第二章/9


 ラキが"蝮とアカシア樹"の町へ向けて旅立って行った後、シセネは、今いる町の中で情報を集めて回った。だが、町の人々の口は重い。らちが空かないと思ったシセネは、無理を承知でメヌウにも協力を頼んだ。だが、メヌウもまた、ひどく人目を気にしていた。シセネと会うときは、わざわざ人目につかない場所を選んだ。 
 「言われたとおり聞いてきたよ。他の連中が神殿を辞めさせられた時期と理由」
朝早く、まだ人の気配もない港の端の薄暗がりで、早口に言いながらメヌウは籠の中からひび割れた古い書板を取り出してシセネに渡した。板の漆喰の塗られた面には、くせのある躍るような文字がびっしりと記されている。
 「なんだ。字、書けるんじゃないか」
 「少しはね。間違ってても知らないぜ。」
 「読めるさ。…ふうん、やっぱり、皆この一年か一年半のうちに辞めさせられているのか」
書版の上に視線を走らせているシセネをしばらく眺めていた後、メヌウは、ぽつりと言った。
 「なあ、シセネ。お前、本気なのか?」
 「ん、何が」
 「本気で、誰かが僕らの一家を嵌めたって思ってるのか」
 「だって、やってないんだろ? 横領なんて。お前のところだけじゃない。辞めさせられたほかの人たちも皆、文句言わなかったのか」
 「それは…。急に取り締まりが厳しくなったから。それまでは、毎日在庫を数えるなんてしてなかったんだ。神殿で在庫管理をしてた人たちのほとんどが、読み書きは出来なかったし…書類と違うって言われても、分からなくて」
メヌウの言葉は、確信が持てないというように微かに震えている。
 「物が消えるなんて在り得ない。誰かが盗んで、その罪をお前たちに押し付けたんだよ。」
 「でも、倉庫に出入りできる人なんて限られてる。置いてある場所を知ってる人だって」
 「今、神殿で働いてる新しい連中はいつから来たんだ。例えば、あの連中がなくなった物を持ち出してたら? あいつらはどうして、クビにならなかったんだ。」
 「あいつらがクビにならないのは、ウガエフの手下だからだよ。」
 「だったら、そのウガエフが怪しいんじゃないのか。」
沈黙。ややあって、意味を理解したメヌウの顔が青ざめていく。
 「お前、まさか…いや、でも…」
メヌウは小さく首を振る。
 「分からないよ。そんなことをして、お前に何の得がある?」
 「おれはただ、世話になった人たちに元通り笑ってもらいたいだけだ。」
書板をかばんに仕舞いこみながら、シセネは、メヌウを見た。「ありがとう。これ、大事に使うよ」
 港には、少しずつ人が増え始めている。そろそろ行く時間だ。
 かつてイシスネフェルトが船の積荷の管理のために雇っていた書記たちの名前は、既にサプタハから教えてもらっていた。だが四人いた雇われのうち、三人は既に新たな職を求めて町を出てしまい、残る一人だけが今も町に残っているという。その人物に話を聞くため、シセネは、港前の道を辿っていた。あまり行ったことのない方角だ。
 人に聞きながら辿り着いた屋敷は、思っていたよりずっと大きく、門も立派だ。港で荷物の積み下ろしを記録しているような下級書記の家とは思えない。
 本当にここでいいのだろうかと思いながらおそるおそる壁を回っていくと、裏門のあたりに小さな庭があった。壁越しに覗き込むと、花壇の間に寝そべっている男が見えた。
 「あのう、――」
声をかけると、男は薄っすらと目を開けてシセネを見、億劫そうな動作でのそりと起き上がった。くしゃくしゃになった髪に、草の葉が一枚、絡みついている。
 「何? あんた。客?」
 「ああ、えっと。おれ、シセネといいます。ジェフティメスさんに会いに来たんですが…」
 「俺に?」
