6



 シェラは、一人で宮殿の北の塔に登っていた。町と反対側、見下ろせるのは鬱蒼とした森と、その間に点々と埋もれた墓標だけ。リーデンハイゼルの北の方角には、大きな町は少なく、明かりはほとんど見えない。平原に点在する農村がいくつか夜闇の中にうっすらと浮かび上がっている。
 背後で足音がした。
 「あれ? シェラ」
振り返ると、アルウィンが塔の中から出てくるところだった。「こんなところで何を?」
 「うん、ちょっと…どこも居づらくて。」
ウィラーフは本来の仕事に戻っているし、ワンダは何故か侍女たちに大人気でお菓子など貰って大騒ぎしている。ブランシェはずっと考え込んでいて、一人なりたいと言う。宮殿の中を見て回ろうにもどこもかしこも大忙しで、結局、ここへ辿り着いてしまった。
 「そういう、あなたは?」
 「おれは、サボりかな。今日はもう疲れたよ。誰にも見つからないところで一息つかせてもらおうと思って」
 「あらら…お疲れ様。大変そうだったものね」
アルウィンは、塔の縁石にもたれて、腰を下ろした。「風が気持ちいいな。ここは、相変わらず静かだ…」
 「良く来てたの?」
 「戦争が終わって、すぐの頃にね。外出は基本、付き添いがないと出来なくて、時間も限られていたから、ここに」
ふ、と寂しげに微笑んで呟いた。「クローナは、北のほうだから…」
人質時代の話だ。
 ここでしばらく過ごし、そのあとはサウディードへ。だから、彼がクローナから人質として連れてこられた当時からその座にいる議会の主要な人々や古参の近衛騎士たちは、一度は面識があるはずなのだ。
 「すっかり忘れてるみたいだったわよね。みんな」
 「ああ。官房長官なんか特にね。昔は苦手だったな、顔を合わせるたびに嫌味ばかりだったし。ここに居たときが、一番辛かった…」
辛かった、と素直に言えるのは、それがもう、遠い過去になったからなのか。
 シェラは、アルウィンの隣に腰をおろす。
 「今はもう、気にならない?」
 「そうだな。リーデンハイゼルには何度も戻ってきてたけど、まともに顔を合わせるのは五年ぶりだし、単に時間が経っただけかもしれない」
アルウィンは、肩をすくめる。
 「もっとも、おれが誰なのか分かってからは、向こうのほうが引いてたけど。」
僅か五年前、それとも「もう」五年も前、なのか。駆け去る年月は嵐の空を流れる雲よりも早く、気がつけば振り返っても過去の姿は朧げだ。
 「……アルウィン。クローナのこと、聞いた?」
 「さっき、ブランシェから聞いた。」
沈黙。
 アルウィン自身も、迷っている。王の息子の命まで失ったあの戦争で、クローナは一方的に悪者にされた。議会は認めるだろうか。認めたして、クローナ「自治領」として新たな義務が課せられることに、町の人々自身が納得するだろうか。それで町は守られたことになるのだろうか。
 「王は、まだ何かを企んでる気がする」
そう言って、彼は立ち上がった。
 「戦力不足なんて理由でブランシェたちを巻き込むはずがない。何かほかに、クローナにさせたいことがあるはずだ。」
 「何かって…。」
答えは返ってこなかった。
 「…先に戻ってる。明日は丸一日会議だし、シェラも早く休んだほうがいいよ」
 「あ」
月明かりのない夜。北の風景は闇に溶け、風は少し冷たい。シェラは、両手を握りしめたまま足元に視線を落とした。アルウィンやウィラーフがどれほど悩んでいようとも、クローナと王国のことには立ち入ることが出来ない。


 ふわ、と暖かな風が吹いた。
 「あらあら。そんな顔をして」
聞き覚えのある、ゆったりとした声。シェラは慌てて振り返った。
 「ギノヴェーア様?!」
夜空に白く浮かび上がる姿。長いドレスの裾を風に揺らしながら、塔の反対側の縁の上に王女ギノヴェーアが腰を下ろしている。ついさっきまで誰もいなかったはずなのに。
 「一体どこから? いつからそこに? そんな顔ね」
シェラは、こくこくとうなづいた。そこにいるのが幻でないことは、はっきりしている。髪の結び方、透明な石を連ねたイヤリング、淡い緑色の首飾り、ドレスの裾のレース…、どれもついさっき見たままの姿。ギノヴェーアは妖しく微笑む。
