第一章/4


 翌朝、いつものように台所へ降りてゆくと、キヤが隅の食卓に使用人の朝食用の皿を並べているところだった。女主人はいつも遅い時間に目を覚ます。シセネたち使用人は、その前に食事を終えるのが慣例になっていた。だが、今日は皿の数が少ない。
 「サプタハは?」
彼が尋ねると、キヤは竈の前でこちらに背を向けたまま、鷹揚に答える。
 「荷が着いたらしくて、港に出ているよ。今日は一日戻ってこないだろうね」
 「荷って?」
 「奥様の船だよ。この町に驕奢物を運んでくるのさ。その一部を運賃代わりにいただくっていう仕事があるんでね」
朝食のパンのかけらを口に放り込んでいたシセネは、思わず手を止めた。
 「船を持ってるの? 自分で?」
 「自分でだよ、当たり前じゃないか。それがこのお屋敷の生業さね。亡くなった旦那様は何隻も船を持っていて、人や物を運ぶのを生業にしてた。そのために川沿いにお屋敷があるんだ」
シセネは、以前見たことのある、川をゆったりと行きかう大きな船の姿を思い出していた。てっきり州軍や役人の持ち物だと思っていた。少年が驚いているのに気をよくして、キヤは、腰に手を当てた。
 「それだけじゃないよ。港前の大通りには貸し家が何軒もあるんだ。そこからの家賃の収入だってあるからね。奥様はこの町いちばんのお金持ちさ。お前はそんなお方にお仕えしてるんだよ。どうだい、驚いたかい?」
 「うん、びっくりした。お金持ちなんだね。…でも、ここにいる人は少ないんだね」
ぴくりとキヤの眉が跳ね上がった。
 「何だって?」
 「あ…いや、だって、お屋敷は広いのに、召使いはあんまりいないから… 掃除も大変だし…」
シセネが手伝えない日は、玄関や広間、廊下などは、ほとんどアハトが一人で掃除していた。年を取っているアハトはすぐ腰が痛くなるようで、見るからに辛そうだったのだ。
 キヤは、小さく溜息をつく。
 「奥様はそういうお方なのさ。旦那様が亡くなってから、財産目当てでひっきりなしに求婚なんか受けたりしてたから、それで嫌になっちまったんだろう。せめて子供が…」
言いかけて、なぜか口ごもる。
 「…とにかく。奥様は、あまりお屋敷に人を増やしたくないのさ。だから、あんたにはキリキリ働いて貰わないと困るんだよ! ほれ、終わったら水汲みだよ」
 「わ、分かってるってば」
大慌てて皿に残っていたスープと、昨日の余りらしい炙った魚の切れ端を飲み込んでしまうと、シセネは、勝手口に置いてある担ぎ棒を肩にかけた。
 「ごちそうさま! 行ってきます」
毎日、朝食の後は屋敷の目の前を流れる川に行き、台所の水がめが一杯になるまで水汲み。そのあとは、表の玄関を開けて掃除をする。イシスネフェルトが起き出すのはいつもそのくらいの時間で、女主人が動き始めると屋敷の一日が正式に始まるのだ。その後は、洗濯、買い物、キヤを手伝って食事の準備をしたりと、日によってまちまちだった。二階に上がることは殆どなかった。というより、用が無ければ立ち入らないようにとキツく言い渡されていた。
 その日も、シセネはいつもどおりに仕事をこなしていた。
 玄関の掃除を終えて、一休みしようと庭の見える柱の影に腰を下ろす。そこはちょうど頭上にアカシアの枝が張り出して、気持ちのよい木陰を作っている。目の前の庭では、シェバが今日も背を丸めて、地面に這い蹲るようにして花の手入れをしている。この館の中で、シェバだけは、唯一、仕事が一つと決められているようだった。見かける場所は、この庭か、裏庭の堆肥や鋤を置いてある物置のあたりだけだった。
 初めは無口なだけだと思っていたシセネも、今では、シェバが自由に声を発することが出来ないのだと気づき始めていた。妻のアハトが話しかけても、小さく頷くか、身振り手振りで返事するだけだ。きっと、目も悪いのだ。だからあんなふうに、花に顔ごとこすりつけるようにして仕事している。――彼に出来る仕事は、他にはほとんど無い。この狭い庭を手入れすること以外に。
