第二章/8


 港前の通りを辿り、その屋敷の前に立つのには、ずいぶんと覚悟が要った。だが、足を止めなければいずれは辿り着くに決まっている。シセネは、イシスネフェルトの屋敷の前に立っていた。懐かしい、そして、苦い思い出が蘇ってくる。
 だが、外見自体は寸分変わらないその屋敷には、小さな変化が起こっていた。入り口の両脇に、どう見てもごろつきにしか見えないような男が二人、折りたたみの椅子と卓を並べてサイコロ遊びに打ち興じているのだ。脇には、物騒な武器が立てかけられている。怪訝に思いながら勝手口のほうへ回ってみると、そこにも同じように男が二人。
 「…あの」
シセネが声をかけると、男たちはじろりと彼を見た。
 「イシスネフェルト奥様のお屋敷ですよね。ここ。」
 「見りゃわかんだろ」
 「君たち…誰?」
 「あんたこそ誰だよ」
シセネは、ちらりと開いたままの勝手口に視線をやった。台所を覗けば、キヤがいるかもしれない。けれどキヤに見つかれば、蜂の巣をつついたような騒ぎになるに決まっている。今はまだ、この町に戻ってきていることをイシスネフェルトやムトノジュメトに知られる勇気が持てなかった。
 「サプタハに会いに来たんだ。中にいるのかな」
 「知らんよ。俺らの仕事は、客の取次ぎじゃないんでね。用件があるなら聞いてみてやってもいいが…」
 「なら、ちょっと待って」
シセネはかばんの中から陶器の破片を取り出して、ペンを手にとった。紙は貴重だし持ち運びには脆すぎるから、ちょっとした用事を書き付けるくらいなら、陶器の破片か、平らな石のかけらを使うのだ。
 「これを渡してくれないか。そしたら分かると思う」
 「手紙か。ふーん、まぁ、いいけどよ」
かけらを手で弄びながら、男は興味なさげな曖昧な笑みを浮かべていた。少し不安になったが、サプタハだけを呼び出すには、今はこれしか方法がない。
 「頼むよ。」
念を押してから、シセネは町外れの水路へと向かった。
 そこは、いつだったか、インニと最後に話しをした場所だった。あの時と同じように、水路には船が浮かび、ゆらゆらと揺れている。傾きかけた日が斜めに水路に差し込んで、深い影を作っていた。
 どのくらい待っただろう。
 「シセネ」
息を弾ませたまま路地裏から出てきた男が、彼の名を呼んだ。
 「やあサプタハ、思ったより早かったんだね」
 「そりゃあそうだ。お前が来てくれというんだから。昨日は、今どこで暮らしているのかも聞けなかったし…」
 「そうだっけ?」
小さく笑ってから、シセネは周囲を一瞥して人の気配のないことを確かめた。
 「でも、その話は後にしよう。サプタハ、船が没収されたときのことを教えて欲しい。それが起きたのはいつだ? 積荷を誤魔化していると告発された時の文書は残ってるのか」
 「去年の祭りの後だが…、お前、どうしてそんなことを」
 「その検収を担当したのは、ウガエフじゃないのか?」
サプタハの口元が、ぴくりと動いた。
 「丘の上の屋敷に嫌がらせが始まって、住人が減って、火事があったのと同じくらいの時期だったんじゃないのか? 指摘があった時、反論はしなかったのか」
 「したとも、だが実際に荷が書類の記載より多かったのだ! 香油が十五壷、余分に船に積んであった。」
 「……!」
シセネの目が大きく見開かれた。「…香油以外には?」
 「ほとんど一年分、受け取りの記録と、税の申告用の書類の間に食い違いがあると指摘された。粗織りの布、香木、干し肉に香辛料に宝石。高価なものばかりだ。わしは荷の積み下ろしまでは監督していなかった。書類だけ見ていて気づかなかった」
 「書記の書き間違いではないっていうんだね」
 「一度や二度ならともかくな。それに、実際に積荷を見ていればおかしいとすぐに気づく量だ。故意に誤魔化したとしか思えない、裁判ではそう言われた。」
 「でも奥様は、誤魔化したりしてない。サプタハだってそうだ。そうだろう?」
男は、固く唇を引き結んだまま、じっとシセネを見つめている。困惑したような表情だったが、それは、シセネの真意をはかりかねているせいでもあった。
 「証拠が欲しいんだ。実際にどれだけ違いがあったのか、いつからなのか。裁判があったのなら、告訴文もあるんじゃないのか? 頼むよ、サプタハ。少しの間でいい、それをおれに預けてくれないか。」
 「シセネ、…お前は」
