第二章/6


 白い街。
 初めて間近に見た時、驚きで立ち尽くした同じ風景を、シセネは今、別の感慨とともに眺めていた。何もかもが記憶のままだった。学校の屋根の上から眺めていた街の奥の神殿の壁も、その前の大通りに連なる白い壁に囲まれたお屋敷の群れも、港も。――そして、川の向こうの西の谷へと目を向ければ、赤茶けた"死者の谷"の入り口が見えている。

 帰って来た。

 「目的地は、この町なんですかい?」
 「そうだ」
ラキに答えて、シセネは再び歩き出した。川べりを吹き抜けてゆく風の匂いが懐かしい。ほんの数年前のことのはずなのに、奇妙に遠い昔のことのように思える。
 「知り合いがいるんですよね? どのへんなんですかい」
 「港のほうだ。でも、まず少し街を歩いてみたい」
正直に言えば、お屋敷を訪ねる気はなかったのだ。ここまでの道程で何度も思いあぐね、そして結論した。イシスネフェルトは、きっと自分には二度と会いたくないはずだ。出来ることなら、会わずに状況を確かめたかった。
 港前の大通りは、以前と同じように活気に満ち、川べりには市も立っている。大きな船が一隻留まっているが、あれは荷物を運ぶための船ではない。以前もここで見たことのある、州知事の船だろう。その他、小さな船はひっきりなしに港を出入りしている。ラキは、あまり興味なさそうな顔でそれらを眺めている。街の規模はここより小さいとはいえ、港前の活気は、後にしてきた彼の町と大きく違わないからだろう。
 ロバが引く荷馬車が通り過ぎていく。
 人の流れを避けながら何気なく視線をとおりの反対側にやったシセネは、はっとして足を止めた。
 「…サプタハ!」
人ごみの向こう側を歩いていた男が立ち止まり、きょろきょろと辺りを見回している。間違いない。 
 「サプタハ! ここだ」
もう一度呼んで、シセネは手を振りながら男のほうに駆け寄っていった。ラキが後ろから追いかけてくる。サプタハは眉をよせ、考え込むような顔をしていたが、やがて、確信が持てないというような口調で、おずおずと尋ねる。
 「シセネ…か?」
 「そうだよ!」
彼が答えるや否や、大きな手が伸びてシセネの肩を掴んで荒っぽく抱き寄せた。
 「本当にお前なのか。無事だったのか! どうして出て行ったりしたんだ…今まで何処に…」
 「うわ、ちょっ、サプタハ」
慌てて、シセネはサプタハの肩を叩いた。男は泣いているようだった。驚いたのはシセネのほうだ。こんな風に、激しい感情をもって迎えられるとは想像もしていなかった。彼はサプタハの、前より白髪の増えた髪を見た。
 ひとしきりのあと、やっとのことで抱擁から解放されて、シセネは、ほっと一息ついた。
 「すまん、つい」
 「いいんだ。それよりサプタハ、少し痩せた?」
 「ん、まぁ、そうかもな。はは…」
どこか力の無い笑いに、シセネは微かな不安を読み取った。
 「…奥様は?」
 「お元気だ、相変わらずだが。」
 「じゃあどうして、船を手放したりしたんだ」
サプタハの表情が微かに動いた。
 「…お前、どうしてそれを」
 「おれ、今、よその町の船着場で働いてるんだよ。奥様の船が、別の誰かのものになってるって聞いて…」
 「それで戻ってきてくれたんだな」
男は、周囲にちらと視線を走らせた。「ここでは何だ。後で話そう。これから奥様の借家へ行かねばならん」
 「借家って、人に貸してたところ? 家賃の回収?」
 「いや、…」
表情は暗い。
 「一緒に行こう」
シセネはそう言って、サプタハの前を歩き始めた。「道は分かってる」サプタハは何も言わず、後ろについてくる。
 何があったのかは、すぐに分かった。 
 かつては何軒か並んでいた小奇麗な借家、港に近い高台に建てられていたそれらの家が、ほとんどなくなっているのだ。それも真ん中の何軒かは黒く焼け焦げたまま放置され、端のほうは、見るも無残に荒れ果てている。シセネは、その前に立って唖然としていた。