 「シセネ」
誰かが頭上から彼を呼んだ。見上げると、二階の窓から白い腕がひらひらと手招きするように動いている。そこは、館の女主人の部屋だ。腕につけている腕輪からして、間違いない。
 少し迷ったが、他ならぬ女主人自身の招きなのだ。叱られることもないだろう。
 二階に上がって廊下の奥。普段立ち入りを禁じられているその区画に立ち入るのは、屋敷に来てから二度目のこと。――拾われた日に食事をさせてくれた、あの日以来だ。
 閉ざされていた扉を思い切って押し開くと、中から、嗅いだことも無い不思議な香りが空気とともに流れ出してくる。花とは違う、何か、不思議な感じだ。
 シセネは目をしばたかせ、そっと周囲を見回した。天井は高く、床には絨毯が敷かれている。簡素だが豪華な部屋の中で、イシスネフェルトは窓辺に寄せた寝椅子の上にゆったり身を延べて、物憂げな様子で手元の葦ペンをいじくっていた。卓の端に空になった杯があり、食べ残したざくろの実が無造作に置かれている。窓の直ぐ下が、中庭だ。
 黙って入り口に立っていると、彼女はふいに顔を上げた。
 「どうしたの? もう少し、近くへ来なさい」
言われるままに部屋の中ほどまで踏み込んでいくと、イシスネフェルトは、じっとシセネの顔を見つめた。
 「…少しはマシな顔になったわね。どう? 仕事には慣れたの」
 「はい、なんとか」
部屋の中には、ほかに誰もいない。ここへ来てから、女主人と二人きりで会話するのは初めてのような気がした。そっけない、だが、どこか優しくも感じられる声は、濃く隈取られた眼差しとは、奇妙に釣り合いが取れていなかった。
 「帰りたくなったかしら?」
 「いえ…。おれは、帰るところなんて」
 「そ。ならこのまま、ここで働きなさい。他の使用人たちは、どう?」
 「どうとか、ないですけど…。」
眉を寄せて、シセネは視線を窓のほうに泳がせた。見つめられると、何か、詰問されているような気分になってくる。
 「…あの庭師のおじいさん、どうして喋れないんですか」
 「シェバ?」
イシスネフェルトは、意外そうな顔をした。
 「彼は…そうね。火事に遭って、喉を痛めたらしいわ。」
 「火事…」
 「ここにくるずっと前にね。昔は声のいい歌い手だったそうなんだけどね。お前、どうしてシェバのことを聞くの」
それは、自分でも分からなかった。何となくとしか言いようがない。ただ、あの眼差しは――物言わぬ老人の、庭を手入れするときの真剣そのものの眼差しは、何かただならぬものを感じさせた。
 「奥様、花、好きなんですよね」
 「え? ええ」
 「あの人、きっと、奥様が見るために毎日頑張ってるんだろうな、って思って」
意表をつかれたのか、イシスネフェルトの表情がわずかに崩れた。これには、シセネのほうがうろたえた。相手の表情が何なのかが分からない。驚き、あるいは呆れ。
 「…あの、すいません。なんか、おれ、余計なこと」
 「いいえ。面白いことを言う子だと思っただけよ」
厚く塗り込められた化粧の下の表情が見えたのは一瞬のこと。頬杖をつきながら、女主人はすぐにいつもの、物憂げな表情に戻っていた。座椅子の背もたれにゆったりと体をもたせ掛けた。腕に嵌めた重たそうな金の腕輪が揺れる。
 「あの庭は、わたくしに唯一許された自由だった。…望まない暮らしを変えられない無力さに、うんざりするような毎日からの唯一の逃げ場だった」
 「……。」
一体、何を言おうとしているのだろう。そう思いながら、シセネは、寝台から少し離れた場所に立って、目の前の女のひどくたるんだ不健康そうな体を眺めていた。
 「お前には、わたくしがどう見えて?」
