3



 宿に戻ってみると、ワンダはまだ眠りこけていた。耳をぴくぴくさせ、ヨダレを垂らして、だらしない格好だ。ふさふさの毛が顔にかかり、まるきり大型の犬にしか見えない。その横で、リゼルは本を広げていた。ウィラーフの予想したとおり、レトラ語の勉強をしていたようだ。
 「お帰り、どうだった?」
 「楽しかったわ。思ったよりちゃんと案内してくれたし。」
シェラの後ろで、ウィラーフが苦虫を噛み潰したような顔をしている。
 「どうした」
 「知り合いに会いました。」
リゼルは眉を寄せた。
 「…大聖堂の裏は、騎士団の宿舎だ。仕方ない」
 「面倒なことにならなければいいんですが。特に、ローエンの耳に入ると」
 「ふぁーぁ…」
話し声と人の気配で、ワンダが目を覚ました。
 「なになに? どこかいくの? あそぶ?」
しきりと目をこすりながら、もう一つ大あくび。窓の外は、もう、とっぷりと日が暮れている。しかしここは大都会。家々の窓には灯が灯され、表通りの雑踏はひきもきらさず、宿の入口のほうでは、いま町に着いたばかりらしい一団が大声で話し合っている。
 ウィラーフは、その声に耳を傾けた。
 「街道の封鎖について話していますね。最新の状況が判るかもしれません。ちょっと、行ってきます」
 「頼んだ」
戻ってきたばかりだというのに、せわしない。ウィラーフが部屋を出て行くと、リゼルも立ち上がって、窓から通りを見下ろした。家族連れに、商用らしい商人と使用人の一団。子供の鳴き声、部屋の空きを尋ねる声。それから、街道の封鎖について文句を言っている。
 「訛りのない共通語だな。おれたちと同じ方角から来たのかも」
 「ねえリゼル、ファーリエンって人、知ってる?」
 「いや」
 「昼間、あたしが見てた人。偶然、聖堂で会ったんだけど、ウィラーフの知り合いだったみたい。」
リゼルの表情からして、全く思い当たる節がないらしい。
 「彼は騎士団に入って長い。他の騎士団に知り合いがいても、不思議じゃないな。」
 「あなたたちって、ずっと一緒にいたわけじゃないんだ?」
リゼルは、肩をすくめた。
 「”リゼル”としての仕事に、普通、騎士は同伴しない。ましてや宮廷騎士団の中でも彼の主な仕事は、王とその家族の護衛。王が移動するので無い限り、普段は首都から動かない」
 「そうなんだ。親しそうだったし、昔からの知り合いかと思ってたわ。」
 「知り合いとしては、まあ… 昔から、だけど…。」
まただ。リゼルもウィラーフも、故郷に関係することになると、極端に口が重くなる。他のことは何ともないのに、それだけは。
 シェラは話題を変えた。
 「でね、その人に会う前なんだけど…塔の上から、レトラ族の集落を見たの。貧困地区だとか」
 「悪しき習慣だよ。ずっと昔からのね」
 「見た目が違うとか、言葉が違うとか?」
 「いや。たぶん、そのへんにもいると思うが――」
言って、少年は窓から身を乗り出し、しばし目を凝らしたあと、ある一点を指さした。「あんな感じの人たちだ。」
 シェラは、指のさす方を見やった。通りの端、そこには何の変哲もない、強いて言えば他の住人より質素な服装をした、十歳くらいの少女が一人、大きなかごを下げて、一人とぼとぼと歩いている。
 「召使いや、荷運びならまだいいほう。煙突掃除、ドブさらい、城壁を修復する石材の運搬とか―― 辛い、汚い仕事を引き受けさせられている人たちをレトラというんだ。人種的には、あまり変わりはない。言ってみれば”階級”の名前だ。」
 「どうして、そんな区別を?」
 「エスタードは、そういう階級にこだわる帝国だったんだ。…わざと貧しい人々を作り出し、強引な支配で統治した。その結果、民衆の反乱による瓦解へと繋がった。」
 「皇帝の墓が壊されていたのは、見たわ」
リゼルは、うなづく。
 「だけど今も、当時の階級は一部がまだ残っている。一度貧困層に落とされてしまうと、そこから這い上がるのは難しい。ましてレトラは、ちょっと変わった風習を持つ人々だから…」
と、窓の外で、何かの割れる音と悲鳴が上がった。幼い少女の声と、男の怒声。
 見れば、さっき見たレトラの少女が路端に突っ伏していた。籠の中身は路上にぶちまけられている。それは白っぽい、どろどろした何かだった。通りかかった人々は悲鳴を上げ、鼻をつまんで飛びすさる。少女とぶつかったらしい男も、顔を真っ赤にして拳を振り上げ、何やら叫んでいた。
