第一章/3


 洗い場に座らされ、桶一杯の頭から水をかぶせられてようやく、シセネは我に返った。
 「冷たッ!」
 「目が覚めたか? 小僧」
水滴をふるい落としながら顔を上げると、色黒な、いかつい男が桶を手にこちらを見下ろしている。
 「泥まみれだったのだ。ほれ、これで顔を拭え」
差し出された布を受け取りながら、シセネは尚も視線を周囲に彷徨わせ続けた。一体、ここは何処なのだろう。刑務所ではないようだ。大きな屋敷の中――そういえば、確か、船は川べりの港に止まって――。
 「お前、名は」
 「…シセネ。」
 「喋れるのだな。怪我は無いようだが、その手はどうした?」
言われて初めて、少年は、自分が右手を固く握り締めたままなのに気が付いた。あまりに長い時間そうしていたせいで、指が強張っている。一体どうして、と思いながら苦労して開いた手の平の中から金色の輝きが漏れ、彼は、思わず小さく悲鳴を漏らしそうになった。
 そうだった。暗い墓所の中で、無我夢中で最後に掴んだままだったのだ。そして、自分が掴んだまま持ってきたものの正体も、今ようやく判った。
 ――それは、金色に輝く聖甲虫のお守りだった。
 慌てて隠したつもりだったのに、男は、しっかりそれを目にしていたらしい。
 「なんだ、お守りじゃないか」
シセネは焦った。どうしてそんな高価なものを持っているのかと言われると思ったのだ。だが、男は何も問わず、小さく笑っただけだった。
 「そう大事に抱え込まんでもいい、取り上げたりはせんよ。何か、それを入れる袋でも持ってこよう。ほれ、身体を拭いたら、そこの布に着替えなさい」
側の籠の中に、洗ったばかりの清潔な腰布とサンダルが入っている。気がつけば、さっきまで着ていた汚れた服は、どこかへ持ち去られてしまっていた。着替えるしかなさそうだ。少し長すぎる布を苦労して巻きつけ、大きすぎるサンダルを引きずるようにして履き終わった時、あのいかつい男が戻ってきた。首に提げられるようにした小さな袋を手にしている。
 「ちょうどいいのが見つかった。お守りは、これに入れておけばいい。」
 「……。」
シセネは、黙って金の甲虫を袋に滑り込ませると、袋を首にかけた。
 「ついて来なさい」
筋肉の盛り上がる大きな背中に先導されて、恐る恐る足を踏み出す。これから一体、何が待っているのだろう。
 長い廊下にサンダルを引きずるぺたぺたという音が響く。幾つもの部屋、白く塗りつけられた漆喰。こんな大きな家を見るのは初めてだ。一体、ここには何人くらい住んでいるのだろう。谷の集落の全員が楽に住めるくらいの広さはありそうなのに、それにしては誰ともすれ違わず、声も聞こえてこない。
 二階に上がり、大きな出窓の前を通り過ぎようとしたとき、シセネは思わず足を止めてぽかんとした顔になった。窓の外に広がっているのは、真っ白な街並みだった。
 「うわあ…」
 賑やかな大通り。その向こうには積荷を下ろす船が停泊する川べりの港がある。ロバの引く荷車、壷を頭に載せた人々が行き交い、家々の窓辺に鮮やかに染め付けられた布が揺れている。
 ずっと昔から川の対岸に眺め続けていた、一度も足を踏み入れたことのない、川向こうの別世界がすぐ目の前にある。
 「町は初めてか?」
はっとして、シセネは慌てて表情を元に戻して窓に背を向けた。そうだった。ここは、本来、自分が居てはいけない"まっとうな"世界なのだ。
 口を閉ざしてしまった少年を面白そうに眺めながら、男は、後ろの部屋を指した。
 「そこだ。奥様がお待ちだ、入るがいい」
 「オクサマ?」
 「お前を拾ったお方だ。船で会っただろう」
シセネは思い出した。夜明けに川べりで蹲っていたとき、船の上から声をかけてきた誰かがいた。確かに、女性の声だった。――では、あれは夢ではなかったのだ。
 審判を受けるような面持ちで部屋に踏み込むと、途端に、いい匂いが漂ってきた。そこは、ゆったりと広い食堂だった。十人はかけられそうな広い卓が一つ。料理が並べられているのが分かる。卓向こうには、椅子にどっしりと座った肉付きのよい女性が一人。腕や首の周りに豪奢な金と宝石の飾りをつけ、長い髪は細かく編みこまれて腰まで垂れている。シセネは思わず、まじまじと女を見つめた。そんなに飾り立てた人間を見るは初めてだった。宝石を身につけるのは、死んだ人間だけだと思っていたのだ。
