第一章/8


 大気が少しずつ透き通り、日差しが弱まるにつれ、川の水位は少しずつ下がっていく。種が撒かれたばかりだった畑には、背の高い麦がそよぐようになっていた。
 ある日のことだ。授業が終わり、片付けをして帰宅の途につこうとしていたシセネは、教室の出口で老教師に呼び止められた。
 「シセネ」
 「はい?」
 「君はよく頑張っているな。実に覚えが良い。この分なら、他の者たちより早く卒業できるだろう」
 「……。」
シセネは、不思議そうな顔をして教師を見つめ、ややあって、ようやく褒められているのだと気が付く。
 「ありがとうございます」
 「君は、ここを卒業したあと、どうするつもりかね?」
 「お屋敷の仕事の手伝いです。港に荷物が着くので――出納係をやらないと」
 「それは勿体無い。君のような真面目な生徒なら、役所でも神殿でも紹介状を書いてやれるのに。上級学校に行く気もないのか? 神殿の学校に通えば、上級書記や神官にもなれるぞ」
 「おれ、そういうのは…。」
 「まあ、考えておきなさい。」
教師はそれだけ言って、特に引き止めるでもなく立ち去ってゆく。ぺこりとお辞儀をして外に出たシセネは、門の前で待っているメヌウに気が付いた。
 「凄いな、あの先生が生徒を褒めてるとこなんて初めて見た。上級学校だって?」
笑窪を見せながらも、少年は、どこか悔しそうだ。「いいなあ。でも、実際よく出来るもんな。どうやってるんだ?」
 「どうって。…おれは、出来るだけ早く仕事ができるようになりたいだけなんだ」
かばんをかけ直しながら、シセネはひとつ溜息をついた。
 「そうしないと、お屋敷に置いてもらえないし。」
 「でもさ、勿体無いよ。お屋敷に勤めるより、紹介状貰って上の学校に行ったほうが将来は安泰じゃんか。」
 「学費は誰に出してもらうんだよ」
 「…それは、うん…ほら、出世払いとか。」
 「いいよ、おれはこのままで。」
歩き出すシセネの後ろを、メヌウは、それ以上は何も言わないでついてくる。
 「あれ? 今日はこっちでいいのか?」」
いつもは学校の前で別れ、メヌウは港とは反対側の神殿のほうに帰っていくはずなのだ。
 「うん、今日は父さんたちの手伝いさ。もうじきお祭りだから、港に着く荷物も多くてさ」
 「お祭り?」
 「神殿のお祭りだよ、年一度の。今年の実りへの感謝と来年再びの豊作を祈願する、ってやつ。知らないのか? みんな、もうそわそわしはじめてるっていうのに」
言われてみると、シセネにも思い当たるところがあった。このところ、教室の中であと何日、もう何日、と何やら囁きあう声は聞こえていた。
 もうじき、収穫の季節だ。
 一年でもっとも忙しい時期であり、収穫は一家総出で行わねばならない。その時期になると、学校は半月ほどの間、休みになる。学校に通う子供たちの大半は農夫の息子では無かったが、家の召使いが実家に帰ってしまったり、親戚を手伝いに行ったりで大半が学校に来られなくなる。そして収穫の季節が終わると、次の一年が始まるのだ。
 「そりゃもう、うちは大忙しさ。兄貴はここんとこ神殿に泊り込みだよ」
メヌウはそう言って目を輝かせる。「祭りは楽しいぞ、神殿が灯りに照らされて、夜も浮かび上がって見えるんだ。それから、甘いお菓子や果物が配られる。綺麗な踊り子や、音楽隊もやって来るんだ。一日中食べたり飲んだりして騒いでいいんだぜ。それに学校も宿題も無い!」
 「ふーん」
シセネは今まで、毎年そんな祭りが行われていたのは知らなかった。州都の賑わいも、川向こうの死者の谷の端にある鄙びた集落までは響いてこなかったのだ。
 「お前はどうする? お屋敷から出してもらえそうなのか」
 「さぁ…お屋敷じゃ誰もそんな話はしてなかったなぁ」
言いながら、シセネは、いつも部屋に篭りきりのイシスネフェルトのことを考えていた。お屋敷の女主人は、祭りなど無関心だろう。サプタハたち使用人の中にも、祭りに浮かれるような者はいなさそうだ。ただ、今年は、ムトノジュメトがいる。
 「勿体無いなあ。ほんとに楽しいんだぜ。お前だけでもさ、もし出てこられるなら、案内し――」