その言葉で、シセネは、目の前のえらくだらしない格好をした若い男が、会いに来た書記なのだと知った。



 シセネは、庭の隅にある縁側のような場所に通された。頭上にはヤシの木が枝を広げ、涼しい木陰を作っている。
 家の中に引っ込んでいた男は、やがて、手に素焼きの水壷と器だけ持って戻ってきて、シセネとの間に無造作に置いた。
 「水だけしかないが、無いりマシだろ。――んで? 何の用」
 「あなたは、少し前まで港で雇われてましたよね? イシスネフェルト奥様の船の荷の管理のために」
 「あー、その件? 何。もう終わったと思ってたけど。」
男は髪をかき回しながら、ぶつぶつと文句を言った。「あんた裁判所の人?」
 「違いますよ。昔、奥様にお世話になったことがあるんですが、今は別の町で働いてるんです。この件を知って、どうしても確かめなきゃと思って…記録を間違えていたなんてこと、在り得ないでしょう」
 「どうしてそう思う」
 「今は、勘だけです。あんな綺麗な字を書く書記だったら、いい加減な仕事しないはずだって」
目をしばたかせたかと思うと、やがて、男は声を上げて笑い出した。
 「あっはっは、何それ。そんなんでわざわざここへ来たの? 面白いなー君。それで? 何が聞きたいの」
 「どうやって、余分な荷物が船に積み込まれたのかが知りたいんです。誰がやったのかも」
男はぴしゃりと自分の膝を手で打って、なおも笑い続けた。そして、ひとしきり笑った後、笑いすぎて出てきた涙を拭う。
 「はー。久し振りに笑いすぎた。君、まさか俺らの無実信じてるわけ?」
 「そうですよ。香油十五壷なんて数え間違うわけないし、記録と違ってたらすぐに分かる。違いますか?」
 「俺ら皆で船主とが結託して、税を誤魔化そうとしたんじゃなけりゃあ、な。」
ジェフティメスは壷を取り上げて、手にした自分のかわらけに半分ほど注ぐ。
 「シセネっていったっけ? あんた、あの未亡人の世話になったって言ったよな?」
 「ええ…」
 「ふうん。じゃ、恩人の嫌疑を晴らして船を取り戻したいってところか。――ま、状況だけなら怪しいとこは幾つもあんだけどな。問題は、"状況だけ"ってとこさ。余分な物資がどこから出てきたのか分からなければ…」
 「神殿ですよ」
 「神殿?」
シセネは頷いて、メヌウに渡された書板を取り出した。
 「その事件が起きる前に、神殿で代々働いていた香油屋の一家が、在庫管理の不備でクビになっているんです。祭りの前、足りなかったのは香油二十壷――」
 「そいつをうちの船に移し替えて、ってことか? へへぇ、筋書きとしちゃ面白いが」
 「この一年半ほどの間に、神殿で働く人たちがほとんど入れ替わっているんです。当時の状況を知ってる人はもう、神殿の中には殆ど残っていない。」
男は、横からシセネの手元を覗きこんでいる。
 「ふーん。あんた、一人でこれ調べたの」
 「一人じゃ、…ないですけど」
 「ますますもって面白い。だが、この件、もし証拠が集められたとしても、いっぺん降りた判決の取り消しは難しい思うぞ。」
 「どういうことですか?」
顔を上げると、男は隣で、無精ひげをしきりと指先でかき回しながら庭先に視線をやっていた。
 「裁判所に訴え出にゃならんからな。あんた訴訟を起こしたことは?」
 「…無いです」
 「だろうな。書類やら何やら支度して、ま、それはともかく、相手が悪い。証人は集まらんだろうし、疑わしいというだけではどうにもならん。何か決定的な証拠でも無い限りは」
 「あなたたちは、無実を訴えなかったんですか」
 「もちろん、自分の仕事に間違いはないと言ったさ」
少しむっとした様子で、ジェフティメスは言い返した。