 「どうしてこんなことに」
 「火事だ。去年、その真ん中の家から火が出て、消火が間に合わないうちに両隣も燃えてしまった。」
 「中に居た人は?」
 「逃げ出して、無事だった。真ん中の家だけは、ちょうど空き家でな。…それから端の家は、新しく入居した者がひどいならず者だったんだよ。先日ようやく追い出したところなんだが、このままでは次の住人に貸せそうも無い」
サプタハは、頭を振って深い溜息をついた。「まったく、このところ運がない」
 「…船は?」
 「納税逃れの代償に取られてしまった。今までずっと、積荷を正確に検収していなかったというのだ。罰金は、奥様といえど、とても一度に支払える額ではなかった。わしのせいだ。書記たちに任せきりにして、確認を怠った…」
 「それじゃあ、今はあの船は誰のものに」
 「ウガエフだ」
身を乗り出しかけていたシセネの体が、引きつったように止まった。
 ウガエフ。記憶の中のずっと奥深い場所に埋もれていた、屈辱的な名前。
 この町を出てから、ただの一度も思い出すことのなかった、あの侮蔑的な男。
 「あいつは何年か前、州知事さんの姪を嫁にもらった。今やこの町で、奴に逆らえる者はいない。気に入らなければ牢に放り込まれ、悪い噂を立てられて商売もやっていけなくなる。お嬢さんも…」
 「…何かあったのか?!」
思わず勢いこんでから、シセネは、慌てて声の調子を落ち着けた。「ムトノジュメト、今、どうしてるの。もうどこかへ嫁いだと思ってた」
 「いや。変わらずお屋敷に暮らしておいでだ。ウガエフの奴がよからぬ噂を流すせいもあって縁談がまとまらなくてな。お嬢さんの実家は早く嫁に出したいとおかんむりだったが、奥様は、どうでもいい家には出したくない、文句があるなら自分の養女として迎えると宣言されて、強引に引き取られたんだ。」
 「…そうなんだ」
では、ムトノジュメトはまだ、誰のものにもなっていないのだ。
 ほっとすると同時に、それは彼女にとって不幸なことなのだと気がついて、シセネは、自分を恥じた。
 「なあシセネ」
 「ん?」
 「お嬢様は、お前が居なくなった後、何日も泣いていたぞ。何度もお前の部屋に行っては、お前の残していったものを眺めていた。…どうして何も言わずに居なくなった?」
振り返ると、サプタハの眼がじっと彼を見下ろしていた。けれどもう、以前のようにも見上げるほどの高さはない。見つめる眼差しは、ある一つの事実を物語っている。
 「…知ってるんだろ、もう。あの夜のこと」
 「ああ、アハトから聞いた。……」
小さく溜息をついて、男は、視線を伏せた。「そうか、やはり、そういうことなのか。…確かにお前は、昔の旦那様によく似てきたな。」
サプタハは、片手で自分の髪をくしゃりとやった。言葉を捜し、唇が何度も動きかけては止まる。シセネは、そんなサプタハを自分でも驚くほど冷静な気持ちで眺めていた。そして、ぼんやりと考える。
 (どうしてこの町に戻ってこようと思ったんだろう)
考えてみれば、無茶なことをした。家や仕事を失うかもしれなかったのに、感情に任せて強引に飛び出してきてしまった。戻ったらセンネジェムに何と説明すればいいのだろう。ヘブティはどう思っているだろう。
 サプタハと分かれて港沿いの通りを歩きながら、シセネは無言だった。後ろをついてくるラキも、同じように無言だ。
 「…旦那」
港前まで来た時、ようやくラキが口を開いた。
 「これから、どうするんですかい」
 「さあ。どうしようかな」
足を止めて、船着場の先に光を反射する川面に視線を遣る。イシスネフェルトもムトノジュメトも、今もあの屋敷に暮らしている。それが分かっただけで十分、目的は達せられた。きっと今、この町を去れば、二度と戻ってくることは無いだろう。
