第二章/4


 増水の季節とともに、石の搬出が始まった。
 川の本流から石切り場に繋がる水路に水が入り、石を運ぶための船が次々と荒野の中まで入ってくる。人夫たちは最後の一仕事とばかりに、前年切り出した石を次々と船に担ぎ込み、それらを送り出していく。採石場の周囲を哨戒しているのは、最初の船とともに送られてきた警備兵たちだった。物資監督官からの指示だ。
 石の個数を数えるための帳簿を手に、シセネが兵を眺めていると、やってきたセンネジェムが意味深な笑みを見せながら言った。
 「ハルセケルはあれで優秀な男だからな。いつも忙しくしておるから無愛想だが、必要なことには気が回る」
 「そうらしいですね。護衛の分の食料も一緒に届けてきましたし」
それに、シセネが運んだ食料以外の衣料品などの物資もだ。それらはここで働く人々の給料にもなる。足りなければ、彼らは増水の季節が終わった後、ここへ戻ってこないだろう。
 「シセネ、石の搬出が終わったら、今年はお前も町へ戻れ。治安の悪い場所に残るのは危険だ」
 「…分かりました」
 「それにしても、こんなことが起きると来年からどうしたものかな。物資を送ってもらうのに、毎回護衛がつけられるのかどうか、戻ったら相談してみにゃあならん」
センネジェムの心は、既に町の我が家へと飛んでいるようだった。最後の石がここを送り出された後、採石場の現場監督は町の家に戻り、水の引く季節までのんびりと家で過ごす。そしてまた、増水の季節が終わる頃には、人々はここへと戻ってくる。
 「そうそう、戻ったらお前の住むところを準備しないとなあ。丁度、離れに余ってる部屋があるんだよ。うちにはチビが一人いるが、なあに、そう煩くはしないだろう。あとは…」
 「待ってください、親方。そんなにしてくれなくても、住むところくらい、部屋を借りればいいだけですし。それにおれ、ずっと町に住むつもりは…」
センネジェムは、にこにこと笑いながら少年の肩を叩き、何も言わずに去って行く。
 (あれは、…もう決めたって顔だなあ)
小さくため息をつき、彼は、水路を出てゆこうとしている石を積んだ船のほうに視線を戻した。だが、よく考えてみれば、以前ほど町に出ることは怖くなくなっていた。元はといえば、かつて暮らしていた屋敷の人々が探しに来ることを恐れていたのだ。だが、この水路の先にある町は、あの町とは違う。懐かしい人々、…彼を知る人々のいる場所ではない。



 水位が頂点に達する頃、シセネは、センネジェムとともに町に到着していた。
 センネジェムの屋敷は町のはずれにある広い二階建ての家で、川に向かって張り出す一角に離れが建てられている。
 「おう、帰ったぞ。」
戸口に立って声をかけると、奥のほうから肉付きのよい女性がゆったりした足取りで姿を現す。
 「お帰りなさい。石材船が出てたから、そろそろかと思ってたわ」
 「やあ、我が妻ヘブティ。相変わらずきれいだな」
 「まあまあ。お世辞様だこと」
笑いながら、夫婦は抱擁を交わす。その足元には、二歳か三歳くらいの少女が母の服の裾をつかんで立っていた。
 「おお、ネチェリト、大きくなったなー。父さんだぞ、忘れてないな」
子供を抱き上げるセンネジェム親方の顔は、採石場では一度も見せたこともないような、とろけるような表情になっている。
 「そうだ、客人がいるんだ。こいつがシセネ、今日から離れに住んでもらおうと思ってな」
 「この方が? いつも話しは聞いてます。主人の仕事を助けていただいてどうもありがとう」
 「あ、いえ」
シセネは照れくさくなって頭に手をやった。ごく普通の家庭の雰囲気、――こういう雰囲気は、初めてだ。
 「部屋を準備しますから、居間でお休みになっててくださいな。飲み物を準備しますから」
 「ああ、そうしてくれ」
女主人が奥へ引っ込んでいくとともに、数人の召使いたちがやってきて、センネジェムとシセネの足元に足を洗うための水を入れた桶を置いていく。そういえば、以前暮らしていた屋敷では滅多に客人というものがいなかったから、こんな光景は見なかったな、とシセネは思った。サンダルを脱ぎ、足に水をかけられながら、彼はぼんやりと、接客係も兼ねていたアハトのことを思い出していた。あの老婆もきっと、誰か客人が来たら、あの曲がった腰で重い水桶を運んでこんな風にするのだ。そう思うと、何故だか胸が痛くなった。
 (どうして、今になって思い出すんだろう)
この三年、意識の外に締め出されたまま、ほとんど思い出すこともなかったはずなのに。思い出せば、苦しくなるのは分かっていた。それなのに――。
 「どうしたシセネ」
肩に子供を乗せたセンネジェムが、居間に続く廊下の先から振り返る。
 「いえ、…こういうの、少し懐かしい感じがしただけです」
足を拭いて、シセネも後に続いた。
 窓の外には狭い庭があり、その先に川が流れている。水位のいっぱいまで上がった青黒い流れには、沢山の小舟が浮かんでいた。畑にはいっぱいに水が張られ、ほとんどの農民たちは農作業のかわりに川に網を広げ、干物にしておくための魚を採っている。岸辺で泳ぎ回る子供たちの歓声が響き、緑の葦のそよぐ岸の木陰では、少女たちが意味ありげにひそひそと話し合っている。
 「いいところですね」
 「そうだろう? 向かいの州都に比べれば、こっちは静かだからな」
どっかと寝椅子に腰を下ろしたセンネジェムは、くつろいだ様子で、召使いたちの差し出す酒の杯を受け取っている。
 「ネチェリト、ちゃんと母さんの手伝いはしているか?」
 「してるよ~。」
父親の横に座っていた幼い少女の頭を撫でながら顔をほころばせる。
 「お前がもうちょっと大きかったら、シセネを婿にできるのになあ」
 「ぶっ」
シセネは、思わず水を噴出した。幼い少女は、きょとんとした顔で二人を見比べている。
 「婿ってなあに?」
 「…あの、親方」
 「はは、冗談だ。」
声では笑いながら、しかし、センネジェムの顔は笑っていない。
 「だが、お前をうちに迎えたいというのは冗談じゃないぞ。身寄りがないんだろう?なら、どうだ。わしの息子にならんか?」
シセネは、驚いて顔を上げる。
 「…でも。」
 「なあに、形式だけの話だ。身元の保証があったほうが、色々とやりやすかろう?」
 「…親方にご迷惑がかかるのでは」
 「何もさ。わしももう年だし、他に子供が出来るかわからん。娘はいずれ嫁に行ってしまう。お前みたいな息子が欲しかったんだよ」
センネジェムの声には、どんなに耳を済ませても、優しい気遣いの響きしかなかった。
 ――自分を望んでくれる人がいる。
シセネは、涙をこらえて頷いた。
 「ありがとう、親方。ここに置いてください」
ずっと居てもいいのだ。ここでは、要らない子ではない。誰も川に捨てたりしない。



 季節は巡り、新しい生活が始まる。
 水が引き、黒々とした農地が姿を現す頃、シセネは、物資監督官ハレムケトの助手として町で新しい仕事に就いた。



前へTOP次へ