そのせいだろうか。ふいの問いかけに、少年は咄嗟に、考えていた言葉を口にしてしまった。
 「少しは運動したほうが…あっ」
慌てて口元に手をやったが、後の祭りだ。だが、女は声を上げて愉快そうに笑った。
 「正直者だこと。でもね、これでも昔は美しかったのよ?」
 「…すいません」
謝りながら、シセネはちらりと女の横顔を光に照らされた白い顔は、今は見る影も無くたるんでいるが、目元のあたりには確かに、かつての面影らしきものが残されているようにも思える。もしかしたら本当に、昔は美しかったのかもしれない――多分、十年くらい前には。
 イシスネフェルトは、そんなぶしつけな視線を気にした様子もなく、手元の紙をくるくると巻いて紐で縛り付けている。それが終わると、つい、と巻物を少年のほうに差し出した。
 「お前には用事を言いつけたいの。この手紙を持って、ネシコンスの館へ行きなさい。」
 「ネシコンス?」
 「わたくしの親族です。場所はサプタハかキヤに聞けば判るわ」
それだけ言うと、イシスネフェルトはシセネのほうも見ずに鷹揚に手を振った。出て行け、というのだ。戸口まで来て振り返ってみると、女は、空になった杯を手に、物憂げに窓の外を眺めていた。その後姿が妙に寂しげに見えて、思わず何か声をかけようかと思ったが、結局言葉が思いつかず、シセネは、黙って部屋を後にした。扉を閉めるとき、追いかけてきた風と香りとが、絡みつくように彼の肩先を微かに漂っていた。
 巻物を潰してしまわないよう大事に両手で捧げ持ったまま、シセネはゆっくりとした足取りで台所までやって来た。少年が入って来たのに気づいて、パンを切り分けていたキヤが顔を上げ、シセネの手元に視線をやる。
 「何を持ってるんだい、それ」
 「手紙。奥様に、ネシコンスって人の屋敷へ届けて欲しいって頼まれたんだけど、場所知ってる?」
 「ああ、それは奥様の兄上だね。町の反対側に住んでいるよ。」
 「お兄さん…家族、いるんだ」
意外な気がした。シセネがここに来てからというもの、訪ねて来る人もなく、イシスネフェルトはずっと家に篭って、人付き合いなどないように見えたからだ。
 「そりゃあいるさ、奥様はこの町の出身だしね。ただ、あの方は血の繋がったご兄弟じゃなく、亡くなったお姉さんの旦那さんらしいんだよ。だからなのか、あんまり行き来はないみたいだね。」
キヤは、ちょっと肩をすくめて視線を足の先に落とした。「ま、奥様は、あまり人との付き合いをされないお方だから。」
 「…そうなんだ」
 「それじゃ道を教えるよ。」
慌てて、シセネは真剣な顔でうなづいた。キヤはいつも、教えることは一度しか言わない。ぼんやりしていたら聞き逃してしまう。



 それから少し後、シセネは、聞いた道を頭の中で反芻しながら町の大通りを歩いていた。
 キヤに教わった目的地は、船着場を越えて、町の反対側にある。普段お使いに行かされるのは近くの商店街くらいで、そんなに遠出をするのは初めてだ。新しく買ってもらった、小さめのぴったりしたサンダルを履いた足を忙しなく動かしながら、シセネは、それとなく周囲に視線をやった。一人で出歩いているときは微かな不安を覚える。墓荒らしの夜からはもう何日も経ってはいたが、今も誰かが自分を犯罪者として探し回っているような気がするのだ。何より、この町の人ごみにまだ慣れていない。ひっきりなしに通りを行き交う人の波も、入り組んだ小道も、小さな村しかない川向こうとは大違いだ。
 行く手には、イシスネフェルトの屋敷と同じように白い壁に囲まれた大きな屋敷が幾つも立ち並んでいる。身分の高い人々か、裕福な人々ばかりが住んでいる区画らしい。壁の向こうからは緑の木々が垣間見え、大勢の使用人たちがめいめいの用事を抱えて賑やかに通りを行き交っている。
 (確か、入り口に青い模様のある館って…。あ、あれかな?)
