第二章/3


 一晩中歩き続けて、町が見えたのは次の日の昼前のことだった。急いで歩いてきたお陰で、予定よりも早く着いたのだ。
 眼前できらきらと輝く川面を見つめたまま、シセネはしばし、我を忘れた。川の本流を見るのは、三年ぶりのことだったからだ。今は一番水位の低い季節のはずだったが、それでも川は、溢れんばかりに水を湛えて視界の果てへと流れ去っていた。
 水辺に近づいた彼は、ロバに水を飲ませながら、自分も水の中に手を差し入れた。岸辺のぬるい水は少し濁って、泥の味がする。目の前を小さな船が通り過ぎ、波が起きて足元を洗っていく。船着場は、岸辺の町にある。
 (親方は、物資監督官のところへ行けと言ってたな)
それはお上の命令を受けて、石材を含む様々な物資のやり取りを監督する役人の肩書きだった。石切り場だけでなく、鉱山や職人たちの工房に支払われる給料の管理もしているはずだ。休む暇も無く、シセネは港のほうへ向かった。港は、かつて住んでいた大きな町とは比べ物にならないほど小さい。だが、港前の狭い広場では、同じように市が開かれていた。かつてイシスネフェルトの屋敷で働いていたときにも見た光景だ。漁師たちは釣ったばかりの魚を並べ、農民たちは畑で余ったナツメヤシやザクロ、その他の野菜などを売っている。かご売り、サンダル売り、ロバやヒツジを交換しあう人々。
 そうした賑わいの中を訪ね歩いているうちに、シセネは、目指す人物をようやく見つけた。洗い立ての白い腰布を二重に巻き、二の腕には金の腕輪をはめている。そんな格好をしているのは、高級役人くらいしかいない。
 「失礼します。物資監督官はあなたですか」
船着場に係留された船を調べていた口ひげの男は、一日じゅう砂風に吹かれたシセネの格好を見て、いぶかしげに眉を寄せた。
 「なんだね君は。まるで半年振りに町に出てきた隊商みたいな格好だが」
 「町に出るのは三年ぶりですよ。それはともかく、おれはセンネジェム親方の使いです。採石場から来たんですよ」
そういって、彼は大切に持ってきた手紙を取り出した。「緊急の用事なんです。物資の輸送隊が盗賊に襲われて、採石場の食料が尽きそうなんです」
 男の顔色が、さっと変わった。ひったくるようにしてシセネの手から手紙を取り上げ、開いて読み始めるや、すぐに表情は厳しくなった。
 「全て奪われたのか?」
 「はい。輸送隊で生き残ったのは一人だけです。残りの備蓄は、あまりありません。すぐにももう一度送っていただかないと、採石場の人夫たちは飢えて仕事どころではなくなってしまいます」
 「だが、もう一度物資をそろえるとなると、すぐには無理だ」
 「では食料だけでも先に送ってください。でなければ人夫たちは引き上げさせると親方は言っています」
男がなおも躊躇しているのを見て、シセネはさらに語気を強めて重ねて言った。
 「今回の石材は、王命で神殿を建てるために切り出されていると聞いています。もし期限に間に合わなければ、責任が問われると思いますが?」
 「……。」
役人は黒い口ひげを斜めにゆがめ、じっと手元の手紙を見下ろしている。 
 「ここに書かれているシセネという男は、お前か」
 「はい」
 「書記の訓練は受けているのだな?」
 「一通りは出来ます」
 「では、お前が自分で倉庫に行って、必要なものを準備するがいい。ラキ!」
川べりで船を引き上げようと荒縄を引っ張っていた若い男が顔を上げる。「この御仁を倉庫に案内しろ。物資の手配の用事がある」
 「わかりました!」
弾むような良く響く声で返事して、若者は一足飛びに船から岸辺へと飛び上がる。短く刈り込んだ黒い髪の間から汗が流れ、ニッと笑ったとき真っ白な歯が口元に零れた。年はシセネとあまり変わらないか、少し年上かもしれない。表情は幼かったが、手足は頑丈そうだ。
 「よろしく、ラキ。おれはシセネだよ」
 「はい、どうぞよしなに。倉庫はこっちでさ」
そう言って、ラキはシセネの連れていたロバの手綱をとり、すたすたと先へ歩き出す。振り返ると、物資監督官のほうはもうこちらには興味をなくしたようで、元の仕事に戻っていた。



