第一章/7


 翌日、シセネは早く起き出して何時ものように川に水汲みに行った。一度では水がめを一杯にすることは出来ず、何度目かの往復の時、ちょうど起きだしてきたキヤとばったり会う。
 「おや、シセネ。どうしたんだい、その仕事はもうしなくていいと言ったのに」
 「このくらい、おれがやるよ。学校でずっと座ってるのも落ち着かないし、キヤ、大変でしょ」
抱えてきた壷の水を流し込むと、水がめはちょうど一杯になった。キヤは苦笑している。
 「そんなとこ気を回さなくたっていいのに、ほんとにあんたは真面目だねぇ。待っておいで、すぐに朝ごはんにするから」
アハトはもう先に起き出して、玄関を開けて掃除を始めていた。それも、学校に通うまではシセネがやっていた仕事だ。
 「外はいいから、アハトは中をやって。」
 「無理はしなくていいのよ。あなたは今は学校で勉強するのが第一なんだから」
 「でも、学校が始まるまでは暇なんだ。掃除してからでも間に合うからさ」
シセネは箒を取り上げて、玄関の階段の砂を除きにとりかかった。朝の日差しが背中にちりちりと照りつけて熱を感じる。アハトは何も言わず、少年のするがままにさせておいた。
 それからのシセネの毎日は、朝の水汲みと玄関の掃除が日課になった。仕事を終えてから、学校へ行く。そうすれば、何も仕事をしないで学校に通うより、気持ちがずっと楽だった。学校では、メヌウのほかにも何人か友達が出来た。けれど昼休みに一緒に昼食をとるのは、いつもメヌウだった。屋根の上に登って街並みを眺めている時間は楽しかった。



 そんなある日のことだ。
 授業が始まってすぐ、老教師が神妙な面持ちで切り出した。
 「皆はもう忘れているかもしれないが、先日この学校を停学になった者たちがいた。彼らは今日をもって正式に退学処分となる」
小さなざわめきが教室の中に起きたが、老教師が教鞭で教壇を叩いたせいですぐにまた静まり返る。シセネは、思わず隣のメヌウを見た。メヌウが小さく頷く。最初の日にシセネに殴りかかってきた少年たちは、あの日から、一度も学校で見かけていなかった。
 「残念なことだが、彼らの勉学の道はこれで閉ざされてしまった。もはや上級職に就く事はない。皆も心してもらいたい。諸君らは何のためにこの学び屋へ通い、何を成さねばならぬのか。」
老教師は再び手にした教鞭で卓を叩き、生徒たちの注意を促しながら、良く響く声で全体に聞こえるように喋る。
 「この学校で学んだ後の進路のことだ。皆知ってのとおり、読み書き計算が出来るようになり、一人立ちすれば、官職や神官への道が拓ける。優秀ならば神の思し召しで良い職にありつけるだろう。そうなれば、一生安泰に暮らせる。家を持ち、家族を十分養うことが出来るのだ。だが、もしそれがかなわなくても、一人前にさえなっていれば何処でも生計を立てていくことが出来る。それは、兵士や農夫よりずっと良い暮らしだ。棒に打たれることも、雨風の中で屋根もなく眠ることも、暑い太陽に焼かれながら泥まみれになることもない。卒業出来るかどうかは、お前たち自身がどれだけ真剣に学ぶかにかかっている。」
水を打ったように静まり返った教室の中で、余所見をしている者は誰一人いなかった。皆、神妙な顔をして教師のほうを向いている。
 「書記になれ。たとえ上級ではなくとも、文字を書く職業は、この世で最高のものなのだ。ペンを自在に操るものは幸いである。そのことを忘れないように」
話が終わると、老教師は一呼吸おいて、教室の中をぐるりと見回した。「さて、それでは今日の書き取りの授業を始めるとしよう。」
 生徒たちは居住まいを正し、真面目な顔をして文字の練習をはじめる体制になった。シセネも、ペンを取り上げる。
 自分の将来――。
 この学校で学んだ子供たちは、いずれ神官見習いや、役人の卵になることを目指すのだ。そうでなくとも、職人の家の子は家を継ぐ。だがシセネに求めらているのは、サプタハを手伝ってお屋敷の会計を取り仕切ることだった。
 (それでいい)
