第一章/6


 翌日、シセネは一人で学校へ登校した。
 着いたのは始業の少し前の時間だった。まだ教師は来ていない。昨日と同じ場所に腰を下ろすと、隣にいた少年が目を上げてシセネのほうを見る。
 「…何?」
 「いや、何でも」
少年は慌てて視線を逸らしたが、その後も、ちらちらとこちらに目を向けているのがシセネには判った。何か言いたげな様子で、シセネの顔の腫れ痕に視線を投げている。昨日と同じようにかばんから取り出した筆記具を並べながら、彼はそれとなく周囲の様子を伺った。教室の中は昨日より少し静かな気がする。昨日もみ合いになった、あの大柄な少年の姿は今日は見当たらない。それに、あの犬歯の欠けていた少年も。そのせいだろうか。
 ふいに、後ろから肘で突かれた。振り返ると、後ろの少年が笑窪を見せながら笑っている。
 「お前、よく出てこれたな。ネスゥたちとやり合ってたから、もう登校してこないかと思ったのに。」
 「ネスゥ?」
 「体のでかいごろつきさ。子分どもと一緒に、昨日の帰りにお前に声かけてたろ」
シセネは眉をひそめた。この少年は昨日絡んできた中には居なかったはずだが、何処からか様子を眺めていたのだろうか。
 「あれは、ちょっとした…揉み合いみたいなものだよ」
 「ちょっとした、ねえ」
今度は、隣にいた少年がシセネの腫れあがった頬を見て呆れたような顔をする。
 「それにしちゃ、ずいぶんこっぴどくやられたみたいだけどさ」
 「あいつらは、いつもあんななのか?」
 「いいや。普段はそこまで酷いことはやらない。だいたい皆すぐに泣いて許しを請うからさ。お前は泣きも喚きもしなかったから、そんなになるまで殴られたんだ」
 「何で泣く必要があるんだ。」
少しむっとしながら、シセネは教室を見回した。「そういえば、あいつら、今日は?」
 「さぁね。退学か謹慎じゃない? 昨日はちょっと派手にやり過ぎた」
 「そうそう。近所の人が巡回兵まで呼んじゃって大騒ぎに」
 「…そうなの?」
 「お前、気がついてなかったのか。」
笑窪の少年はますます面白そうな顔になった。「通りまで転がり出してさ、お前を追いかけて殴る蹴るで。それでも参ったって言わないんだもんなぁ」
 「……。」
 「お、先生が来たぞ。」
老教師が教室に入ってきて、会話はそこでおしまいになった。少年たちは、さっきまでと打って変わり、これから授業に臨むという神妙な顔つきに変わって膝の上に筆写板を載せた。



 午前中の授業が終わると、学校は昼食のため、しばしの休み時間となる。家の近い子供たちは昼食をとるため自宅に帰ってゆくが、戻っている時間のない子供たちは家で持たされた弁当を広げる。シセネもキヤが持たせてくれた弁当の包みを取り出す。と、後ろにいた少年がまたもシセネをつついた。自分の弁当を抱えて目配せする。
 「一緒に来ないか。休憩にいいところがあるんだ」
 「いいところ?」
 「いいところさ。」
見れば、他の生徒たちはみな、庭に出るか、窓辺の風通しのよいところを陣取って弁当を広げている。それぞれにお気に入りの昼食場所があるらしい。
 向かった先は、学校の裏手にかけられたまま忘れ去られている、古いはしごを上った先にある屋根の上だった。平屋建ての建物とはいえ、その上に立てば視界はぐんと広がる。広々とした世界の中で、町は、川のほうまで見渡すことができた。シセネは、屋敷のあるあたりを眺め、それから、振り返って町の奥に聳え立つ大きな石造りの建物のほうを見た。
 「あの大きいのは?」
 「神殿だよ、この州の守り神様の」
案内してくれた笑窪の少年は、早くも涼しい日陰に腰を下ろして自分の包みを開き始めている。シセネも、その隣に腰を下ろした。
 「そういや名前、聞いてなかったよな。僕はメヌウ。お前は?」 
 「シセネ」
 「シセネか。お前、神殿見たこと無いって、ここの町に住んでるんじゃないの」