 「どうしたの、お座りなさい」
 「……。」
椅子を指し示されて、シセネは女の向かいにおずおずと腰を下ろした。女が肉付きのよい腕を振るって合図すると、何処からともなく厳(いかめ)しい顔つきの女がやって来て、冷たい水を器に満たし、湯気の立つスープの器を運ぶ。シセネには目もくれようとしない。
 「お食べなさい」
 「…え?」
 「そういう顔をしているからよ。空腹なのでしょう?」
言われてはじめて、シセネは昨日の晩から何も食べていなかったことを思い出した。器から漂う香りと湯気が空腹を蘇らせる。ちらりと女のほうを見たが、女はそしらぬ顔でビールの杯だけを傾けている。ここまで案内してくれた男の姿も消えている。しばし迷った挙句、彼は意を決して器を取り上げた。どういうわけかは判らないが、この人は今は自分を生かしてくれるつもりらしい。食べ終わったあと役人に突き出されるにしても、何も食べずに縛り首にされるよりは、最後にたらふく食ったほうがいいに決まっている。そう思った途端、胃袋は猛烈な勢いで食べ物を要求し始め、彼は必死で目の前の食べ物をかきこんだ。生まれてこの方、こんなに腹いっぱい食ったことはない、というほどに。女は黙って、妙に満足げにそれを眺めていた。
 胃袋が要求することをやめるまで、どのくらいかき込んだだろう。最後に掴んだパンを飲み込んだあと、シセネは、もう何も受け付けなくなった大きく張った腹を撫でて、一つげっぷをした。
 「まァ食べたこと。ずいぶんな食欲ね」
シセネは、上目遣いに女を見た。――さて、これから何が始まるのだろう。
 さっきの男は、「奥様」と呼んでいた。態度からしても、この女がこの家の主なのだろう。きつい色で引かれたアイライン――白い肌。ふくよかな、というより少し肥満気味の体格。
 「お前の名はシセネというそうね。それが本当の名前なの?」
 「…そうだよ」
 「何故、あんなところに一人でいたの? 家族はどうしたの」
 「……。」
一瞬インニのことが浮かんだが、答えることは躊躇われた。
 「いないの?」
 「一応いるけど…、本当の親じゃない。どこに行ったか判らない…。」
 「おやまあ。帰るところは?」
 「……。」
シセネは俯いて、膝の上で握り締めた自分の手に視線を落とした。
 あの後、インニや男たちはどうなっただろう。うまく逃げ切れただろうか。たとえインニが掴まっていなかったとしても、あそこへ戻れば、また、盗品を売りさばくような不法な仕事を手伝わされる日々だ。もしかしたら、シセネのことなどとっくに忘れて、掴まったものと考えて忘れてしまっているかもしれない。それが、あの谷の集落だ。
 シセネが口を閉ざしていると、女は一つ溜息をついて、自ら沈黙を打ち切った。
 「そういうこと。結構。それならそれで、使いようもあるというものだわ」
女は、召使たちの助けを借りて肉付きのよい身体を椅子から持ち上げる。
 「あの」
慌てて、シセネも腰を浮かす。
 「何で、おれを助けたりしたんですか」
 「さぁ。たまたま、船から見えたから。それだけよ」
濃い縁取りに彩られた黒い瞳をちらりと向け、女は、慇懃な口調で言った。
 「わたくしの名はイシスネフェルトよ。立ちなさい、シセネ。今日からお前は、ここに住むのよ。後のことは、サプタハが教えてくれるでしょう」
それだけ言い残して、さっさと奥に去ってゆく。取り残されたシセネの傍らには、いつの間にか、あのいかつい男が戻ってきていた。
 「やれやれ、奥様のいつもの気まぐれにも困ったものだな」
 「どういうこと?」
 「行くところがないのなら、ここで働け、ということだ。その気が無くとも、せめて今食ったぶんくらいは働くだろうな?」
大きく膨らんだ腹を見下ろされて、シセネは思わず赤くなった。
 「も、もち…ろんだよ。稼ぎのない奴に食わす飯はない、…だろ」
 「はっ、それを知ってりゃ十分だ。付いて来い。まずは、お前に出来そうな仕事を探してみることにしよう」
サプタハと呼ばれていた男に連れられて歩きながら、シセネは、それとなく周囲を見回していた。