 「アルウィンと話をしようかと思ったのだけれど、忙しそうだったし、あなたと話していたから遠慮したのよ。」
 「それはどうも…って、隠れて見ていたんですか?!」
 「ふふ、ごめんなさいね」
ふわり、と縁から降り立つ。と同時に、気がつけば彼女はシェラのすぐ側に立っている。
 「きゃあっ」
 「そんなに怖がらないで。よく見せて」
白い手袋をはめた手がシェラの顎に伸び、ギノヴェーアの不思議な虹を隠した瞳が、シェラの深い藍の瞳を覗き込む。
 「あなた、ルグルブの中でも強い力を持って生まれたのね。自分の意志で未来が視える?」
 「……。」
シェラはギノヴェーアの手を振り払う。
 「あたしに、戦況の占いなんてさせないでくださいね。ライラエルの再来だとか何だとか持ち上げられて利用されるのはもう、うんざり」
 「でも、あなたも知りたいのでしょ? ”エリュシオン”の意味。」
 「…それは。」
未来を視たルグルブは、それを必要とする者に告げることを使命とする。シェラが故郷を旅立ったのも、そのため。手がかりには辿り着いたが、使命は、まだ半ばしか達せられていない。答えを知らなければ、彼女の旅に終わりはない。
 「こう考えればいいのよ。あなたは、あなた自身のため、友人たちのためにその力を使うのだと。わたくしも、そのつもりよ」
王女は、続ける。
 「”青き導き手が指し示し”――。ずっと考えていたんだけれど、あの詩って、時系列になっているのではないかしら?」
 「どういうこと…です?」
 「アスタラに伝えられていたのが最も過去を表した詩。五百年前の時点の出来事。”たとえ大樹が倒れても その根までも枯れぬ限り” ――大樹とは始祖イェルムンレクのこと。王が倒れても、その根、つまりアストゥール王国は滅びていない。
 ”同じく大地より生まれし子らは 壁の向こうに隔てられ”――アジェンロゥの詩は、王の死後、王家が二つに別れた後。
 ”約束の種を植えなさい その樹は希望へと繋ぐもの”――あなたたちルグルブの詩ね。王都が築かれ、おそらくこの詩が作られた時期。詩は約束のかけらとして各地に散っていった。
 このリーデンハイゼルは、その記憶を五百年後に伝えるため、子孫に語り継ぐ。”混沌の海に沈まぬように 忘却の空に散らぬように”、これがその詩。
 そして――最後がクローナの詩」
 「”忘却の時は過ぎ去りて 王の証に続く道 今 再び 子らの手に”…」
 「そう。順番は、これで正解でしょう、多分ね。最後のクローナの詩が五百年後の”現在”なの。だとしたら、この詩を作った人は、未来の”今”、再び”エリュシオン”を手にするために旅立つ人のことが分かっていた気がするのよね。つまり今、この場所に、あなたが居るということを。”青き導き手”とは、ライラエルのことなんじゃないのかしら?」
ルグルブに伝わる詩の部分は、五百年前のルグルブの予言者ライラエルによるものだとされている。もし他の断片もすべてが彼女によるものだとしたら。――”青き導き手”、ライラエルの再来とされる子孫が、その役目を担うのだとしたら。
 「でも、何を視れば? あたし、その人の物から視るのは得意だけど、それ以外は…」
ルグルブは、未来を夢で視る。
 といっても、視ようと思って視られるものではない。ルグルブの故郷、イェオルド谷でさえ、意図して未来を視ることの出来る者は数えるほどしかおらず、視ることの出来た場合でも、虫の知らせや第六感のような微かなものから、確かな情景となって目の前に現れる場合まで、人によって様々だ。成功するとも限らず、シェラの場合も、成功したのは僅かに数度。
 不安そうなシェラの手を、そっとギノヴェーアの手が包む。
 「信じるの、あなたの中の血を。」
 「……でも」
夜の中で異質な、白い輝きを放つ女性の言葉は、逆らいがたい響きを持っている。だがシェラは、迷っている。望まざる結果になるかも知れない。視たいものが見えるとは限らない。かつて見た最悪の結末は、何とか回避することが出来た。でもまた、悲劇的な結末を視てしまったら。親しい誰かの死を予言してしまったら?
