第一章/5


 ある日のことだった。
 シセネは、サプタハとともに屋敷の女主人に呼び出された。
 「シセネに学校に行って貰おうと思うの。」
二人が目の前に立つや否や、いつもの如く物憂げに寝椅子に身体をもたせ掛けたイシスネフェルトは唐突にそう言った。
 「…学校?」
 「ふむ。確かに、屋敷の用をするなら計算くらいは知っておいたほうがいい。若いうちに学ぶのはいいかもしれんな」
隣を見ると、腕を組んだサプタハが訳知り顔で頷いている。
 「わしも昔、数年だが通わせてもらった。生憎と出来が悪く、大したことは覚えられなかったが」
 「サプタハも?」
 「基本的な読み書きと計算だけでも、出来る使用人がいると、色々と便利なのよ。」
と、イシスネフェルト。シセネのほうに向き直り、じっと彼を見つめる。
 「どこまで学べるかは、お前次第よ。できることなら出納の管理くらいは出来るようになって頂戴」
 「で――でも、おれ…そんな…」
 「出来ないの?」
濃い縁取りに囲まれた鋭い視線が、射る様にシセネに向けられる。有無を言わさぬ視線に、彼は、思わず唾を飲み込んだ。
 「がん…ばります」
 「そ。では明日からよ。サプタハ、初日は送って行きなさい。」
 「かしこまりました。」
話はそれだけだった。追い出されるようにして部屋を辞した後、並んで歩きながら、サプタハは勤めて気楽な口調で言った。
 「そんなに不安そうな顔をするな。なぁに、最初は辛いかもしれんが、そのうち少しずつ理解出来るようになる。」
シセネは小さく首を振ると、ひとつ溜息をついた。
 「学校なんてさ…。お金もちの子が行くところじゃないか」
 「そうでもないぞ。昔、わしも通ったと言ったろうが? お前が行くのは町の学校だ。勘定や簡単な文字の読み書きは、町の商売人や細工師の子でさえも必要だからな。それとも、学校に行くのが怖いのか?」
 「そういうわけじゃ…」
 「同じ年頃の子供もいる。屋敷の雑用ばかりしているよりは楽しいかもしれんぞ。頑張って来い」
ぽんと少年の肩を叩いて、サプタハは、笑いながら自分の仕事に戻っていく。シセネは、足を止めてちらりと中庭のほうに目をやった。庭師の老人が日々丹精こめて手入れしている庭は、今日も瑞々しい緑に囲まれ、中心には睡蓮の浮かぶ池が静かに水をたたえている。
 文字の読み書きや複雑な計算は、限られた人々だけの知識だ。それさえあれば、何処へ行っても仕事はある。一生、食うに困らない。たとえ、この屋敷で働くことを辞めても――。
 ふと頭に浮かんだ思考を、シセネは慌てて振り払った。自分は一体、何を考えているのだろう。折角、まっとうな仕事を出来る場所を見つけたというのに、何処か別の場所へ行くかもしれない、などと。
 風が吹いてゆらゆらと浮かぶ睡蓮の葉が揺れ、水面に波が立つ。
 彼が台所に入っていくなり、キヤがふんと鼻を鳴らした。
 「学校に行くんだって? まったく、あんたが居ないと家の仕事はどうするんだい。また水汲みはあたしの仕事かい」
既にその話は知っているのだ。
 「…しょうがないじゃないか、奥様が…」
 「ふふん、冗談だよ」
ふいに表情を崩して笑ったかと思うと、キヤは、すぐにいつもの厳しい表情に戻って、腰に手を当てながらシセネの鼻先に指を突き出した。
 「それどころか、あんたはあたしの仕事まで増やすんだからね。毎日の弁当作り! いいかい? そこまで手間かけさせるからには、きちんと勉強してくるんだ。そうでなきゃ、あんたにはもう飯は作らないよ」
 「わ、分かってるよ」
 「ならいいよ。」
それだけ言うと、キヤは竈のほうに向き直った。調子を狂わされたまま、シセネは台所を見回した。いつもなら夕食の準備を手伝うところだが、今日は何も言いつけられる様子がない。シセネがしばらくぐずぐずしていると、ようやく、キヤが口を開いた。
 「今日は構わないよ、何もしなくても。」
 「え? でも」
 「いいんだよ。明日からは毎日朝から晩まで学校に詰め込まれるんだ、今日くらいのんびりしておいで。」
キヤは、背を向けたままだ。
 「…そんなこと言われても、おれ、することない」
 「することなけりゃ、町でもぶらつくなり、昼寝でもするなりしてりゃいいだろ? 男の子なんだから、釣りとさ。」
 「……。」
シセネは、困ってもじもじと足元を見下ろした。