十分だ、と彼は思った。出世したいとか、自分の屋敷を持ちたいなんて思ったこともないし、あまりにも大それている。自分の居場所があれば、それでいい。
 ふとシセネは、いつしかイシスネフェルトの屋敷を自分の本当の家のように思い始めている自分に気が付いた。毎日そこへ帰り、そこで眠り、そこに住む人々と家族のような会話を交わす。それは、今まで自分が持っていなかった、そんなものがあるとは知らなかった日常だった。
 だから、早く一人前になりたい。そうすれば、ずっとお屋敷にいられるのだから。



 学校から戻って部屋に戻ったシセネは、かばんの中から筆写板を取り出して寝台に腰を下ろした。白い石膏を塗って文字を書けるようにした板の表面は、何度も書いては布で拭って消したせいで石膏が少し剥げて来ている。学校から帰った後、夕食までの間にその日に覚えた言い回しを書き直して復習するのは、ここのところのシセネの日課になっていた。
 目の前の書版に意識を集中させていた彼は、扉が叩かれたことに気づかなかった。ふと我に返ったのは、ふわりと花のような香りがしたからだった。顔を上げたシセネは、すぐ目の前に覗き込むムトノジュメトの顔があることに気づいて、仰天した。
 「わあ!」
 「びっくりした、そんなに大きな声を出さなくても」
 「…ごめん、でも、何でここに」
慌てて手元の拙い書き取りを隠しながら、彼は真っ赤になっていた。
 「だって、ちっとも会えないんですもの。朝は忙しそうだし、学校から帰ったあとは全然見かけないし。お部屋を聞いたらここだっていうから来てみたの」
ムトノジュメトは、シセネの隣の腰を下ろした。「でも勉強してたのね。えらいわ」
 「卒業できないと困るから…。」
 「卒業したら、お屋敷のお仕事をするの?」
 「うん」
 「それじゃ、お父様といっしょね。お父様もおうちの仕事で、毎日、書類を書いたり、なにか計算してたりするの。昔、少しだけ勉強してたって言ったでしょ? わたしも、大きくなったら手伝いたいなって思ってたの。そしたら、知らない人のところにお嫁に行かなくて済むかな、って。でもね…」
寝台の端で足を揺らしながら、少女は少し悲しげな顔をした。
 「お母様が亡くなって、それもだめになっちゃった。お父様、再婚したの。新しいお母様は女の子はお嫁に行って、早く子供を生むのが仕事だっておっしゃるものだから…。」
 「それで結婚させられそうになってたの? 酷いよ、そんなの」
 「でも、お父様がまだ早いって仰ってくれた。」
シセネにも、なんとなくムトノジュメトがこの屋敷へ来た理由が分かってきた。このままほとぼりが冷めるまでここにいれば、性急な求婚者も諦めてくれるかもしれない。
 「ねえ、シセネ。もう文字は覚えた? 今度、わたし手紙を書くわ。そしたらお話できるし、お勉強にもなるでしょ?」
 「う、…うん、そうだね」
 「じゃあ、わたしもう行くね。邪魔してごめんね」
ぴょんと立ち上がって、少女は長い髪を靡かせながら部屋を出て行く。慌てて見送ろうと立ち上がったシセネの腕に、その髪のひと房が触れ、柔らかな香りを漂わせた。
 ムトノジュメトが去って行ったあと、シセネは半ばぼんやりとした夢見心地で、寝台の上に転がったままの筆写板を見下ろしていた。
 ――何と言っていいのか分からない感情。
 断片的な思いは次から次へ浮かんでくるのに、それらを巧く言い表す言葉を、シセネは持っていない。筆写板の上に覚えた手の単語を書いては消し、消してはまた書きながら、シセネは、少女の長い睫(まつげ)や、豊かな黒髪を思い出していた。
 彼は思った。文字を、言葉を覚えたかった。それを自在に書けるようになりたい。そうすれば、この気持ちを巧く伝えられるかもしれない。
 それからの勉強は、ただの義務ではなくなった。学校から帰ると、ムトノジュメトがその日の出来事を書いた手紙を渡してくれる。シセネは、翌朝、返事を書いておく。やり取りをするのは、白い平らな石の欠片だった。裏と表を使って、文章を書く。返事は、相手の書いた文字を洗い流して、少し乾かしてから同じ石に書く。その日の出来事や、気分や、当たり障りのない文章ばかりだったが、シセネにはそれがとても楽しかった。たとえ単語の一つでも、文字を書いて、相手に伝わっているということが嬉しかったのだ。



