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 冷たい地下室にひとけはなく、じめじめとしてカビ臭い。
 かつては領主の館とはいえ、そこは今やただの廃墟だった。絨毯も、壁掛けもなく、家財道具の一切は運びだされ、がらくたくらいしか無い。
 ブランシェが持たせてくれた分厚いコートにくるまっていても、寒さは足元から這い上がって来る。暗がりの中で何時間が過ぎた頃、地上から続く階段に足音が響くのに気がついた。人数は―― 五、六人か。
 影と共に明かりが近づいてくる。アルウィンは、ゆっくりと立ち上がって来訪者を出迎えた。
 「ようこそ。待っていた」
黒い影が足を止め、明かりを向ける。
 ずっと暗がりにいたせいで、その明かりすらも眩しいくらいだ。目が慣れてくると、相手の顔が見えてきた。かつて、ワンダの故郷の島で出会った男。
 「オウミ――だな」
明かりを掲げる手を下ろし、長いヒゲの男はにやりと笑った。
 「成程。まんまとおびき出されたということのようだが、たった一人で何をしようというのか」
 「二人だぞ! ワンダもいるぞっ」
マントの裾からワンダがにょきっと顔を出したが、オウミはそれを無視した。
 「聞きたいことがあっただけだ。それが終われば、好きにすればいい。」
 「ほう?」
 「あんたたちは、何故、”エリュシオン”を欲している?」
アルウィンは右手を、背後の壁に向けた。
 そこには、壁一面を覆う一枚の岩に描かれた樹の浮き彫りがある。今までに見てきた中では最も精緻な、ほとんど風化もしていない見事な大樹。枝は七つに別れ、それぞれが実を付けている。
 その枝のひとつに成る実の中心に、丸い穴が繰り抜かれていた。
 「”エリュシオン”は、まことの王の証、だとか――。だとしても、五百年も前の遺物だ。手に入れてどうする? 王国に不満を持つ者たちが、そんなものの威光にひれ伏すとでも思っているのか。」
 「何も知らないのか?」
オウミはせせら笑う。「哀れなことだ。何も知らないままここまで来たのか? 愚かにも、銀の王家は忘れてしまった。自らの過去を――屈辱を――」
 「なら教えてくれ。」
 「お前たちがひれ伏す、あの王は偽物だということだ。”エリュシオン”は、王の真の後継者に… エサルに受け継がれるはずだったのだ。イェルムンレクのまことの子孫たる王子エサルこそが王となるべきだった。ロランなど、金髪女のスヴァンヒルドの連れ子に過ぎなかった! 王の血など一滴も引いていない。王国は、偽りの王家に乗っ取られたのだ」
しん、とした沈黙が地下室に落ちた。
 アルウィンは、表情を変えなかった。
 この旅の途中から、彼は疑いを持ち始めていた。夢物語だと思っていた父の話は、父や祖先が創り上げた、ただの思いこみではなかったかもしれないと。だとしたら、なぜ、その証拠はほとんど何も残っていなかったのか。リーデンハイゼルを含め他の地域では、もうひとつの王家の伝承が語られたことなどなかった。
 もしも…、王家が、”二つに別れた”のではなく、”主系”と”傍系”あるいは、”正統”と”簒奪者”の関係だったとしたら。
 もしも…、今、リーデンハイゼルにある王家が、後者なのだとしたら。