目的の屋敷は、それほど苦労せずに見つかった。ほっとして歩み寄ったとき、シセネは、中から勢いよく出てきた男に跳ね飛ばされた。
 「あっ」
体格の差で、小柄な少年はもんどりうって段差の下に転がり落ちた。出てきた男は小さく舌打ちして彼を見下ろす。
 「気をつけろ、使用人が」
吐き捨てるようにそれだけ言うと、謝りもせず肩をいからせて大股に通りの向こうへ去ってゆく。シセネはぽかんとしているばかりだ。
 「あなた、大丈夫?」
玄関の中からその家の使用人らしい女が駆け出してきて、シセネに手を差し出す。
 「大丈夫です。」
 「ったく、あのお役人ったら、こんな子供にまで当たるなんて。」
女は、さっき男が去って行ったほうを睨みつける。シセネも、去ってゆく男の後姿を眺めた。身なりのいい男だった。それに、"奥様"と同じような金の腕輪をしていた。この家の住人だろうか。
 「あの…ここ、ネシコンスさんの屋敷、ですよね」
 「そうだけど?」
 「あの人は、ここに住んでる人じゃないんですか?」
女は、当たり前だというように大きく頷いた。
 「あれは、うちのお嬢様に求婚してるお役人ですよ。」
では、あれは目的のネシコンスという人ではないのだ。ほっとして、シセネは手紙を差し出した。
 「おれ、奥様――イシスネフェルト奥様のお使いで、この手紙を届けに。」
 「まあそう。それはご苦労様。でも旦那様は今、お嬢様とお話中のはずよ。中で待つ?」
 「いえ。それじゃこれ、渡しておいてもらえますか」
手紙を女の手に押し付けて、引き返そうとする。
 「あら、待って。そんなに急がなくても」
すぐに立ち去りかけるシセネの腕を、女が掴んだ。笑っている。「ちょっと待っておいでなさいな」
 ややあって、女は手に摘みたて大きなイチジクの実を三つほど抱えて戻ってきた。
 「庭の果樹園で取れたものよ。帰り道にでもお食べなさい。」
 「あ、…ありがとう、ございます」
ぺこりと小さくお辞儀をすると、彼は今度こそ元来た道を辿りはじめた。手の中で瑞々しいイチジクの皮が弾んでいる。歩きながら彼は、ただ手紙を届けに来ただけなのに、それもあの召使いに届けに来たわけではないのに、どうしてこんなものをくれるのだろうと考えていた。谷の集落では、誰も見知らぬ人に笑いかけたりしない。働いたぶんの対価は払われても、それ以上のものが分け与えられることはない。誰かに与えられる余分など、誰も持っていなかったからだ。貧しくて、生きていくのがやっとで、全てが欠乏した世界。常に砂交じりの風が吹き抜ける乾いた場所が、シセネがかつて知っていた世界の全てだった。

 ここは、――何もかもが違う。



 港まで戻ってきたところで、彼は足を留めた。白い帆に風を孕んだ船が何隻か、港に停泊している。数日前には港にはいなかった船ばかりだ。
 桟橋には積荷を下ろそうと待ち構える荷運び人たちや、積荷の税金を計算しようと帳簿を手にしている役人たちが並んで忙しく働いている。その中に、さっき見かけた大柄な身なりのいい男がいた。港に停泊する船の前で、部下らしき男たちを怒鳴りつけている。その一画からは誰もが眼を逸らし、遠巻きにして近づこうとしない。嫌な感じだ。一体何をしているのだろう、と目を細めて眺めていたとき、ふいに、肩に誰かの手が置かれた。
 「シセネ」
 「うわぁあっ」
思わず声を上げて飛び退ってから、彼は、驚いたような顔で立っているのが見知った顔であることに気が付いた。
 「おい、おい。どうした」
 「なんだ…サプタハかぁ…」
ほっとして、シセネは胸を撫で下ろした。指に、首から提げている袋が触れる。サプタハは、いつもの穏やかな笑みを浮かべて少年を見下ろしている。
 「なんて反応だ全く。こっちが驚いた。何をしてる? こんなとこで」
 「奥様の手紙届けに行った帰りだよ。船が一杯いるなって思って…。サプタハは? 仕事じゃなかったの」
 「仕事さ。その船が、奥様の船でな」
男は、あごをしゃくって一番近くにある大きな船を示した。「今、荷物を運び下ろして仕分けしてる」
 「この船?」
シセネは、甲板の真ん中にすっくと聳え立つ一本柱を、のけぞるようにして見上げた。大きな一枚布の帆は、今はすべて巻き上げられて帆ゲタに縛り付けられ、高いマストの先には旗印がつけられている。奥様の船というのが、こんな大きな船だとは思ってもいなかった。
 「はは、びっくりしたか。口が開いてるぞ。どうだ、中を見ていくか?」
サプタハに連れられて、シセネは船の甲板に立った。港の桟橋から差し伸べられた何本もの甲板は、荷物を運び下ろす船乗りたちでごった返している。桟橋の上には、詰み下ろされた荷物が所狭しと積み上げられ、書記たちがそれらの品目と量を記録し、次々とより分けていく。