 すぐに戻ってハルセケルやヘブティに謝り、センネジェムに改めて手紙を書けば、何事もなく丸く収められるはずだった。けれど、そう思っているはずなのに、何故か足はぴくりとも動かなかった。日の傾いてゆく西の方角に川面を見つめたまま、シセネは、胸の中にゆらぐ思いを納得させられずにいた。それに、どのみち今日すぐには戻れないのだ。今夜は、この町に泊まるしかない。
 「ラキ、どこかに宿を取れないかな」
 「探してきます。このへんで待っててくれますかい」
 「うん。頼むよ」
ガゼルのような足取りで弾むように町のほうへ駆けて行く男の後姿は、すぐに人ごみのむこうに見えなくなってしまう。シセネは、何故か少しほっとして、辺りを見回した。泊まると決めたら、取り敢えず明日までは心を決めるのに猶予がある。
 彼は、どこへ向かうでもなく、ぶらぶらと桟橋のほうに近づいていった。桟橋のほうでは、ちょうど、荷揚げしている船があった。はしけの傍らでは、肩から籠を下げ、船乗りたちに果物やパンを渡して歩く給仕人がいる。代を受け取っている気配はないから、きっと、船一艘ぶんまとめて船長か船主から受け取っているのだろう。
 (そういえば、少し腹が減ったな)
町についてから何も食べていないことを思い出して、シセネは自分の腹に手をやった。文句も言わずについてきてくれていたが、ラキも同じはずだ。そこまで気が回らなかったことを申し訳なく思いながら、ラキが戻ったら何か食べに行こうと思っていた時だ。
 「…シセネ?」
名を呼ばれて、彼は振り返った。桟橋から降りてくる場所に、さっき見ていた給仕人が、かごを下げてぽかんとした顔で立っている。
 「やっぱりシセネだ。僕だよ! 忘れちゃったのかよ」
 「メヌウ?」
 「そうだよ! はは、久し振りだなあ! あれからどうしてたんだ?」
見覚えのある屈託の無い笑窪を浮かべて、かつての学校仲間が抱きついてくる。シセネも嬉しくなって、何度もメヌウの肩を叩いた。
 「本当に、久し振りだな! どうしてこんなところで働いてるんだ? 学校は?」
 「…学校は、やめた。」
 「どうして」
笑窪が消えた。
 メヌウはシセネの肩から手を離し、視線を落としてぽつりと言った。
 「父さんたち、神殿の仕事をクビになったんだよ。それで家を追い出されて、僕も働かなきゃならなくなった」
 「クビって―― なんでまた」
 「神殿に納めるはずだった香油を横領したって疑われたんだ。量が足りないって、それで…」
声が小さくなり、やがて雑踏の中に消え入ってしまう。ラキが戻ってきたのは、ちょうどその時だった。
 「あーいたいた、旦那! 宿をとりましたぜ、って、何か取りこみ中ですかい」
 「いや、大丈夫だ。…メヌウ、もう仕事はこれで終わりかい」
 「ああ。今日の分はこれだけだよ」
 「じゃあ少し付き合ってくれないか。ラキ、どっか飯を食いに行こう」
 「おっ。ちょうど、その話をしようと思ってたとこなんでさあ」
ラキが満面の笑みを浮かべる。シセネが腕をとると、メヌウは、慌てて下を向いた。
 「でも、僕…お金が無い」
 「心配するなって。今日は、おれのおごりだよ。いいじゃないか、久し振りに会えたんだ。あれから何があったのか聞きたいんだよ」
口調だけは明るく振舞いながら、シセネの表情は、いつしか真剣になっていた。
 サプタハの暗い表情、人手に渡った船、燃えた借家――、メヌウの父と兄の失職。この町を出てからの数年の間に、一体何が起きていたのだろう。それを知るまでは、まだ、この町を去ることは出来ない。



 その夜、神殿通りにある居酒屋で、シセネは、町で起きた様々な変化を知った。
