第二章/12


 手紙の返事は、すぐに届けられた。といっても、それはシセネが期待したものでもあったが。
 「これ、旦那にだそうですよ。」
二階で書き物をしていたシセネの手元に巻物を置くと、ラキは、特に興味もなさそうにそのまま部屋を出て行く。シセネは手を止めて、置かれた巻物を見やった。それほど質は良くないとはいえ、高価な紙をわざわざ使って、しかも丁寧に蜜蝋で封までしてある。中身を見られたくないということだ。ラキは差出人を特に言わなかったが、こんな送り方をする相手は一人しかいない。封を解いて一瞥した後、シセネは、静かに腰を上げた。
 階下に降りると、ラキが、のんびりと椅子の上でくつろいでいるところだった。こんな豪邸暮らしは滅多にないとばかりに、家から出られないなりに満喫しているらしい。
 「ちょっと出てくる」
 「お出かけですかい。」
 「ああ。すぐそこまで迎えに来てるらしい。」
表玄関から出て、通りを少し歩いたところで、シセネは数人の男たちに呼び止められる。
 「こちらへ。場所を用意してありますから」
 「場所?」
 「人目につかない場所です」
なるほど、自宅にご招待とはいかないわけだな、とシセネは思った。前後を挟まれるようにして向かったのは、狭い路地を幾つも渡った町外れの酒場だった。店の外には二階に通じる階段がついていて、店の中を通らなくても部屋に入れるようになっている。いかにも密会用といった感じだ。
 部屋に通されると、中には、あの男が待っていた。
 ――ウガエフ。
 「よう、また会えたな」
薄っぺらな笑みを貼りつけたまま、男は、シセネに席を勧める。机の上には高価そうな酒と、器に盛り付けられた果物とが置かれている。
 「驚いたものだ。まさか、あんたのほうから会いたいといってくるとはね」
 「あなたとは一度、直接話をしてみたかったんです。おれにはまだ、確証がありません。あなたが何処まで関わっていたのか」
 「ふん、あんただけは、少しはまともな頭の持ち主のようだ」
杯に酒を注ぐと、男はぐいと一息に飲み干した。昔見た時よりも随分と下腹が突き出している。だが、不遜な雰囲気も、よそよそしい厳しさも昔のままだ、とシセネは思った。それにしても、指にも首の周りにも、多すぎるほどの飾りを身につけている。イシスネフェルトも沢山の装身具を身につけてはいたが、それにも勝る量だ。重すぎて動けなくならないのだろうか。
 「あんた、採石場の監督官の息子だそうだな」
 「…調べたんですか?」
 「噂というものはな、すぐに広がる」
にやりと笑って、男は果物をひとつつまみ上げた。「どうして、こんな他所の町の揉め事に手を貸す。あんたに何の得があるのかね? あの女か、小生意気な書記か、どちらかに頼まれたのか」
 「いえ、どちらにも頼まれませんでした。――偶々です。あの船の元の所有者とは少しやり取りをしたことがあるんですよ。それで船の所有者が変わったことを知って、何かあったのかと確かめてみたのですが」
 「そんなことでか? 見返りもないのに、手間隙かけて余計なことをしてくれたものだ」
 「うちの町の神殿の取引も絡んでいることですからね」
湧き上がる嫌悪感を押さえつけながら、シセネは何食わぬ顔で話続ける。この男はやはり、抜け目のない男なのだ。きっと、裁判の前からシセネの身元を調べていたのだろう。名乗った身分が嘘ならば、公判の中でそれを追求されていたかもしれない。シセネは、自分の後見人になってくれたセンネジェムに、心の底から感謝した。
 「この町の神殿とのやり取りが不正なものでなければ、物資監督官としての仕事上は何も問題はありません」
 「そうだろうよ。そして今回のことは、不実な書記が一人でやらかしたことなのだ」