 「…最近、住むようになったばっかりなんだ」
自分の包みを開きながら、シセネは、ちらりと隣を見た。メヌウの手元には、白っぽく乾いたパンの小さな切れ端と、干し杏が幾つか。シセネの手元には、干した魚が二切れ、新しい大きなパンが半分に、豆の入ったパンもある。何だか申し訳ない気持ちになって、彼は、包み布で手元を隠しながらパンの切れ端を口に放り込んだ。
 「親父たちは、あの神殿で働いてるんだ。神殿で使う香油の補充係なんだ。まだ行ったことないなら案内するぜ」
 「いいの? あ、…でもどうしよう、遅くなるとまた心配されるな」
 「お屋敷って?」
 「おれ、お屋敷の下働きだから」
 「へー、どこのお屋敷なんだい」
 「港の近くだよ。イシスネフェルト奥様のお屋敷」
メヌウは手を止めて、まじまじとシセネを見た。
 「あそこって、変わり者の未亡人が一人で住んでるとこだよな。ほとんど使用人もいないって話なのに、お前、どんなツテで入ったんだ。」
 「ツテ、って…。よく分からないよ、そんなの。」
 「だって、滅多に人を雇わない家だって聞いたぜ。しかも、すんごい大金持ちの家じゃないか。きっと給料もいいんだろうな。はー、いいなぁ就職先がもう決まってるなんて。僕も卒業できたら良いとこ見つけないと…」
 「……。」
今まで、人に何かを羨ましがられたことなど無かった。人より何かを持っていたことなど無かった。シセネは、自分の弁当を見下ろし、隣のメヌウを見、それから、包みの中の魚の切れ端をひとつ摘み上げた。
 「あのさ、…これ、一切れどう? 多すぎて、ちょっと食べ切れなさそうだから」
 「いいのか? ありがと!」
笑顔で受け取るメヌウを見て、シセネは少しほっとした。明日はもう少し弁当を減らしてもらおう、と彼は思った。何故だか分からないが、自分ばかり持っていることが悪いことのように思えたのだ。



 授業が終わると、解放された生徒たちが賑やかな声を上げながら次々と教室を飛び出していく。メヌウも、大きく伸びをしてほっとした表情になっている。
 「それじゃ行こうか、シセネ」
 「うん」
神殿を案内してくれるという約束だった。手元の筆記具を片付けると、シセネは、先に立って意気揚々と歩き出すメヌウについて通りを歩き始めた。
 学校から先の町の奥の区画へ入るのは、これが初めてだった。普段のお使いで向かうのは、町の川沿いの大通りだ。町の奥にある大通りのほうには、神殿をはじめ役所や様々な施設が立ち並んでいる。川とは反対側、陸地の奥深く入り込んだそのあたりには、裁判所や警備隊の本部もあった。そのせいか、なんとなく後ろめたいような気がして、近づくことを避けていたのだ。
 それにしても、この辺りはなんという別世界だろう。二階建ての大きなお屋敷、行き交う着飾った人々。壁という壁が漆喰で真っ白に塗られて、光を反射して眩しい。普段暮らしているお屋敷も大きいと思っていたが、この辺りのお屋敷は別格だ。川向こうから見えていた真っ白な建物の群れが、今、すぐ目の前にある。
 「シセネ、そんなにきょろきょろすんなよ」
メヌウが笑っている。「ほら、もうじき神殿だぞ」
 顔を上げると、色鮮やかな太い柱が聳え立っているのが見えた。空に長く尾を引いて、神の旗印が入り口に立てられた旗ざおの先にひらめいている。ひっきりなしに人が出たり入ったりしている大きく開いた入り口は、両脇に石像が立てられ、さらにその脇には警備の兵も立っていた。
 「…大きいね」
シセネは、神殿の両脇の壁を見上げた。川向こうから見えていた白い壁は、近くで見ると、とんでもなく高く見えた。ナツメヤシの木よりもずっと高く空まで伸びる壁と柱。一体誰が、どうやって、こんなものを作ったのだろう。
 「そりゃ州都だからな、この辺じゃいちばん大きな神殿だよ。」
 「入らないの?」
 「あそこは一般の参拝者用の入り口だよ。裏に、中で働く人の入り口があるんだ。こっちだ」