 「まずいな」
呟いたかと思うと、既にリゼルの姿はそこにはない。シェラは、人々が少女を遠巻きにして取り囲んでいる姿を見ていた。誰も手を貸さない。それどころか、汚らしい、だの、とっとと失せろ、だの、酷い罵声を浴びせている。少女は唇をぎゅっとむすび、散らばった白っぽい何かを籠の中に戻そうと賢明に手を動かしている。だが、それを入れていた瓶が割れてしまった今、散らばったものは、いくら籠に入れてもこぼれ落ちてしまう。
 「どうしてくれる! わしのコートが汚れてしまったではないか。弁償しろ! このガキが」
 「まったく、これだからレトラは…」
 「いやだ、ひどい匂い。よくこんなの持ち運べるわよ」
悪意に満ちた囁きのただ中に、割って入った者がいた。
 「これを」
コートが汚れたと喚いていた男に近づいて、リゼルは何かを差し出した。
 「何だ、お前は」
 「洗濯代ですよ。彼女には払えないでしょう」
いきり立っていた男は、リゼルの瞳にじっと見据えられて狼狽えた。差し出されたのは、滅多に見かけないような高額の札だった。洗濯代どころか、同じコートが三着は買える。
 ぽかんとしている男の手にそれをねじ込み、リゼルは、周囲を見回した。
 「宿のポーターに言って掃除させておきます。誰しも失敗することはあるものですから。皆様、どうぞお気になさらずに」
有無を言わさぬ口調だった。そうまで言われては、ここに留まって下衆なやじを飛ばしていることは出来ない。人々は、この奇特な旅人にちらちらと視線を向けながら、三々五々去っていった。この少年は、人を従わせる振る舞い方を心得ているのだ。外交員としての仕事で覚えたのか、それとも。
 「なんだ? これ」
いつのまにかワンダまで騒ぎに加わっていた。道端に落ちた白い液体をくんくんと嗅ぎ、思わず手で鼻を抑える。「…くさい。」
 「ああ、それは魚の内臓だよ。内臓というのか…まあ、そんな感じの。」
リゼルは、まだ路上で白いものを集めようとしている少女に目をやった。涙を見せまいと、うつむいたまま歯を食いしばっている。
 「もう使えないんじゃないかな。もう一度、買いに行くお金は?」
 「……。」
返事がない。リゼルはしゃがんで、少女の汚れた手にハンカチを渡した。その中に、そっと銀色のコインを一枚、滑りこませる。
 「”ここのは、片付けておくから”」
リゼルは確かに、二通りの喋り方をした。片方は、聞きなれない言葉。たぶん、それがレトラ語なのだろう。少女の肩がぴくりと震えた。
 「夜は暗い。足元には気をつけて」
少女は、何も言わず、ハンカチごとコインを握りしめて、籠を振り回しながら暗がりの中へ駆けて行った。お礼も言わず。リゼルも、気にした風はない。
 宿の入口には、既に掃除の準備万端、帚を手にしたポーターが立っている。その後ろには、成り行きを見ていたらしいウィラーフ。
 「ポーターにはチップを渡しておきました」
 「ありがとう。」
 「ねえねえリゼル、さっきのあの白いの何するんだ? すごく臭かったぞ。何に使うんだ?」
ワンダがくいくいとリゼルの服の裾を引っ張る。
 「うん、あれは、特別な日に食べるんだ」
 「たべる?!」
 「どう料理にするのかは知らないけど、意外と旨いらしいよ。」
三人は、そんな会話をしながら宿に入っていく。間もなく戻ってくるだろう。
 シェラは、さっき少女が消えて入った路地裏をまだ眺めていた。ほんの数分のことだったが、この町で暮らすレトラの人々がどんな扱いを受けているのかは、これ以上ないくらいはっきりと理解できた。と同時に、川に寄り添うようにして立っていた、あの集落の意味も。彼らは町の他の場所には住めないに違いない。ほんの、ちょっとした習慣の違いゆえに。それが好ましい状況でないのは確かだった。


 翌日も、街道の封鎖が解けたという話は伝わってこず、町に滞在する旅人たちの苛立ちは高まっていた。旅に適した季節が過ぎ去るのは、早い。間もなくこの辺りにも雨季がやって来る。荒野ほどではないにしろ、雨の続く中を移動するのは、誰だって気が滅入る。
 「騎士団がいるんでしょ? たかが山賊相手に、そんなに手こずるものかしらね」
 「さあな。どいつもこいつも、詳細な状況は知らないと言ってる」
リゼルたち四人は、気晴らしに宿を出てバザールを訪れていた。様々な地方から集まった商人たちが、めいめいの店を開いている。普段なら、活発な商談も行われているはずの季節。街道が使えず、人も物も容易に運べないとあって、ここだけはやや活気が少ない。