 向かいの西の谷のならず者たちを追い出すために多くの兵が送られたこと。その時とらえられたならず者の多くは縛り首にされるか、遠い流刑地に送られたこと。税収官吏のウガエフが州知事の姪をめとり、結婚式が盛大に行われたこと。かつて通っていた学校の老教師が引退したこと。その頃から町にいる役人たちの顔ぶれががらりと変わり、態度の横柄なものばかりになったこと。メヌウの父親だけでなく、代々神殿に仕えてきた多くの家族が何かと理由をつけてクビにされたこと。かわりに、ウガエフの息のかかった誰とも知れない余所者たちが、神殿に出入りするようになったこと。
 ――そして、そうしたことに不満を抱くような発言を大っぴらにしているところを誰かに聞かれたら、あとで決まってよくないことが起きるのだ、とも。
 路地の奥にあるうらびれた居酒屋の中にいてさえ、メヌウは背を丸め、囁くようにしてそうシセネに告げた。ビールの杯をちびりちびりと傾けながら、かつての学友は、もう、何かと笑窪を見せた溌剌とした少年ではなくなっていた。
 「だけど驚いたなあ。シセネが、別の町でお役人になってたなんて。あんなに役人になるのは嫌だ、なんて言ってたくせにさ」
 「役人じゃないよ、おれは」
 「立派な役人だよ。お上の命令で品物を手配するんだろう? 王家のご使用人じゃないか。それに比べたら僕なんて、小遣いみたいな額で使われて、毎日パンや干し魚を仕入れては配るだけの仕事さ」
 「読み書きは習ったんだ、もっといい仕事だって就けるじゃないか」
メヌウは、小さく首を振った。
 「僕はシセネほど出来が良くない。それに、結局学校は卒業できなかったんだ。半人前なんて、どこも雇ってくれないよ。」
諦め切ったような顔をするのを見るのは、辛かった。
 (君は以前は、そんなふうじゃなかった)
心の中で呟くと同時に、自分も、以前は今のようではなかったのだと思い返す。そうだ。役人にも、神官にもなりたくないとあの頃の自分は確かにそう言った。いつかサプタハを手伝って港で働くのだと、…この町でずっと暮らしていくのだと思っていた。
 メヌウと別れた後も、シセネは、日がとっぷりと暮れて人が少なくなる頃まで杯を傾けていた。
 「ねえシセネの旦那。」
 「ん」
 「旦那がこの町で、どんな風に過ごしてきたか、何があってここを離れたのかは知りません。けど、あの人らを大切に思ってることだけは分かります。力になりたいんでしょう」
 「…うん。」
彼は、素直に頷いた。「でも、どうしていいのかまだ、分からない」
 「仕事を紹介すりゃあいいんじゃないですかい」
 「多分それだけじゃダメなんだ。それは本当の解決にはならないんだよ。ああ、どうすればいいのかな」
 「思いつかないときは、取り敢えず寝ることだって、うちの大将は言ってましたぜ。ハルセケルの旦那ぁ、それでいつも朝が早いんでさ。」
ラキに言われて、シセネはようやく宿に戻る気になった。代を支払い、店を出ると、表通りはもうほとんど寝静まって真っ暗になっている。
 「夜の神殿通りか…懐かしいなあ」
彼は思わず、そう口にした。
 お祭りの夜。インニを探して、町中走り回った、あの夜。
 ほとんど人通りのなくなっていた通りを、イシスネフェルトのお屋敷に向かって、一人で急いだ。
 (…そうだったな。あの時も、クロ助、お前が導いてくれたんだ)
きっと今も、側にいてくれるはずだ。そう思うと、心が少し落ち着いた。かつて町を離れた時は無力な子供だった。でも、今は違う。
 目を閉じれば、闇の中に溶け込むように、黒い尾が先端を引いてゆく。耳を澄ませば、聞こえない足音が、路地裏を通り過ぎてゆく。
 何をすべきなのか、何のためにここへ戻ってきたのか。夜の下で、シセネは、じっとこちらを見つめ返す黒い双眸を覗き込んでいた。


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