 「信じて貰えんかっただけのことだ。役所の税収目録では、荷の受け取りの控えより少ない量が記載されていた。それも一年以上前からの書類の不備だ。雇われてた書記全員が否定したが、結局、誰の仕業ともわからないまま全員が有罪にされた。ま、それで俺も、こーして無職生活をしているわけだが。」
水を飲み干して、男は憂鬱そうな顔をした。
 「書記が書類の不備でクビになったとあっちゃ、この町では、もう仕事はやってけないからな。他の連中はみんな町を出ちまった」
 「あなたも町を出ようとは思わなかったんですか?」
 「引越しがめんどくさかったんでね。幸い、親父の残してくれたこの家とちょっとした財産があるし。ま、贅沢しなきゃ、死ぬまでのんびり暮らせるかとも思ってな」
それで誰もいない家で、昼間から水だけ飲んで寝そべっているのだと、ようやく合点がいった。最低限の身なりだけで、髪も髭も手入れした様子がないのは、現世に興味をなくしているからだろうか。
 「さっき、決定的な証拠がなければ、って言いましたよね」
 「ん?」
 「証拠になりそうなものがあるんです。今、取りにやらせてますが…」
ジェフティメスの眼が光った。
 「…あんた、本気でコトを構えるつもりかい。相手が誰かは分かってるんだろうな」
 「ええ。」
 「それでもやるのか。ふん。なら、ま、付き合ってやってもいいさ。俺も、今以上に失うものは無いわけだし。ただ、訴訟人が要るなぁ」
 「訴訟人?」 
 「裁判所に訴えを起こすんだろ。なら当事者が訴訟人にならにゃ話にならんぞ。あんた他所者だし、この件についちゃ部外者だ。あんた以外で誰か――そうだなあ、あの船の元の持ち主が訴訟人になるのが一番いいんだが」
シセネの脳裏に、イシスネフェルトの顔が一瞬だけ過ぎった。いつも憮然とした顔をして、決して家の外には出ようとしなかった、厳しい顔が。
 「…奥様は、無理だと思う。」
 「なら家族とか。相続人とか。あんた知り合いだろう? 頼めないのかい」
 「養女になった人でもいいんですか?」
 「あぁ、そんなら十分だな。相続人になる。よし、んじゃ説得はあんたに任せる。俺は訴状の準備をしてみよう。訴訟人の目処がついたら、教えてくれ。」
 「急なことなのに、協力してくれてありがとうございます。」
 「ん? なーに、大したことじゃない。それに、あんたのほうが先に俺を信用してくれたからな。」
ぼそぼそと頭をかき、ちらと往来を見渡したあと、男は素早くシセネに耳打ちした。
 「次に来るときも裏門から来い。それから、俺と会ったことは信用できる奴以外には言うなよ」
 「…はい」
元来た時のように庭先の門から外に出ながら、シセネは、ジェフティメスのだらしなさは半分は演技だと思った。何かを警戒している――それはきっと、メヌウと同じものなのだろう。
 あの男は信用できる。そう直感した。
 問題は、訴訟人の説得だった。町の反対側へと歩き出しながら、どう切り出そうかとシセネは迷っていた。結局、ムトノジュメトを巻き込まざるを得ないのだとも思いながら。



 イシスネフェルトの屋敷の前には、この間と同じように、ごろつき風の男たちがたむろしていた。それらを横目に見ながら裏口に回ろうとしていると、先に、相手のほうがシセネに気づいた。
 「あ、あんたこないだも来ただろ」
 「ええ…まあ」
 「ちょっと待ってろ」
男はいそいそと裏口の中に入っていく。やがて、中から小さな叫び声がして、両手を粉で真っ白にしたキヤが飛び出してきた。
 「シセネ! あんた、挨拶にも来ないで一体どういうことなの!」
言うなり、その手のままシセネの腕を掴んで裏口の中へ引きずっていく。有無を言わさぬ勢いに、シセネも従うしかなかった。