 「運命とは、諦めた瞬間に捕らえに来るものです。恐れずに突き進めば、運命は変えられるものですよ。恐れないで。」
見つめてくる不思議な瞳のきらめき。ギノヴェーアの独特の雰囲気に呑まれてしまうと、不可能も可能と思う気持ちになってくる。
 これが”女帝”と呼ばれたる彼女のゆえん。
 彼女が本気になってすれば、裏切り者の近衛騎士たちだって簡単に言うなりに出来たかもしれない。
 「…分かりました。試して…みます」
 「ありがとう。」
にっこりと微笑んだギノヴェーアは、風にほつれる細い金髪をかきあげた。その仕草を何気なく視線で追ったシェラは、ふと、違和感を覚えた。幻ではない―― 確かに最初はそう思った、触れる手触りもあった。にもかかわらず、やはりよく見ると今ここにいる彼女には存在感が――
 「どうかした?」
 「いえ。その、…寒くないのかなって」
クローナより南のほうとはいえ、この辺りも夜には冷える。ギノヴェーアは屋内と同じ薄いドレスのまま、風に吹かれている。
 「ふふ。考えていることは分かるわ、不思議でしょう? わたくしはね、実は半分は妖精族の血を引いてるの。だから少しだけ、その力が使えるのですよ。」
 「…え」
予想もしていなかった言葉だった。けれど不思議と、その突拍子も無い言葉さえ真実かと思えるほど、この女性は確かに人間離れしていた。
 「わたくしの母親は妖精の国の女王。若い頃、母の助けに応じてやって来た勇者というのがお父様。弟のランスヴィーンの母親は人間でしたけれど。」
 「でも、妖精って… お伽話の世界だけでしょう? 存在したとしても、もう…ずっと大昔に居なくなったはず…」
 「あら。人魚の子孫にそんなことを言われるなんて」
ギノヴェーアは、くすくすと笑う。
 「妖精族はね、確かに今ではもう、人と同じ世界には住んでいないわ。森がないと生きていけないのですもの。ずっと昔の世界の変化と、五百年前の戦争とでこの大陸の森はほとんどが消えてしまった。今ではほとんどが別の世界に暮らしているの。」
 「あたしたちが、陸に上がったのと同じように?」
 「そうね。住むところも、生き方も変えなくてはならなかった。わたくしも今は人間の世界に暮らしているけれど、いずれ、母の世界に帰らなくてはならない日が来る――」
ふと、ギノヴェーアは遠い目をした。
 「でも、あなたはこの国の後継者でしょう。シドレク王が引退なさったら、次の女王になるのは」
この国に、誰もそれを疑う者はいない。
 「ええ…そうね…」
彼女は、何故か言葉を濁し、それから、少しの間を置いた。
 「わたくしはね。お父様のことも、この国のことも愛しているの。もちろん、いなくなってしまった弟のことも愛していたわ…。だから、なくなってしまうのは、とても悲しい。わたくしには未来を視ることは出来ない。出来ることといったら、この世界と向こう側の世界の間で、こうして幻を作ることだけ。悲しいものね。大昔には戦う力も持っていたはずなのに今はもう」
サウディードで出逢った、クリスと同じ。シェラは何も言えなくなった。
 「さあ、もう行きなさいな。わたくしはもう少し、ここでやるべきことをやってから戻りますわ。」
 「”やるべきこと”?」
 「ええ。わたくしの力は、夜にしか使えないの。こうして、遠い場所に自分の姿と声を映しだすのが、わたくしの力。」
にっこりと微笑んで、ギノヴェーアは塔から見える遠い地平線に目をやった。「わたくしにしか出来ないことは、わたくしがやらなくては、ね。」
 「……。」
風は世界を駆け抜けて、透きとおるような後ろ姿を包んでいく。シェラは足音を忍ばせてそっと塔を降りた。



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