第二章/5


 からん、からん。
 夜明け前、規則正しい乾いた音で目を覚ます。水を飲ませるため、川辺へ導かれる牛の首につけられた飾りの擦れあう音だ。
 からん、からん。
 窓を開けて見下ろすと、いつもの農夫がすぐそこの川のほとりで、牛たちを並べて水を飲ませている。飾りをつけているのはいつも先頭を歩く大きな斑の牝牛だ。牛たちはこれから、畑仕事に向かうところだ。夜明けととともに人々の暮らしは動き出す。朝一番に漕ぎ出す漁師の小舟は、もう、水の上にある。
 シセネも身支度を整えて、いつものように朝の仕事を始めることにした。といっても、ここでは水汲みも、玄関の掃き掃除もしない。それらはセンネジェムの家に雇われている使用人たちの仕事で、彼は身支度を整えて台所へ行って朝食をとり、そのあと港へ出かけていくだけで良かった。――イシスネフェルトの屋敷の半分ほどの大きさもないのに、ここには、その二倍もの使用人がいる。
 離れを出ると、玄関先に居た小鳥たちが一斉に飛び立った。ほんの数歩ほどの庭を横切って母屋にある食堂に向かう間、頭上では、小鳥たちのお喋りが騒がしい。
 「あら、おはよう」
入っていくと、食事の用意をしていたセンネジェムの妻ヘブティがシセネに微笑みかける。「今日も早いのね」
 食卓は既に整えられ、することは何もない。彼が席につくと、すぐにヘブティが杯を差し出した。
 「ありがとうございます」
 「お礼なんていいのに。そろそろ慣れて欲しいわね」
くすくす笑いながら、女主人はちらりと奥の部屋のほうを見やる。
 「あの子、まだ起きてこないわね。そろそろ起こしに行かないと…」
シセネが食事をしている間に、ヘブティは娘を寝室から追い出しにかかる。そして、シセネが出かける頃になってようやく、幼い少女は母に連れられて、いやいやしながら食堂に出てくるのだ。その間、召使いたちはかいがいしくそれぞれの仕事をしている。
 これがこの家での、いつもの朝の風景だ。
 そしてシセネの仕事場は、屋敷からそう遠くはない船着場と、港から続く倉庫街の間だ。
 食事を終えて町に出る頃には、港に続く通りは既に人でいっぱいになっている。漁師たちはもとより、荷担ぎ人や船乗りたちも、めいめいのねぐらから出てきて、前日の仕事の続きを始める。朝の涼しいうちが、仕事のいちばんはかどる時なのだ。
 船着場には既に、ハルセケルが立っていた。シセネも早いほうだが、この上司ときたら、ほとんどいつもシセネよりも先に港に立っているのだ。
 「おはようございます」
シセネが挨拶すると、髭面の男は、いつもの難しい表情で一つ、小さく頷いた。
 「そろそろ下流からの船が着く予定だ」
 「はい。神殿への奉納品が載ってる定期便ですね?」
ここには不定期に着く船のほか、定期的に港に入る船もあり、それらは大抵、向かいの州都で消費される特別な品を載せてくる。川はこのあたりで大きく蛇行していて、州都のある側は流れが速い。だから対岸のこちら側に港があり、船は一度こちらに着いて、下ろされた荷物はあとで小舟に載せかえられて州都の側に送られるのだ。もっとも、こちら側に港があるのは、それだけの理由ではない。採石場も、こちら側にあるからだ。物資監督官は、その名のとおり、この港を通過するあらゆる"お上の調達品"を――つまり王家の所有物を管理する役目にある官職なのだった。
 その物資監督官が気にしているからには、港に着く予定の船が積んで来るものは、一般に取引されるものではない。向かいの州都にある神殿に王族から寄進される品だ。それがどんな品なのかはシセネも知らない。荷とともに納品物の一覧が届くはずで、そのとおり正しく品が届けられているかどうかを確認するのが物資監督官の仕事なのだ。
 男は、新しい部下のシセネのほうに、ちらりと目をやる。
 「採石場に送る物資の手配はどうなった」
 「終わってます。足りないロバを調達しているところで、明日の出発になりますが。」
 「都へ送る予定の荷は」
 「そちらも、準備は整っています。いつでも出せますよ」
 「ふむ」
満足げに呟いて、ハルセケルは腰の後ろで腕を組んだ。「よろしい。」
