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 白い鳩が、軽い羽音とともに飛び立ってゆく。
 二羽は東へ、もう二羽は北東の方向へと。空に吸い込まれてゆく翼を見送ってから、アルヴィスは待っている二人のほうを振り返った。
 そこは、街道沿いにある何の変哲もない小さな牧場だった。牧場の敷地の隅に立てられたレンガ造りの塔の先端部分が鳩小屋になっていて、伝書鳩の通信拠点となっているのだ。
 「これで、通常なら数日あればリーデンハイゼルに書簡が届く。もう一方はクローナだね」
そう言って、アルヴィスは北のほうに視線を向けた。はるか北のほうにはクローナのあたりまで続くのこぎりの歯のような山脈が、真っ白に冠雪した状態で続いている。高い山脈の上に積もる雪は、夏であっても溶けることはない。
 「船にはマイレ領から乗るんだよな」
 「うん、ネス港だね。そこで船主と落ち合うことになってる」
塔を降りてゆくと、下で干草をほぐしていた牧場主がちらりと顔を上げたが、一瞬だけで、特に何も言わず、すぐに手元に視線を戻して仕事を続ける。塔の下の部分はサイロと繋がっているのだ。サイロを出ると、隣の厩舎から牛ののどかな声が響く。
 牧場で働く人々は、来客に注意も払わず、まるで存在しないかのように振舞っている。最初は驚いたが、そういう"約束"になっているらしい。鳩小屋の管理者は、利用者については何も知らず、何も記憶しない――と。
 「彼らは詳細を知りません。いえ、"知らない"という体裁になっています。鳩小屋を管理し、そこを利用する者に便宜を図ること。命じられているのは、ただそれだけです」
ここへ来る前、ティアーナはイヴァンにそう説明した。
 「実際のところ、鳩小屋が利用されることはほとんどありません。緊急用ですからね。ちなみに、国内に存在する"鳩小屋"の詳細を知っていて実際に使用しているのは近衛騎士と一部の特殊な立場にある役人のみ。三十人にも満たない数です」
 「ふーん。ていうか、俺が勝手に使っても文句言わないの、あの人たち」
イヴァンは、牛たちに水を運んでいる農場の住人たちをちらりと見やる。
 「言いませんよ。ただ、書き方にはルールがあるので、それを知らないと、書簡は偽の報せとして受け取り手に破棄されてしまいます。私も書き方は知りません」
 「なるほど。そういう仕組みなのか。」
 「それじゃネス港を目指そうか。多分、ここからなら数日だよね」
 「ああ。」
イヴァンは、良く晴れた空を見上げた。嗅ぎ慣れた牧草の香り、夏の風。この辺りはもう、彼の良く知る西の地方だ。
 「ここからなら、サーレ領までもすぐだね」
馬にまたがりながらアルヴィスが言う。
 「この街道沿いをずーっと行った先だな」
 「顔を見せに戻らなくていいんですか」
と、ティアーナ。
 「いいよ、そういうのは何時でも出来るし、サーレ領に入ってから家までが遠いんだよ。うち、国境のすぐ近くだからな」
それに、今はまだ、父には会いたくなかった。王都を出てから、特に何の成果があったわけでもない。会うのは、胸を張って言える何かを見つけてからにしたかった。
 「この辺りからそろそろプーリア地方ですね」
馬を走らせながら、ティアーナが言う。「マイレ伯爵領です。イヴァン、領主をご存知ですか」
 「いや、俺は知らない。親父は会ったことあるはずだけど」
 「マイレ伯爵のことは、僕もよく知らないんだ。」
と、アルヴィス。
 「三年に一度の中央議会には各地方の領主もしくは代理人が出ることになっているんだけど、僕はまだ一度も出たことがない。次回の開催は今年の予定だから、その時には会えるんだろうけど」
 「今年かぁ。…国中から偉い人が集まるんだよな」
 「そう」
少年は僅かに表情を固くする。 「例の法案も、予定では今年の冬に可決される」
 「…ああ」
季節はまだ夏とはいえ、あと何ヶ月かすれば冬がやってくる。反対派にとっても、残り時間は少ないということだ。
 「今年は、アルが代理で出るんですか」
 「多分。ー――そうか、冬になればイヴァンのお父さんにも会えるんだね。楽しみだな」
 「え? あー…会ってもあんま面白い人じゃないぞ」
 「どんな人なの?」
ひとつ小さく息をついて、イヴァンは街道の西に広がる草原を見やった。
 「いっつも不機嫌な顔して怒鳴ってる変人。剣術の腕は凄かったらしいんだけど、…十年前の事件の時、火事の中に無茶して突っ込んで、足悪くしてさ。それからは、ほとんど剣は手にしなくなった。だから俺は、親父がホントに剣持って戦ってる姿はほとんど見たことない。俺の剣術は、親父が最後に指導した俺の兄貴みたいな人から教わった。」