 「なんだい。」
 「おれ、そういうのしたことない」
 「釣りを?」
 「うん――、遊んでていいなんて言われたことないし」
キヤは、驚いた顔で振り返る。
 「仕事の合間にさぼったことくらい、あるだろう?」
 「あんまり…。」
 「やれやれ。真面目でよく働くとは思ってたけど、こりゃあ、ちょいと真面目すぎるんだね」
料理番の女は、溜息をついて、額に手を当てた。「うちの息子たちとは正反対だよ。まったく」
 「息子?」
 「あたしゃこう見えて、三人いるんだよ、息子がね。村に置いてきたっきりだけど、今頃どうしてるやら。」
意外な気がした。キヤは一度も家族の話をしたことなどなかったし、屋敷に住み込んでいるから、てっきり家族はいないと思っていたのだ。
 「会いに行かないの?」
 「なぁに、もう皆、いい年だ。おまけにロクでなしどもでね。ま、余計なとこばっかり亭主に似ちまったんだねぇ」
首を振って、女は鍋をかき混ぜるためのしゃもじを取り上げた。
 「あたしは昔から運がなかった。ろくでなしの亭主は借金だけ残してさっさとおっ死んじまうし、息子たちは息子たちで、てんであたしの言うことなんか聞きゃしない。おまけに顔をあわせりゃ食い物を寄越せだのなんだの。いいのさ、ほっといたって好きに生きてくだろうよ。」
 「……。」
 「おや、つい口が滑っちまったね。忘れておくれ。――さ! とっとと、どこかへ行きな。そこに突っ立ってられると邪魔だよ」
追い立てられるようにして、シセネは台所を出た。かといって、どこかへ行く当てがあるわけでもない。何となく裏庭に出たシセネは、ちょうど、腰を曲げたアハトが洗濯物を取り込もうとしているのを見つけた。手ぬぐいやら腰布やら、客間用の飾り布やら、籠一杯に積み上げられている。
 「手伝うよ」
駆け寄ったシセネは、屈みこんで両手で籠を抱えようとする。その時、側にある老の二本の足にはっとした。ざらついた皮膚の表面には、大きな傷と、焼けてただれたような痕がある。彼は思わず、小さく声を漏らした。それから、慌てて口を押さえる。見上げると、アハトはいつものような穏やかな笑みをたたえて、困ったようにこちらを見下ろしていた。
 「…ごめんなさい」
ばつが悪くなって、シセネは、慌てて籠を抱えて屋敷の中に入った。洗濯物を広げていると、残りを腕にかけたアハトが、あとからゆっくりとやってくる。
 「気にしないでいいのよ。これはずっと昔の傷だから」
隣の床に腰を下ろしながら、アハトは洗濯物を広げて皺を伸ばしている。シセネは、ちらりと老婆を見た。
 「もう…痛くないの?」
 「ええ、全然よ。こんなの、あの人に比べたらちっとも辛くない。」
シェバのことだ、と思った。イシスネフェルトは言っていた。シェバの喉は、火事で焼けてしまったのだと。
 「あの人、私を助けるために火の海に飛び込んできてくれたんですよ。若い頃の話。ふふふ、懐かしいわ。」
いつも絶やさない笑みを浮かべたまま、アハトは、手元の布をゆっくりとした動作で丁寧に畳みあげていく。シセネも、籠から取り出した洗濯物を伸ばして畳んでいく。それ以上問うことが憚られてて、シセネも、黙ったままだった。
 裏庭のほうからは、人の話し声が微かに響いて来る。
 大通りに面した側ではなかったが、屋敷を取り囲む白い塀越しに見える裏通りにも、人は溢れている。大きな荷物を担いでいく老人、談笑しながら通り過ぎる女性たち、棒を振り回しながらロバを追い立てていく少年。
 この町に暮らす人々がそうであるように、お屋敷の中に暮らす人々にも、それぞれの事情があるのだと、シセネは思った。
 黙々と花園を手入れし続ける声なき老人にも、その老人に寄り添う老婆にも。部屋に篭って物憂げに庭を見下ろすイシスネフェルトにも、かつて債務奴隷だったというサプタハにも、息子たちに会いにいけないキヤにも。
 そして…彼自身にも。



 翌日、シセネは肩掛けかばんを一つ与えられ、サプタハに付きそわれて学校へ初登校した。
 学校は港とは逆側の、陸地の奥のほうの大通りからは外れた区画にあった。運動場を兼ねた広い庭のついた平屋の建物の前まで来ると、サプタハは、入り口を指し示した。
 「ここだ。道は覚えたか?」
 「うん」
 「そうか。それじゃあ帰りは一人で戻れるな。頑張れれよ」