 「見張りの連中に言っといたのよ、次に見かけたら直ぐに知らせなさいって。絶対逃がすんじゃないわよって」
 「逃げるなんて…そんな」
 「こうでもしないと、あんた永遠にあたしには会いに来ないんじゃないかと思ってね!」
彼を台所にひきずりこんでから、キヤはようやく、両手の粉を払った。机の上には料理の下ごしらえらしい、こねている最中の小麦粉があり、側には驚いた様子のムトノジュメトが立っている。
 「まあ、シセネ…」
 「やあ」
シセネは、真っ白になった腕を払いながらばつが悪そうに微笑んだ。ムトノジュメトをどうやって呼び出そうかと考えていたのだが、その手間だけは省けたようだ。
 「にしても、あんた見ない間にずいぶん立派になったわねえ。今、別の町で働いてるんだって」
 「うん…。」
 「お腹空いてないの? 何か食べていきなさいよ。あんたの好きな豆の煮込みもあるわよ。ああ、そうだ。アハトが心配してたんだったわ、すぐに呼んでこなくちゃ。それから…」
 「キヤ!」
彼はあわてて、台所から出て行きかけるキヤの前に立ちふさがった。
 「駄目だ、奥様には言わないで。おれがここに来てるって知られたくない」
 「…何で」
 「何ででも! そんなことしたら、もう、二度とここへ来ない」
強い口調に押され、キヤは、数歩後退る。
 「…そう。あんた、奥様には会いたくないの」
 「おれが会いたくないわけじゃなくて、…」
 「いいわよ、あんたがそういうなら。でも、アハトならいいでしょ? ずっとあんたのこと気にしてたんだから。足を悪くしててね、二階に上がれないから、一階に移ってるんだよ。呼んで来るから、待ってなさいよ」
シセネが何も言わずにいると、キヤは、腰布をたくしあげながら使用人棟のほうに向かって走って行ってしまった。
 「シセネ、…」
 「ごめん。奥様に、これ以上嫌われたくないんだ。それとムトノジュメト、君に頼みたいことがある。」
彼は、机の向こうに立つ少女と向き合った。
 「おれはこれから、奥様の船と、神殿で働いてた友達の仕事を取り戻すために、無実の訴えを起こす。そのために訴訟人が必要なんだ。船の元の持ち主だった人が一番いいらしいんだけど、奥様はきっと出てきてくれないから、…その相続人で、君に協力してもらいたい」
 「訴訟人…わたしが?」
 「書類は、船が没収されたときにクビにされた書記の人が用意してくれる。証拠はおれが集める。あの船が取り戻せるかもしれないんだ。助けてくれないか」
ムトノジュメトは、形の良い眉を寄せ、しばらく考えた後に口を開いた。
 「…それはおかしいわ。助けてくれだなんて。それが本当なら、助けられるのはわたしたちのほうでしょう? どうして、あなたがお願いするの」
 「どうして、って…」
 「協力するわ、あなたがして欲しいっていうんなら何だって。勿論よ。でも、間違いを訂正させてもらうわ。これは、わたしが起こす訴訟なのよ」
腰に手を当てながら、少女が近づいて来る。
 「だからいいこと、あなたがわたしに協力しなさい。サプタハと二人きりでこそこそしたり、わたしの居ないところで勝手に話を進めたりしないでくれるかしら。これからは、そういう話にはちゃんとわたしを同行して頂戴。いいわね」
 「…わかったよ」
間近に見つめてくる黒い瞳には、目を逸らさせない不思議な呪縛の力がある。だが、縛られていることが心地よかった。
 (君にもう一度会えて良かった)
他のすべてのことを忘れて、シセネはただ一つのことを思った。そのためなら、自分の持てるもの全てを使っても構わないと。
 ――もう、ただ目の前の現実を受け入れるだけの子供ではない。


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