8



 日が昇るにはまだ早く、しかし空は既に白みかけ、町は目覚めようとしている。
 冷たく澄んだ空にかかる薄い雲。王宮前には馬が準備され、アルウィンたち四人が揃っている。見送りはギノヴェーア一人。大忙しだった王国議会が無事終了し、次は離反した東方騎士団との交戦が控えているとあって、王宮も町も、気を緩められない眠りの中にあった。
 「気をつけてね。留守番はお任せを。リーデンハイゼルのことはご心配なく」」
そう言って手を振る彼女は、今朝は淡い水色のぴったりとしたドレスに身を包んでいる。
 デイフレヴンは王について戦場に出る。王都に残る彼女の護衛は、残る近衛騎士二人のみ。取り逃がしたメルヴェイルとウィンドミルは、今頃は東方騎士団と合流している頃だろうか。行方知れずになったままの近衛騎士はいまだ発見されておらず、その生存は絶望的だ。王の近辺は普段よりも手薄――、そのことは誰もが意識していた。戦いは、王を失えばその時点で終わる。


 目指す”死の海”は、ここからはまっすぐ南へ。街道はないが、ほぼ平らな平原が続く。リーデンハイゼルを離れてしばらくは緑豊かな草原に森が点在する風景だが、やがてある時点から、大地は唐突に恵みを失い、その名のとおり不毛な大地へと変貌する。
 一本の木も、草もなく、水は全て毒されている赤茶けた大地。
 深く切り取られた谷が、迷い込んだら出られない複雑な地形を形作り、足場は悪く、毒霧の漂う窪地がそこかしこに地獄の口を開く場所。”死の海”と呼ばれるゆえんだ。旅人たちは、決してそこを通らない。
 ここの地図は、サウディードでメイザンから受け取っている。目指す「ファリエス」がどこかは地図だけではわからないが、シェラが見つけてくれるだろう。
 城門が開き、馬は走り出す。彼らの出発を知る者は少なく、また出発の目的を知る者はさらに少ない。
 つづれ折りの道を駆け下り、平原へ続く道に入ろうとしたとき、後ろから馬が追いついてくるのが見えた。
 「おい、お前たち! どこへ行く」
ディーだ。少年はたくみに馬を操って、アルウィンのすぐ脇につける。
 「王の言いつけで、少し用事を片付けに」
 「そっちはハザルの集落のある方向だ。途中まで一緒に行かないか」
 「いや…」
アルウィンの表情を見て、ディーはぴんと来たようだ。
 「ちょっと待ってろ」
すぐさま馬の頭を巡らせ、後ろを進んでいた族長の馬に近付いていく。族長グウェンには、以前会ったことのあるギスァとサイディが従っている。
 馬を止めて待っていると、ものの数分でディーは戻ってきた。
 「族長のお許しは貰ってきた。オレも一緒に行こう。この先の平原なら、どこでもハザルの”庭”みたいなものだ。」
 「でも、」
 「いつかの恩もまだ返せていない。身内の不始末の穴埋めのこともある。それに、久しぶりに会ったんだ。会議の間はゆっくり話も出来なかったしな」
 「いいんじゃないですか」
珍しくウィラーフが同行者を認める発言をする。「ハザル人なら、”死の海”の構造にも詳しいでしょう。」
 「”死の海”? 変わったところへ行くんだな。良質の鉱石が取れる場所ではあるが、ところどころ毒霧が湧く。足場も悪いし慣れて無ければ道に迷いやすい場所だぞ」
 「そんなに危険なの?」
シェラは不安そうだ。「だったら… ディーにいてもらえたほうが嬉しいかも」
 「…分かった。同行をお願いするよ、でも、あそこは間もなく戦場になるはずだから急がないと」
 「心配するな。ハザルは鉱石を求めて移動する。砂漠では砂ラバを、平原では馬を、どちらも自分の体の一部のように乗りこなせる」
言うなり、ハザル人の少年は勢い良く馬を走らせた。
 「近道を案内する! ついてきてくれ」
アルウィンたちも馬に拍車を当てた。
 朝焼けが空を輝かせる。
 その日最初の光が遠い山々を照らしだし、しずかに世界を侵食し、やがてそれは、走りゆく彼らの足元にも届く。東からの光。東からの敵。東からの戦の足音。彼らは時に追われながら南へと向かう。