 「さあ。そこが分からない。そのパラメスゥという人は、どうしてそんなことをしたのでしょう。受け取りの控えだけ数字を増やすことに、何の意味があるのかと」
 「知るものか。大方いたずらのつもりだったのではないか? 誰も気づかないので調子に乗りすぎたのだ」
 「そして、まんまと引っかかったのがあなたというわけですか」
ウガエフの黒い眉が一瞬、ぴくりと跳ね上がり、じっとシセネの顔を見つめる。
 「何が言いたい」
 「分からないんですよ。パラメスゥのしていたことが只の数字のいたずらなら、どうして一度だけ本当に積荷が増えていたのだろうと――」
 「何を…」
 「あなたはどうして、その日、検分に行こうと思ったんですか。パラメスゥが何か告げ口したんじゃないんですか?」
はっとして、ウガエフは勢いよく頷いた。
 「そうだ。奴が私に、あの船は怪しいと囁いたのだ。そうか、担がれていたということなのだな? 奴のいたずらに、まんまと一杯食わされたというわけか。」
 「なるほど。そのパラメスゥという男は、そんな男なんですか? あなたのところで働いていたこともあるという話でしたが」
 「ああ。あいつは昔からたちの悪いいたずら者で、不真面目だった。クビにしたのも、あまりにも働きが悪いからだ。最低限の読み書きだけは出来るが、頭の回りは鈍い奴だった」
 「そうでしょうね、いたずらの代償に失業することを知らなかったのなら。彼は、仕事をやめて有罪にされたあと、何処へ行ったんでしょうね」
 「さあな。もうこの町にはおらんようだな。あの後、町を出て行った」
 「そうですか。もしかしたら、あなただけは知ってるのではないかと思ったんですが。」
 「……。」
酒を注ぎかけていたウガエフの手が止まる。
 「前から思っていたのだが、あんたとは、前にどこかで会ったことがあるのではないか」
 「さあ、どうでしょう。」
 「いや。確かに見たような覚えがある。そう昔の話じゃない。そうだ、確かあれは…」
 「そろそろ戻らなければ。これで失礼させてもらいます。」
立ち上がりかけるシセネを見て、ウガエフは慌てた。
 「待て。まだ話は済んでいない」
 「いえ、おれの聞きたかったことはこれだけです。帰らせてもらいます」
 「そうはいかんぞ。お前には、この訴えを降りてもらわなければならん」
ウガエフの声を合図に、奥の部屋から屈強そうな男がのそりと姿を現した。階段のほうには、シセネをここまで案内してきた二人組が目を光らせている。
 「…脅すつもりですか」
 「何とでも取るがいい。そこに座れ。あの女と書記が、他に何を握っているのか教えてもらおう」
左右から肩を掴まれ、無理やり席に押し付けられながら、シセネはウガエフのほうを睨んだ。 
 「あの二人は何も知らないさ。証拠を集めて渡したのは、おれだ」
 「なんだと」
 「あんたは今もまだ、ムトノジュメトを手に入れられなかったことを恨んでいるんだ。だからこんな手の込んだ嫌がらせをして、あの人たちを苦しめようとしたんだろう」
挑発するつもりなど無かった。適当に話を合わせて、うまく切り抜けて帰るつもりだったのだ。だが、いったん口にしてしまった言葉は、堰を切ったように溢れ出してくる。
 「おれは知ってる。神殿に手下を送り込んで、香油を盗ませたことも、その罪を着せて香油屋の一家を追い出したことも知ってる。丘の上の借家に嫌がらせをしたり、住人を追い出して火をつけたりしたのも、みんなあんたのしたことだ」
 「――どうやら、随分と余計なことまでかぎ回ってくれたようだな」
シセネの顔をじろりと見下ろした後、ウガエフは、吐き捨てるように言った。
 「恨みだと? 昔の話だ。あいつも馬鹿な女だ、大人しく私のものになっていればこんな苦労はせずに済んだものを。愛人にしてやるという申し出も蹴りおって、今に見ていろ。この町にはいられなくしてやるのだ。文無しになれば、泣きながら許しを請うだろうよ。それとも借金でも背負わせて奴隷にしてやろうか。ふっ、ははは」