メヌウが、突然足をとめた。
 「どうしたの?」
 「ネスゥだ、あれ」
 「え」
その名前が誰のものだったか、思い出すのに少し時間を要した。振り返って、メヌウの見ているあたりを眺め回したシセネは、通りを行き交う人の波の中に見覚えのある顔を見出した。体格の良い背の高い少年が、ふてくされたような顔で、ろばの荷車の番をしている。登校初日にシセネを取り囲んで殴った少年たちのうちの一人だ。目の下に殴られたような傷がある。
 「あいつ、今は荷担ぎやらされてるって話だ。元々、裕福な家の子じゃないからさ。それに暴力沙汰で学校追い出された奴なんて、まともな店やお屋敷じゃ雇ってくれない。」
 「…そうなんだ」
 「そうさ。この町は、大きいようで意外と狭いんだ。噂はすぐに広まるよ。」
見ていると、建物から出てきた無骨そうな男がネスゥに何か言い、怒鳴りつけて頭を掴んだ。シセネは思わず目をそらした。昔の、インニとの暮らしを思い出したからだ。まるで、手荒に扱われているのは自分のような気分になってくる。
 「行こう。…あいつはもう、おれたちに関係ないよ」
行く手にはもう、港が見えはじめている。道は川に向かって開け、明るい日差しが港前の広場を照らし出していた。大きな船が何隻も留まり、荷物を積み下ろす人とロバの群れが行き交い、威勢のよい船乗りたちの声が響き渡る。
 「じゃ、僕はここで。また明日な、シセネ」
 「うん」
駆け出していくメヌウの後姿は、人ごみの中に紛れてすぐに見えなくなってしまう。それを見送って踵を返そうとしたとき、入れ替わりに、弾むような少女の声が彼を引きとめた。
 「シセネ!」
振り返ると、声の主が手を振っている。
 「…ムトノジュメト、どうしてここに」
 「船を見に来たのよ。今、学校からの帰り?」
駆け寄ってきた少女の後ろから、少し遅れて、サプタハが大股に近づいて来る。シセネは、少しほっとした。この人ごみの中、身なりの良い年頃の少女が一人で出歩くのは良くない気がしたのだ。
 「友達を送って来たんだ。荷物の積み下ろしを手伝うって」
 「あら。わたしたちが見に来たのも、ちょうどそれなのよ」
 「もうじき、お祭りの日だからな」
サプタハが重ねて言う。
 「そうそう! とっても楽しいのよ。シセネは初めてでしょう?」
 「…うん」
ちらりとサプタハのほうを見ると、男は、ちょっと困ったような顔になった。
 「奥様は、祭りは好きじゃないんだ。お嬢さんがどうしても行きたいというなら、付いていってやりなさい、とわしに仰ったが」
 「本当は、おばさまも一緒に来てほしかったの。でも、それだけはどうしても嫌だって…」
 「人ごみが好きじゃないんだよ、きっと」
 「シセネは一緒に来てくれるでしょう?」
少女のきらめくような黒い瞳が、真っ直ぐにシセネの顔を覗き込む。
 「うん――、もちろん」
 「良かったあ!」
手を叩いて、ムトノジュメトは笑顔になった。それを見て、シセネはほっとした。たとえイシスネフェルトが一緒でなくても、精一杯、彼女を楽しませてやろう。
 そう思った、その時だった。
 「どけ、どけ!」
突然、大きな声が聞こえてきた。行き交っていた人の列が乱暴に脇に押しのけられ、一塊になった集団が真っ直ぐにこちらに突き進んでくる。
 「あら、あれは何かしら」
背伸びしてそちらを見ようとしたムトノジュメトの前に、サプタハが立ちふさがる。
 「お嬢さんは、見ないほうがいい」
だが、シセネのほうははっきりと見ていた。巡回の兵と思しき長い棒を持った皮鎧の人々を先頭に、港のほうから、大きな荷物を担いだ人々がやってくるのだ。首に縄をつけて、一列に繋がれている。
 (債務奴隷だ…)
いつか、この港で見たあの集団だ、とシセネは思った。項垂れ、虚ろな目をして、足を引きずりながら一歩ずつ町の奥へ続く道を進んでいくその人の列を、誰もが無言に見送っていた。皆、ひどい格好だ。ボロボロの腰布、延び放題のひげ、いつから水浴びをしていないのか、体じゅう真っ黒に汚れたままの者もいる。長いこと借金を返し続けている者たちだ。見上げると、サプタハも、かつて自分がそうであった者たちを間近に見るまいとするように視線を逸らしている。