 裕福な家だということは、一目でわかる。だが、ここは奇妙な館だった。やけに静かで、人が少ないのだ。サプタハに連れられて歩いていた渡り廊下から見える広い庭は手入れが行き届いて、見たことも無い花が美しく咲き誇っている。庭の真ん中にある池には、透き通るような青い色をした睡蓮が、静かに揺れているのが印象的だった。
 廊下を過ぎた時、彼は、思い切って口を開いた。
 「…あのさ、ここに住んでるのって」
 「住んでいるのは、奥様と我々使用人が四人だけだ。奥様は人嫌いなお方でな」
サプタハはてきぱきと答えていく。
 「わしはサプタハ、使用人の取りまとめと出納係ということになっとる。さっき食事の世話をしていたのが料理番のキヤだ。他に、庭番と小間使いの夫婦、どちらも年寄りだが…シェバとアハト。」
獅子でも絞め殺しそうな強面とは裏腹に、サプタハは、気さくな男のようだった。内心恐ろしく思っていたシセネは、少しだけ緊張を解いた。
 「ところで、お前に出来そうな仕事だが…何が出来る? 今までは何をしていた」
 「え…」
ふいの質問に、シセネは思わず口ごもる。「…仕事…特に…、何も…」
 「何も?」
サプタハは、背中越しにちらりと少年に視線を遣る。「家の手伝いでもしなかったのか」
 「それは、…あったけど。でも…そんな大したことじゃ…」
 「ふむ。では、手始めに――そうだな。」
顎に手を当てながら、男は廊下を曲がって足を止めた。そこは、台所だった。さっき配膳をしていた厳しい顔つきの女が、食器を片付けている。
 「キヤ。こいつに、屋敷の中のことを教えてやってくれんか」
 「はあ? あたしは忙しいんだよ。これから町にパンを受けとりに行かなきゃならないってのに」
 「なら、それはわしが代わりに行こう。代わりに、何でもいい、こいつに仕事を手伝わせてやってくれんか。」
 「ったく、仕方ないねぇ。」
ぶつぶつ言いながら、女は手にしていた皿拭き布を窓にかけ、じろりとシセネを一瞥した。「で? あんた結局、ここで働くことになったのかい」
 「はぁ…」
 「こんな痩せっぽち拾っちまって、どうするんだかね。あんた年は? いくつだい」
 「十二か…三…くらいだと思う。」
 「ふぅん。なら、一通りのことは出来そうだね。ついてきな」
骨ばった肩をいからせて、女は廊下へ出て行く。「庭のこっち側があたしら使用人の棟、そっちが客間と居間だ。奥が奥様のお部屋と食堂、表玄関もあっちにある。けど、あたしら使用人の出入り口はこっち、台所の奥にある勝手口だ。表から出入りしようなんて思うんじゃないよ、いいね」
 「…うん」
 「うん、じゃない。はい、だ! 分かったら返事」
 「は、はい」
 「結構。あんたの部屋は、ここの上の階のどこでも空いてるところを好きに使いな。それから――」
早口でまくしたてる女の口調に気圧されながらも、シセネは思った。とにかく、ここにいれば寝るところはあるし、たぶん、食べ物も貰えるのだろう。それに、仕事も貰える。どんな仕事であれは、"まっとうな"仕事なら、以前よりはマシに決まっているのだ。



 それからというもの、シセネは、屋敷の中で様々な仕事をして過ごした。仕事を言いつけるのはほとんどはキヤだった。掃除やかまどの焚きつけ、皿洗いや洗濯。楽な仕事ばかりではなかったが、墓荒らしよりはずっとましだ。時々は、サプタハに連れられて町にも出た。けれど、町に出るのは気が進まなかった。インニの仲間か誰か、彼を知っている者とすれ違わないとも限らない――それに、あの夜、もしかしたら谷の見回りに顔を見られているかもしれないのだ。
 過去は消せない。
 首に提げた袋の中には、墓泥棒の証である金の聖甲虫のお守りが入ったままになっている。何度か捨ててしまおうかとも思った。だが、シセネが護符を持っていることを、サプタハは知っている。無くしたと言ったら、きっと怪しむだろう。いつしか、首から提げた小さな袋は彼にとって、とても重たいものになりつつあった。
 そんなある日のことだ。
 「シセネ」
 「あ、はい」
台所の床を掃除していたシセネは、キヤに呼ばれて顔を上げた。「今週の分のパンを取りに行っておくれ」
 「え、…おれ一人で、ですか」