 「――っ」
込み上げてきた怒りは、すぐに別の感情へと変化していく。シセネは、哀れみをもってウガエフを見上げた。
 「誰もが自分にかしづき、言うなりになると思っているなら、それは間違いだ。人の心は、そう簡単には手に入らない」
 「何だと?」
 「恐怖で縛っても、どんなに殴りつけても、おれも、あの人も、決してお前の言うなりにはならない。」
 「ほざけ!」
胸を蹴り付けられ、一瞬、息がつまる。だが、シセネはウガエフを睨むことをやめなかった。
 「なんだその生意気な目は。目障りだ。おい!」
あごをしゃくると、シセネを押さえつけていた男が彼の腕を思い切りひねり上げた。痛みで思わず声を上げるシセネを見て、ウガエフは愉快そうに笑う。
 「ふん、どうだ? 這いつくばって謝れば許してやらんこともないぞ。余所者のお前なぞ、行方をくらましたところで誰も心配はしないだろうからな。なぁに、お前の従者のあの男も、ちゃあんと後から送ってやるさ。」
 「…おれを殺すつもりか」
 「さあなぁ。どうして欲しいかね?」
 「ふふ」
シセネの漏らした笑い声に気づいて、ウガエフの眉がぴくりと跳ね上がる。
 「何がおかしい」
 「――今更、何も恐れるものか。一度死んだ身だ。この心臓は、とっくの昔に神々の抵当に入れられている。お前ごときに奪えると思うな!」
血相を変えたウガエフが立ち上がり、壁に立てかけられていた棍棒に手を伸ばそうとした、まさにその時だ。
 「旦那! どこですか! シセネの旦那!」
ぎょっとして、ウガエフは窓の外に目をやった。と同時に、階段側の扉が荒々しく蹴破られ、ラキを先頭に警備兵が乗り込んでくる。
 「旦那!」
部屋の中に押さえつけられているシセネを見つけるや否や、ラキはまるで猛犬のように男たちに飛び掛っていった。側にあった椅子を掴むや、棍棒のように振り回しながら、自分より何倍も体格のいい相手に向かっていく。巻き込まれまいと、シセネは慌てて頭を低くして入り口のほうに這っていった。後ろでは、ラキを含む数人が乱闘の最中だった。高価な酒の入った壷が割れ、辺りに漏れ出した酒のかぐわしい匂いがあたりに立ちこめている。
 なんとか酒場を這い出して、外で一息ついていると、手に椅子の残骸らしきものをぶら下げたラキが飄々とした様子でやって来た。
 「旦那ぁ、どうですかい。間に合いましたか?」
 「なんとかね。流石だよ、よくここが分かったね」
 「なーに。尾行くらいお手の物でさ。しかし旦那も無茶しますよねぇ」
笑いながら、ラキは手にした残骸を無造作に道端に放り投げた。
 そう、これからしようとしていることは全て、ラキとジェフティメスには既に告げてあった。――最初から、話し合いは暴力沙汰になるだろうと思っていた。そうなれば逆にしめたもので、現場を押さえられれば、ことが有利に運ぶと思ったのだ。
 「貴様、よくもこの私を嵌めてくれたな!」
手下ともども兵士たちに縄をかけられた格好で、ウガエフは身をよじりながら階段の上から怒鳴っている。
 「嵌めた? そっちが勝手に思い込んでただけだろ。おれが誰にも言わずにあんたに会いに来るとでも思った?」
 「小ざかしいガキめ。最初からそのつもりで――ええい離せ、私を誰だと思っている!」
 「おーやおや。騒がしいと思って様子を見にきてみれば、これまた面白いものが見えるじゃないか」
振り返ると、今やってところ来たらしい飄々とした書記の男が、目を細くして階段の上の捕り物を眺めているところだ。
 「ジェフティメス、そっちはどうだった」