言いながら、メヌウは壁をぐるりと回っていく。後ろについて神殿を取り囲む塀を回っていくと、裏手の細い路地の先に、目立たない、小さな門があった。表側の真っ白な建物と違って、そちら側にある建物はどれも背が低く、路地は狭くて、少しごみごみした感じがする。
 「ここは裏口通り、神殿の下働きが住んでるんだ。うちもこの通りにあるんだぜ」
行く手には、表側とは比べ物にならないほど小さな門が一つ。脇には、辛うじて壁と屋根がついているだけのみすぼらしい番小屋があり、老人が一人、のんびりと椅子に腰掛けている。
 「こんにちは!」
メヌウが元気よく声をかけると、老人は眠りから醒めたばかりのように目をしばたかせ、少年たちを見比べ、ややあって、ほとんど歯のない口をほころばせた。
 「香油屋の坊主じゃあないか。いま、学校の帰りか」
 「うん、そう。親父たち、まだ中だよね」
 「たぶんな。まだ、ここは通っとらんよ」
 「ありがと」
メヌウに促されて、シセネも門を通り抜ける。
 「いいのかな、おれまで通って」
 「いいんだよ。たぶん、新しい手伝いだと思ってる」
先を行く少年は、慣れた足取りでどんどん神殿の奥へ入っていく。裏側から見ると、神殿はまるで巨大な壁のように見えた。壁はどこも一面びっしりと彫刻と彩色で埋め尽くされ、何だか息が詰まりそうだ。まるで墓の中の絵のようだ、とシセネは思った。墓の中の絵をいっぱいに引き伸ばして、もっと荘厳な感じに描いたようなもの。絵の間にきちんと収まった文字は、学校で習っているものよりもっと格式ばって、文章も難しくて、意味も良く分からない。その合間を縫って人々が行き交う。
 「あの、真っ白な服の人たちは――」
 「ああ、あれ神官だよ。白いサンダル履いて、髪をきれいに剃ってるからすぐ分かる。見たいこと無いのか?」
シセネが頷くと、メヌウはおかしそうに笑った。
 「神官もいない田舎から来たのか。じゃあ、神殿も初めてなわけだ」
 「うん。あ、でも、神様の家ってことは知ってる。名前までは、知らないけど…」
 「それじゃ、この神殿にいる神様の名前を教えるよ。そこの大きな神殿の神様が、オシリス様だよ。死者の神様だ。そこがイシス様。あと、あっちがハトホル様。で、あっちは…」
メヌウは次々と名前を挙げていくが、そのほとんどはシセネの初めて聞く神様で、覚えることは出来なかった。谷間の集落では、神に祈る人もいなければ、神様の名前を口にする人すらいなかったのだ。
 「神殿の外側にさ、ほら。神様の姿が描いてある」
 「うん」
 「向かい合ってるのが、この神殿を建てた王様なんだってさ。ここの文字は、王様の名前が書いてあるって」
 「詳しいんだね」
 「親父から聞いたんだよ、ぜんぶ。小さい頃からここに来てるからさ」
話しながら歩いているうちに、行く手に日干し煉瓦を積み上げて作られた倉庫のような建物が見えてきた。石造りの立派な神殿と比べると、ずいぶん貧相に見える。そこに出入りしているのは、神官ではない、ごく普通の格好をした人々だ。
 「あっ、いた」
声を上げると、メヌウは、建物の正面に停められた荷車に近づいていく。
 「父さん」
牽引のろばの傍らに立っていた髭面の男が顔を上げた。
 「なんだメヌウ、いま帰りか?」
向かいにはもう一人、日に焼けて背が高い若者が立っている。どちらもメヌウによく似ていて、一目で家族だと分かった。
 「その子は学校の友達か?」
 「うん、シセネっていうんだ。シセネ、これうちの親父と兄貴だよ」
 「これとは何だ、これとは」
メヌウより十くらい年上に見える若い男が、叱りつけるように言う。だが口調とは裏腹に、目元は親しげに笑っている。メヌウも、いたずらっぽい表情でぺろりと舌を出した。
 「神殿の見学に連れて来たんだ。その壷、こないだ届いたやつ?」
 「ああそうだ。検分も終わって神殿に納められたので、これから配りに行くところだ」