 間もなく列が終わろうというところで、シセネは、列の最後尾に小さな少年がいることに気が付いた。以前もこの港で見かけた、ひときわ幼い債務者だ。他の債務者よりは小さな荷物を担いでいるが、見るからに疲れ切って、首に繋がれた縄はぴんと張っている。その少年が、シセネの目の前でつまづいて倒れた。
 「あ」
思わず駆け寄って、シセネは手を差し出した。だが少年は、虚ろな目を上げて、不思議そうにシセネを見だけだった。
 「どけ!」
頭上から怒鳴りつけられたかと思うと、シセネは棒で乱暴に後ろへ追いやられた。監督役の役人に棒でこづかれて、少年はよろめきながら立ち上がろうとする。膝は擦りむいて、赤くなっている。だが、誰も何も言わない。
 「ぐずぐずするな。さっさと荷物を拾え!」
ぴしりと棒で殴りつける音が響いて、シセネはたまらず、その役人の手を掴んだ。
 「そんなに殴ったら二度と立てなくなるよ。もう少し待って…」
 「何? ならお前が代わりに、こいつのぶんまで働くっていうのか、えっ?」
乱暴に跳ねのけられたシセネを、後ろからサプタハが受け止める。
 「シセネ、大丈夫? …あ」
小さく、ムトノジュメトの息をのむ音が聞こえた。その時になってシセネは、ようやく、自分が今まで対峙していたのが誰なのかに気が付いた。
 先日、イシスネフェルトに怒鳴られて追い返されていた求婚者。役人のウガエフ。
 「ほう、この躾のなっていない無礼者は、お嬢様の家の使用人ですか」
 「…シセネは無礼者なんかじゃないわ」
あとじさりながら、少女は精一杯の威厳をもって答える。ウガエフは口元に薄ら笑いを浮かべて、蔑むような視線をムトノジュメトに向けた。
 「ふん、成る程。あの館は、使用人も主人も礼儀というものを知らないようだ。我が家の花嫁に迎え入れなくて正解だったようだな。」
 「誰が、あなたとなんか!」
 「いずれ後悔するがいい。この私に恥をかかせるとはどういうことか思い知らせてやる。石女のやもめと、せいぜい楽しく年を取って朽ち果てるがいいだろう。」
 「…!」
侮辱されたことに対する怒りで真っ赤になった少女をその場に置いて、男は、棒を振り回しながらさっさと行ってしまった。やりとりを聞いていた人々の好奇の眼が注がれていることに気が付いたサプタハは、悔しさのあまり涙ぐんでいるムトノジュメトの肩を抱きかかえ、投げつけられた言葉の酷さに呆然としているシセネの腕を掴むと、小さな声で短く囁いた。
 「屋敷に戻るぞ」
大きな手に引きずられるようにして歩きながら、シセネは、初めて人を憎らしいと思った。ムトノジュメトに公然と酷い言葉を投げつけ、涙ぐませた男が許せない。
 今、自分は、どんな顔をしているのだろう、と彼は思った。
 どんな顔であれ、――それは、人には見せたくなかった。



 日が傾き始めた通りには、家路を急ぐ人々が行き交い、どこからともなく夕餉の支度をする匂いが漂ってくる。子供の騒ぐ声、窓辺に飼われている小鳥のさえずり。港のほうから戻ってきたらしいどこかの屋敷の使用人が、重たい荷物を担いで大通りの向こうへ消えていく。
 自分の部屋の窓辺に腰掛けたまま、シセネは、それら裏通りの風景をぼんやりと見つめていた、ムトノジュメトは、夕食にも姿を見せなかった。何があったのかは、サプタハが女主人に報告したはずだ。きっとイシスネフェルトが慰めてくれるだろう。
 (…おれは、何も出来ない)
ふと、足元に投げ出したままのかばんに目をやった。手紙を書くことは出来る。でも、一体何を書けばいいだろう。言葉は浮かんでくるものの、形にならないまま消えてゆく。考えているうちにむしゃくしゃしてきて、彼は、思い切って外に出てみることにした。少し、中庭で風に当たって来よう。
 渡り廊下に下りたところで、ちょうど、立ち話をしていたキヤとアハトにばったり会った。
 「あら、シセネ」
シセネを見ると、キヤは、なぜかばつが悪そうな顔になった。
 「どうかした?」
 「いえ、何でもないの。今日のことを話していただけ」
 「……。」