 「そうだよ。他に誰がいるってんだい」
さも当たり前のように言いながら、キヤは、籠を差し出した。「それから港へ行って、新鮮な魚を仕入れてくるんだ。道はサプタハが教えたから知ってるはずだね?」
 「……。」
シセネが籠を受け取ると、キヤは、さっさと竈のところへいって、桶の前に腰を下ろす。夕餉の支度を始めるのだ。少年は手元に視線を落とし、それから、勝手口のほうを見た。ここへ来てから、まだ一度も、ひとりで町に出たことは無かった。
 だが、行かねばならない。
 意を決して、彼は恐る恐る、勝手口から裏通りへと足を踏み入れた。大通りの雑踏が響いて来る。毎週パンを受け取りに行っているパン屋は、通りのすぐそこだ。
 パンを受け取る、ということは、この町に来てから教えられたことだった。この屋敷には、パン焼きの竈はない。代わりにパン屋に予め一月ぶんの小麦粉を渡して、毎週一度か二度、一定個数の焼きたてのパンを受け取りに行くのだ。
 パン屋の前に立つと、焼きたての小麦の良い香りがぷんと漂ってくる。店の裏手の窯からはひっきりなしに煙が立ち上り、工房の職人たちが流れるような動きで次々とパンを焼き上げて並べている。
 「あの、すいません」
籠を両手で抱えながら、シセネは、おずおずと番台の向こうに声をかけた。
 「イシスネフェルト奥様のお屋敷から来ました。今週のぶんのパンを下さい」
奥で粉をこねていた恰幅のよいおかみが、白い粉まみれの手で汗をぬぐいながら出てくる。
 「おや。あんた最近入った召使いかね」
 「はい…」
 「今週のパンね。ちょっとお待ちよ。…ほら、一人で持てるかね」
硬く焼きしめたパンの大きな塊が、どっさりと籠に積み上げられる。シセネは、よろめきながらも頷いた。
 「大丈夫、です」
 「そうかい。じゃあ、気をつけてね」
重たくなった籠を両手で抱えながら、シセネは、次に港へ向かった。屋敷は川の直ぐ近くにあり、川べりの港前は、近くの村落から集まってきた人々の即席市のようになっている。地元の猟師たちがその日にとった魚をそこで売りさばいていることは、以前サプタハに教わって知っていた。パン籠を抱えたまま、シセネは、魚売りを探した。しばらくうろついていると、やがて、目当ての売り手が見つかった。きらきらウロコの光る魚を船べりのござの上に広げている。
 「すいません。その魚をパンと交換してもらえますか」
 「ん… 何匹だ。」
 「二匹でいいです」
魚は、奥様の食卓にのぼるのだ。使用人たちのぶんまでは必要ない。
 「これでどうだ?」
 「そっちの、大きいののほうがいいです。」
交渉は見よう見まねだった。サプタハからは、値切ることよりも質を見極めろと言われていた。奥様はお金持ちなのだ。無駄遣いすることはないが、不必要にケチることは、町の評判が悪くなるからと許してもらえない。
 言いつけられたお使いを終え、両手にパン籠を抱え、ヤシの葉の筋を口に通した魚をぶら下げて屋敷に戻ってくると、キヤは、ちょうど竈に火を起こしているところだった。
 「ただいま、これ」
 「おや。ちゃんと行ってこられたようだね」
魚を受け取った時、キヤは一瞬だけ、珍しく目元をほころばせた。「町はどうだったかね」
 「どうって…。」
 「感想はないのかない、何か」
 「……。」
何か答えようと思ったが、何も浮かんでこなかった。周囲に気を配る余裕など、殆ど無かった。シセネが黙っていると、キヤは、困ったような顔になって竈のほうに視線を戻した。
 「ご苦労だったね。今日はもういいよ、あとは夕飯まで好きにしてるといい」
 「はい」
いつもなら夕餉の支度を手伝えといわれるはずだったが、今日は珍しく何もないようだった。
 用事がなくなると、とたんに暇になる。
 シセネは、台所を出て中庭のほうに歩いていった。屋敷は広かったが、どこもかしこも高級そうな家具や敷物があるせいで、落ち着ける場所はほとんどなかった。館の女主人は二階の自室から滅多に降りてこないし、来客もほとんどない。館の中は、奇妙に閉ざされた世界だった。町の雑踏とは裏腹に、一日はただ淡々と、静かに過ぎていく。これがこの町での普通のことなのかどうか、シセネには良く分からなかった。
