-終章


 それから一年と少し後――

 シセネは港に立って、水位の上がり始めた川面を眺めていた。ついこの間まで枯れかけていた葦の根元まで水が届いて、新たな芽吹きの気配がある。増水の季節が訪れたのだ。あと半月もすれば、土手際まで上がってきた黒い水が畑に流れ込んで畑は一面の浅瀬になる。そして農民たちは、しばし畑仕事を忘れるのだ。増水を待つ今は、一年で最も熱い季節の入り口に差し掛かっている。
 「旦那ぁ」
顔を上げると、港の入り口に建てられた見張り台の上からラキが手を振っている。
 「どうした?」
 「上流からの船がそろそろ着きますよ。」
猿のような身軽さで飛び降りてきたラキが走っていくのと同時に、ケレブが苦笑しながら近づいてくる。
 「相変わらず走り回ってますね。彼は」
 「そうだね。ところで、その手に持ってるのは?」
 「つい先ほど石切り場から届いた書類です。ハルセケル様から、シセネさんに確認してもらうように言われました」
差し出されたのは、センネジェムの書いた、既に切り出しの終わった石材の個数の報告書だ。今年の増水期に送り出す予定の石材の必要量と照らし合わせる。ざっと目を通したシセネは、懸念されていた盗賊の妨害もなく、今年も石材が順調に準備されているらしいことを知った。今頃は、切り出された石材が水路のそばに並べられ、増水で水路に水が入って送り出されるのを待つばかりとなっているはずだ。
 「石材船が動き出したら、センネジェム親方も戻ってくるんですよね」
 「うん。楽しみだな」
 「あ、ほら。船が入ってきますよ」
振り返ると、ちょうど港の入り口に、大きく帆を張った貨物船が、ゆっくりと入ってくるところだった。港に向かって荒縄を投げ、それを水際にいる荷運びたちが腰まで水に浸かりながら岸辺のほうに引っ張っている。
 イシスネフェルトの船だ。
 桟橋に横付けされた船から、船長が汗を拭いながら飛び降りてくる。以前と同じ、下腹の少し突き出た剥げた男だ。
 「こんにちは」
 「ああ、あんたか。丁度よかった、上の町から手紙を預かってきてるよ」
そう言って、男は納品目録と一緒に幾つかの巻物を取り出した。シセネの顔が自然とほころぶ。
 「ありがとう。…ケレブ、ハルセケルさんを呼んで来てくれないか。おれは証文を準備するから」
 「わかりました。」
ケレブが走り出す向こうで、ラキが声を張り上げて荷運び人たちを呼び集めている。船から下ろされてくる神殿向けの荷物を、それ以外の荷物とより分けるためだ。書き物机のほうに立ち去りながら、シセネは、そっと手紙の最初の部分を見た。差出人はイシスネフェルトと、サプタハと、メヌウ。そして、ジェフティメスだった。皆、元気で暮らしているようだ。



 センネジェムは、それから何日かして石材船とともに町に戻って来た。日は高く登り、日中は暑い。センネジェムは、中庭に向けて置かれた長椅子に腰を下ろして、しきりと汗を拭っていた。長椅子のもう一方の端には、シセネが腰を下ろしていた。
 「ああ、やっぱり我が家が一番だ。ここは落ち着く」
 「採石場のほうは、どうなんですか? 一人で大変じゃないですか」
 「なぁに、お前が来るまでは一人でやっとったんだ。それに今は、盗賊を警戒して護衛までついとるしな。手が足りんようになったら、誰か雇うさ。」
陽気に笑いながら、妻の置いていった杯を取り上げる。
 「そういうお前のほうも、仕事に狎れたようだな。センネジェムは、もうほとんど任せておいても大丈夫だと喜んでおったぞ」
 「まだまだですよ。」
小さく首を振って、シセネは、庭に向けて開いた窓の奥に見える台所の様子にちらりと視線をやった。センネジェムも、妻とムトノジュメトが親しげに言葉を交わしながら夕食の準備をしている光景を満足げに眺めた。
 「あの子はいい子だな。」
 「ええ」
 「お前が突然、嫁を娶りたいと言い出したときは何事かと思ったが。ま、わしが選ぶよりずっと良い縁談だったから」
ぐいと杯を飲み干したとき、家の中から、少女が手に布で作った髪飾りを持って駆け出してくる。
 「おとうさん! おとうさん! おかえりなさい」
 「おお、ネチェリト。また大きくなったなぁ、はっはっ」
立ち上がって、センネジェムは少女を抱き上げる。
 「お姉さんがこれ、作ってくれたの。どう? 似合う?」
 「どれどれ見せてごらん。ほう、よく似合ってるなあ」
幼い娘を抱き上げて笑っているセンネジェムから視線を離して、シセネは、川の流れのほうに目を向けた。彼の意識は、上流からの船で届いた手紙の中身に飛んでいた。
 ――ジェフティメスからの手紙の中には、シセネが町を去ってからのことが書かれていた。
 あの後、ウガエフの館の中が探られ、シセネが殴られた日に奪われた積荷の納品控え書が見つかったこと。パラメスゥとのやりとりの手紙も見つかり、行方の知れなかったパラメスゥがウガエフに金を貰って国境近くの町まで逃げていたと分かったこと。任を解かれたウガエフは、州知事の姪に離婚を申し立てられ、どこか別の町へと去って行ったこと。ウガエフの時代に債務奴隷になった人々の債務の見直しが行われ、ほとんどの債務者たちは解放されたこと。それから最後に慎ましやかに、今の自分の仕事は大変だとも書かれていた。
 屋敷の面々からの手紙は近況で、お屋敷に新しく入った使用人のことや、ありふれた日常のこと。
 イシスネフェルトからは、そっけなく、たまには屋敷に遊びに来るようにとも。
 西の岸辺に目を向けたとき、シセネは、見慣れた姿を見つけて少し微笑んだ。口を開きかけたとき、台所のほうからムトノジュメトの声が呼ぶ。
 「シセネ! 食事の準備が出来たわよ」
 「ああ、今いくよ」
振り返って片手を挙げて応えてから、彼はもう一度、川のほうに視線を投げかけた。視線が合う。
 川べりの草の中にはいつものように、舌を垂らした黒い犬の瞳が、こちらをじっと見つめていた。


-死者の心臓 了


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