 案内された場所は港からそう遠くない町の一角で、家畜小屋や穀物小屋が一箇所に集まった倉庫街になっていた。筆記具を提げた書記たちが忙しそうに走り回り、荷車がひっきりなしに物を運んでいる。
 「必要なもんは何でも揃いますが、何がご入用で?」
 「食料だ。採石場で働く人夫たちの一ヶ月分――それと、できれば医薬品も欲しい。」
 「そいつは大量ですね」
 「今月着くはずだった食料と同じだけあればいいんだ。量は覚えてる、書くものはあるかな?」
ラキはちらりとシセネのほうを見た。
 「旦那、書記なんです?」
 「旦那ってほど偉くはない、親方の助手だ。運ぶのにロバも必要だ。余ってるものはいるか?」
 「そいつは準備出来まさあ。ただ、人手のほうは、あんまり割けませんよ。なんせもうすぐ大祭の時期だから」
 「大祭?」
 「ええ、ご存知ないんですかね。ここの向かいの州都で、毎年、王様やら貴族様やら来て盛大にやるんで」
言われてはじめて、シセネは、川の対岸にあるもう一つの大きな町に気が付いた。遠く陸地の奥のほうに、白っぽい――そう、大きな神殿や、お屋敷か何かだろう。立ち並ぶ建物がある。だがそれは、一度も見たことの無い町だった。
 「あれが…州都なのか?」
 「そうですよ。知らないなんて驚きだなあ。旦那、ここらの出身じゃないんで?」
 「うん。こっちへ来てからは、ずっと採石場で働いてたし」
知らなかったのだ。
 ここは、かつて暮らしていた、あの町の近くではなかった。イシスネフェルトの屋敷のあったあの町は、川のこちら側、東のほうにあった。けれどここは、西側に州都がある。日の沈む方角に、シセネが育った谷間の集落のある同じ側に。
 (逃げ出したあの時、州の境目を越えたんだ)
今更のように、シセネはその事実を知った。
 「前は、もっと上流の町にいたから…。でも、同じくらいの時期にお祭りをするんだね」
 「この季節はどこの町でも祭りですよ。王様が巡幸して来る祭りはそう多くないですがね」
心なしか、ラキは少し胸を張った。「何せこの州の州都は、王様のご先祖様の守り神とかがお祭りされてるんで。」
 「ふうん。どんな神様なのかな。」
 「興味がおありなら、あとで神殿に行ってみるといいですよ。州都の神殿はちょいと遠いですが、こっちの町にも小さいのがありますからね。ところで、穀物はどのくらい運びます?」
町の話は、そこで一度途切れた。シセネはラキとともに倉庫の在庫を確かめ、必要な量に足りるだけの食料を運べるか確認した。そうして、夕方までかかってようやく、何とか必要な量をかき集められるという結論に達した。ただし、それにはロバ十五頭につき一人しか人をつけられない、という条件の下でだったが。
 「ずいぶん遅くなってしまったな」
倉庫街を出たシセネは、既に日が傾きつつある空を見上げた。
 「そうですね。旦那、泊まるところは決まってるんで?」
 「いや、町についてすぐ物資監督官に会いに行ったから…」
 「それなら、いい宿を紹介しますよ。知り合いがやってるとこで、安いがそこそこですよ」
シセネは、言葉に甘えることにした。初めて来た町で、これから宿を探すにはもう時間が遅かったからだ。
 連れられて向かった宿は、港前から続く大通りから一本路地裏に入った、静かな場所にあった。
 「ここですよ。通りに出れば食い物は手に入りますね。」
 「そういえば、神殿は何処にあるんだい」
 「通りを真っ直ぐ港の反対側ですよ。町の奥です。お参りですかね?」
ラキは意味ありげな顔をする。「採石場で働く人たちは、熱心だって聞きますからね。いや悪い意味じゃないんですよ。川のほとりに暮らすより、ずっと神様のお恵みを強く感じる場所なんでしょうな、荒野のほうってのは。」
 「まあ、そうかも」
ロバの手綱を受け取って、シセネはラキに別れの挨拶をして宿の入り口に向かった。
 (明日の朝、物資監督官に、許可を貰ってすぐ荷造りに取り掛かれば、間に合うはずだ)