 それから幾日か過ぎた日のことだった。
 いつものように学校から帰り、部屋に戻るため中庭を通り抜けようとしたシセネの頭上から、突然館の女主人の凄まじい怒りの声が降って来た。
 「おだまり! 何度も言わないわよ、さっさと出てお行きなさい!」
シセネは思わず首をすくめ、反射的に柱の影に身を潜めた。だが、それが自分に向かって発せられた言葉でないことはすぐに分かった。開いたままの窓から響いてきた声は、なおも誰かと言い争う声が聞こえてくる。
 「シセネ、シセネ」
小さな声がした。振り返ると、同じように柱の影に隠れた少女が手招きしている。
 「何、どうしたのこれ」
 「お客さんが…。ほら、前に言ったでしょ。わたしと結婚したいっていう人」
 「ああ」
確か、お役人だと言っていた。「ここまで追いかけてきたの? 熱心だね」
 「違うわ。こういうのは"しつこい"って言うのよ」
少女は、形を整えた眉をぎゅっと寄せている。
 「門の前で粘って、アハトがお帰り下さいって言ったのに、無理やり入って来ようとしたのよ。それで、おばさまカンカンになっちゃって…。」
 「いい加減におし! 警備兵を呼ぶわよ。サプタハ! つまみ出して頂戴」
同時にびくっとなって、二人は怒りの声を逃れようと小さくなったまま部屋の奥へ駆け込んだ。ややあって、二階からどやどやと降りてくる足音がする。
 「貴様、使用人の分際で――」
 「失礼ですが。ここは奥様のお屋敷ですから」
サプタハの力強い腕が大男をつまみあげるようにして、慇懃無礼に玄関へ押し込めていく。来客の男が身をよじって顔が見えたとき、シセネは思わず声を上げそうになった。
 (ネシコンスさんの家の前でぶつかった…)
そして、港で債務奴隷たちにむかって容赦なく鞭を振り上げていた、あの男だ。
 玄関でもひと悶着あったようだが、やがて声も物音も聞こえなくなり、辺りは静かになった。そっと中庭に戻ってみると、ちょうど玄関のほうからサプタハが戻ってくるところだった。足を止めた男は、二人の表情を見て苦笑する。
 「…聞こえていたか。」
 「終わったの?」
と、ムトノジュメト。心配そうな顔で二階の窓を見やる。「おばさまに会いに行っても大丈夫?」
 「ああ、お前たちにまで怒鳴ったりはせんよ。」
ムトノジュメトは、裾をたくしあげながら大急ぎで階段を駆け上がっていく。シセネも後ろに続いた。二階の、イシスネフェルトの部屋の扉は半開きのまま、入り口のあたりに、彼女が怒りに任せて投げつけたらしい杯が割れて転がっている。
 「あの、おばさま…入ってもよろしい?」
返事はなかったが、中から咳払いの音が聞こえた。
 恐る恐る扉を押し開いて覗いてみると、腕組みをしたイシスネフェルトが、憤懣やるかたなしといった表情で部屋の真ん中に立っていた。全身から怒りが立ち上って見えるようだ。彼女は、二人の後ろから姿を現したサプタハに真っ先に話しかける。
 「あの男は?」
 「出て行きました」
 「そう」
ひとつ大きく溜息をついた彼女は、いつもの寝椅子にどっかと腰を下ろした。それを合図に、隠れていたらしいアハトが部屋の隅から姿を現し、そろそろと女主人に近づいて床に落ちていた敷物を拾い上げる。よく見ると、部屋の中は荒れ放題だった。杯は床に転がり、椅子と絨毯が斜めにずれている。シセネが帰ってくる前、ここでどんなやりとりが成されたのか、あまり考えたくも無かった。
 「おばさま、あの…」
 「ふん、思ったとおりだったわ。あんな男がお前の求婚者だなんてね。論外だわ!」
 「知り合いなんですか」
興味にかられて、というより何か話をして落ち着かせたいという思いから、シセネはそう問いかけ返した。一瞬イシスネフェルトの目尻がきっと釣りあがったが、それも一瞬のことで、やがて声は自然に落ち着いていった。