それだけ言って、サプタハは元来た道を戻って行く。自分の仕事があって忙しいのだ。
 一人になったシセネは、騒がしい教室に踏み込んで周囲を見回した。教室の床にはござが並べられ、正面には教壇と卓がある。興味深そうな視線をこちらに投げている数人のほか、自分たちの話に夢中になっている少年たち、大声を上げながら走り回っている元気な子供たちもいれば、不届きにも、隅のほうでこっそりと昨日の宿題を写しあっている者たちもいる。全部で二十人くらいだろうか。全員男の子だが、年齢はまちまちで、五歳か六歳くらいの小さな子供から、シセネよりずっと年上の、もう成人と呼んでいいような少年たちもいる。
 ほどなくして、学校の奥から白い髭を蓄えた老教師が姿を現すと、大騒ぎの教室に向かって手を叩き、教卓の前に立って声を張り上げた。
 「ほら、もう授業を始めるぞ。皆、席に座りなさい!」
その声を合図に、子供たちが一斉に動き出し、立っていた者はそれぞれ、自分のいつもの場所に腰を下ろす。シセネも、空いている場所を見つけて腰を下ろす。教師が、ちらりとそちらを見た。
 「君は今日からだったな。最初はついていけないかもしれないが、一つずつ覚えていくんだぞ。」
 「はい…」
 「それでは、書き取りの授業から始めよう。皆、筆記具を出しなさい」
 (…筆記具?)
あわてて、シセネは肩にかけていたかばんを開いた。必要なものはその中に入っている、と渡されたものだ。中には、確かに筆記具が入っていた。しかも驚いたことにそれは、使い古されたお下がりではなく、しつらえたばかりの真新しいものだ。それを見て、シセネは妙な気分になった。これまでの自分の仕事ぶりでは、どう考えても、そんな特別なものを与えられる価値があるとは思えなかったのだ。
 他の生徒たちに習って見よう見まねで筆記具を並べる。使い方もよく分からない。ペンなど持つのも、間近に目にするのも初めてのことだ。白く石膏を塗った板も一緒にかばんに入っていて、それが練習用の書版であるらしかった。あとで水で洗い流せば、何度でも書くことが出来る。
 それからの時間は、シセネにとってあまりにも馴染みのないものだった。
 講義の内容は確かにむつかしかった。字や計算を全く知らないシセネにとっては、ほとんどが神官の唱える呪文か何かのようだった。けれど不思議と楽しくもあった。けんめいに耳を傾けているうちに一日はあっという間に終わり、最後の授業がようやく終わった時には、もう、日が傾き始めていた。
 「それでは、今日はここまで。また明日」
老教師が部屋を出て行くと同時に、神妙な顔をして座っていた子供たちの間から、溜息とも、歓声とも取れる声が次々と上がった。疲れ果てた顔の子供もいれば、元気いっぱい、これからが本番だといわんばかりに運動場へ駆け出していく。ほとんどの子供たちは、家に帰ろうと教室の出口に向かっていた。シセネも、筆記具を片付けて、帰ろうと立ち上がった。
 と、その時、誰かが後ろからこづいた。振り返ると、浅黒い色の顔をした少年が欠けた犬歯を見せてにいっと笑っていた。
 「よう、新入り。お前、どこのもんだ」
 「どこって?」
 「どこの子かって聞いてんだよ。家はなんだ、職人か? 神殿の下働きか。ここへ来るからには、役人の家の子なんかじゃないんだろ」
気が付くと、周りは年かさの少年たちに取り囲まれていた。ずっと機会を伺っていたらしい。目の前を塞ぐように立ってる一際体格のよい少年は、干したナツメヤシをくちゃくちゃと噛んでいる。シセネは、眉間をひそめて周囲を見回した。
 「…ただの使用人だよ。」
 「使用人? なんだい、どこのお坊ちゃんかと思ったら」
脇で腕組みをして様子を見守っていた色白な少年が、やけに甲高い声で笑う。
 「酔狂な雇い主だなあ。召使いに代筆でもさせる気かな」
 「それにしちゃあ、ずいぶん生意気な顔してやがるけどな」
周囲から笑い声が降り注ぐ。不快感を覚えて、シセネはかばんをしっかり押さえたまま、目の前の少年の脇を通り抜けようとした。
 「おい、待てよ。もう帰っちまうのかい」
 「通してくれ」
 「いいじゃないか、少しくらい俺らと遊んでいけよ、なあ?」
 「そうそう、新入りなんだから付き合えよ」
 「興味ないよ。帰らなきゃいけないんだ。」
 「つれないやつだなぁ――おう」