 「お屋敷だけの問題じゃない。何も悪いことはしていないのに、神殿を追われた友達もいる。助けたいんだ」
しばしの沈黙。川面が揺れて、――サプタハは、片手で額の汗を拭った。
 「…分かった。手配しよう。後でまとめてもって行こう。宿を教えてくれ」
 「うん。でも、…おれが戻ってきてることは、まだ、奥様には言わないで」
サプタハは、無言に頷いて夕陽に背を向けた。重い足取りで帰っていくサプタハの足元に落ちる長い影を見つめながら、シセネの頭の中では、既に様々な疑問が動き始めていた。



 宿に戻ると、待ちかねていたようにラキが食ってかかってきた。
 「一日どこ行ってたんです? 目が覚めたときにはもういなくなってるし」
 「ごめんごめん、朝飯前と思って港に行ってみたら知り合いがいて、話し込んでたんだよ」
それは半分は嘘ではなかった。むっつりと膨れ面のラキを見て、シセネは少し申し訳なくなった。
 「次は起こしてから出かけるよ。それともラキ、先に町に戻っていてくれてもいいんだよ」
 「いーえ、そいつはいけません。旦那なにやら面白そうなことに首を突っ込むつもりらしいし、その様子だともうしばらくはここに留まるんでしょ? あっしはハルセケルの旦那からじきじきに、シセネの旦那を確実に連れ戻すよう言われてるんで。」
 「悪いな、付き合わせて。」
そんな話していたとき、扉が叩かれた。
 「ん、客かな? 見てきますね」
ラキが入り口のほうに駆けて行こうとする。
 「ああ、多分、昨日一緒に話してたサプタハだよ。後で宿に来るって言ってたから…」
言いかけた時には、既に扉は開かれていた。ラキを押しのけるにようにして入ってきたのは、サプタハではなかった。顔にかけた布を上げると、その下から長い髪が零れ出す。あっけに取られてみているラキの側を、少女は、勢いよく素通りしてシセネの目の前に立った。
 「シセネ」
 「…ムトノジュメト」
真っ直ぐに見つめてくる黒い瞳から、目がそらせない。シセネが言葉に詰まっている間に、入り口の扉が閉まる小さな音がした。ラキが、気を利かせて席を外したようだ。
 「どうして、ここに…」
 「どうして、じゃないでしょう。サプタハと二人きりで、こそこそして。戻ってきたならどうして会いに来てくれなかったの。皆、ずっとあなたのことを心配していたのに!」
 「ごめん…」
 「謝って済むことじゃないわ! あなたが急にいなくなって、…」
ムトノジュメトの目尻に涙が浮かぶ。「…誰も行方を知らなくて」
 「……。」
シセネは、小さく震えている細い肩をじっと見つめていた。手を伸ばして、涙を拭ってやりたいとも思った。けれど、思うだけで、どうしても体が動かない。代わりに、彼は、出来るだけ微笑もうとした。
 「皆は、元気でやってる?」
 「ええ。でも、アハトは去年、階段で転んでから足を悪くしてしまって、もうほとんど歩けないの。それでキヤが大変になってしまって、わたしも家事を手伝ったりしてるの。」
 「あの見張りみたいなのは? 入り口にいた」
 「あれは…叔母様が雇ったの。わたしは、本当は嫌だったんだけど、丘の上の貸し家で色々あったし、…それに、わたしも」ムトノジュメトは目を伏せた。「町に買い物に出たりすると、つけまわされることがあったから。」
 「え…」
 「あ、ううん。何でもないの。それよりシセネ、ずいぶん背が伸びたのね? 声も低くなったし。ねえ、今どこでどうしているの? またこの町で暮らせるの?」
無理に明るく振舞おうとしている少女の声色から、シセネは、彼女の不安を感じ取った。廊下のほうからは、サプタハとラキのものらしい低い話し声が途切れ途切れに聞こえてくる。ムトノジュメトは、一人でここへ来たわけではないのだ。それに、さっき入って来たとき、彼女は顔を隠していた。
 (ウガエフの嫌がらせは、ムトノジュメトも…)
考えるだけで、ぞっとした。イシスネフェルトのお屋敷の警戒ぶりは、ただならぬものだった。借家の住人だけではない。屋敷の住人すべてが、何がしかの悪意に晒されているのだ。
 「おれ、今、下流の町で仕事をしてるんだ。休みを貰って戻ってきただけ。ずっと気になってたんだよ、お屋敷のこと。…君にも逢いたかった」
 「本当?」
 「うん。手紙を書こうとも思ったんだけど、…なかなか、出せなくてさ」
 「いつまで、この町にいるの」
 「さあ、用事が済むまで。」