見ると、荷車には底の平たい小さめの壷がびっしりと詰まれている。間にはおがくずが敷き詰められ、壷同士がぶつかって壊れないよう、細心の注意が払われていた。封に使われている丸めた紙の間から、ほんのりと良い香りが漂っている。
 「いい匂いだね」
シセネが言うと、メヌウの兄は笑って壷の蓋に手を置いた。
 「これは香油さ。儀式のときに燃やすんだ。それから、神官たちが毎日、神像にお仕えする時に使っている。うちの家は、神殿で使う香料が足りなくなることがないよう管理するのが代々の仕事なんだ。」
 「だが、手伝いは一人で十分だ。」
と、メヌウの父が言う。「メヌウ、お前には役人か神官になって、出世してもらいたいんだぞ。そのために学校にやってるんだから。」
 「分かってるよ」
少年は頬を膨らませる。「だけどさ、僕、そんなに頭良くないよ。あんまり期待しないでくれよ」
 「はは。ま、わしの息子だからな。猫から獅子は生まれん、――が、せめて卒業くらいはしてくれよ。」
メヌウの父親はそう言って笑うと、二人の少年たちを見比べながら言った。「さ、わしらは仕事だ。お前は、友達を案内してあげなさい」
 「はーい」
ろばの引く荷車が遠ざかっていく。同じように、日干し煉瓦の辺りには神殿で使うらしいものを積んだ、沢山の荷車が行き交っている。織物や木材、花輪、酒の壷。そのうちのいくらかは、イシスネフェルトの持つあの船でこの町に届けられたものかもしれない、とシセネは思った。
 広い境内、ひっきりなしに行き交う人々。ここには、大勢の人がいる。天に向かって聳え立つ大きな塔門、神の姿を描いた彩色の壁。シセネにとって、川のこちら側は全て馴染みの無い世界だったが、その中でも、ここが一番の別世界だった。
 「…そろそろ、帰らなきゃ」
 「ん、そうか。じゃあ表側の門から帰ろう。そのほうが町に近いから。送ってくよ」
裏方として働く人たちの世界から、神殿の表側へ回っていくと、世界はまたがらりと変わる。参拝客や奉納者が出入りする表側には、裏側の雑多な忙しさはなく、厳格な静謐さが漂っている。それぞれの建物の入り口に門番が立ち、神官たちがゆったりとした足取りで行き交う。
 神殿の裏側から回ってきたシセネたちは、ちょうど、参道の付け根のあたりに出た。門のすぐ裏だ。参道には小さな露店が並び、行き交う参拝客たちに花やお守りを売りつけようとしている。だが、少年たちはそれらには興味が無く、前を素通りして行った。
 「ここでいいよ。」
 「じゃあ、またな」
門を潜ったところで、シセネはメヌウと分かれて通りを港のほうに向けて歩き出した。神殿の中で見たものが頭の中をずっと回り続けていたせいで、帰りは人の目を気にすることも無く、警備兵とすれ違っても、緊張を感じることはなかった。



 屋敷に戻ってみると、キヤが何時になく忙しそうに走りまわっていた。台所の入り口には、見たことも無い壷や家具や大きな荷物が積まれている。
 「どうしたの?」
 「ああお帰り。ちょっとねえ、お客さんが来るっていうんでね」
 「お客さん?」
 「奥様の姪ごさんだよ、しばらく滞在されるっていうんで、準備がね。アハトもサプタハも、お部屋の準備にかかりっきりだし…」
言いながら、キヤはシセネを押しのけるようにして調理台の上の盛り付けを中断し、かまどに近づいて焼き串をひっくり返した。かと思ったら、パンを切る作業に取り掛かる。今夜はごちそうなんだな、とシセネは思った。館の女主人が夕食に人を呼ぶなんて、ここに来てから初めてのことだ。
 「おれ、手伝うよ」
シセネは大急ぎで自室に戻ろうと、中庭に出た。中庭を横切れば、使用人の棟はすぐそこだからだ。だが、脇目もふらず回廊にさしかかろうとしていた彼は、誰かに呼び止められた。
 「ちょっと、そこのあなた!」
吃驚して、シセネは足を止めた。それは、聞き覚えの無い、弾むような少女の声だった。