 「サラリア街道が使えないとなると、迂回路は海沿いか、山を越えるしかない。どちらにしても遠回りだし、乗合馬車も少ない…」
リゼルは既に、街道を使わずに先を急ぐことを考え始めているようだった。「いっそ、馬車を一台、手配したほうがいいかも。おれとウィラーフが交代に御者すればいいし」
 「いけません。」
ウィラーフがきっぱりと言う。「アルウィン様に御者などさせるくらいなら、私が承ります。」
 「いや… でも」
 「そういう仕事は私のほうが適任です。」
 「…宮廷騎士と王直属の外交員じゃ、どっちもどっちだと思うけど。ねぇ、ワンダ」
 「うーん、あっちからいい匂いがするぞー」
ワンダは、話を全く聞いていない。
 シェラは、はぁ、とひとつ溜息をついた。「あなたは気楽でいいわね…。」
 そんなやりとりをしながら歩いていると、通りの向こうから数頭の馬がやってくるのが見えた。揃いの馬具をつけ、騎手は白いマントをなびかせている。騎士団の一員なのだろう。他の通行人同様、四人も道の端に寄り、馬が通り過ぎるのを待とうとした。ふいの声が頭上から降ってきたのは、馬がすぐ側まで来た、ちょうどその時だった。
 「ああ! 昨日のお嬢さんではありませんかっ」
 「え…」
聞き覚えのある声だった。シェラは、思わず顔を隠しながらあとすさった。その前に、馬から颯爽と飛び降りてくる男。
 「またお会い出来るとは… なんという偶然。まさに運命! 昨日は名も名乗られず行ってしまわれるものですから」
 「ああ、あの…」
昨日の騎士、スレイン。側にウィラーフの姿を見つけ、きっと睨みつける。
 「貴様、また居たのか。」
 「仕事中だろ? 部下が困ってるぞ」
ウィラーフは、スレインの後ろで馬に乗ったまま困惑している二人の騎士のほうに顎をしゃくる。
 「騎士にとっては見回りよりも美しいご婦人への奉仕のほうが大事だ。おい! お前たち。先に行ってていいぞ。」
 「はあ…」
騎士たちは顔を見合わせ、困り果てたような表情で、騎手のいなくなった空の馬を引いていく。ウィラーフはもはや、言葉もない。
 「ささ、お嬢さん。せっかく会えたからには今度こそお茶を」
 「え、ええー? ちょっと…そんなこと言われても…」
 「お茶するなら、ワンダもいくぞ!」
 「おお、君は何だ? ペットか? よし。ペット君も一緒に行こう! ははは!」
腕を取られ、半ば無理やり連れていかれるシェラを見送っていたリゼルだったが、ふと、我に返ってウィラーフのほうを見た。
 「あれが昨日言ってた知り合い?」
 「…ええ。面倒なことになりそうだと言ったでしょう」
リゼルは、苦笑した。「そうだね。でも、渡りに船――かも。」


 結局、リゼルとウィラーフも同席することになった。シェラは既に逃げ腰で、どうやってこの面倒な男から逃げようかを画策している顔だった。
 「では、あなたと他の連中は旅の連れ… なりゆきということで、特にあの陰気な奴とは何の関係もない、ということですね?」
 「ええ… まあ…その」
スレインは目を輝かせ、うっとりとシェラを見つめている。すぐ側で、がつがつタルトを頬張っているワンダのことすら気にした様子はない。「良かった。あなたのようなお美しい方が、うっかり騙されてあんなロクでもない騎士と手に手を取り合った日には、それはもう」
 「…おい。本人が横にいるんだが」
ウィラーフの苦々しい顔。リゼルは笑いをこらえるのに必死だ。
 「で? レスロンド、お前は一体何しに来た」
ウィラーフに話しかける時、スレインはあからさまに口調を変えた。ちら、と腰の剣に下げた金の房飾りに視線を走らせる。
 「…クビになったわけではなさそうだが。」
 「当たり前だ。お前と違ってサボったこともない。」
 「また、レトラの乞食どもに会いに来たのか?」
むっとして、ウィラーフはティーカップをソーサーに叩きつけた。甲高い音が響き渡り、店員が振り返る。
 「サラリア街道の封鎖で足止めを食らってるだけだ。お前ら騎士団が仕事をしないお陰でな。山賊退治とやらは、いつ終わるんだ」
 「そう。あたしたち、東へ行きたいんだけど」
 「いやあ、しばらくかかりそうなんですよ、お嬢さん。申し訳ないですけれど…」
 「…質問しているのは、私だぞ。」