 「うん? 巧くいったよ、もちろん。神殿に勤める連中に、お前らの大将が裁判にかけられて有罪になりそうだぞーって囁いてやったら、皆あっさり旗色を変えたねぇ。香油の運び出しだけじゃなく、他の神殿の在庫も横流ししてましたって認めてくれたよー」
 「な、…」
ウガエフの顔色が変わった。
 「いやあ、皆ほんと現金だよね。それともあんたに人望が無いだけかな、ウガエフ」
 「でたらめだ。貴様らこそ、金を渡して買収して、嘘をつかせて…そんなもの、何の根拠にも…!」
 「言い訳は、次の法廷で聞くよ。とりあえず、シセネに乱暴を働いたことは現行犯で認めて貰うよ。あとは裁判長次第だね」
兵士たちに引きたてられていくウガエフの後姿を見送りながら、ふとシセネは、ラキの視線に気が付いた。
 「旦那、痣だらけじゃないですかい。ずいぶんやられてやしませんか」
 「なんともないよ。このくらい慣れてるし」
 「慣れてる、って…。」
 「昔ちょっとね。昔の話だ。さあ、もう戻ろうよ」
近所の人々や通行人が、何が起きたのかと酒場の回りに集まって来ていた。興味津々な視線から逃げるなら、早いほうがいい。



 「――以上だ。それでは判決を言い渡す」
数日後、シセネたちは再び法廷へと出向いていた。向かいの席には、むっつりとした顔のウガエフが席についているが、前回よりはずいぶんと大人しい。
 「以前の判決は不適切として、船は元の持ち主である未亡人イシスネフェルトのもとへ返却する。税収監視人ウガエフは本日付けで解任し、追って別任を与える。以上だ」
 「待ってください」
ムトノジュメトが立ち上がった。
 「もう一つお願いがあります。この件で不当に罪に問われた者たち…、神殿に勤めていた者たちを職に戻してください。」
 「それは、勿論だ」
裁判官の席にいた神官長が、渋い顔で言う。「結果的に、神殿内の者がよからぬことに手を貸していたのは事実のようだからな。去らせた者たちのほうが、職務に誠実であったのだ。」
 「ありがとうございます」
席につきながら、彼女はちらりとシセネのほうを見て、にこりと微笑んだ。シセネが何のためにこの訴訟を起こそうとしたのか、あの時言ったことを覚えていてくれたのだ。
 「それでは、これにて閉廷とする。」
ざわめきとともに、人々が席を立つ。シセネは、州知事に促されて席を立つウガエフの、憮然とした横顔を見ていた。まだ納得がいっていないという様子だった。 
 「ああいう男はね。絶対に自分の罪を認めないものなのさ。」
ジェフティメスが、横からそっと囁いた。
 「また同じことを繰り返すんじゃないかって心配してるんだ」
 「さあ、それはどうなんだろうな。後ろ盾がなけりゃ、今回ほどの企みは出来ないんじゃない? 州知事さんももう懲りただろう。可愛い姪の婿だからって好き勝手にさせておくとどうなるか分かっただろうし、さすがに、どうにかするんじゃないかな」
離しながら法廷を出た途端、わっという歓声がシセネたちを迎えた。人の群れが、法廷の入り口を取り囲んでいる。
 「出てきた、シセネ!」
人ごみの中から手を振りながら、メヌウが飛び出してくる。
 「どうしたんだ、これは一体」 
 「クビになって神殿を追い出された人たちだよ! 皆を呼び集めたんだ。もし不利な判決が下ったら、せめて抵抗してやろうって。――でも、その様子だと、必要はなかったみたいだね」
 「ああ。皆、神殿の仕事に戻れるぞ」
わっと歓声が上がり、続いて、激しい野次へと変わる。後ろからウガエフが姿を現したからだ。
 「お前なんかもう、怖くないぞ!」
 「よくもわしらを嵌めて追い出してくれたな」
 「出て行け、この町から。出て行け!」
拳を振り上げて叫ぶ人々の間を搔き分けて、数人の供だけを連れ、男は逃げるようにして去っていく。初老の州知事は、苦々しい顔で首を振り、溜息をついてシセネたちのほうを見た。
