5



 やがて谷を吹く風が止み、血と死の匂いを運ばなくなった頃、アストゥール軍の本隊も陣に戻ってきた。
 王と共に、デイフレヴンとウィラーフの姿もある。ウィラーフはうまく合流出来たようだ。
 アストゥール陣営には、彼らを迎える兵士たちの活気ある声が響く。犠牲は大きかったが、相手もそれは同じ。戦場で一騎当千とばかりに戦う王と近衛騎士たちの姿を見て、一般の兵士たちや見習い騎士たちも勇気づけられている。これが、”英雄王”と呼ばれたシドレクの力だった。彼が先頭に立てば、後に続く者たちの士気は大いに高められ、どんな戦いでも勝利することが出来る。
 だが、犠牲がないわけではない。
 救護施設では、宮廷騎士団づきの医師だというアーキュリーという男が、ほかの医術の心得のある人々に指示を出し、まだ息のある者たちを救おうと懸命になっている。シェラも、クローナの自警団員たちも手伝いに回っている。アルウィンだけではない。今日の戦闘で、多くの死者や怪我人が出た。西方騎士団の到着が遅れれば、そのぶんだけアストゥール側が不利になる。明日の戦闘では、今日より更に死者や怪我人が増えるだろう。
 手伝いに来ていたブランシェは、天幕の傍らで一休みしていた。よく晴れた夜空は遠く、星々のきらめきに手を伸ばせば届きそうなほど。剣を手に戦場に出るほうがどれだけ気が楽か、と彼女は思った。負傷者を救護しながら過ごす戦場の夜は、あの、どうしようもなく絶望に満ちた故郷での戦争を思い出させる。多くの騎士たちが倒れ、父を失い、兄までも居なくなってしまった、――彼女にとって忘れることの出来ない夜を。
 「お? アルウィンの妹の人」
ブランシェは、はっとして振り返った。暗がりの中から出てくる黒と白の毛玉、一瞬何かと思ったが、彼女はすぐさま思い出した。
 「ああ、兄様の友達のワンダね。ブランシェよ、私」
 「そーそー、ブランシェだ。何してる? お腹すいたのか」
 「違うわ。ちょっと考え事してただけ」
彼女はしゃがみ込んで、ワンダのふさふさした頭の毛に触れた。
 「へえ、ほんとにふわっとしてる。この色の違う毛って、根本からそうなっているのね」
 「くすぐったいぞー」
 「あはは。前は、何だかんだで確かめられなかったから、つい。ごめんね」
笑ったものの、少女の表情はすぐに沈み込む。
 「――ねえ。あなたは知ってるの? 兄様がどうして、シドレク王なんかのために働いているのか。」
 「どうして、って。アルウィンと王様、友達だから?」
 「友達…?」
ブランシェは、ワンダの顔を見つめる。
 「だってあの人は、私たちの故郷を攻めたのよ。父様だってそのために」
 「わかんないけど―― 仲良しだったぞ? ほんとに」
アストゥールのために働くことをアルウィンが望んでいるのは知っていた。だが、父を殺され、家を失い、故郷を去って不自由な身分に落とされながらなお彼がそうした理由を、ブランシェはまだ理解していない。故郷を攻めたアストゥールの軍、その長だったシドレク王を、どうして許してしまえるというのだろう。
 「五年前のあの時から、兄様は変わってしまったわ…」
つぶやいて、彼女はため息をつく。
 「昔は、隠し事なんてしなかったのに。何も言ってくれない…クローナを出て行った時も、その後も…。五年間、どこで何してたのかだって」
 「ごめんね、ワンダもそのへん、よくわかんないんだ。でも、アルウィンは元気だったぞ。時々寂しそうだったりしたけど、だいたい」
 「そう…」
 「あと、家のある町のことは、いつも言ってたぞ。ディーのところでも聞いたし、ケーキ食べた町でも、あと海の近くとか…あと…」
 「うん」
思わず涙が一粒、こぼれ落ちた。少女は慌てて涙を拭い、立ち上がる。
 「そうよね。兄様が、私や母様のことを忘れたりするはずがない。話せないことだってあるわよね。…ありがとう、ワンダ」
 「おう。元気出すんだぞ、ブランシェ。泣いちゃだめだ。」
 「ええ」
泣いている暇はない。
 今はまだ、理解は出来ない。だが――目の前にある事実もまた、変えようのないものだった。
 アストゥールの王のために働きたいと兄が望むのなら、その手伝いをしよう。彼女はそう、心に誓った。