荷造りに一日かかったとして、夜のうちに出発すれば人とロバの飲む分の水を少しは節約できるだろう。問題は、ロバの監視に連れていける人手が足りないことで、夜道を行くには少し不安もあった。野犬などに出くわしたら、ロバたちは怯えて逃げ出してしまうかもしれない。――それに、前の輸送隊が襲われた盗賊のこともある。
 (護衛をつけてもらえるか聞いてみよう)
それが無理ならせめて、少しでも安心できたほうがいい。そう、だから、神殿へ行くのだ。
 宿に荷物を置いたシセネは、その足でラキに教えられた神殿の方角へと向かった。町の、人に満ちた雰囲気は久し振りだ。夕陽に照らされて、家路を急ぐ人々とすれ違うとき、ふと、懐かしさが、微かな痛みとともに胸を過ぎってゆく。無我夢中で生きてきた三年は、あの夜の痛みを拭い去るには短すぎた。思い出すな、と彼は念じた。胸の辺りに拳をやりながら、蘇ろうとする面影を振り払う。あれはもう、過ぎた日々のことだ。戻れない場所だ。
 神殿の門の前に立った彼は、ほっとして拳を下ろした。シセネの知っている神殿とは似ても似つかない、それよりはずっと質素で、腰の高さほどの低い壁が囲んでいるだけの、荒削りな石造りの建物だったからだ。入り口には、聖域の境界を示す段差があったが、それを越えればもう目の前が建物の入り口で、長い参道も、びっしりと彩色の施された荘厳な白い壁もない。ただ、神々に敬意を示すためなのか、建物の壁には漆喰が塗られ、申し訳程度の彩色は施されていたが。
 入り口で足を止めて、彼は、そこに記された文字を読んでみた。
 (聖なる丘に在りしもの… 死者の導き手…)
 「ご参拝の方ですかな?」
はっとして振り返ると、壁と入り口との間の狭い隙間で、書板を手にした初老の男がにっこり微笑んでいた。「そこに水壷があるでしょう。足を洗って、履物を脱いでお入りなさい」
 「あ、はい」
シセネは慌てて、砂だらけのサンダルを脱いだ。男は、頭をきれいに剃って、真っ白な腰布と履物を身に付けている。きっとここの神官なのだ。
 神殿の中は、よく掃除されて床の石はつるつるとしていた。履物を手にしたまま、シセネは裸足で奥のほうへと入ってみた。外の熱気とは裏腹に、石造りの建物の中にはひんやりとした静謐な暗がりがわだかまっている。こんなに涼しければ、ついお祈りではなく涼みに入ってくる人もいそうなものだが、そうなっていないのは、神官が見張っているからかもしれない。
 神殿と呼ばれる建物中に入るのは、これが初めてだ。どうすればいいのかと考えていたシセネは、一番奥に、採石場でセンネジェム親方がいつも拝んでいた祠とよく似た扉を見つけ、ほっとしてその前に膝をついた。たぶん、お祈りの仕方は同じだろう。
 拝礼を終えて外に出ると、神官は、さっきと同じ場所にまだ座っていた。入り口でサンダルを履きなおしていると、話しかけてくる。
 「あなたは旅人でしょうかな」
 「ええ。採石場のほうから来たんです。これから戻らなくてはならないので、道中の無事をお祈りできればと思って」
 「それは良かった」
神官は、にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべている。
 「ここの守護神様は、迷える魂の導き手。夜の闇を彷徨う者に道を指し示してくれるはずです」
 「……。」
シセネは、思わず神官の顔を見た。「どうして夜だと分かったんです」
 「夜に荒野を越えてゆくのでしょう。この季節に採石場へ向かう旅人は、大抵そうします。昼間は暑いですからね」
 「ああ、なるほど」
ほっとして、彼はちらりと神殿の入り口のほうを見やった。シセネが出てきたのと入れ違いに、町の住民らしい老婆が一人、手に捧げものを持って中へ入っていく。老婆が遠ざかっていったのを見届けてから、彼は尋ねた。
 「あの、神官様はここにお祭りされている以外の神様のこともご存知ですよね?」
 「ええ、それは勿論。全てではありませんが」
 「黒い犬を知ってますか? 昔から時々見えるんです。最初はただの野良犬だと思ってて、でも親方は、それは神様の御使いかもしれないと言うんです」