 「この船が運ぶのは、大きな町でしか使わないような高価なものばかりだ。香木や乳香、香辛料、上等の布。いくらかは税金で取られるが、大半は神殿や、お偉方のところで使われる。町を廻っては、一月か二月に一度は、こうして商品を積んでここへ戻ってくるのさ」
 「へえ…」
日差しを浴びて白く輝く建物、きらめく水面。
 「それから、あれは州知事さんの船だな。公務で都まで行ってたんだ。今お戻りらしいぞ」
サプタハが隣の、一際大きな船を指す。そちらも立派な船で、甲板の上では船員たちが忙しなく走り回って、麻布の帆を巻き上げている。つい今しがた着いたばかりのよで、船の上から投げられた縄を港で水夫たちが引っ張り、桟橋の端へと誘導していくところだ。やがて船が岸にしっかりと固定されると、船の中から粗末な腰布だけを付けた男たちが重たい足取りでぞろぞろと降りてきた。シセネはぎょっとして、思わず隣にいるサプタハの腕を引っ張った。
 「あれは何…?」
振り返ったサプタハが、ちょっと眉を寄せる。
 「ほう、ありゃあ債務奴隷だな。」
 「奴隷? 罪人でなくて?」
そう思ったのは、男たちの首に枷のようなものが嵌められていたからだった。おまけに鞭でどやしつけられて、まとめて家畜のように何処かへ連れて行かれようとしている。
 「罪人か…。まあ、似たようなものかもしれんな。税が支払えなかったり、誤魔化しをしたりして、罰として労役を課された連中だ。債務が返し終われば自由になれる。」
 「…返し終わらなかったら?」
 「十年でも二十年でも、働き続けるまでさ。」
言ってから、サプタハは、ちょっと肩をすくめた。
 「わしも昔はああだった」
 「えっ?」
驚いて、シセネは思わず男の顔を見上げた。
 「お前くらいの年に、親兄弟の債務を背負ってな。一生かけても返せんくらいの額だったが、奥様が肩代わりしてくださったのだ。だから、わしは奥様にお仕えしている。」
かすかに細めたサプタハの目尻には、細かな皺が浮かんでいる。
 「それって…いつのこと?」
 「十年と少し前か。奥様が嫁がれてすぐの頃だろう。だが、お前には関係のないことだ。いらんことを話したな。忘れろ」
大きな手でシセネの頭をわしわしと撫で、サプタハは、船尾のほうへ離れていった。かき回された髪の毛をなでつけながら、シセネは、去って行く広い背中を眺めていた。
 「ほれ! きりきり歩け!」
ぼんやりしていた彼の注意を引き戻したのは、桟橋のほうから聞こえてきた怒鳴り声だった。見ると、さっきの身なりの言い男が鞭を振り上げ、船から降ろされた奴隷たちをどやしつけている。枷をはめられているせいもあって、奴隷たちは巧く歩けない。だのに、男はひっきりなしに怒鳴り、急かしつづけていた。
 シセネは、一列に繋がれている最後尾に、自分と同じくらいの年頃に見える少年が一人、混じっていることに気が付いた。
 「あ、…」
 痩せて、足がふらついている。縄で一列に繋がれているせいで、前を行く大人たちの歩幅に合わせようとして懸命に足を動かしているが、追いつけずに、半ば引きずられるように連れて行かれる。シセネは思わず船べりから身を乗り出していた。
 「何をぼやぼやしている。歩け!」
鞭が振り下ろされ、ぴしりと肌を打つ音がシセネのところまで聞こえてきて、彼は思わず肩をすくめた。まるで自分が打たれているような気がしたのだ。
 (そんなに打たなくたって…)
喉元まで出掛かった声はしかし、声にはならなかった。
 言ったところで、たとえあの男の耳に届いたところで、意にも介されないに違いない。
 それに彼らは、税を払えなかった人々なのだ。罪人だ。――罪人にかけられる温情など、無に等しい。
 やがて奴隷たちの列が消えてゆくと、港にわだかまっていたどこか気まずい雰囲気はあっという間に融解し、元通りの賑わいが戻ってくる。知事の乗る大きな船の後ろから、別の積荷を積んだ船がやってきている。新たに訪れる者、去ってゆく者。港にはひっきりなしに人が出入りし、威勢の良い掛け声とともに品々が行き交い、活気が渦巻く。
 (あんなふうに、なりたくない…)
彼は、胸元に提げたままの袋に手をやる。
 誰も咎め立てすることはなくても、自分自身は知っている。自分のやってきたことは、無かったことには出来ない。だが、くびきを嵌められて、鞭で追い立てられるなど、絶対に嫌だった。うなだれ、足を引きずりながら人々の去っていった方向を眺めながら、シセネは、何度も念じた。
 自分は、あの人たちとは違うのだ、と。


前へTOP次へ