 見るともなしに視線をやっていた庭の茂みがふいに動いて、少年はふと、足を止めた。
 のそりと細い体を起こしたのは、庭師の老人だった。確か、名前はシェバといったはずだ。日焼けして真っ黒な顔には深い皺が刻まれ、口元は白い髭に覆われている。シェバは、見つめている視線に気が着いて、シセネのほうに顔を向けた。
 「あの、…こんにちは」
皺と髭に埋没した老人の表情は、よく分からない。ただ、多分微笑んだのだろうとシセネは思った。何も言わずに手元に視線を戻した老人は、指で土をほじり、丹念に草をむしり続ける。じっと眺めていても、気にした様子もない。落ち窪んだ目は、珍しい色をしていた。
 この老人が声を発するところは、一度も見たことが無かった。むしろ、庭で仕事をしているところ以外を見たことが無い、といったほうが正しいだろうか。庭の草木に愛情を注ぎ、熱心に世話していることだけは確かだった。そのお陰か、庭の草木はどれも生き生きとして、まるで楽園のようだ。川べりに咲いている野の花もあれば、見たことも無いような花もある。それに、池の中の青い睡蓮。だが、数日前には確かに咲いていたはずの青い花は、今はもう咲いていない。シセネは、池に近づいて水の中を覗き込んだ。
 「その花は、午後になると閉じてしまうの」
振り返ると、庭師と夫婦だと聞いた老婆が、穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。「明日の朝になればまた開きますよ。お花が気になるの?」
 確か、アハトという名前だったはずだ。庭番の老人と夫婦。普段は、館の女主人の身の回りの世話をしている。――サプタハに聞いたことを思い出しながら、シセネは小さく頷いた。
 「見たこと無い花ばっかりだから。」
 「奥様は、花がお好きなの。あの青い睡蓮も嫁がれた時にお持ちになったものでね。ここのお花のほとんどは奥様が集められたもので、よその国から持ち込まれた珍しいものもあるんですよ。」
微笑んで、老婆は少し悲しそうな顔をした。「根付いたものもあれば、…根付かなかったものもあるけれど。」
 「……?」
 「ああ、そうだ。お布団は薄すぎない。夜は寒くないかしら? 私のところに掛け布が一枚余っているから…」
ふいに話題を変えられたので、シセネは、疑問を口にする機会を失ってしまった。
 アハトについていきながら、ふと視線を感じて振り返る。
 二階の窓に、ちらりと白い衣の裾が見えた。館の女主人が庭を見下ろしていたのだ。何故かシセネには、イシスネフェルトが、見ていたことを気づかれたくないとでもいうように素早く窓枠の陰に隠れたように思えた。でも、どうしてそんなことをする必要があるのだろう。ここは彼女の館であり、女主人の望むことは、何であれ、すべて実行されるべき場所のはずなのに。



 アハトに渡された掛け布を寝台に広げ終わると、シセネは、自分に与えられた部屋を見回した。
 使用人用の部屋は広くは無く、低い寝台に硬いまくらと籠の物入れひとつがあるきりだったが、今までの暮らしからすれば十分すぎた。自分専用の部屋など持ったのは初めてだった。おまけに、ここは屋根も壁もどこにも穴が空いていない。
 窓から日差しが斜めに差し込んでいる。
 薄暗がりの寝台の端に腰を下ろしながら、彼は、さっき一瞬だけ見えたイシスネフェルトの腕を思い出していた。
 初めて会ったときから今までに、話をしたことも殆ど無い。だが、彼女が拾ってくれなければ、彼は今、ここにはいないのだ。人嫌いだという"奥様"が、どうして、どこの誰とも知れない自分など拾い上げたのかは分からなかった。それに、もっと分からないのは、彼女がいつも憂鬱そうな顔をしていることだった。
 立派な家があり、綺麗な服を着て、重たい腕輪を幾つも嵌めて、働かずに暮らしていられる。――食べ物に困ることもなく、いつだって腹いっぱいに好きなものを食べることが出来る。シセネからすれば、"奥様"は、川向こうの谷の村の人々が望んでも得られないものを全て持っているように見えた。これ以上、何を望むというのだろう?


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