果物――カヤポの実だ。西方から持ち込まれた品がここにある、ということは、クロン鉱石を使ったあの新兵器も、この陣地の中のどこかに届けられているはずだ。
 あまり時間はない。朝になれば、それは人に向けて使われることになる。
 「なぁマルティン。俺らは、そのスヴェイン王子を探しにここまで来たんだが…どこにいるか知らねぇか?」
 「ふん、知っていたところで教えると…」
言いかけた鼻面を、思い切り殴りつける。
 「がはっ」
 「知ってるんだよな、俺。お前こういうの苦手だって」
ティアーナの剣をどけさせて、彼はマルティンの肉付きのよい腕を掴んで後ろ手にひねり挙げた。学校を退学になってから全く運動していなかったのか、感触がやけに柔らかい。不愉快な生暖かさを感じて、イヴァンは体に力をこめた。
 「ぎゃああ! い、痛い…痛い!」
 「うるせえぞ、声あげんな。誰か来るだろうが。ティア、口に布かなんか詰め込んでくれ」
 「え? いいんですか? 吐かせるつもりでは」
 「腕の一本か二本やっちまってからでもいいだろ。足でもいいが」
 「お、お前ら! 本気なのか」
マルティンは涙目になっている。
 「当たり前だろうが。俺が冗談言うと思うか?」
 「この…貴様、おれを誰だと…」
 「知ってるよ。裏切り者のアジズ子爵の息子だろ」
 「…っ」 
ティアーナが、てきぱきと猿轡を準備している。
 「イヴァン、これでいいですか?」
 「ああ。声がでないようにガッチリ噛ませといてくれ。それから…」
 「止めろ! 言う、居場所を言うからっ」
真っ青になったマルティンが体をよじって暴れ出した。二人とも、残念そうな顔だ。
 「…ここから真っ直ぐ奥に行けば、赤いテントがある。父上が歓待しているはずだ…だ、だが、お前らに入り込める場所だと思うなよ?! 警備は…」
 「お前なら入れるよな」
と、イヴァン。
 「そうね。私たちを、そこまで連れて行ってもらいましょうか。」
 「なっ」
 「今ここで死ぬか、どっちがいい?」
ティアーナの微塵も容赦のない笑顔の前に、ついにマルティンは折れた。
 「…おれの責任じゃない。どうなっても知らんぞ!」
左右をイヴァンとティアーナに挟まれながら、彼はよろよろと立ち上がった。アルヴィスは、黙って重たい入り口の布を押し上げた。外の風が吹き込んでくる。イヴァンはそれとなく剣の柄をマルティンの背に押し当てた。怪しい真似をしたらいつでも斬る、という意思表示だ。
 「父上のところに行ってくる」
ぶっきらぼうに見張りに言って、彼は重たい足を引きずりながら歩き出した。兵士が怪訝そうな顔をしてこちらを見つめている。誰かに見咎めれたら一貫の終わりだ。いくら気の抜けた集団とはいえ、たった二人でこの人数を相手にするのはキツい。マルティンだって、それを狙っているはずだった。
 だが、マルティンにとって不幸なことに、赤い天幕が近づくまで、誰も彼らを止めて誰何しようとはしなかった。


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