 幕舎の中で、シドレクは主だった騎士を集めてその日の報告を聞いていた。
 北方騎士団と宮廷騎士団、それに西方騎士団からの先発隊を併せても、東方騎士団全体と雇われの傭兵たちの数には達していない。士気や戦法の差で今は互角に戦えているものの、二倍近い相手を前にいつまで優位を保てるかが問題だった。宮廷騎士団が約半数に減らされていたことが、何よりも響いていた。
 「東方騎士団長、アレクシス・ローエンは、いまだ戦場には出ていないようです」
赤い房飾りをつけた西方騎士団の騎士が報告する。「後方に温存戦力を持っていて、そこにいるものと思われます」
 「今日の陣には、騎士はほとんどいなかったからな。傭兵など、いくら倒しても意味が無い。――西方騎士団はどこまで来ている」
 「分かりません。連絡は途絶えたままです。予定では今日中には到着するはずだったのですが…」
 「そういえば今日、メルヴェイルとウィンドミルを戦場で見かけました。ほんの一瞬でしたが」
と、デイフレヴン。「あいつらが敵側なのは厄介ですね」
 「東方騎士団で、あのくらいの使い手は数えるほどしかいない。逆に言えば、その点はマシだ」
ウィラーフが付け加える。
 「それに、少なくともリーデンハイゼルで宮廷騎士団を襲っていた黒マントの連中は、もう出てこないはずだ。首魁が死んだ」
 「暗い話題ばかりではない、ということだな。」
そう言って、北方騎士団を率いるロットガルドは自ら頷く。
 「我が騎士団はまだ戦える。なに、もともと纏まりは薄いが、そのぶん小隊に分かれて戦うのは得意だからな。小回りは利く」
 「その点は、頼りにしている。ところで…」
王は、ちらと幕舎の入り口に近いあたりに目をやった。
 「…ローエンが手にしたという”例のもの”は、本当に戦局を変えることはないだろうか?」
その場にいた全員の視線が、一番端にいたアルウィンのほうに注がれる。この場に軍人ではない彼がいること自体が場違いだったが、王が敢えて呼んだ以上、誰もそのことを議論しようとは思わない。
 「大したものは持ち出していないはずです。ほとんどは大型のものでしたし、すぐに使えそうなものは見当たりませんでした」
 「そうか」
シドレクは、ほっとした表情になる。「あとで詳しい報告を聞く。今日は休んでくれ」
 「分かりました。」
アルウィンは一礼して、天幕を後にする。
 その後、騎士団の面々は明日の布陣を決めるための討議に入った。会議は長引きそうだった。


 かがり火が焚かれ、陣の各方向に立てられた見張り台の上には見張り兵が立って周囲を見回している。
 風が弱いのが幸いだった。ここは”死の海”、風向きによっては、大地から湧き上がる毒霧が谷間に流れこんでくる。それが、かつてこの地で行われたクロン鉱石の採掘や、鉱石を使用した武器による戦闘の跡であることを、今はアルウィンも知っている。五百年にわたり浄化されない毒。ファリエスが人間を危険視する理由もわかる。だが、人の手で生み出された過ちは、人の手によって正されなくてはならない。
 王の天幕から出てきたアルウィンを指して、隅のほうでひそひそと話し合っている少年たちがいる。同じくらいの年頃だが、おそらく騎士見習いなのだろう。今回が初陣か、或いは将来に備えて従者として連れてこられたのだろう。数年後には、彼らはいずれかの騎士団で騎士になるか、地方都市の警備や国境警備隊などの軍事組織に所属することになる。
 陣の中には彼ら少年たち以外にも、金色の房飾りの騎士たちと白い房飾りの騎士たちが歩きまわっている。これだけの数が集まるのを見たのは久しぶりだ。最後に大きな戦争が起こってから、まだ五年。僅かな時間でこれだけの兵を集められるアストゥールの力を思い知らされる。
 「あら、アルウィン」
手に血に染まった衣類を抱えたシェラが立ち止まる。「王様の用事は済んだの?」
 「ああ。おれの用事はね。ウィラーフは作戦会議中」
 「そっか。」
シェラは残念そうだが、仕方ないという表情だ。
 戦場に出ていれば、いつ命を落とすとも限らないのが騎士だ。今は全く見知らぬ怪我人を手当していても、いつそれが仲間や親しい人に変わるか判らない。殺すこと、殺されること、救うこと、救われること―― 戦場ではそれらが、ごく当たり前の日常になっていく。慣れてしまえば、死は大したものではなくなってしまう。
 「シェラ」
 「なに?」
 「ありがとう。…彼を救ってくれて」
いつごろからか、以前はほとんど表情を変えることのなかったウィラーフが、時々わずかに笑みを浮かべられるようになったことにアルウィンは気づいていた。五年前の戦いで故郷に剣を向けたとき、彼の心は多分、一部が死んでしまっていたのだろう。
 「昔は…よく笑ったし、よく怒鳴られた。”そんな気弱で当主になれるか!”とかね。――なのに、王宮で再会したときは別人のようだったんだ。」
シェラは微笑んだ。
 「その話、前にウィラーフから聞いたわ。ずいぶん気にしてたみたいよ」
 「おれは…」
 「あなたは気にしなさすぎなのよ。周りに心配ばかりかけて」
シェラは腰をかがめ、アルウィンの額をつつく。
 「たまには弱いところも見せて、誰かを頼らないと。ね?」
 「…そうだな」
今はもう、ひとりではない。
 たった一人でクローナを救うための戦いを挑んだあの日は、もう違う。
 これまでの人生の中で背負った重荷を捨てることは容易ではない。だが一度乗り越えてしまえば、どんな辛い記憶もやがては単なる過去になる。人は変わる。一つ乗り越えるたび、一つ新しい出会いがあるたびに。


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