 振り返ると、声の主はすぐに見つかった。中庭の蓮の浮かぶ池のほとりから、こちらに向かって手を振りながら近づいてくる。
 「あなたがシセネでしょう? いま、学校からの帰り?」
 「えっ? なんで、おれのこと…」
シセネは、まじまじと少女の姿を見つめた。丁寧に編みこまれた長い黒髪に、薄手の上着の下から覗くほっそりした腕。眼の縁には黒い縁取りが細く入れられて、首の周りには鮮やかな色の首飾りがかけられている。イシスネフェルトほどではないにしろ、上品で高価そうな装身具。どう見ても、新しくやってきた召使いには見えなかった。
 目の前までやってくると、少女は、両手を自分の背に回しながら花のように微笑んだ。
 「はじめまして、わたし、ムトノジュメト。イシスネフェルトおばさまの姪よ。今日からしばらくこのお屋敷でお世話になるの、よろしくね」
ぽかんとして、シセネはしばらく口が利けなかった。少女は、そんな彼の様子に気も留めず、一方的に話しかけてくる。
 「ねえ、学校では今、どのへんを? わたしも昔、少しだけおうちで勉強していたのよ」
 「文字の…書き取りとか。簡単な計算とか…」
 「あら! じゃあきっと、一年生のところね。それなら、わたしのほうが少しは先輩だわ。ね、もう手紙は読み書き出来て?」
視線を逸らしながら、少年は、しどろもどろに何か答えた。自分でも何を答えたのかは良く判らない。何しろ、同じ年頃の女の子と話をするのは、生まれて初めてだったのだ。年は同じくらいだろうか。背の高さもほとんど変わらない。そのせいで、少女の顔はシセネのすぐ真正面にあった。
 「あの…。おれ、やることあるから」
シセネが大慌てで踵を返すと、背後かに少女は弾むような声が追いかけてきた。
 角を曲がったところで、シセネは、向こうからやって来たサプタハと出会いがしらにぶつかった。
 「おっと」
一方的に弾き飛ばされてよろめいた少年の肩を、硬く筋肉の引き締まった腕がすんでのところで掴む。
 「何だ、ずいぶん急いで」
 「サプタハ、――なんで、言ってくれなかったんだよ? 知ってたんだろ」
恥ずかしさと苛立ちから、シセネは礼を言うことも忘れてサプタハにかみついた。
 「おいおい、なんだ藪から棒に」
 「あの子のことだよ!」
 「ああ、ムトノジュメトお嬢さんか? 奥様の兄上の、ネシコンス様の娘さんだ。ほれ、こないだ、お前が手紙を届けに行ったっていう」
 「そうじゃなくて! ここに住むって。そういうの、もっと早く言ってくれれば…」
サプタハは、シセネの表情を見て何やら意味深な顔をする。
 「ははぁん。可愛いお嬢さんが近くにいちゃあ、緊張するって?」
 「そういうんじゃないよ」
慌てて、シセネは言い訳する。「おれは、びっくりしただけ。あと、キヤが大変そうだったから!」
 「――ふむ。わしらも、知らされたのは今日になってからでな。使っていただく部屋を開けたり、家具を運んだり、朝から大忙しだよ。急に決まったとかで」
 「そ、そう…。」
サプタハは、顎を撫でながら視線をちらりと二階にやった。
 「奥様は何をお考えなのやら。」
 「…荷物置いてくる。手伝うよ」
かばんのたすきを直すと、シセネは、表情を見られないよう、俯いたまま、部屋へ描け戻った。
 部屋に戻って一人になると、シセネは、大きく溜息をついてかばんを足元に投げ捨てた。弾むような笑い声がまだ耳の奥にこびり付き、輝くような笑顔が目の前にちらついている。思い出すだけで、心臓のあたりがいつもとは違う感じにちりちりと痛んだ。――知らなかった。年頃の女の子というのは、あんな風に笑うものなのだ。
 (奥様の姪って言ってたな…ネシコンスの娘って)
シセネは、手紙を届けに行った、町の反対側の大きな屋敷のことを思い出していた。あの時の手紙には、一体何が書かれていたのだろう。彼女は、いつまでこの屋敷に滞在するのだろう。