 「記録は抹殺され、歴史は隠されたのだ。お前たち自身も忘れた。偽りの王からエサルを守り、共にこの地へと逃れた、我ら”エサルの導き手”なる部族のことも。」

 アルウィンは、目の前にいる、とうに面影すら無くなっているかもしれない血に縛られた、その男を黙って見つめていた。
 五百年前の歳月が流れた。
 ――それは、人にとっては、あまりに長すぎた。
 事実を抹消した人々が抹消したことを忘れ、抹消された側も、抹消されたという記憶すら忘れてしまうほどに。或いは、…意図的な抹消ではなく、単なる忘却だったのか…。
 「――もう一度聞く。何故、”エリュシオン”を欲しているんだ? それが王の証だったとして、あんたたちが手に入れたところで仕方がない」
 「それが、我らの役目だった」
オウミは、ゆっくりと地下室の中程まで近づいてくる。
 「失われた王の証が再び人の手に届くようになるまで、隠し場所は信頼できる者たちに分散して預けられた。だが、それでも不十分だった。どれだけの時を要するかが判らなかったからだ。たとえ千年の時が過ぎようとも使命を忘れぬよう、我らだけは語り継いできた。過去を、…隠し場所を記した記録のありかを。それを返すべき者がもはや存在しないとしても、我らは役目を完遂する」
 「レトラの伝承を抹消しようとしたのは何故だ? 人の命まで奪って」
 「あの中には、王国に知られたくない伝承が多く書き記されていたからな」
淡々と言いながら、オウミは近づいてくる。アルウィンは脇にどいた。「東方騎士団を焚きつけたのは?」
 「決まっておる」
明かりに照らし出された老人の顔は、半分が影になり、彫りの深い顔立ちの中、目だけが爛々と輝いている。
 「もはや血は薄れ、王権は地に堕ちた。ならばそのような王は必要ない。偽りの王を玉座から引きずり下ろすまで。それが我らの願い。我らの使命!」
”黄金の樹”の紋章を掲げ、老人は、宝玉の部分を壁の穴に挿し込んだ。
 数秒。
 空気はしん、と静まり返ったまま。
 「開かない…!? 何故だ」
目を見開いたまま、アルウィンのほうを振り向く。
 彼は、肩をすくめた。
 「悪いな。それは母上に借りた宝石。高いらしいから傷つけないでくれ」
 「貴様…!」
後ろに控えていた、黒いマントの男たちが一斉に剣を抜く。ワンダが前に飛び出し、牙を剥いた。ウィラーフたちは、まだ到着していない。アルウィンも、腰に手を伸ばしかけた―― その瞬間。
 「ぐわっ」
 「ぎゃあっ!」
一番入り口に近いところに立っていた二人が、同時に倒れた。
 「な、何者 …ぐっ」
素早く駆け寄った黒い疾風が、オウミの手から武器を取り上げ、みぞおちに拳を叩き込む。
 「デイフレヴン!」
 「間に合ったようですね?」
もう一人、フードの男も残りを片付け終わったところだ。
 「ちょうど、いいところでな。」
笑いながら振り返るのは紛れもなく。
 「それに、シドレク様も」
アルウィンは、二人に駆け寄った。「良かった…。」
 ほっとすると同時に、アルウィンは、まだ未来がすり替えられていないかもしれないことを思い出した。
 シェラの見た未来。クローナの町が炎に包まれる時。――ここにいるのは、ほんの五人。クニャルコニャル島で見た”エサルの導き手”は、最低でも二十人はいて、船まで持っていた。残りがまだ、町のどこかにいる。
 「アルウィン様!」
ちょうどさの時、ウィラーフたちが到着した。階段を駆け下りてきた彼は、シドレク王とデイフレヴンの姿に気づく。一瞬、呆然として足を止めたが、すぐさまやるべきことを思い出し、王の前で膝を折る。
 「安全を祈っておりました。ご無事で何よりです、王。」
 「まァ、そう堅苦しくしなくていい。ところで――」
視線は、部屋の奥の壁に。うなづいて、アルウィンは懐から取り出した本物の宝玉を壁にはめ込んだ。
 静かな振動。
 ややあって、壁が端からぱらぱらと剥がれ落ちはじめた。本のページを捲るように、端から薄く、ゆっくりと。アルウィンは一歩下がり、その下に浮かび上がる文字を見つめていた。
 後ろに隠れていたのは、わずかに灰色がかった、ほぼ真っ白な石の板だった。薄暗がりの中、白銀に浮かんで見える。
 「――忘却の時は過ぎ去りて」
シェラが読み上げる。


 忘却の時は過ぎ去りて
 王の証に続く道
 今 再び 子らの手に

 青き導き手が指し示し
 ファリエスに道を開くだろう



 「これが…最後の詩?」
 「意味のわからない言葉だらけだな。”青き導き手”…”ファリエス”…。」
アルウィンは、ちらと後ろで気絶している黒マントの集団に目をやった。「…彼らなら意味が判るのか?」
 何気なくやった視線ではあったが、その視線の先に違和感を感じた。何故、と自問して数秒。ようやく、その原因に気づく。
 オウミがいない。
 「しまった! 首謀者に逃げられた」
 「何?」
その瞬間、地面が揺れた。

 ドオン!