 「じゃあ約束して。今度は、黙って出て行かないって。自分の町に戻るなら、…その時は教えて?」
シセネは、頷いた。
 「約束するよ」
ほっとしたように微笑むムトノジュメトの笑顔は、以前よりもずっと綺麗だと思った。あどけない少女の表情から、苦悩を知る大人の女性へと近づいた彼女の横顔は、お屋敷の中庭に咲いていた水蓮よりも、ずっと美しく輝いていた。
 ムトノジュメトとサプタハが帰って行ったあと、シセネは、サプタハから預かった山のような書類を前に、寝台の端に腰を下ろしていた。
 「ねぇ旦那。」
 「ん?」
 「あんな綺麗なお嬢さんが待っててくれたなら、どうして早く戻ってあげなかったんですかい。ていうか、あの子のためだって最初から言えばよかったのに。」
 「…そういうつもりじゃなかったんだよ。それに、まさかまだ結婚してないと思わなかったし」
 「はああー?」
ラキは、素っ頓狂な声を上げた。
 「旦那… 女の子待たせといてそれは駄目ですよ…。ちゃんと責任とってあげてくださいよォ」
 「わかってるよ、だから少し静かにしていてくれよ。今、これを読んでるところなんだからさ」
どこかズレているラキの言葉に生返事を返しながら、シセネは、細い燭台の灯を頼りに書類に目を走らせていた。その真剣な表情に気づいて、ラキもようやく、軽口を叩くのをやめた。
 「それ、何です?」
 「積荷の目録の写し。納品控え書だよ。奥様の船がこの町で降ろした荷物のね。」
それらは数人の書記たちの手になっていた。どれも丁寧な字で、書き間違えるような初歩的な間違いを犯す未熟な書記ではなさそうだ。
 「で、こっちが訴状ですかい? へーえ、毎回、実際の積荷より少なく申告してたってことになってますね。こりゃあ本当ならひどい脱税行為ですね。牢屋に入れられてもおかしくないような」
 「でも、本当は脱税なんてしていないんだ。誰かが嘘をついてる。でも、サプタハが間違いを見逃すとは思えない。」
 「荷物の積み下ろしを見てなかったんでしょう」
 「…いや。」
シセネの記憶の中には、船が着くたびに港に行き、船の甲板に立っていたサプタハの姿が焼きついている。「サプタハはいつも、荷卸の時は船の側にいた。細かい数まで勘定していなかったかもしれないが、確かに書記の仕事を横に立って見てたんだ」
 そう、雇われの書記たちだって、仕事を誤魔化しているようには見えなかった。信用が大事な書記の仕事で一度でもそんなことをすれば、次からは仕事が貰えなくなる。
 書類を捲っていたシセネは、ふと、手を止めた。
 「…ラキ、ひとつ頼まれてくれないかな」
 「何ですかい?」 
 「この写しの荷物の、前の記録が知りたい」
手にした写しの端のほうに、文字の読めないラキでも分かる、"蝮とアカシア樹"の町の印がついている。
 「うちの町から来た荷ですか」
 「そう。送り主は、向かいの州都の神殿だ。納税申告書のほうでは、品目は上等な裁断前のパピルス巻が原紙四本だ。でも納品控え書では、六本がこの町に入ったことになってる。本当の数はいくらだったのか、送ったほうの目録で出港時の積荷を確かめられないかな」
それは、神殿同士が余った寄進物を交換するために送りあった記録だった。この町の神殿からは、パピルス紙の代金として香油が送り返されている。船を使ったやり取りなら、港には、積み下ろしの記録が必ず残されているはずだ。
 「…旦那の考えてることが分かってきましたよ。ですが、ちらっと聞いた話じゃ、相手はこの町の有力者なんでしょう?」
 「そうだな。」
 「そうだな、って。はぁ、相変わらず旦那は怖いもの知らずだなぁ」
ラキは、軽く頭を掻いてから、ふいに真剣な顔になった。「ま、旦那にゃ早いとこ用事を終わらせてもらわにゃならんですからね。いいですよ。明日にもひとっ走り、行ってきます。だから、戻るまで無茶せずに、大人しく町にいてくださいよ。」
 「ああ、分かってるよ」
ラキが寝台に横になると、空気とともに燭台の灯が揺れた。いつしかとっぷりと日が暮れて、窓の外は闇に覆われている。けれどシセネには、それは関係なかった。手元には光があり、道筋が見えていた。手がかりを見つけることさえできれば、闇の中にいる人たちをそこから連れ出せるはずなのだ。


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