第二章/10


 ラキは、予定よりずっと早く戻ってきた。
 「待たせてすいませんね旦那。頼まれてたものは手に入れてきましたよ。」
言いながら、荷解きをする間も惜しんで荷物の中から丁寧に布にくるまれた書類の巻物を取り出す。シセネは驚いて目を丸くした。
 「これ…、写しじゃなくて原本じゃないか。こんなの持ち出して…」
 「なぁに、ハルセケルの旦那の許可は得てますよ。それに、ケレブがずいぶん探し回ってくれたんです。お陰で早く済みました」
 「ケレブが?」 
 「旦那は命の恩人だからってんでね。」
シセネは、そばかす顔の、ひょろりとした青年のはにかむような笑顔を思い出していた。まだほとんど話をしたことがないが、帰ったら必ずお礼を言おう。
 「で、旦那。どうなんですかい」
ラキにせかされて、シセネは慎重に書類を開いた。日付も、送り主の名前も一致している。それは確かに"蝮とアカシア樹"の町からこの町へと送られた積荷の発送書だった。
 「あったぞ、ここだ。積荷が送り出されたときのパピルス巻の量は四本。この町に着いた後に発送主に送り返された受け取り証文でも四本になってる。」
 「つまり…?」
 「実際に着いた積荷は四本で間違いない。なのに何故か、サプタハが持ってきたこの書類…船主の手元に残された納品控え書の上でだけは、六本が着いたことになっているんだ。」
ラキはひゅう、と小さく口笛を吹き鳴らした。
 「つまり書類が改ざんされてるってぇことですね! やったじゃないですか、旦那。」
 「うん。でも、これ一つだけじゃ不十分だ。それにこれだと書記たちが書き間違えたことになって、ジェフティメスの無実が証明出来ない」
 「ジェフティメス? 誰です、それ」
 「協力者さ。ちょうどいい、これから会いに行こうと思うんだ。――っと、でも、その前にムトノジュメトも呼ばないと」
 「あのお嬢さんがどうかしたんですか」
 「訴訟人になるんだ。何か話し合いをするときは必ず呼べって言われてる。」
訳がわからないという顔をしているラキをよそに、シセネは、身支度を整えた。「歩きながら話すよ。行こう」
 ムトノジュメトを呼び出してから、ジェフティメスの屋敷に三人で着いた時、彼は、また前のように庭に寝そべっていた。
 「こんにちは」
門ごしに声をかけると、ジェフティメスは、のそりと起き上がってひとつ欠伸をした。
 「ふぁー… なんだ、あんたか。いい夢見てたのに」
 「お邪魔でしたか?」
 「いいや。冗談だよ、入ってくれ」
頭をかきながら、男は、三人を裏口から家の中に案内した。足元には緒が外れたままのサンダルをひきずっている。ラキはなにやら胡散臭そうな顔をしている。
 「大丈夫なんですかい? この人」
 「勿論さ。人は見かけによらないんだよ」
裏庭は荒れ放題だというのに、家の中に入ってみると、部屋は意外にこざっぱりとして、最低限、生活できるようにしつらえられている。
 「一人暮らしかと思ってました」
 「まぁいつもは一人さ。兄貴の嫁さんと妹がたまーに戻ってきてあれこれやってくれるんでね。飲み物は水しかないが…文句ないな」
 「ええ、お構いなく」
 「あら。わたし、ちょうどつまめるものを持ってきたのよ」
言いながら、ムトノジュメトは抱えてきた籠を手近な小卓の上に手際よく広げた。中には焼きたての小麦粉菓子が入っている。
 「うひょう、うまそうだ! これ、お嬢さんが作ったの」
 「ええ。うちのお手伝いさんがひとり足を悪くしてしまって、代わりにわたしがあれこれやっているものだから。お料理も随分教わったのよ」
ムトノジュメトの視線が自分に注がれていることに気づいて、シセネは、慌てて口を開いた。
 「うん、いい匂いだ。ひとつ食べてみてもいいかな」
 「もちろん、どうぞ」