 「君たちは、…とんでもないことをしてくれたな。」
 「お褒めに預かり光栄です、州知事殿。」
ジェフティメスは、ここぞとばかりの澄まし顔でのたまった。「知恵の神はこう仰った、"不実を記す者は我が名において呪われよ"と。黒トキの嘴にかけて、いかなる相手であろうとも真実を貫くのが我が定めでございます。」
 「ふむ、ならばその大口に免じて今回だけは許してやろう。その代わり、君はあの男の去った穴を埋めねばならん」
 「…はい?」
 「税収官吏の司を勤めてもらうのだ。後で役所に出頭したまえ。宜しいな」
唖然としているジェフティメスを置いて、州知事は、くるりと背を向けて通りの向こうにある役所の建物のほうへと消えていた。
 「良かったな、次の就職先が決まったぞ」
シセネは、ぽんとジェフティメスの肩に手を置いた。
 「おめでとう。すごいじゃない、大出世ね」
 「いやあ…。何ていったらいいのか…」
若い書記は、すっかりいつものだらしない顔に戻って、頭を掻いている。
 「そうだ、メヌウ。君はまた学校に戻るのか?」
 「ん? いや…」
 「だったら、ムトノジュメトのところに雇ってもらえばいい。ジェフティメスがいなくなったら、書記が足りなくなっちゃうだろ。読み書きなんて、仕事しながらだって覚えられるさ。どう?」
 「それはいい考えだわ。シセネの友達ですもの、信頼できるでしょう。」
メヌウは何とも言えなくなって、ただ、顔を真っ赤にしている。
 「さあ、そうと決まったら早速、お祝いをしないとですね! 二人の就職祝いだ。ジェフティメスの旦那、どこでやりますか? いい店を知ってたら教えてくださいよ」
 「え? えーと、そうだなあ…」
ふと、シセネは視線を感じて隣を見た。盛り上がっているラキたちをよそに、ムトノジュメトは、何か言いたげな視線をこちらに投げかけている。彼女は知っているのだ。この件が終わったら、シセネは"蝮とアカシア樹の町"に戻らなければならない。
 「ねえラキ、それは明日にしないか。ムトノジュメトは裁判の結果を早く屋敷に伝えたいだろうし、メヌウも家族に相談するのが先だよ。」
 「ああ、そうだな。俺もまず、姉貴と妹に言わないとなぁ」
と、ジェフティメス。
 「それじゃ、明日にしますか。そのぶん盛大にやりましょうね、旦那」
 「ああ」
分かれて去ってゆくムトノジュメトの気配を背後に感じながら、シセネは、自分が成すべきことを考えていた。
 胸に手を当てる。
 鼓動する心臓。川に流され、死ぬはずだった自分に与えられた命の意味。手助けしてくれた黒い犬。
 ――それは、裁判などよりもっと大変な、他の誰の手も借りられない、自分にしかできない役目だ。



 二階の窓辺から日が暮れていくのを眺めていた。
 階下では、さっきまでジェフティメスの家族たちが集まって大騒ぎしていたのだが、さすがに引き上げてしまったらしい。静けさが辺りに満ちて、物音ひとつ聞こえない。
 腰を上げて覗きに行ってみると、家主は食堂の隅の寝椅子に酔いつぶれていた。散々飲まされていたから無理も無い。机の上には、置き去りにされた酒壷と器が雑多に積み上げられている。その脇には、何故か壷の一つを抱えたままのラキが、ぐったりしている。シセネは苦笑した。
 「ほどほどにしとけって言ったのに」
 「いやあ、そうなんですがねえ…つい…。」
胡乱な目つきのままラキは、シセネが玄関の扉に手をかけるのを見ていた。
 「お出かけですかい」
 「うん、ちょっと、やり残したことがあるから。一人で大丈夫だ」
通りに出ると、頭上には既に星空が広がっていた。月がついてくる。少しだけ残る酔いも、夜風に吹かれながら歩いているうちに消えてゆく。イシスネフェルトの屋敷の前まで来たところで彼は足を止め、その門を見上げた。彼が立っているのは、一度もそこからは入ったことのない、正面玄関だった。