鈍い衝撃が体ごと揺さぶり、思わず地面に手をついた。天井の石がきしみ、ぱらぱらと細かな破片が降ってくる。
 「まさか…」
階段を駆け上がると、そこはもう、火の海。あまりの火勢に、アルウィンは思わず一歩あとすさった。オウミは逃げる道すがら、前もって館に仕掛けておいた火薬を爆発させていったらしい。
 「予想していたとはいえ、こんな量だったとは…」
 「うわわわ、火事だ火事だっ。」
ワンダはしっぽについた火を必死で叩き消している。遅れて出てきたウィラーフたちも火勢に押されて動けない。
 「ウィラーフ! この館のことは分かってるはずだ。シドレク様を無事に外へ!」
アルウィンはマントを脱ぐと、近くで燃え盛る柱に叩きつける。
 「アルウィン様は…」
 「おれに構うな。今は本来の主を守ることだけを考えろ!」
ワンダも一緒になって、懸命に近くの火を弱めようとしている。その向こうに続く廊下は、まだあまり火が来ていない。一気に抜ければ、裏庭に続く回廊に出られる。ウィラーフは、それ以上何も言えなかった。
 デイフレヴンと二人でシドレクとシェラを守りながら燃え盛る館を脱出した時、すでに町は大騒ぎになっていた。自警団が駆けまわり、桶を手に懸命に消化を試みている。近くの家の屋根には、飛んでくる火の粉を払いのけて類焼を防ごうと、雪の入った桶を手に、町人が何人も登っている。
 ふいにシドレクが、まだ雪の残る芝生の上に膝をついた。脇腹を抑えている。
 「王様、怪我を?!」
シェラが駆け寄る。
 「まあ… ちょっとばかり油断したツケだ。王宮を脱出するとき、ちと、な。開いてきたらしい…」
 「脱出って」
 「ローエンが裏切った。騎士の何人かも一緒だ」
ウィラーフは、はっとした。
 「東方騎士団団長、アレクシス・ローエンの息子…! 奴も近衛騎士の中にいた」
 「王宮の中にも議会にも、謀反を企んでいる奴がいるようだ。私が脱出する時、王宮の一部は連中に占拠されていた。おそらく今は、ギノヴェーアと残りの宮廷騎士団をどうにかしようと画策しているところだろうな。」
 「そんな連絡は来ていませんでした。王の… アンセルムスからの一行だけの指示が最後で。」
シドレクはうなづく。
 「その直後だろうな。噂にもなっていないのだろう? 連中は、王宮内が完全に思い通りになるまでコトが起きていることを外に知られないようにしているんだろう。まずは議会を人質に、ギノヴェーアに王国からの独立でも要求するつもりかな。ま、あれはそう簡単にどうにか出来る娘じゃないが。」
 「だったら尚更、王様を守らなきゃ」
と、シェラ。「無事に王都に帰ってもらわなくちゃ。ね、ウィラーフ」
 「……。」
ウィラーフの視線は、燃え盛る館のほうに向けられていた。アルウィンとワンダが、まだ出てこない。こちら側の道はすでに炎に包まれてしまった。反対側に逃げられたのなら良いが…。
 「あなたたち!」
若い女性の声が飛んできた。消火活動に大わらわの人々の間を縫って、こちらに走ってくる。ブランシェだ。
 「一体何が? 兄様に言われたとおり館の周りで自警団を待機させていたのだけれど、いきなり凄い爆発が…。」
シェラとウィラーフの側まで来て、立ち止まった。傍らに膝を付く見たことのない大男。剣にはウィラーフと同じ金色の房飾り。そしてもう一人、芝生の上で青ざめた顔をしている、金髪の男――。
 「そこにいるのは、まさか…」
シェラは、剣に手をかけようとするブランシェの手をつかむ。
 「駄目、ブランシェ。今はそのことは忘れて。お願い、この人を匿って」
少女の表情に、さっと赤みがさした。
 「何故?! こいつは父上を殺したのよ。町の人たちも大勢… 兄様だって!」
 「なるほど、アルウィンの家族、か。」
シドレクは、笑みを浮かべた。「確かによく似てる。」
 「な…」
 「私からも頼む」
と、ウィラーフ。
 「こんなことを言えた義理でないのは分かっている。だが今は、他にすべきことがあるのではないのかな。過去が許せないなら、後で私を殺せばいい」
 「命なんて、欲しくもありません!」
ぴしゃりと言って、ブランシェはマントを翻した。
 「…館に案内するわ、あそこなら警備もいるし少しは落ち着くでしょ。ただし母様に刺されないことを祈るのね」
いつしか雪が、降り始めている。息は白く凍え、空気はますます冷えていく。
 尚も燃え盛るかつての領主館を背後に、五人は、ユミナの館を目指した。だが、この長い夜は、まだ終わりではない。


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