5



 その日は、いつもより少し早く、夜明けの前に風が吹き始めた。

 丘に遮られず、谷間を通り抜ける風は、目も開けていられないほどだ。ディーが風避けの岩だなと呼んだ場所は、ちょうど、集落から一晩かけてたどり着くことの出来る場所にあり、昔から頻繁に利用されてきたようだった。
 「あそこだ!」
体にはりつくマントを払いのけながら、ディーが指さす。丁度いい具合に棚が張り出し、入り口は狭く、奥は広い。中に入って休めるくらいの大きさがある。
 岩間にもぐりこんで耳元で唸っていた風の音が遠のくと、まとわりついていた空気の圧迫が解けて、ほっとした気分になる。
 「やれやれ。随分な旅ね、ハザル人って、いつもこんな旅してるの?」
 「これでもマシなほうだ。家畜を持つのは、族長など裕福な者だけ。普通の者は、それすら持たずに徒歩で荒野を渡る」
 「うわぁ…。」
シェラは眉をしかめて、いかにも嫌そうな顔をした「あたしには、絶対無理。そんなの、よく我慢してるわね。」
 「あんただって、わざわざイェオルド谷を離れて旅してるじゃないか」
と、リゼル。
 「…イェオルド?」
 「ルグルブの故郷さ。ルグルブは一族でまとまって暮らしていて、滅多に谷をでない。」
ああ、とうなづいて、ディーは砂ラバの手綱を仲間たちに渡した。
 「聞いたことがある。”イェオルド・ブルー”の谷だとか。」
イェオルドは、この国の中でも有数の「秘境」だ。噂はひろく知られているものの、実際に訪れた者は少なく、また訪れても、他部族をあまり受け入れたがらないルグルブの特性のため、谷の奥まで入ることは出来ないことが多い。ただ、ルグルブと親しくなり、谷の奥まで見ることができた人々の探検記や絵はよく知られている。
 「見た目がこれでしょ。目立つから、他所で暮らすのは向いてないのよね。」
シェラは、自分の髪をつまんだ。その髪の色はそのまま、彼女の故郷にいる人々の色でもある。ルグルブの民はみな一様に、透けるように白い肌をして、深い藍色の瞳を持っている。特に女性には、一族の特徴的な容姿が強く受け継がれる。少しでも知識があれば、ひとめ見ただけでそうと判る。
 「実際には見たことはないんだ。”イェオルド・ブルー”の噂は、本当なのか」
 「ええ。本当よ。宵闇のように深い青―― 谷全体が、そういう色をしているの。大昔は、海の底だったらしいわ。今でも、谷の底には潮水が残っていて、取り残された魚たちが暮らしてる。その魚たちと一緒に、あたしたちも、取り残されたみたいに暮らしてるわ」
 「なんだか、人魚みたいだな」
と、ディーが言えば、リゼルが答える。
 「ルグルブは、陸に上がった人魚の末裔だと自称している」
 「自称とは失礼ね。あたしたちは、今でもそう信じてるんだから。」
シェラはやや頬をふくらませたが、すぐに悪戯っぽい笑顔になり、リゼルに眼差しを向けた。
 「そういえばさ、あなた自分のことは何も話してくれてないわよね。どうして、あたしたちのことにそんなに詳しいの?」
 「…話すようなことは、何も無い。」
リゼルは、ちらりと外に目をやった。
 砂ラバたちは、入り口近くで蹲って眠っている。側にはギスァとサイディがついて、用心深く外を見張っている。ワンダは砂ラバにもたれてはや寝息をたてている。夜までは、まだ時間があった。風が止むのは、ずっと先のことだ。
 「オレも気になっていた」
と、ディー。
 「王国の紋章を持って現れただろう。あれは本来、王が身につけているものではないのか? 一介の通訳が、預けられるようなものとも思えないが」
 「……。」
 「そうそう。王の従者にしては若いし、騎士でもないんでしょ?」
 「………。」
質問攻めにあい、観念したのか、リゼルは、溜息をついて口を開いた。
 「そう、ただの通訳じゃない。本当の役目は、国王直属の特殊外交員。――”王の目となり、耳となれ。” ”またあるときは、舌となれ。” 共通語以外に最低三つの言語を介する技能を持った者たちの中から、ある一定の知識を持つ者だけを選んで任命される役職だ。」
 「外交?」
 「王国には、地方の首長たちが治める”自治領”が多数存在する。そこでは中央の言葉は通じないことが多いし、法や習慣も独自のものがあって、把握するのが難しい。異国に対するように外交官を送り込むわけにもいかず、また、個々に窓口を置いておくのも人手がかかる。そこで、少数部族専門に交渉や連絡係を務める役職があるんだ。」
 「密偵とか、諜報員とかとは違うの」
 「違う」
少年は、きっぱりと言った。
 「旅の過程で知り得た情報は報告するが、何かを調査するために動くわけじゃない。王と議会の代理人として、その意思を伝え、時には交渉することが主要な役目だ。」
シェラは、納得したように頷いた。
 「なるほどね。それなら、武器を持たず、戦いも出来ないほうが、かえって相手も安心するわね。」
 「だが、どうしてそんな役職についた? 親が役人か何かだったのか」
 「いや…。」
リゼルは、首を振った。
 「故郷が商いの町で、色んな地方の人たちが来る町だったものだから、自然と色んな言葉を覚えてね。その縁だ」
 「故郷って?」
 「…おれの生まれたところも、かつては”自治領”だった。」
彼は直接的な答えを避けた。
 「かつて?」
 「戦争があったんだ。」
小さな、だが重い沈黙。
 「話し合いも無いままに、おれの町と王国は戦ってお互いに傷ついた。そんな争いを終わらせたかった。避けられる戦いなら止めたかった。…だから、おれは今、この仕事をしてる」
口調は穏やかだったが、言葉には、強い決意が込められているように感じられた。
 ふいにリゼルは力を抜いて、肩をすくめた。
 「まあ…そういう訳さ。あまり楽しい話しじゃないし、こんな話は忘れてくれ。夜までまだ時間があるし、しばらく休もう。」
それ以上は聞けなかった。
 表では、砂まじりの風が轟々と吹き荒れている。
 音は、時間とともに静まっていき、やがて、夜が訪れる。