 たったそれだけ言うと、くるりと方向を変えてどこかへ去ってゆく。見回りだろうか、とシセネは思った。港に姿が見えないときのハルセケルが何処で何をしているのかは、実は、あまり知らない。ただ、さぼっているのでないことだけは確かだ。膨大な仕事をこれまで一人で切り盛りしてきただけあって、港のことも、荷物の管理も、驚くほど正確によく把握している。
 「シセネさん」
一人になるのを見計らったように、声をかけてきた者がいる。振り返ると、そばかす顔のひょろりとした青年が、はにかむような笑顔を浮かべて立っている。一瞬、誰だったろうと考えたあと、シセネは思い出した。
 「ああ、えっと… ケレブさん、でしたっけ」
 「はい。今日から現場に復帰なんで」
盗賊に襲われて、一人生き残った若い男だ。シセネが助けて連れ帰った後、しばらくは採石場で養生していたが、動けるようになってからは町に戻って来ていた。
 「もう怪我の具合はいいんですか?」
 「ええ、さいわい骨も折れてませんでしたし」
そう言って、腕を回して見せる。あの後知ったのだが、この男もハルセケルの部下の一人で、簡単な読み書きが出来るので物資の運搬を担当しているという。
 「これから荷物が着くんで、着いたらそれを向かいの州都へ運ぶんですよ」
 「そうなんですね。ご苦労様です」
 「シセネさんは、向かいの町に行ったことは?」
 「まだ、無いです」
彼はちらりと川向こうの白い町を眺めやった。行こうと思えば、一日休みの日に行って帰ってくることも出来る。だがなぜか、興味が湧かないのだった。この辺りで一番大きな町には違いないだろうが、かつて暮らしていたあの町よりもずっと質素に思えた。それに、…川の、西の岸にあるのが気に入らない。
 「もし行かれるんでしたら案内しますよ。ぼくの実家はあっちにあるんです。」
 「ええ。いつか機会が出来たら」
船が入ってくる。港がにわかに活気付き、待ち構えていた人夫たちが、船を岸辺につけようと、甲板から投げかけられる縄を受け取りに水辺へ走っていく。
 (この船は、この町を出たらきっと上流の町へ行く)
筆記具を入れたかばんを肩にかけなおしながら、シセネは、心の中で呟く。(もしかしたら、あの町にも…)
 (…サプタハ)
 港に立って、船から下ろされる荷を見守っていた、日焼けした、あの広い背中。厳しい顔つきなのに、屈託の無い笑顔を見せた大男。
 一日の仕事が終わり、屋敷に戻って離れに引き上げると、開いたままの窓から夕方の涼しい風が川を渡って吹き込んでくる。彼はかばんの中から筆写板を取り出して、いつものように机に向かう。その日あったことのうち、覚えておきたいことを書き留めるのだ。
 ――けれど、それは建前のことで、本当はいつも、別のことを考えている。
 ペンをとりあげ、板に塗りつけられた白い漆喰の上に黒く点をつける。書きたいことはある。口に出来ないぶん、文字にして、彼は板の上に書き付ける。
 (キヤ、アハト、シェバ…皆、どうしているだろう)
学校での日々や、神殿に連れて行ってもらったこと、市場や港、お祭りの夜。
 (…ムトノジュメト)
ペンを止め、ふと、窓の外を見やる。
 (君に会いたい)
これは、決して届くことのない手紙だ。なぜなら、書き終えた後は、すぐに消してしまうのだから。あれから三年以上が経った。きっと彼女はもう、誰かのもとへ嫁いでしまっている。せめて誰かのもとで、幸せに暮らしてくれていればいいと思う。
 (…奥様)
少女の面影が消えるとともに、女主人の顔が蘇ってくる。屋敷に暮らしていてもほとんど顔をあわせなかった、気難しい女主人。誰にも会いたくないといいながら、部屋の中でいつも着飾っていた。別れはあまりに突然だった。彼女の放った残酷な一言は、今も胸の奥に深い傷となって残っている。
 (でも、あの人は知らなかった)
思い出すたびに苦しくなるのは、恨んでいるからではない。かつて捨てたものを、そうとは知らず再び拾い上げてしまった彼女の不幸を思うとき、哀しみで胸が締め付けられるようになるからだった。



 それから数日経ったある日のこと、いつものように港へ出向いたシセネは、昨日は見なかった新しい船が着いていることに気が付いた。皆が仕事を負えた夕方に着いたのだろう。帆を降ろし、桟橋に横付けしたまま、まだ荷卸しも始まっていなかった。珍しく、ハルセケルはまだ来ていない。シセネが近づいていくと、甲板の上から水夫が声をかけてきた。
 「旦那、ここのお役人で? 荷を降ろしたいんですがね」