 「いいえ。でも、話してみてすぐにどういう人間か分かったわ。あのウガエフという男は、昔のわたくしの主人にそっくり。尊大で、傲慢で、女を所有物としか思わない男。」
口調は穏やかだったが、その声の裏には押し殺した強い怒りがありありと感じとれた。
 彼女は座椅子に腰を下ろし、たっぷりとした体を背もたれにもたせかけ、ひとつ溜息をつく。
 「――身分だけなら大したものよ。あの男は州知事の補佐官をしてる。財産もある。だけど、人の価値はそれだけではないですからね。あんな男のところに嫁がせたりするもんですか、絶対に」
憤懣やるかたなしといった表情で頬杖をつきながら、彼女はちらりとサプタハのほうに視線をやる。
 「サプタハ」
 「は」
 「あの男を二度と屋敷の中に入れないで頂戴。門番が必要なら、追加でお雇なさい」
 「かしこまりました、奥様。」
サプタハは、神妙な顔つきで頭を下げる。
 「それから、小船を出して。気晴らしでもしないと落ち着かないの。久し振りに外に出たいわ」
 「はい、では直ぐに手配を」
 「船?」
尋ねたのは、シセネだ。イシスネフェルトの視線が、シセネに留まった。
 「お前も乗ってみたいの?」
 「おばさま、わたしも行きたい」
 「…しょうがないわね。まあ、賑やかなほうが楽しいかもしれないわね。アハト、キヤに言って夕食を包ませて。この子たちには食べ物が必要でしょうから」
 「わかりました」
 「今から出れば、夕陽が見えるわね」
窓から港のほうを眺めながら、館の女主人は呟いた。
 「すてき、夕食は川の上?」
 「ええ。わたくしはお酒があれば十分だけれどね」
これから何が始まるのだろう、とシセネは思った。船といえば、河辺で拾われたとき、イシスネフェルトは船に乗っていたのだった。



 その船は、港の隅の小屋に預けられていた。準備を整え、船に乗り込んだのは、確かに日が西の空に差し掛かる少し前のこと。雇われの船員の手を借りてサプタハが櫂を取ると、船は、岸を離れて流れの真ん中へと滑り出してゆく。漁船は日が暮れる前に仕事を終えようと既に港に入っている。川の真ん中に浮かんでいる船は、イシスネフェルトの船だけだった。
 そこからは、町の風景が一望できた。町の奥にそびえる大きな神殿の壁と、その周囲の真っ白な壁のお屋敷。仕事じまいしようと港を忙しく行き交う人。夕陽を受けて、白い壁は赤く染まり、川面の波はきらきらと輝いている。だが、目を輝かせて街並みを見つめる傍らのムトノジュメトとは裏腹に、シセネの視線は、一足早く深々とした夜に沈みつつある、西岸の奥の谷間だった。
 川を隔てたすぐ目と鼻の先のはずなのに、――つい一ヶ月ほど前までいた場所のはずなのに、今は、こんなにも遠い。
 胸の奥が痛い。何かを忘れてきたような気がするのは、どうしてなのだろう。
 シセネは、痛む心臓のあたりに手をやった。忘れたくても、忘れようがない。路地裏にこびりついた大小便の匂い、ひしめき合う埃っぽいあばら家、誰かの怒鳴り散らす声。昼間でも薄暗く、崖の合間にこびり付くように暮らす人々が、あの西の岸のどこかに今もいるはずだ。
 「風が出てきたわね」
イシスネフェルトが、いつになく穏やかな声で良いながら、持ってきた肩掛けを羽織った。「サプタハ、もう少し下流のほうへ行って。屋敷の目の前よりそっちのほうがいいわ」
 「かしこまりました。」
船尾のサプタハは、碇を揚げて船を流れに任せた。景色が流れてゆく。
 シセネは、ふと気がついて、足元の包みの中から杯を取り出した。
 「奥様、これ」
 「ああそうだったわ。気が効くわね、ありがとう」
小分けにして持ってきたビール壷から酒を注ぎ、キヤが用意してくれたお弁当の包みを開く。干し葡萄とざくろ、豆の煮込み、薄切りにしたパン。小さな籠の中に、人数分の器も入っている。シセネの手元を覗きこんだムトノジュメトが手を叩いた。
 「すごいわ。水の上でも豪華なお夕食が楽しめそうね」
 「うん。こんなの初めてだな」