すれ違おうとしたとき、体格のよい少年がするりとシセネの首元に手を回し、素早く首に提げた袋を奪い取った。
 「なんだい、こりゃ」
 「!」
少年が袋を逆さまに開けようとしているのを見るや、シセネはとっさに相手の腕に飛び掛った。
 「返せよ!」
勢いで少年がよろめき、口からなつめやしの皮を落とした。取り囲んでいた少年たちの顔色が変わる。
 「こいつ、殴りかかってきやがったぞ」
 「使用人の癖に。生意気だ、おい、やっちまえ」
その言葉を合図に、少年たちが、わっと飛び掛ってきた。もみくちゃにされ、何処からとも無く飛んでくる拳や膝に打ち据えられながらも、シセネは、両手の中にしっかりと袋を握り締めていた。



 裏口から覗き込むと、勝手口に通じる台所にはちょうど誰もいなかった。竈の火がちらちらと揺れ、料理の出来上がった香りが仄かに残っている。夕餉の時間だ。いつもそこにいる無愛想な料理番の女は、館の女主人に給仕するために出払っているのだろう。好都合だ。
 シセネは、そっと足を忍ばせて、素早く台所を通り過ぎようとした。だが、その彼を呼び止める声がする。
 「やっと戻ったか。なかなか戻ってこないから、迎えに行こうかと思っていたんだぞ」
大股に近づいてきたサプタハは、シセネの様子に気づいて足を止めた。
 「どうした、その痣は」
少年は、あわてて顔を背けた。
 「なんでもない。余所見してて、荷車とぶつかったんだ」
 「膝も擦りむいてるじゃないか。見せてみろ」
 「なんでもないったら、ほんとだって。」
近づいて来たサプタハは、シセネの頬を掴んで自分のほうを向かせた。
 「…いじめられたのか?」
 「……。」
足元で、かまどの中の火がパチパチと音をたててはぜている。
 「何か言われたのか」
 「何も。これを取られそうになったから…つい」
シセネは、握り締めていた右手を開いた。護符の入った袋を首から提げていた紐はちぎれて、シセネ自身の血が滲んでいる。
 「なんて奴らだ。人のものを取ろうとするなんて」
 「たぶん、ただ見てみたかっただけだ。最初に突き飛ばしたのは、おれだから…」
サプタハは、小さく溜息をついた。
 「こっちへ来い。もっと明るいところで傷の手当をせにゃ」
言われるまま、シセネは灯りの下の椅子に腰を下ろした。自分でも気が付いていなかったが、膝も腕もあちこち擦りむいて、引っ掛かれたような跡がついていた。傷口を拭いながら、サプタハが尋ねる。
 「相手は、何人いたんだ」
 「わからない。七、八人かな…。」
 「そんな連中に囲まれて? 怖くなかったのか」
 「殺されはしないでしょ」
 「そりゃあ、まあ」
男は、呆れ顔でシセネの顔を眺める。「よく平静でいられるもんだ。」
 「殴られるのなんか慣れてるよ。こんなの、全然痛くない」
 「…そうか」
少年の顔にこびりついた泥と血を拭ってしまうと、サプタハは、シセネが握りしめたままの袋に目をやった。
 「それは、もう学校へは持っていかないほうがいいかもしれんな。箱か何か、用意してやろう。それに入れて部屋に置いておけばいい。この屋敷の中なら、誰も盗ったりせんよ。 ――それとも、手放すのは嫌か?」
 「え、…」
シセネは、手元の視線を落とした。誰にも見られたくない、とは思っていた。だが、元はといえばこれはは只の拾い物だ。処分したいとさえ思っていた。…そう、大切なものではない。
 「そういうわけじゃないよ…。どこか、よそに置いておけるなら、そのほうがいいんだ」
 「そうか。」
サプタハは、汚れた布を片付けながら、ふと、思い出したように言った。
 「お前、なんだか似てるな」
 「え?」
 「いや、ちょっとな。…そこに飯がある、待ってろ、アハトが薬を持ってるはずだから。」
それだけ言って、さっさと台所を出ていく。
 (もしかして、おれが戻るの待っててくれたのかな)
ぼんやりと、シセネは思った。台所の卓の上には、取り分けられた夕食が残されている。皿からパンを取り上げると、急に空腹を思い出した。かぶりついていると、サプタハがアハトを連れて戻ってきた。
 「待たせたな」
サプタハは、手に小さな木箱を持っている。
 「これは、お守り入れに使ってくれ。それから、薬だ」
 「あらあら、本当。ずいぶん腫れてしまって。ひどく殴られたのね、可愛そうに。」