 大気を舞っていた砂粒が流され、空気が澄んだ夜。
 広げたビロウドのような濃紺の空に、星が一つ、また一つと姿を現す。
 「祭壇のある場所は、ここから遠くは無いな。」
その縁に立ったディーは、辺りの風景を見回して、言った。「すぐ近くまで来ていたらしい。」
 「ほんと? それは良かったわ。早く帰れそうね」
避難していた場所のすぐ目の前に、切り立った崖がある。目的地は、その向こう。砂ラバでは登れそうにない。ディーは、連れのハザル二人に砂ラバと荷物を預けて行くことにした。リゼルとシェラ、それにワンダが一緒だ。
 崖の上から滑り降りるようにして、四人は下の地面に立った。谷の底、かつては水の流れていた場所のようだ。
 見上げると、空が、高い。
 「あそこだ」
谷底から一段、高くなった場所に、ぽっかりと暗い穴が開いている。何気なく通りかかっただけでは気づかないような、谷のくぼみに開いた横穴だ。
 「暗いな」
 「携帯用のカンテラを出す。」
ディーが、腰に下げた物入れの袋の中から取り出したカンテラを手際よく組み立て、中に油を入れて火をつける。明かりが生まれると、穴の奥の壁に、古びた石壁が浮かび上がった。
 よく見ると、一枚岩の上に扉の形を彫刻したもののようであった。
 まるで、何かを閉ざすように、あるいは何かを隠すように―――岩が、行く手を塞いでいるのだ。
 「ここは何だ?」
 「祭壇、と我々は呼んでいる。楽園を開く扉…、約束の地へと続く道」
 「なんだか、いやな臭いするぞ」
ワンダは、ふんふんと鼻を鳴らしながら行き止まりの岩壁を嗅ぎまわっている。「風、流れてる」
 「なるほど、扉…か」
リゼルは、壁を叩いてその奥の空洞を確かめた。「どうすれば開くんだ?」
 「あそこに、穴がある。」
言って、ディーは壁の一角を指した。
 カンテラが、岩扉の中心を照らし出す。扉の表面に描かれた複雑なレリーフは、長年の間に磨り減ってはいるものの、どうやら神の像のように見える。その像の秀でた額の真ん中に丸い窪みがあり、数え切れないほどの腕が、自らの背後に花のように開かれていた。
 「これが、ユール…なの?」
 「そう、ハザルの神。あの額にはめこまれるべきもの、それが”ユールの至宝”だ。」
リゼルは、黄金の樹の紋章を取り出した。
 「大きさ的には、合いそうだな。」
彼は、紋章の裏にある小さなピンを抜いた。台座から、赤い宝玉がころりと外れる。傷一つない、なめらかな輝きがカンテラの灯に反射した。
 「あ」
彼が、あまりに造作なく、それをひょいと扉の突起に嵌め込んだので、ディーは思わず声を上げた。
 「ちょっと。いいの? そんな適当に…」
シェラも驚の声を上げた。だが、驚きはそれだけでは収まらなかった。
 「…ぴったりだ。」
リゼル自身が一番驚いていた。何気なく差し込んだ宝玉は、そのまますっぽりと、壁に刻まれた神の像の額に吸い込まれるようにして嵌ってしまった。寸分の狂いもなく。
 「まさか…本当に…」