 「ああ、目録は?」
 「ここにありますよ」
船べりから飛び降りてきた水夫が、蜜蝋で封をされた荷おろしの目録をうやうやしく差し出した。それを受け取りながら、シセネは、何か違和感を感じていた。ふと振り返って、よくよく船を見上げる。そして、視界の端に、高く真っ直ぐに伸びた帆柱の先に揺れている、見覚えのある旗印に気が付いた。
 胸の中で、心臓がどくんと大きな音を立てた。
 ――そうだ。この船は、以前にも見たことがある。
 「遅れてすまないな」
ハルセケルが大股で桟橋を渡ってくる。シセネは慌てて視線を戻すと、上司に封をされたままの目録を差し出した。
 「こちらです。荷運びを呼んできますよ」
 「ああ、頼んだ」
ハルセケルはこちらに背を向けて、蜜蝋の封を剥がしにとりかかっている。荷の送り主の印章で封をされたその巻物の中には、この町に届くべき品物の一覧が記されている。それらが確かに届いていることを確認したら、一覧を引き写した納品控え書と受け取り証文を作り、証文のほうは蜜蝋で封をして船長に渡す。船長はそれを、荷物の発送主に渡して報酬を貰う。そうやって、この船は下流から上流へ、上流から下流へと、荷物を運び続けているのだった。
 シセネが戻ってきた時、荷物の一部はもう、桟橋から港へと運び下ろされているところだった。
 「証文の準備をしておけ」
そう言って、ハルセケルは彼に巻き戻した目録を差し出した。そこには、神殿に送られるべき様々な寄進物の一覧が几帳面な神官文字で書かれている。ワインが十壷、香油二十壷、脱穀していない小麦四十袋、腕輪五個、亜麻布が十織…。量は多くないが、高価なものだ。積み下ろされる荷は、慎重が上にも慎重に運ばれている。
 「この船は、前にもここに来たことがあるんですか?」
 「勿論だ。昔からよく見かける船だな」
聞くまでもなく、考えてみれば当たり前のことだった。川は一本しかない。船は上流と下流を繋いでいる。この川を行き来する大きな船は限られているのだから、見覚えがあるに決まっている。
 「持ち主を…ご存知ですか」
 「ああ、確か、上流の町の役人か何かだとか」
 「役人?」
シセネの声の調子に気がついて、ハルセケルは、怪訝そうな顔をして振り返った。
 「どうしたのだ、何故そんなにこの船が気にかかる」
 「あ、いえ…。何でもありません」シセネは、慌てて控え小屋のほうに後退った。「証文の準備をしてきます。」
港を見渡せる位置に作られた書庫を兼ねた控え小屋で、ペンを手に目録を引き写しながら、シセネは、時折ちらちらと船の様子を確かめた。降りてくる水夫たちにも、ハルセケルとやりとりしている船長らしき男にも、見覚えは無い。あるはずもなかった。もし以前見かけていたとしても、それはほんの一瞬のことで、今見ても分かりはしないのだ。
 (でも、違う船ではない)
あれは間違いなく、イシスネフェルトの持っていた船だ。
 納品控え書と受け取り証文が出来上がると、シセネはハルセケルを呼びに行った。あとは内容を確認して、ハルセケルが証文のほうに署名するだけだ。その間にシセネは、手持ち無沙汰に船の前で待っている船長に近づいた。
 「あの、この船の持ち主って、最近変わったんですか」
無駄な問いだと思いながら、彼は尋ねずにいられなかった。やや下腹の出た剥げた男は、へつらうような笑みを浮かべてシセネを眺め返す。
 「そうだよ。いや、そうだと聞いてる。ここの上流の州の州役人かなんかで、名前は、えーっと… なんだったかなあ」
ぼりぼりと頭をかきながら、何やら口元をもぞもぞとさせる。
 「前の持ち主はどうなったんです?」
 「さぁ、知らんよ。わしらは雇われの船員だからな。雇い主が誰でも気にしたことはないのさ。給料さえ支払われりゃ、それでいいからな。」
 「…持ち主が変わったのは何時なんですか」
 「最近じゃあないが、いつだったのかは忘れちまったよ。何しろわしらも、ずっとこの船に乗ってるわけじゃあない。自分の町を通りがかったところで船を降りたりするからな…」
ハルセケルが戻ってくる。それに、これ以上は聞いてみても無駄だろう。
 シセネは上司に道を譲り、船長とやり取りしているのを後ろで聞きながら、懐かしい船の帆柱を見上げた。