 その日は、少し特別な日になった。
 晩餐の席には使用人全員が呼ばれたからだ。皆を紹介したいから、とイシスネフェルトが呼んだのだ。
 キヤだけは給仕役で女主人に酒をついだり、料理を取り分けたりしていたが、他の人々は皆、家族のような顔をして食事の席に座っている。奥の主人の席にはイシスネフェルトが既に腰を下ろし、すぐ隣の席にはムトノジュメトが座っている。目の前には、女主人と同じ料理が並べられている。鴨肉の煮込みがいい匂いを漂わせていて、シセネは思わず生唾を飲み込んだ。鴨肉なんて、今まで一度も食べたことが無かった。水鳥は川辺の村に住む人々のもので、谷の奥に暮らす人々が取りに出かけたりしようものなら、邪険に追い払われるものだった。肉と言えば、夜の間にこっそり川べりで魚を捕まえるのが精々だったのだ。
 「遠慮しないでいいのよ。今日は皆、たっぷり食べなさい。いつものねぎらいも兼ねてね」
イシスネフェルトは、いつになく上機嫌に見えた。アハトは、ほとんど目の見えない夫のシェバに料理の中身を教え、手の届かないところの料理を代わりに皿に取り分けてやっている。サプタハはイシスネフェルトの話にあわせて相槌を打ちながら、女主人と同じようにビールの器を傾けていた。シセネも、おそるおそる目の前の料理に手を出した。最初は控えめに、豆のペーストを薄皮に包んで焼いた料理から。どれもキヤが腕によりをかけて作った、手の込んだものばかりだ。香草をたっぷり入れたスープからは良い香りが漂い、魚料理には色鮮やかな庭の花が飾りつけられている。
 料理を口に運びながらも、シセネは、女主人と少女の会話に耳を傾けていた。
 「…で、お父様は、しばらく距離を置いていたほうがいいと仰ったの。」
 「でしょうね。あまりにも性急だから。ところで、ねえ。ムトノジュメト? お前の母さんは、ここへ来ることについて何か言っておいでだったかね」
 「いえ、…」
ちらりと視線を上げると、少女の表情が僅かに曇るのが見えた。
 「でもお父様は、良いって仰いました。まだ嫁ぐには早いから、花嫁修業も兼ねて少し他所で勉強するのは悪くないだろうって」
 「嫁ぐ?」
思わず声を上げたシセネは、あわてて視線を手元に落とした。視線がいっせいにこちらに向けられたのが分かる。
 「あ…すいません。だって、あんまりにも早すぎるから…。」
 「早すぎはしないわ。もっと早い娘もいる。生まれた時から婚約者を決められてね」と、イシスネフェルト。「わたくしが、この屋敷に嫁いだのも、この子くらいの年齢だった」
 「それって…そんなの」
 「でも、わたしまだ正式に婚約したわけじゃないの」
ムトノジュメトは、困ったように微笑む。
 「ある人が父のところへ来て、結婚の申し込みをしただけなんです。母は乗り気なんだけど…わたし、まだそういうの、あんまり…。」
 「相手はお役人らしいわ、州の税務官吏」
イシスネフェルトは、ふんと鼻をならして肘掛に重たい金の腕輪を嵌めた片腕を乗せた。
 「どうせ財産目当てのつまらない男よ。とにかく、ムトノジュメト、お前は何も心配しなくていいのですよ。急いで話をまとめようとする輩にろくなのはいないんだからね。お前には器量も財産もあるのだし、婿なんていくらでも選べるのだから。」
 「ありがとう、おばさま。」
少女の表情を見て、シセネもほっとした。明るい笑顔を浮かべた少女の横顔を見ていると、不思議な気持ちになってくる。心臓のあたりがちくちくするのだ。そんな感情は、生まれて初めてだった。
 (ずっと笑っててくれればいいな)
スープを口に運びながら、シセネはそう思った。彼女が悲しい顔をするところは見たくなかった。いつか結婚しなくてはならないにせよ、笑って嫁いでいける相手が見つかればいい、…と。


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