碇を下ろすと、船は流れの中に留まって、ゆらゆらと穏やかに揺れた。川の上を渡る夜の風は少し冷たく、東のほうから闇が静かに迫ってくる。夕陽の投げかけた最後の光が消えてしまうと、辺りは、あっという間に真っ暗になった。頭上は一面の星空だ。
 シセネは、サプタハのぶんの夕食を渡すため、パンを何きれかと杯を抱えて、船尾へ行った。サプタハは櫂を抱えたまま、船べりに座って川の流れてくるほうを眺めている。
 「真っ暗になっちゃったけど、どうやって帰るの?」
 「朝を待つのさ」
差し出された食べ物を受け取りながら、サプタハは当たり前だといわんばかりに答えた。「どうした? 何か忘れ物でもしたのか」
 「ううん。――そうか、だからあの朝、船に乗ってたんだね」
 「そういや、泥まみれのお前を拾ったのも、この辺りだったなぁ」
笑いながら、男はパンを一切れ取って口に運ぶ。「ちょうどお屋敷に戻ろうとしてたときだった。」
 「前から気になってたんだ。どうしてあの時、おれを拾ったの?」
 「ん…」
ぱしゃん、と何処かで水の音がした。魚が跳ねたのだ。
 「最初に見つけたのは奥様だったな。何かいる、って。人間だと近づいて分かったのだが、お前があんまりにもひどい格好だったから、それでかもしれんな。ほれ、お前が屋敷へ来てすぐのころ、町へ買い物に行かせたり、一人で台所に置いたりしただろう? お前は品物を持って逃げることも、つまみ食いすることもなかった。それで奥様はそれをお気に召して、帰るところが無いなら置いてやりなさい、と仰った。」
 「……。」
シセネは、サプタハの隣で俯いていた。
 "いつか話せるようになったら、教えてくれ。"
サプタハは、そう言った。けれど舌は重く、口を開こうとしても、言葉は出てこなかった。何度か試みたあと、シセネは諦めて口を閉ざした。言えない―― 本当はどんなことをしてきたのか、今は、まだ。
 船の中ほどに設けられた長椅子のあたりに戻ってきてみると、イシスネフェルトとムトノジュメトが飲み食いしながら談笑していた。シセネがもどってきたのを見て、少女は少し体をずらして座るよう促した。
 「サプタハは?」
 「川見ながらのんびりしてた。一人で朝までゆっくりしてるんじゃないかな。」
ムトノジュメトの隣に腰を下ろして、シセネは、ビールの壷を手に取った。そう時間は経っていないはずなのに、もうほとんど空っぽだ。イシスネフェルトは、ほろ良い気分でいつになく上機嫌だった。
 「シセネ、もっと食べなさい。あんたは食いしん坊なんだから足りないでしょう」
 「え、…おれは、もう」
 「嘘おっしゃい。うちに来た日にスープを五皿も食べたじゃないの。よっぽどおなかが空いてたんだって、あとでキヤが呆れてたわよ。」
 「まあ、本当に?」
ムトノジュメトがくすくす笑っている。
 「あんた体小さいんだから、しっかり食べて大きくなるといいわよ。サプタハほどじゃないにしても、少しは筋肉を付けて貰わないとね。」
 「…はい」
シセネは、残っていたパンと豆をつまみ上げ、次々と口に放り込んだ。本当を言えば、もっと食べられなくも無い。だが雇い主とお嬢様の手前、そうがっつくわけにもいかないと思っていたのだ。
 「そうそう、その調子よ」
陽気に笑いながら星空を見上げたイシスネフェルトが、ふと呟いた。
 「…何年ぶりかしらねえ、こんなふうに人と船に乗って騒ぐのは」
いつしか、その表情から笑顔が消えている。
 「おばさま、おじさま… と来たことは?」
 「あの人とは、一度もこんなふうに過ごさなかったわ」
小さく笑って、彼女は悲しげに首を振った。「わたくしの夫に興味があったものは、商売と名声のことだけ。財を成すこと、評判を高めること。わたくしはただ美しい添え物として家の中にあるだけで良かった。それしか求められず、それ以外のことをすると叱られた。サプタハを雇ったときも、最初は本当に嫌がられたわねえ…。おしまいのほうは家からも出して貰えなくて、自由になるのは、庭の花くらいのものだったわ」