シセネは、足元に視線を落とした。
 「無茶をする子だよ、まったく。ああいうお役人は、あたしらや奥様みたいな町民よりずっと偉いと思い込んでるんだからね」
キヤの口調は、責めるようなものではなかった。アハトも静かに頷いている。
 「ただね、求婚して断られたんだ、面子を潰されたからには、お嬢様や奥様に何かするんじゃないかって思ってね。あんなのせいじゃないんだよ。あんたが何もしなくったって、何かしら難癖つけて来そうなタチの悪い男だからね」
 「何かって…。」
 「危害を加えたり、法に触れるようなことはしないでしょうよ。でも、嫌がらせくらいはあるかもしれないわねえ」
 「あんたも気をつけるんだよ、シセネ。」
 「…うん」
余計に沈んだ君地になりながら、シセネは、話し合っている二人を置いて庭に出た。もう暗くなろうというのに、庭では相変わらず、シェバが地面に這いつくばるようにして草木の世話をしている。夕闇の影に沈む渡り廊下の端に腰を下ろして、シセネは、ぼんやりと空を見上げた。黄昏の空に月が出ている。ぽつぽつと浮かび上がってゆく星々の合間に、昼と夜とが入り混じり、うっすらと緋色に染まる雲が棚引いていた。
 「アンダ、オジョサ、バナ…?」
ぼんやりとしていたシセネは、しばらく、それが自分に向かって発せられている声だとは気づいていなかった。
 「え? 誰?」
はっとして辺りを見回した彼は、いつの間にか目の前に、シェバが背を丸めて立っていることに気が付いた。土の付いた両手に、大事そうに花の束を握っている。
 「バナ。オジョサニ」
 「花…お嬢様…ムトノジュメトに?」
 「ゾ」
頷いて、シェバは花の束をシセネのほうに差し出した。ひどく掠れた、訛りのある声だ。受け取りながら、シセネは、シェバが少しは喋れたのだということを今更のように知った。
 「ナイデダガラ…ナグザメテ」
 「うん。きっと喜ぶよ、ありがとうシェバ、渡してくる」
 「……。」
不思議な色の目を細めて、シェバはまた一つ、頷いた。皺だらけの口元に、一本だけ残った前歯がちらりと見えていた。
 二階に上がってムトノジュメトの部屋の戸を叩く。
 「ムトノジュメト、入っていい?」
 「…だめ」
くぐもった声が、中から響いて来る。「こんな顔、見られたくない」
 「そうか。じゃあ、お花ここに置いておくよ。シェバが摘んでくれたんだ。…君のために」
手にしてきた花の束を部屋の前の床に置こうとしていると、戸がわずかに開いた。
 「…そのままじゃ、枯れちゃう。花瓶ない?」
 「あ、うん。ちょっと待ってて」
台所に駆け戻り、適当な壷に水を入れて戻ってみると、戸は半開きになっていた。ムトノジュメトは、寝台の端に腰掛けて花束を見下ろしている。目の周りには泣きはらしたような跡がったが、表情は、幾分和らいでいる。
 「ごめんね、シセネ。わたし…」
 「気にしないで。ムトノジュメトは、何も悪くないよ」
 「そうじゃないの。わたしのせいで、シセネにまで嫌な思いさせてしまったわ。」
 「…気にしてない」
少女の手から花束を受け取って器に活けながら、彼は、気持ちを抑えようと試みた。怒りも、悔しさも全部、ムトノジュメトが受けたものに比べれば何のことはないと思った。
 「奥様は、何て?」
 「シセネと同じこと言ったわ。気にするな、って。」
目尻を拭って、少女は精一杯の笑顔を見せた。
 「心配かけちゃったわね。もう大丈夫だから。シセネ、明日も学校でしょ? もう戻って休んで。」
 「…うん。…おやすみ」
 「おやすみなさい」
後ろ手にムトノジュメトの部屋の戸を閉めてから、シセネは、ひとつ溜息をついた。
 こんな時、気の効いた一言も思いつかない自分が情けなかった。
 (おれは、何も出来ない…)
港で打たれていたあの少年にも、ムトノジュメトにも。この屋敷に暮らす人々の誰にも、してあげられることも、差し出せるものもない。自分の自由に出来るものなど何一つ無い。――いつかは、そんな自分を変えることが出来るのだろうか。



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