 「こんばんは」
声をかけると、門番をしていた男たちが顔を上げる。
 「イシスネフェルト奥様に会いに来たんです。通ってもいいですか?」
扉が開かれ、中へと招き入れられる。あらかじめシセネが来るかもしれないことは伝えられていたようだった。中には誰もいなかったが、案内などなくても、どこへ向かえばいいのか彼には分かっていた。
 渡り廊下から見える中庭、二階への階段。
 人の気配のほとんどない静かな屋敷の中を、シセネは、ゆっくりと記憶をなぞるように歩いていった。ここを去ったのは何年も前のはずなのに、何一つ変わってはいない。全てが記憶のまま、灰色の思い出の中から色鮮やかに蘇ってくる。そして彼は、二階の廊下の奥、数えるほどしか入ったことのない部屋の前に辿り着いた。
 扉を軽く叩くと、中から返事があった。
 「お入りなさい」
記憶にある、不思議な香りが空気とともに流れ出してくる。窓辺に置かれた香炉から漂ってくる香りだ。
 イシスネフェルトは寝椅子の上に腰を下ろし、入ってくるシセネをじっと見つめていた。
 「そう。戻って来たのね」
 「はい。戻ってきました」
 「お前は、――本当に、あの人にそっくりになった」
 「……。」
シセネは、部屋の中ほどで足を止め、館の女主人を見つめ返す。腕につけた重たそうな飾りも、幾重にも重ねられた薄い布も、きつく縁取られた瞳も、昔のまま。ただほんの少しだけ、彼が成長したのと同じだけ、目の前にいる女性は、年老いて小さく見えた。
 ひとつ溜息をついて、イシスネフェルトは、手にしていた杯を傍らの小卓の上に置いた。
 「覚悟は出来ていますよ。お前が出て行った、あの日から…。好きなだけ罵倒なさい。お前にはその権利があるのですから」
 「はい」
彼が近づいて両手を挙げると、イシスネフェルトは両目を閉じ、歯を食いばった。灯に照らされて揺れた影が、もう一方の影に覆いかぶさっていく。
 「…え」
ややあって、イシスネフェルトは目を開き、自分を抱いている腕を見下ろした。シセネは、両手でイシスネフェルトの肩を抱きしめていた。
 「何をしているの、お前は」
 「ずっとお礼を言いたかったんです。あの日、おれを河辺から拾い上げてくれたこと、ここに置いてくれたこと。…ありがとうございました。」
腕の中で、イシスネフェルトが狼狽した声とともに身じろぎする。
 「何を言っているの? わたくしはお前を捨てたのよ。恨んでいるはずでしょう。」
 「恨んでなんかいませんよ。」
シセネは大きく首を振り、腕を離して、イシスネフェルトが顔を上げるまで待った。
 「――おれは、あなたのしたことを許します。だからもう、自分を責めないで」
そう、それが、シセネの出した答えだった。
 この屋敷を飛び出したあの日にはまだ出来なかったこと。赤ん坊を川に流したその日からずっと、長い長い夜に生きてきた魂を、罪の呪縛から解き放つということ。
 「あなたにも、幸せになってもらいたくて」
 (これが、おれの成すべきこと。生かされたことの意味だ)
あの黒い犬が、満足げに舌を垂らしているのが見えたような気がした。
 イシスネフェルトは悲痛な声を上げてシセネを押しやると、両手で顔を覆った。
 「どうして、どうして、お前は、あの人と同じ顔でそんなことを言うの! こんな…」
崩れかけた目尻の化粧の下で、イシスネフェルトが泣いているのが分かった。シセネは、声を押し殺して嗚咽するイシスネフェルトの震える肩に手を置いて、隣に腰を下ろした。
 苦しみも、哀しみも、全ては過去のものになる。
 自分の罪が許されるというのなら、自分もまた、他の全てを許そうとシセネは思った。生きている間に罪を犯さずにいられる者はいない。過去を消すことは出来なくても、罪を許しあい、供に生きていくことは出来る。