 「サーレ伯の双剣術の噂は、よく聞こえています。近衛騎士にという声もあったほどだとか」
ティアーナが、静かに言う。「騎士団にいた頃は、彼には誰も敵わなかったと。」
 「らしいな。街道沿いの治安が悪かった頃は盗賊退治やったりもしてたらしい。けど、そんな話は全部誰かから聞いた。親父は自分では話さないんだ。全部昔のことだ、って。」
 「そういうとこはイヴァンと同じなんじゃないかな。自分の手柄話なんてしたくないんだ、きっと。」
 「そうかぁ? 単に面倒くさがりなだけだと思うぞ。親父はいつだって…」
 「イヴァン、お父様と仲が良いんですね」
 「いや仲良くないって! つーか、いっつも怒鳴られてばっかりで…」
風が通り過ぎてゆく。
 父と最後にまともに話をしたのは、いつだっただろう。
 近頃はいつもしかつめらしい顔をして、顔を合わせれば怒鳴られ、何も言えないままに会話が終わってしまった。浮かんでくるのは、不機嫌そうな横顔ばかりだ。子供の頃は、もっと違っていたような気もする。何時からだろう。部屋に閉じこもって、あまり屋敷も出なくなった。
 もしかして、あの時からだろうか。
 十年前の――。
 「…ほら、さっさと行こうぜ。目的地、もうすぐなんだろ」
思考を振り払うと、イヴァンはわざと明るい声で言って、馬の速度を上げた。王都へ向かうために家を出てから、もう何ヶ月にもなる。こんなに長く家を空けていたのは初めてだ。懐かしさもあったが、今は帰るわけにはいかなかった。これから向かうのは、南の、海の方角なのだから。



 街道を途中で離れ、しばらく走ったところで、道は海へと辿りついた。小さな漁港が海岸線に沿って並び、沖合いには小さな漁船が無数に浮かんでいる。
 「これが海…」
珍しくティアーナは目を輝かせ、年相応の少女らしい表情になっている。
 「ティア、海初めてだっけ」
 「ええ! 素晴らしいですね、青くて…波の音も…」
潮風になびく髪をかき上げて、彼女は潮騒に目を細める。「この海のどこかに、イェオルド谷もあるんですよね」
 「イェオ…何?」
 「人魚の末裔が住むっていう場所です。本で読んだことがあって、ちょっとだけ」
 「俺は聞いたこと無いけどな。もっと東のほうなんじゃないか」
イヴァンは海岸沿いに視線を走らせ、遠くのほうに海に向かって突き出す岬を見つけて指差した。「あった、あれがネス港。」
 「ずいぶん大きな町なんだね」
後ろから追いついてきたアルヴィスが驚嘆の声を上げる。
 「ここらの市は、だいたいあの町で開かれるんだ。うちからもたまに品を売りに来てる」
港まで続く海岸沿いの道には、港から荷揚げされたらしい荷物を積んだ荷馬車がひっきりなしに行き交っている。近隣の漁港で水揚げされた魚なども、多くがネス港へと運ばれていくようだった。近づくにつれ、港に停泊している大きな船の姿も見えてくる。桟橋の先には、丸みを帯びた形の船底を持つ二本柱の船が碇を下ろしていた。ちょうど荷物の積み下ろし真っ最中のようだ。
 「あれは東のほうから着いた船のようですね」
海面に反射する光に手を翳しながら、ティアーナは眩しさに目を細めた。「海沿いの各港を廻っていく定期便のようです」
 「西の国に行く船はどれなんだ?」
 「定期便は無いよ。何しろ、今のところ正式な国交はない地域だからね。今回は、特別に船を出してもらうことになってる」
町に入ると、道の脇は市をひらく人でごった返していた。馬を下りて、アルヴィスは辺りを見回す。
 「船会社はたぶんあっちだろうね。倉庫があるみたいだし」
 「交渉に行ってくんのか」
 「うん。イヴァンはどうする?」
 「俺は港のほう見て回ってる。ここに来るのも久し振りだし」
 「じゃあ、後で落ち合おう。」
二人と別れ、イヴァンは、ぶらぶらと港のあたりを歩き出した。人ごみから聞こえてくる西方訛り、馴染みのある革製品やチーズなどのサーレ領の特産物。他の町の市とは違う、勝手知ってる奇妙な安心感があった。最もそれは、中央や北の果ての町を回って来た今だからこそ感じられるものなのだが。
 だが、以前とは違っているものもあった。
 港の端まで来たイヴァンは、そこで足を止めて木箱の中に入れられている見慣れないごつごつした橙色の果実らしきものに目を留めた。リンゴほどの大きさで、表面は滑らかだが所々に突起のようなものが突き出している。見たことの無い果実だ。
 「どうだい一つ。傷ものだから安くしとくよ」
木箱の向こうに座って長煙管(きせる)を吹かしていた男が気だるそうな声をかけてきた。この店の店主らしい。
 「これ、何だ? 食えるのか」 
 「もちろん。カヤポっつってな。西方の果物だ」