 「じゃあいただきます」
円形に固められた焼き菓子の表面はぱりぱりとして香ばしく、中には、大粒の木豆がひとつ入っている。そこへ、ジェフティメスが素焼きの瓶と器を持って戻ってきた。
 「おやおや、なんだい。よさそうなものがあるじゃないか」
 「あなたもお一つどうぞ。」
 「いやあ在り難いねえ。こういうものを食うのは何ヶ月ぶりだか」
ひとしきり和んだ後で、シセネは、あらためて連れの紹介をした。
 「こちらが訴訟人になってくれる、船の元持ち主の相続人のムトノジュメト。で、そっちが、おれの仕事仲間で、"蝮とアカシア樹"の町から一緒に来てくれたラキ。」
 「ふうん、よろしく。俺はジェフティメス、まぁ見てのとおり、今は無職のごくつぶしだよ」
 「前は叔母様に雇われてたって聞きました」
ムトノジュメトは礼儀正しくお辞儀をした。「ごめんなさい、あなたたちまで巻き込んでしまって」
 「いーえいえ。お嬢さんが悪いんじゃあありませんよ。自分らの無実を証明出来なかった俺らが無能なだけです。さてシセネの旦那、今日ここへ来られたってことは何か進展があったんですね?」
 「これを見せたくて。今朝方、ラキが届けてくれたんです」
かばんの中から取り出した書類を大きめの卓の上に広げて、シセネは、二枚の該当する箇所を指でなぞった。
 「"蝮とアカシア樹"の町から送り出された時の積み込みの書類だ。"裁断されていない上質なパピルス巻の原紙 四本"。でも、サプタハから預かってきた、この町での受け取りの記録だけは、なぜか六本になっている。その後、税申告書に記載された本数も、"蝮とアカシア樹"の町に送り返された着荷の証文でも四本だ」
 「ほほう?」
手元を覗きこんだジェフティメスは、面白そうな顔つきになっている。「つまり、この町に到着したのは本当に四本だけだった、ということか」
 「そう。書類の上でだけ数が増やされているんだ。おれもそういう仕事をしてるから分かる。通常は、荷物の目録を受け取ったら、控え用と送り主用の証文の二部に全く同じ内容を引き写すはずだ。なのに控えのほうだけに数が付け足されている。」
 「どういうことなの? 書記の人が書き間違えたってこと?」
と、ムトノジュメト。
 「いや。…こいつは、ふむ」
ジェフティメスは何かに気づいた様子で、サプタハから預かってきた控え書を眺め回している。
 「この字はパラメスウだなぁ。他に、怪しい控えは無いのかい?」
シセネがかばんから他の巻物を取り出すと、男は、同じようにそれらもじっくりと比べ見ている。
 「どうなんです?」
 「思ったとおり、筆跡が同じだな。この、数量が増やされている部分は、ぜんぶ一人の書記が書いたものだ。」
 「つまり、そいつが怪しいってことですね!」
ラキが威勢よく大声を出した。彼はいつの間にか勝手に水の器を手にして、そのへんにあった椅子に腰を下ろしてくつろぎかけている。文字が読めないので仲間に加われず、実際は半分ほど蚊帳の外なのだ。
 「でもそれなら、どうして今まで誰も気がつかなかったのかしら」
 「俺も、こいつの原本を見たのは今日が初めてなのさ。あの時は全員まんべんなく怪しまれていたし、同じ受取書でも前半と後半で書いてる奴が違ってたりする。が、数が増やされてる部分だけ見ていけば一目瞭然だ。」
 「その、パラメスウって人はどんな人だったんですか。今もう町にいませんよね」
 「ああ。一番の新株で、事件の後は親戚を頼ってどこかの町へ引っ越していったはずだ」ジェフティメスの眼が少し細くなる。「…そう、入ってきたのはちょうど、あの事件が起きる一年とちょっと前のことだった」
 「受取書の改ざんは、その頃から始まってたってことですね」
 「そういうことだな。」
頷いて、ジェフティメスは、顎に手をやった。