 「…シセネ」
部屋を出ると、廊下には、二人の話を待っていたらしいムトノジュメトとキヤが立っていた。シセネが無言に頷くと、入れ違いにキヤが部屋の中へ入っていく。
 「ありがとう、来てくれて。」
 「いや。こちらこそ、ありがとう。お陰で、おれは借りたものを一つ返せたよ」
 「そう」
微笑んで、少女は両手に持っていた小さな箱を差し出す。
 「これ、いつか取りに来てくれたら返そうと思ってた」
箱を開けると、懐かしい、金色に輝く聖甲虫のお守りが中に収められていた。不思議な気持ちでそれをしばらく眺めた後、シセネは、箱を元通り閉ざした。
 「――そうだったな。これも元の持ち主に返なきゃ。ありがとう、預かっていてくれて。」
 「返す?」
 「うん。きっともう、すぐそこまで来てるはずだ」
立ち去りかけて、シセネは足を止めた。
 「…ムトノジュメト」
 「なあに?」
 「これの代わりにおれの心臓、君に預けておいても構わないかな」
振り返って、彼は少女の瞳をじっと見つめた。「もし、奥様が許してくれるなら…、君に求婚したい」
 驚いたような顔になったのは一瞬のこと、ムトノジュメトの顔には、すぐに喜びが広がっていく。
 「ええ、勿論、勿論よ! わたしの心臓はあなたのものよ。待ってるわ!」
胸の奥で、心臓がかすかに動く。すぐ側で鼓動する二つの心臓の音が合わさり、そしてまた離れてゆく。
 階段を下りたところに、サプタハが待っていた。
 「奥様は?」
 「キヤとムトノジュメトに任せて来た」
 「…そうか」
男は、言いづらそうにもぞもぞと口元を動かしていたが、やがて、意を決したようにこう言った。
 「なあシセネ。お前は、お前が出て行くあの夜まで、奥様は知らなかったと言っただろう? だが、わしは思うんだ。奥様はもしかしたら最初から、薄々気がついてたんじゃないかと。お前を拾ったあの日、奥様は船の上から見下ろしてこう仰ったんだ。"あの子がいる"と。確かにそう仰った。――一体、誰のことを言っているのか、あの時は分からなかったんだが…」
 「……。」
シセネが小さく微笑んでいるのを見て、サプタハは不思議そうな顔になった。
 「…どうした?」
 「いや。何でもないよ」
ずっと記憶の泥の中で眠っていた思いが、胸の奥から込み上げてくる。玄関の両脇に立っていたアハトとシェバが、シセネを見て何も言わず無言に頭を下げる。
 いつしか月は天頂に達し、白い輝きは川べりの葦の茂みを照らして暗い水面を浮き立たせていた。市をたてていた人々が皆帰ってしまった静かな水際間でやって来たシセネは、木箱の中から聖甲虫を取り出して手の平に置いた。
 「いるんだろ?」
水面に点々と、水紋が広がる。
 「やあ、クロ助」
シセネは膝を折ると、舌をだらりと垂らし、尾を振りながらこちらを見上げている黒い犬に手を伸ばす。ふさふさとした毛皮を撫でてやってから、彼は手の中に置いたものを差し出した。
 「これを、持ち主に返して欲しいんだ」
犬はシセネの手の中を覗きこむと、ひょいと無造作にそれを咥え、尾を振りながら満足げにシセネを見上げた。それから、くるりと身を翻し、暗い水面の上を地面と同じように軽い足取りで西のほうへと去ってゆく。立ち上がって西の彼方を眺めると、"死者の谷"が、遠く、白い月明かりの中に浮かび上がって見えた。

 死より出でて生へと還る。そしてまた、人は皆、いつか西の彼方へ去ってゆく。

 空になった箱を閉ざして、シセネもまた、生者の町を歩き出す。月の照らす夜道を、自らの成すべきことの先へと、やがて訪れる夜明けの方角に向かって。

-第二章 了


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