スレインは、無視してシェラにだけ話しかける。
 「もしお急ぎなら、山伝いのラティーナ街道か、海沿いのリエンテ街道を行かれるといいでしょう。サラリアに近い道は、今のところすべて封鎖です。」
 「あらら。うーん、どうしようかしら…。海沿いだと、けっこう距離あるんだっけ。かといって山のほうだと、馬車じゃキツいわよね…」
 「そうか」
と、口を挟んだのは、リゼル。「カッシア自治区か…」
 ぴく、とスレインの表情が動いた。シェラに向けていた視線が、少年のほうへ流れる。
 「え、どういうこと?」
 「カッシア自治区は、ノックスのすぐ東にある半自治領だ。昔から、完全な自治権を求める住人が頻繁に武力蜂起するんだ。いってみれば、紛争地帯。」
 「成程。街道封鎖の理由は、紛争鎮圧のための時間稼ぎ。本当の理由は山賊じゃない…ってことか。」
ウィラーフは、納得したようにうなづいて腕組みした。「東方騎士団らしい、汚いやり口だな。」
 「失礼な。政治犯の逃亡や物資の搬入経路を経つために有効な手段だ。早期解決のためには」
 「根本原因が解決されていないから、何度も同じことが起きる。抑えつけるだけでは、人を治めることにならんぞ。」
 「偉そうに言うな。中央の人間に何が判る。」
二人の騎士の言い争いは、どこか切実な真剣味を帯びている。これが、”方針が噛み合わない”ということなのだろう。互いの騎士団の間にある溝は、この二人を見る限り、深そうだった。リゼルは、何か考え込んでいる。
 「――とにかく、だ。」
スレインは、机を叩いて立ち上がった。「中央の奴にとやかく言われる筋合いはない。最低あと一週間、最大一ヶ月は、街道は封鎖だ! 理由が必要なら、海賊でも魔王でもドラゴンでも引っ張り出すまで。…ああ、美しいお嬢さん。あなたにまで不愉快な思いをさせてしまって、すいません。この朴念仁がすべていけないんですよ。ぜひこんどは、ふたりきりで… ね?」
言うなり、シェラに向かって投げキスを寄越し、他の三人には見向きもせずに去っていった。
 「相変わらずのキザ野郎だ。」
ウィラーフは、通りに消えていく騎士の後ろ姿を、視界から消えるまで睨み続けている。「時間を無駄にしましたね。」
 「そうでもないさ。シェラのお陰で、街道封鎖の本当の理由は教えてもらえた。ここで待っていても埒があかない、ってことは分かった」
 「そうよね。武力蜂起って、要するに内戦みたいなものでしょ? いつ収まるか判らないわよね。」
 「馬車の手配、考えたほうが良さそうだな。誰が御者をやるかはともかく。頼めるか? ウィラーフ」
 「分かりました。明日までには」
ウィラーフは、席をたって店を出ていく。残る三人は、まだ店の中に留まっている。スレインは、一応の義理かお茶とケーキの代金だけは引き受けてくれたようで、少なくとも勘定を気にする必要はない。
 「いいの? カッシア自治区ってところのこと、ほっといて」
 「ああ。階級的に区別されてるだけで、言葉も文化もノックスと大差ない。少数民族ではないから、”リゼル”が交渉に出向く場所じゃない」
 「そうなんだ。」
シェラは、手元のティーカップに視線を落とした。
 「――あたし、よく判らないんだけど、王国ってどこも平和ってわけじゃないのね」
 「広い国だからね。それに…東方騎士団の管轄は、もとエスタードの領地とほとんど重なっている。エスタードが抱えていた問題の多くが、未解決のまま引き継がれている。」
 「今はアストゥールの一部でも、元が違うってことね。でも五百年も経ってるのに…」
リゼルは、腕組みして窓の外を見やっている。五百年の因縁を解消出来ていないのは、彼の故郷も同じこと。
 行き交う様々な人々…、ワンダやシェラのように、明らかに見た目で遠くから来たと判る人もいるが、見た目にはこの町の住人と区別のつかないような旅人もいる。王国は広い。それぞれの部族、それぞれの地域の抱えている問題が、複雑にからみあっている。
 「プぁ!」
ワンダが、最後のケーキの一切れを食べ終えた。
 「ございます、だぞ!」
 「…それを言うなら『ごちそうさま』だ。」
 「あっ。えーと、ごちそうさまっ! おいしかったぞ。…あれ? ゴハンくれた奴はどこだ?」
 「もう、行っちゃったわ。さ、あたしたちも出ましょ。」
きょとんとしているワンダをよそに、二人は席を立った。


[BACK]--[INDEX]--[NEXT]