神官は、口元に笑みを浮かべた。
 「あなたは墓守か、死者の弔いにまつわる仕事をされたことが?」
 「…いえ」
 「ではあなた自身が死に掛けたことがおありなのでは」
シセネは少し驚きながら、苦々しい顔で小さく頷いた。「生まれたすぐの頃に」
 「それで助かったのですね。」
 「ええ。でも、どうしてそんなことを?」
 「黒犬は死者を守る者でもあるからですよ。貴方は一度死に、神の御意志でこの世に送り返されたのかもしれません。だとすれば、貴方の魂は既に、その御方の担保に入っているのですよ。貴方自身の成すべきことのために」
 「成すべき…こと?」
彼は思わず、自分の心臓に手をやった。手の下で心臓が波打っている。「…おれは、あいつに助けられたってことなんですか?」
 「貴方のご覧になっているものが、私の思う方の御使いであるならば。」
 「でもおれは、罪を犯しました」
シセネは懸命に言葉を捜した。「あいつはずっと見ていました。おれは、正直者でもなければ、善良でもない…。神の使いなら、どうして助けてくれるんですか?」
 「ふむ」
神官は、書板の縁にかけていた手を胸の前で組見直すと、視線を巡らせた。
 「神というものは罰するだけの存在ではないのですよ。時に許しを与えられる方々です。罪は、より重い罪と引き比べて打ち消されることもあります。たとえば、貧しい母が飢えた子を抱えて、その子のために盗みを働いたとします。パンを盗まねば子供は飢え死にする。盗みの罪と子殺しの罪。あなたはどう思いますか」
 「……死んでしまったらもう、生き返らない。子供を殺すわけには行かないと思う」
 「そうです。母はパンを盗むでしょう。けれど悔いていれば、神々はお許しくださる。盗みの罪は償えるのです」
 「……。」
 (だけど、おれの罪は墓荒しだ)
本当なら死罪になるはずの罪だ。
 「貴方が悪人ではないことは見れば分かります。もし、守護者が今も手助けしてくれているというのなら、それは許される罪なのでしょう。貴方自身が成すべきことを探してください。それは、貴方にしか出来ないことのはずですから。」
 「……。」
釈然としない気持ちはまだあったが、もう日はとっくに沈み、町は夜に沈み始めている。さっき入っていった老婆も、用事を終えて出て行ってしまった。シセネは神官に小さくお辞儀をして礼を言うと、神殿をあとにした。川から吹き上がってくる夜風に身を任せながら通りをぶらぶらと歩いていると、不思議と感覚が冴えて、神官から聞いた言葉が蘇ってくる。
 (おれは、どうしてここにいるんだろう)
生まれてすぐに川に捨てられた時に、本当なら死んでいたかもしれないのだ。あるいは、神官の言うとおり、一度は死んで、息を吹き返したのかもしれない。それが何かのためだとしたら、――何かの目的のために生かされたのだとしたら一体、何のためなのだろう。子供を捨てた母親と再会させて彼女の罪を責めさせるため? いや、違う。もしそのためだったとしたら、今も黒犬がついてきている意味が分からない。あの黒犬は、一体、自分に何をさせたいのだろう。
 答えてはくれないとは思ったものの、直接会って聞いてみたいと思った。だが、その夜は、町のどんな路地裏にも、黒犬が姿を見せることはなかった。普段はふらりと現れるくせに、こちらから会いたいと思った時に限って見つからない犬なのだった。



 次の日、シセネは朝一番で物資監督官のもとを訪れて、食料を採石場に運ぶ許可をとりつけた。ただし、どんなに交渉しても人手はあまりかけられないということだった。護衛もすぐにはつけられない、新しく雇うなら時間がかかるといわれて、それは諦めることにした。ぐずくずしていたら、採石場で待っているセンネジェムたちの食料が尽きてしまう。それに、一日も早く戻って安心させたかった。
 丸一日かけて荷造りを終えたシセネは、その足で、採石場へ戻るために町を出ることにした。ラキも一緒だ。
 「お供して来いって、うちの雇い主様のご命令でね」