 と―――

 その瞬間だった。地面が、大きく突き上げるように揺れた。
 「きゃあ!」
尻餅をついたシェラが、甲高い悲鳴を上げる。崖の向こうから残してきた砂ラバたちの低い声が聞こえた。どこかで岩の崩れ落ちる音がする。
 大きな揺れは一瞬のことだ。
 しかし、その後も小さな揺れが続いている。谷全体が、まどろみから突然たたき起こされたかのように身震いし、呻き、立ち上がろうとしている。
 「これは…やばいぞ。」
 「やばいやばい! 逃げなきゃ!」
ワンダは外に向かって走りだす。後ろから三人も続いた。
 背後で天井が崩れ落ちるのと、崖の外に飛び出すのはほぼ同時。間一髪だ。
 砂埃の中でむせかえり、地面に倒れこむようにして息をつき、ようやく揺れが収まったことを確認して立ち上がる。その足元が、ぐにゃりと揺れた。
 「あ…!」
シェラが、目を大きく見開いた。
 枯れた谷底にひび割れが出来、細い川が、土からにじみ出るようにして流れだしていた。さっきまでは、一滴の水もないような乾いた土地だったのに。だが夢ではない。紛れも無い水のきらめきが、月の光を反射する。
 「川…」
水は、割れ目に沿って染み出してくる。湿った溝が、見る見る、蜘蛛の巣のように滲み出していくのが見えた。
 「今の地震で、水脈に異常が出たのか?」
砂を払いながら立ち上がったリゼルは、辺りを見回す。「まさか、本当に…」
 「リゼル! リゼル!」
ワンダが、ぴょんぴょん飛び跳ねながら崖の横穴を指している。
 「奥に何かあるよー!」
すぐそこに、砂煙の立ち昇るのが見える。閉ざされていた、祭壇の奥への道が、開かれたのだ。


 天井の崩れ落ちた祭壇の奥に続いていたのは、灰色の谷間だった。
 崩れ落ちたばかりの土がまだ土煙を上げる中、その下に隠されていた頑丈な石組みがあらわになっていた。岸壁をそのまま抉り取って、石を嵌め込んだ通路。扉の、神が刻まれた岩は、その一部に過ぎなかったのだ。
 「これは…遺跡、なのか?」
リゼルは、信じられないといった面持ちで通路を見やった。「五百年前の? とても、そうは見えない…」
正面には、均等な高さに刻まれた階段状の岩棚が隠されていた。人工的に削られたもののようだ。
 「五百年前に作られた建物? なんてデカさだ。こんなものが、忘れ去られていたなんて…」
階段は、長年のうちに一部が砂に埋もれていたし、灰色の石組みは、ところどころ剥げ落ちて、もとの岩壁がむき出しになっている。ディーの翳すカンテラの光だけでは、とても奥まで見渡せない。
 空気が淀んでいる。無理も無い、最低でも五百年は閉ざされていたはずだ。そして、今の地震であちこちが崩れ、細かな土埃が無数に宙を舞っている。
 それ以外にも、ここには、息苦しくさせる何かがある。四方から迫ってくる圧迫感。何かの体内にいるような気分にさせる。原因は、どこからともなく響いてくる低い耳障りな音だ。この部屋の壁の奥で何かが、まるで生き物のように脈動している。だが、どこにも出口らしきものはない。突起も無い。それとも、薄暗くて見えていないだけなのか…。
 「いやな音、聞こえる」
ワンダはさっきから、床と壁に交互に耳をつけてぶつぶつ言っている。「それに、いやな臭い」
 リゼルも、壁に耳を当ててもた。ごぅん、ごぅん、と低く大地の底から響く音が上へ向かっている。発信源ははっきりしないが、反響していることからして、この向こうにも別な空間があるのだろう。
 「だいぶ、奥が深そうだな、ここは。」
 「何なのかしらね? ここ。ディー、ハザルの伝承には何か残ってないの?」
少年は、首を振った。
 「――何も。こんな空間があるとは思っていなかった。」
 「だが少なくとも、今伝わってる伝承の一部は本当だった。」と、リゼル。「ユールの恵みか、それ以外の何かかはともかく、水が湧き出してきた。」
 「それは、そうだけど。」
シェラは、両手で自分の体を抱いた。
 「ここ、何だか嫌な感じなのよ。あんまり、神の恵もって感じじゃない。」
 「…そうだな。ハザルは建築に興味がない。だから、この辺りにも大きな遺跡は無いはずだ。そうだろ? ディー」
 「うむ」
 「だとしたら、この建物もハザルが作ったわけじゃないのかもしれない。何か…まだ、知らない話がありそうだ。とにかく、一旦戻って長に報告したほうがいいと思う。」
 「長に…。」
 「そうね、ここの探検をするなら、ちゃんと準備してきたほうがよさそうだわ。」
シェラが話している間、リゼルは、暗い回廊の奥を見つめていた。
 (あなたは、ご存知だったのですか? シドレク様…)
そこには、求める人の姿は無い。だが、何故か、その人はすぐ近くまで来ているような気がしていた。


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