 平原に伸びる五つの長い影が重なりあいながら小さなくなってゆくのを、王シドレクは塔の上からじっと見つめていた。風が吹く。ふわりと、背後に白い影が落ちる。
 「彼が気になって? お父様。」
 「ギノヴェーアか」
振り返るまでもなく、彼はその気配に慣れていた。いや、気配というよりは風の吹く匂い、というべきか。風とともに、かすかな菫の香りがした。冬だというのに、それは春を思わせる。妖精たちの故郷の香り。この世にあって、この世にはなく、すぐ近くにありながら果てしなく遠い。
 王女ギノヴェーアは父の側に立ち、父と同じ方角に目をやる。
 「ハザル人の少年が一緒ですわね。どこへ行っても、彼は力を貸してくれる仲間が多いですこと。」
 「そうだな。」
王冠を脱いでしまえば、王は只の人になる。ただの人であったとしても共に来てくれる仲間が一体何人いるというのだろう。
 シドレクはギノヴェーアのほうに視線をやり、ふっと笑った。
 「ランスヴィーンにも、あんなふうに仲間がいればな」
その名が口にされるのは、実に五年ぶりのことだった。
 五年前、クローナとの戦争のさなかに若くして命を落としたシドレク王のただ一人の息子。この王国の次の王となっていたはずの光り輝く王子。誰からも愛され、誰からも尊敬され、申し分のない後継者として――。
 初陣ではなかった。誰もその戦いで彼が死ぬとは予想しなかった。王子である以上、一兵卒としての扱いではなく、周囲には護衛もついていた。にもかかわらず、彼は命を落とした。慢心ゆえか、特別扱いされた者への運命の戒めか。
 クローナの予想外に反撃に逢い、敗走する初日の陣。自らの命のかかる戦場においては、王も王子も「ただの人」となることを、誰もが知らなかった。知っているはずだったシドレクや他の熟練した騎士たちでさえも、久しく忘れていた。 
 生きるか死ぬかの場において自らの命を賭けても守ってくれる「盾」を、彼は持たなかった。
 「私は冷たい父親だろうか。」
 「いいえ。お父様がランスを愛してくださらなかったとは思っていません。あの子の運命が、あまり良い物ではなかったというだけのことです。」
ともに王宮で暮らし、家族としての情もあった。ただ、その死はあまりにも突然すぎ、あまりにも意外すぎて、ほとんど悲しむことも出来なかった。淡々と時は流れ、いつしか真新しかった心の傷の上には薄皮が張り、時折思い出したように胸を刺す微かな痛みだけ。恨もや怒りはとっくに消えていた。もし消えていなかったとしても、ぶつけるべき相手が何処にも居ない。
 「目の前にあるものが全てです」と、アルウィンは言った。そうなのだ。漠然とした「敵」だと思うから憎いと思う。アルウィンを通して、クローナは恨むべき遠きものではなく、もっと近しい場所となっていた。
 「…クローナを攻めたとき、隊には東方騎士団も来ていたな」
 「はい」
と、ギノヴェーア。
 「ですが――、今となっては証拠は何も見つからないでしょう。」
王子が戦死したその戦いで側に居たはずの東方騎士団は、その五年後、王の暗殺も企てることになる。偶然ではないのかもしれない。だが、誰のせい、と今から蒸し返すことにどんな意味があるだろう。たとえ、あの戦争の裏で不実な企みが行われていたと今さら知っても、去った者は帰っては来ない。それを察することが出来なかった、防げなかった時点で、終わっている話なのだ。
 「ひとつ間違えば、私はクローナを滅ぼしていた。」
王は自らの手を見下ろす。
 「もしかすれば、彼らも…この手で殺していたのだ」
 「過ぎた戦いは悔やむべきではありません。」
 「エスタードをどうすればいい。皆殺しにすれば、憂いは絶たれるのか。騎士団が無くなれば、東の守りがなくなるだけでなく、治安維持の部隊も無くなる。この戦いで失われた兵は、既に中央の守りの四分の一近くに達する。さらに四分の一を減らして、その後はどうする」
 「かと言って、ここまでされて和睦を、では誰も納得しないでしょう。ローエンも、そのつもりのはずですよ」
 「……。」
 「昨夜、伝令を飛ばしておきましたわ。」
ギノヴェーアは、ふわりとスカートの裾を翻した。
 「時が味方すれば、お父様の望まれる通りになるでしょう。アストゥールに、勝利のあらんことを」
若かった頃には抱くことのなかった迷いが、今は心に生まれている。即位して数十年。”英雄王”と呼ばれ、鈍ることのなかった刃も、時の流れの中でかつての輝きは失われつつある。彼はそれを実感している。そして、後を継ぐべき息子はもういない。
 王女が去った後も、シドレクはまだ、地平線を見つめていた。



――最終章へ続く

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