 ――あの日、初めて見た日と同じように、帆柱の上には旗印が棚引いている。けれどそれはもう、あの人の船の印ではない。
 「出港準備だ、野郎ども!」
船長の声で、散らばっていた船員たちが駆け集まってくる。港の杭と船を繋いでいた荒縄が解かれて、甲板から差し出された櫂が船を川の中へ漕ぎ出していく。十分な深みまできたところで船は向きを変え、帆が広げられ、下流から吹いてくる風を受けて、船は流れに逆らって進み始める。水しぶきが船体にはね、すれ違う漁師たちの小舟が波のあおりを受けて大きく揺れた。
 「船が出るよ!」
水辺にいた子供たちが歓声を上げる。周囲できらめく川の流れに映えて、風をはらんで大きく膨らんだ帆は、堂々として美しかった。
 (…奥様)
シセネは唇を嚙んで、その姿から目をそらした。
 きっと、何かあったのだ。でなければ、船が人手に渡るはずがない。
 (おれは一体、何を考えているんだろう)
家族が出来て、仕事にも就けた。全ては順調に進んでいる。いや、進み始めている。それなのに、すべてを放り出して何をしようというのだろう。
 (あの人は、おれを捨てた人なのに)
そう思おうとしているのに、繰り返し蘇ってくるのは、星空の下、漕ぎ出した船の上で見せた悲しい表情ばかりだった。
 考えるまでもなく、結論はもう、とっくに出ていた。
 シセネは心を決めた。――あの町へ戻ろう、と。



 荷物を纏めて、そのことをセンネジェムの妻ヘブティに告げたのは翌朝のことだった。青天の霹靂だったらしく、ヘブティは何度も同じことを聞き返してきた。
 「本当に行かなくてはだめなの? せめてセンネジェムに相談してからでも良いんじゃなくて?」
 「今すぐ行きたいんです。用が済んだら、必ず戻ってきますから」
 「それは勿論よ。ああ、でも、お仕事のほうは―― センネジェムに何て言えば…。ねえ、本当にいくつもりなの?」
 「どうしても確かめたいんです」
シセネは今朝から繰り返している説明を、もう一度口にした。「ハルセケルさんには、おれから言っておきます。センネジェムさんへは、さっき渡した手紙を送ってください。もう行きます」
 「ああ、待ってシセネ。まだお話は終わってないわ…」
追いかけてくるヘブティを振り切るようにして、シセネは港のほうへと向かった。心は痛んだが、納得してもらうことはきっと無理だ。
 港には、いつものように無愛想な上司が、両手を組んで仁王立ちしている。
 「ハルセケルさん」
 「シセネか。今日は遅かったな」
 「…すいません。急なことで申し訳ないのですが、昔お世話になった人に何かあったかもしれないんです。お暇を貰います。」
ハルセケルの眉が、ぴくりと跳ね上がった。
 「どのくらいかかる?」
 「分かりません。でも、状況を確かめるだけら、一ヶ月もあれば」
良いとも悪いとも言わず、男は、じっとシセネの顔を見下ろした。それから、もう一つ尋ねた。
 「…その人とは、君にとってどういう人だね?」
 「その人は、」シセネは一瞬、口ごもった。「…身寄りのなかったおれを屋敷に置いて、学校に行かせてくれた人です」
 「ふむ」
口ひげをたくわえた口元をもぞりと動かすと、ハルセケルは、視線を辺りにめぐらせ、目当ての人物を見つけ出した。
 「ラキ!」
鋭い声に呼ばれて、船の間を駆け回っていた男が、ぱっと顔を上げた。
 「はい?」
 「こっちへ来い」
駆け寄ってきたラキを指して、ハルセケルは言った。 
 「こいつを連れて行け。何かの役には立つだろう」
 「え? でも…」
 「お前には、確実に戻ってきてもらわねばならんからな」
短くそれだけ言うと、ハルセケルはこちらに背を向けて、さっさと行けとでもいわんばかりに桟橋のほうへ歩き出してしまった。ラキは、不思議そうな顔をして二人を見比べている。
 「一体、何がどうなってるんです?」
 「さあ。…すまないが、君には一緒に来てもらうことになりそうだ。これは、おれの私用だけど」
 「構いませんが、どこまでです?」
 「…どこまでだろうな」
シセネは、川の流れてくる方向を見やった。あの町が正確にここからどのくらい上流なのかはわからない。ただ確かなことは、この流れがあの町へ、――あの屋敷の前へと、続いているということだった。


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