老婆のほうは、薬壷をたずさえていた。「じっとしてて、薬を持ってきたのよ。これを塗れば少しは腫れが引くでしょう。」
 「大したことないよ、そんなのあとでいい。まだ食べてるんだ」
 「本当にお前は食い意地が張ってるな」
呆れたようにサプタハが笑う。「少し待ってろ。飯は逃げたりせん」
 仕方なく、シセネは手を止めて、大人しくアハトのするがままにさせておいた。老婆は骨ばった指でシセネの頬や額に丹念に薬を塗りこんでいく。触れられると、確かに少し痛かった。アハトはまるで自分が殴られたようなつらそうな顔をしている。自分ではよく分からないが、そんな顔をされるほど酷く腫れているのだろうか、と心配になってきた。
 ぽつりと、老婆が言った。
 「不思議ね。あなたを見ていると、なんだか、昔の奥様を思い出しますよ。」
 「…え?」
 「よくこうして顔を腫らして、涙一つ流さずに座っておいでだった。旦那様は癇癪持ちなお方でね、奥様はよく殴られていたのよ。時には目が開けられないほどにね。それでもいつも毅然として、私たちには何も仰らなかった。」
 「自分の奥さんを殴るの? なんで」
 「そういう男も、世の中にはいるのさ。」と、サプタハ。「不安で仕方なくて、誰かに暴力を振るうことで安心しようとするような男がな」
余った薬を指先で掬(すく)いとり、アハトは、手元の薬壷を仕舞った。
 「これでよし。一晩もすれば腫れも引くわ。ああ、膝と腕も擦りむいているじゃないの。そちらも見せて」
腕を差し出しながら、シセネはなおも尋ねる。
 「ねえ、奥様の旦那さんって、もう亡くなったんだよね」
 「十年以上前にね。旅先で、病にかかって。」
 「…奥様は、喜んでいた?」
 「いいえ。」
老婆は首を振り、薬壷を手に立ち上がった。「奥様は――いつもと同じだった。何も仰らずに、ただ淡々と受け入れられた。あの方はいつもそうよ。一人で耐えていらっしゃるの。私たちにさえ、本当の気持ちを打ち明けられることはない。きっとあなたも同じねえ。意地っ張りで誇り高いの。でも、人を傷つける人ではないわ…」
それから、何か言いたげな少年に向かって、にこりと微笑む。
 「この屋敷に住む私たちは、家族のようなものです。皆、奥様に救われて、ここにいるの。あなたもそうよ、シセネ。だから、困ったことがあったら遠慮なく言ってね。」 
老婆は、少年の髪をなでてから去ってゆく。ちらりとサプタハを見ると、男は、ばつが悪そうな顔をして元の場所に立っていた。
 「余計なことを聞かせたな。お前が気にする話じゃない、もう昔の話だ」
 「でも。おれ、何も知らなかったんだよ。奥様だけじゃない、ここにいる人たちのこと、何も知らない…」シセネは手元に視線を落とす。「みんな、辛いことばっかり。何でなのかな。悲しいことが沢山あったみたいなのに、忘れようとしてる」
 「そりゃあな、人間、生きてれば悲しいこともある。だが忘れなきゃ生きてはいけない。お前もそうだろう?」
 「……。」
 「この屋敷に暮らしているのは、皆、何かあって他では生きられなかった連中だ。わしもな。皆、奥様に救われてここにいるんだ。だから、お前も安心してここに居ていい。ここに来る前に何があったのかは聞かんよ。いつか話せるようになったら、教えてくれ。」
それだけ言うと、サプタハは少年を一人残して、台所を出て行った。
 一人になった後も、シセネは、ぼんやりと廊下に続く出入り口のほうを眺めていた。

 ――忘れてもいいのか。
 ――ずっとここに居てもいいのか。

 傍らの袋と、サプタハが卓の上に置いていった小箱を見比べる。ずっと首から提げていたそれを箱の中に仕舞いこんだとき、確かに、ほんの少し肩が軽くなった気がした。



 その夜、シセネは、かつて暮らしていた谷間の集落の夢を見た。黒い犬――いつも群れから離れて動き回り、気まぐれに現れては去って行ったあの犬は、相変わらず谷間をさすらっているだうか。それに、インニは今頃どうしているだろう。今夜もまた、どこかの暗い墓所に押し入って、中を漁っているのだろうか。居なくなったシセネのことなど、もうとっくに忘れてしまっているだろうか。
 それとも。


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