男は、目の前の木箱の中からひとつを取り上げる。「真ん中から割ればすぐ食える。ちょいと酸っぱいがヤミツキになる味なんだぜ。どうだい、試してみないかい」
 「いくらなんだ?」
 「五ジーレだ」
 「んじゃ一つくれ」
特に何も考えず、イヴァンは無造作に硬貨を取り出して店主の手に投げる。値切る、という感覚は、彼にはない。
 「へっ、毎度あり!」
店主は上機嫌だ。「ここで食べてくかい」
 「ああ。割ってくれ」
ナイフで真っ二つにされた果実からは、甘酸っぱい、独特の香りが漂う。外見はごつごつしているのに、中身はふんわりとして真っ白だ。
 「お、なかなかいける。こりゃいいや」
 「だろう? 今、お貴族様の間じゃ大人気なのよ」
 「貴族って、ここの領主?」
 「それもあるが、東方の領主様方が多いな。宴会で出す珍しい食い物を集めているらしくてな。運んでる最中に痛んじまったものは引き取ってもらえねぇから、こうして安く売ってるってわけよ。つっつってもカヤポはなかなか手に入らないんだぜ。兄ちゃん、運がよかったな」
他所から来たらしい商人は、イヴァンが何者かを気にした様子もない。
 「そうだな。他になんか珍しいもの入ってないのか?」
 「他は…そうだな」
ひとしきり話をして買い物を終え、さっきの場所に戻ってみると、アルヴィスたちは既に到着していた。
 「遅かったねイヴァン。宿の手配もしてきたんだけど…そっちは何を?」
 「買い物。西方の珍しい果物だってさ」
イヴァンが広げて見せた袋の中には、さっきの橙色の実を含む何種類かの果物がいっぱいに詰め込まれている。
 「へえ、珍しい果物だね。先生の手帳にあったかな?」 
 「これから船に乗るっていうのに、こんなに買い込んで」
ティアーナは呆れ顔だ。
 「まあいいじゃねぇか。けっこう美味かったぞ。あと、こいつの納入先が分かった」
 「納入先?」
 「中央のアジズ子爵。クラウゼ領の港町からそこへ流れてるらしい」
 「アジズ…」
アルヴィスの表情が曇った。「また、旧貴族か」
 その名前は、イヴァンにとっても因縁の相手ではあった。マルティン・ディ・アジズ、騎士学校で何かとぶつかりあった相手の実家だ。
 「アジズ領は、王都のすぐ近くですね」
 「そうだね。今までは直接疑ってはいなかったけれど、やっぱり、アジズも繋がっているのか…」
 「ま、分かってるのは西方との取引があるってことだけだけどな。そっちの交渉はどうだった? 巧くいったのか」
 「問題なく。二日後に船を出してもらえることになった。明日中に準備を整えないと。その話は、宿に戻ってからしよう」
言いながら、彼らは馬を引きながら歩き出す。
 市場の雑踏が遠ざかると、波の音が近くなる。桟橋に着いている船の膨らんだ船体が、ちょうど真横から見えていた。船の横には小船が着いて、甲板から垂らされた縄梯子を受け止めている。何か荷物を積み上げているようだ。四角い箱が幾つか、慎重に梯子の上へ担ぎ上げられ、甲板の上へ消えてゆく。
 その時、人ごみの向こうで小さな声が上がった。
 「どけ、どけ」
荒っぽい蹄の音が響いて来る。慌てて避けていく通行人たちの間から、馬に乗った数人の騎士たちが現われた。身なりのいい、洒落た帽子の若い男が先頭の馬に乗っている。西方騎士団に所属する騎士ではない。腰に帯びた剣には赤い房飾りがついていなかった。それに、騎士団の制服は、あんなに華美では無い。
 騎士たちが去って行ったあと、人々はぶつくさ文句を言いながら元通りに動き始めた。
 「あれはマイレ領の騎士たち?」
 「多分な。」
 「まるで道化です」
不機嫌そうにティアーナは呟いた。彼女の言いたいことは何となく分かる。中央騎士団の騎士たちや、国王一家に直接仕える近衛騎士でさえ、あんな派手な格好はしていない。
 「孔雀と鷲は違うんだろ。ま、よそはよそ、だ。」
歩き出しながら、イヴァンは、騎士たちが駆け去って行った市場のほうにそれとなく視線をやった。見た目は派手で冗談にしか思えない騎士たちだが、市で商売をする一般市民からは恐れられている存在だいうことを彼は知っていた。領主の威光をかさに着て好き放題に振舞う嫌われ者で、何かと難癖をつけ、追徴金を取り上げたり、商品を没収したりする。レオンも昔、館に勤める以前にこの辺りに商売に来て苦労したと言っていた。
 だが、それは他所の領地でのことだ。マイレ領の決まりは領主であるマイレ伯の決めることであり、サーレ領の人間には手を出すことはできない。
 (よそはよそ、…だからな)
その背を西の海へ落ちようとする日の光が照らし、港を、赤く染め上げていた。


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