 「…そんな」
ムトノジュメトは声を震わせる。「それじゃあ、まるで囚人よ」
 「ええそう、わたくしの結婚生活とは、そういうものだった。ほんの数年のことだったけれどね。それでも、…わたくしにとっては、最初で最後の夫だったわ。」
そう言って、イシスネフェルトは年若い姪を見つめた。
 「お前には同じ思いをして欲しくないの。お前は、若い頃のわたくしにそっくりだから…。」
声が小さくなっていく。酔いが回って、うつら、うつらとしかかっているのだ。シセネは、持ってきた掛け布をそっとイシスネフェルトにかけて、その手から杯を抜き取った。
 「君も横になったら。おれは、サプタハのところに行ってるから」
 「それじゃ寂しいわ。わたし、まだ眠くないもの。ここにいて、少しお話して」
 「…分かった。でも、奥様が目を覚ますから、少しだけ」
シセネは、ムトノジュメトから少し離れた場所に腰を下ろした。川の流れは穏やかで、船はまるでゆりかごのように心地よく揺れている。暗がりの中、満腹になった腹を抱えてじっとしていたら、すぐに眠りに落ちてしまいそうだった。
 「わたし、同じくらいの年の男の子ときちんと話をしたの、シセネが初めてだった。お屋敷で働いてる男の子もいるけど、あなたはなんだかちょっと違う」
 「そうかな」 
 「うん。男の子って、もっと騒々しくて、なんていうか… 女の子とは全然違うでしょう? あ、シセネが男の子っぽくないっていう意味じゃないのよ。何ていうのかな。とっても、優しい感じがするの。お父様に似てる感じ」
肩に回した掛け布の裾を両手でかき寄せながら、ムトノジュメトはほんの少し頬を赤らめた。
 「変な意味じゃないのよ。わたしに求婚にしに来たあの人、なんだか怖くて、乱暴な感じがするでしょ。それとは正反対だなって思ったの。世の中の男の人がみんなああだったら嫌だなって思ってたから、安心したのよ。」
 「……。」
なんと言っていいものか、シセネは困って頭をかいた。ただ、嫌な気はしない。むしろ、嬉しかった。
 「ね、シセネ。おばさまのこと、好き?」
 「…うん。多分」
 「良かった。わたしも、おばさまのこと好きよ。小さい頃に何度か会ったきりだったけど、昔から、とても優しかった。まるで本当のお母様みたいに可愛がってくれたの。でも、いつも寂しそうだった…」
声を潜め、少女は、静かに寝息をたてているイシスネフェルトのほうを見やった。掛け布を肩までひきあげて、クッションにもたれかかって完全に眠りに落ちている。
 それを十分に確かめた後、彼女は、思い切ったように言った。
 「おばさまはね。一度、子供を亡くしたんですって」
 「子供? いつ」
 「わたしが生まれるより少し前よ。お父様から聞いたの。その子は生まれてすぐに亡くなって、…丁度同じ時期に、おじさまも亡くなって。それからおばさまは、ずっと一人なの。血の繋がってる身内は、もうわたしだけ。だからわたし、おばさまには出来ることをしてあげたいの。おばさまがわたしにしてくれるように、わたしも、おばさまを幸せにしてあげたい。」
ムトノジュメトは、じっと少年を見つめた。「シセネも、手伝ってくれるでしょ?」
 「……うん」
何が出来るのかは判らない。どうすればいいのかも。ただ、ムトノジュメトがそう望むというだけで、彼にはそうする理由になった。彼女がしたいことならば、何でも叶えてやりたかった。



 星が空を流れてゆく。水面に映る星空も、街並みも、やがて闇の中に溶けて、静かに夜は更けてゆく。
 今ではシセネも、人の幸せというものが裕福さに関わらないことを知っている。帰る所があり、屋根のある部屋で眠れて、毎日腹いっぱい食べられる暮らしをしていても、決して幸せになれない人たちがいるのだということを。
 でも果たして、罪を犯しながら何とか食いつなぎ、空きっ腹を抱えて破れ屋根の下で眠る暮らしと、一体どっちがマシなのだろう?


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