 「…そうか。奴が手引きしてたんなら、船にどうやって余計な香油が積み込まれたのか分かるぞ。一人で船の番をしてた時があったんだ。それに奴は…ふむ。」
 「思い当たるふしがあるんですね」
 「あぁ。こいつはもしかしたら、本当に証明できるかもしれん」
猛烈な勢いでぼさぼさの髪の毛をかき回し、男は目を輝かせ、――それから、はたと我に返った。
 「待てよ。もしそうだとすると、相手が相手だ。ちょいとまずいことになるかもしれんな。おい、あんたら、いま宿に泊まってるのか」
 「ええ」
 「なら今夜中にここに移ってこんか。なぁに部屋はホコリが積もるくらい余ってる。宿代も浮くしな、構わんだろう」
 「それは、在り難いのですが――」
シセネは、ちらとラキのほうを見た。すでにくつろぎに入っているラキは、ジェフティメスの意味ありげな視線には気づいていない様子だ。
 「――そうですね、では、お言葉に甘えます。ラキ、すまないが宿に置いてきた荷物をここへ運んでくれないかな。おれは、ムトノジュメトを屋敷まで送って行くから」
 「ええ、今からですかい?」
 「そうだ。急いでくれ」
既に陽は傾きつつある。シセネは、やや慌しくムトノジュメトを連れて裏門を出た。この季節は日が暮れるのが早く、人々は既に家路を急ぎ始めている。
 「どうしたの? シセネ。ずいぶん急いで」
 「日が暮れる前に君を送っていかないと、キヤに叱られるだろ」
 「叔母様のこと気にしてるの」
 「…そうじゃないよ」
それは本当だった。気にしていたのは、もっと別のことだ。
 だが、ムトノジュメトは食い下がった。
 「シセネ、わたしまだ、あなたの口からは何も教えて貰っていない。いなくなったあの晩、本当は、叔母様と何があったの。アハトの叫び声で部屋を出てみたら、もうあなたは居なくなった後だった。サプタハも、キヤも、理由は分からないって言うし――」
 「ムトノジュメト」
差し出しかけた手は、激しく振り払われる。
 「言ってくれるまで帰らないわ! 本当なの? 叔母様が産んだ子供は、本当は死産じゃなかったって。その子は…川に流されたんだって」
 「……。」
日が傾いてゆく。家々の間から斜めにさす光に照らされた少女の横顔は、ばら色に浮かび上がって、息を呑むほど美しかった。見とれている場合ではないのにと思いながら、シセネは、この瞬間が永遠に続けばいいと、ふと思った。
 「…本当だよ。おれは何も知らなかった、あの時まで」
重い口を動かして、彼はようやく言葉を継いだ。「奥様は気づかずにおれを拾ってくれたんだ。でも…気がついてしまったから」
 「そんな、どうして。叔母様はどうして、そんなこと」
 「怖かったんだよ。大きくなった子供が、父親と同じように自分をぶつようになるんじゃないかって。だから会えないんだ。サプタハにも言われたよ。おれ、父親そっくりになったって」
ムトノジュメトは、泣き出しそうな顔で俯いた。手に抱えた籠が震える。
 「…でも、シセネは誰もぶったりしない」
呟いて、彼女はきっとシセネをもう一度見上げた。
 「わたし叔母様に言うわ。シセネは、わたしたちのために戦ってくれてる。あなたは亡くなった叔父様とは違うって。だから叔母様を嫌いにならないで。この町から…逃げないで」
 「奥様のことは、嫌いじゃないよ。」
 「嘘」
 「本当さ。捨てられたことは悲しかったけど、理由は分かるから。それに、…あの人は、おれをもう一度川から救い上げてくれた人だ。」
それは、嘘偽りのない今の気持ちでもあった。川べりで泥まみれのまま、怯えながら長い夜を過ごしたあの日、葦の茂みから見つけ出して朝日の中に引き上げてくれた手があったからこそ、今、こうしてここに立っていられる。
 「シセネ、全部終わったら、叔母様に会って」
 「でも、あの人はきっと会いたく…」
 「いいえ、もしそうだとしても、このままじゃいけないわ。会って話をして欲しいの。わたしでは、叔母様の本当の子供にはなれなかった。笑顔にはしてあげられなかったの」
 「……。」
空の光が失われてゆく。昼が消え、夜の帳が下りてくる。人通りが途絶えたことに気がついて、シセネははっとしてムトノジュメトの手をとった。
 「いけない、急がないと。足元に気をつけてね」
 「ええ、――どうしたの急に」 
 「何でもないよ。港前の通りに出よう」
港のほうなら、少しは人通りがあるはずだ。
 さっきジェフティメスが意味ありげに言い濁した言葉の意味を、シセネは知っていた。メヌウが怯えていたもの、イシスネフェルトが屋敷の周りを警護させた理由。ジェフティメスは気づいたのだ。これから起こそうという訴訟で敵対することになる人物が、罪に問われることなく、必要があればどんな脅しでも使える相手だということに。
 路地を曲がろうとしたとき、シセネの目の前を黒い影が擦り抜けた。
 「うわ」
思わず小さく声をあげてあと、彼はそれが、飛び出して来た黒い犬だったことに気が付いた。
 「え? どうしたの、シセネ」
 「いや、…」
振り返ると、犬は細い路地裏を駆けて行く。中ほどまで行ったところで立ち止まり、一度こちらを振り返ってから、また走り出した。
 「こっちだ」
彼はムトノジュメトの手を握り締めたまま、何も考えずに路地に飛び込んだ。後ろで複数の足音が聞こえ、荒っぽい話し声がする。シセネは唇を嚙んだ。自分一人ならともかく、今はムトノジュメトが一緒だ。絶対に、何かさせるわけにはいかない。
 犬は路地をさらに曲がり、行こうとしていたのとは別の方角へと走っていく。
 「痛いわ。シセネどうしたの、少し待って。足が…」
ムトノジュメトは、サンダルを直そうとしている。だが、曲がり角のむこうからは、追ってくるような足音が反響している。
 「…そこの影に隠れて!」
 「え?」
 「いいから、早く」
壁の崩れた狭い穴と、壊れて打ち捨てられた荷車との隙間を見つけて、シセネはムトノジュメトを無理やり押し込んだ。その後から自分も隙間に入って、外の様子を伺う。ほどなくして、幾人もの足音がばたばたと近づいてきて、荒い息とともに二人の隠れている辺りで立ち止まった。
 「居ないぞ。どこへ行った」
 「逃げ足の速い…。おい、先回りした連中どうなった」
 「どうせこの辺りにいるはずだ。出口を塞げ」
男たちが駆け去っていく。隣で震えている少女の体を、シセネは、片腕で抱き寄せた。
 「大丈夫。君はおれが守るから」
 「……うん」
肩のあたりに長い髪が絡まって、ふわりと花のような香りがした。
 「心臓の音が聞こえる」
 「え」
シセネがうろたえたのを見て、ムトノジュメトは、小さく笑った。
 「あのお守り、いま、わたしが持ってるの。あなたの心臓…いつか返さなきゃね。」
 「……。」
ずっと忘れていた、聖甲虫のお守り。箱の中に入れたまま置き忘れてきた、あの日の罪の証し。
 (そう、返さなきゃならなかった)
崩れかけた壁に頭をもたせながら、シセネは、割れた荷車の板ごしに空を見上げた。
 (おれには、沢山、返したいものがあるんだった…)
 『だとすれば、貴方の魂は既に、その御方の担保に入っているのですよ。貴方自身の成すべきことのために』
"蝮とアカシア樹の町"で聞いた神官の言葉が、耳の奥に蘇ってくる。
 『貴方自身が成すべきことを探してください。それは、貴方にしか出来ないことのはずですから。』
この心臓をかけて成すべきこと、それが何なのか――、彼の頭の中でそれが、おぼろげに形を成しつつあった。


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