そう言って、若者は白い歯を見せてにやりと笑った。「荒野に出るのは初めてでさあ。しかし、ほんとにいいんですかい旦那。盗賊が出るって分かってて、こんな人数で」
 「仕方ないさ。護衛を待っていたら、約束の十日が過ぎてしまう。」
戻るのが約束の日より遅くなってしまったら、採石場の人夫たちは石材を送り出す前にみんな町へ引き上げてしまって、神殿を作るための石の搬出に間に合わなくなってしまう。
 背に重たい食料を積んだロバたちは、一列になってのろのろと日暮れの砂地を歩いてゆく。人間たちは、その脇に付き添って、時に足を止めて道草を食おうとするのをせかし、列を外れようとするのをおしとどめながら、忙しなく視線を走らせている。
 「十五頭に一人ですからねえ。何もなくったって、ちょいと大変だ。もし盗賊の"と"の字だけでも出てきたら、連中、あわくってバラバラに逃げ出しちまいますよ」
 「見た目と違って心配性なんだな、君は。」
 「そういう旦那は、見た目と逆で図太すぎますよ」
にやにやしながら、ラキは手に持ったムチを振り回してロバを追う。
 「それに、うちのご主人様に面と向かって交渉する人なんて、滅多にいないんですよ。なのに旦那ときたら、あの強面にずけずけとものを言うんですからね。」
 「……。」
どうしてだろう、とシセネは思った。以前なら怖がって、臆しながら話しかけていたかもしれない。でも今は相手が誰でも怖いとは思わないのだった。



 列は遅々として進まず、夜通し歩いても、一人の時の半分も進めていなかった。
 空が白み始めたのを見て、シセネは列を止めさせた。そろそろ暑い昼間を過ごせる日陰を見つけなくてはならない。
 「そこの谷間で夜を待ちましょう。ロバの荷を降ろして、皆さんも夕方まで休んでください」
谷間は日陰になっていて少しは涼しかったが、風がなく、汗はじっとりと肌に浮かんでくる。水袋が人々の手から手へと回され、あっという間に空になっていく。ロバたちは、疲れた様子で足を折って冷たい岩に体をもたせかけている。
 「噂に聞く以上ですねぇ。こりゃあ、ひどい世界だ」
ラキはサンダルを脱ぎ、ぶつぶつ言いながら砂を払っている。
 「まるで流刑地ですよ。どんなに給料がよくったって、こんなところで一年だか半年だか暮らせなんて言われたら、御免こうむりたいですね」
 「採石場はそれほど酷くはないよ。どこだって、慣れれば暮らせるもんさ。」
 「そうですかい?」
ひとつ欠伸をすると、彼は、地面の上にごろりと横になった。シセネも、自分の休む場所を探して腰を下ろす。岩壁の冷たさに身を任せているうちに、意識は次第に遠のいていった。
 どのくらい時間が経っただろう。
 ふと、シセネは何かの気配を感じて目を覚ました。寝過ごしてしまったのか、もう日は西の空に姿を消し、高い空にわずかに赤みが残っているだけになっている。だが、誰も出立の準備をしようとしていない。
 「しっ」
体を起こそうとすると、すぐ隣で、ラキが口に指を立てた。「静かにしていてくだせえ。今、皆が様子を見に行ってます」
 「どういうことだ?」
 「足音がするんで…、それから、人の声も」
崖の上のほうから、ぱらぱらと小さな石が落ちてくる。と同時に、人が一人、滑り降りてきた。
 「どうだった」
 「たぶん、採石場への物資を奪ったってぇ盗賊ですよ。武器持った連中がウロついてやがります。数は…二十人くらい」
 「二十か」
ラキは小さく舌打ちした。「せめて同数ならなぁ」
 「どちらにせよ、こっちには武器もないし、武器の扱いの心得もないんだ。」
立ち上がって、シセネは周りを見回した。
 「旦那、どうされるんで?」
 「おれもどんな具合か見てこよう」
谷をよじ登ると、岩に体をつけるようにして様子を伺っていた数人が、目で頷いた。彼らの視線の先には、手に松明を持ち、辺りを調べまわっている黒い影がある。
 「ロバの足跡で気が付いたんだな。つい最近、隊商がここを通ったはずだと」
 「どっちへ行ったか探してます。この辺で足跡が途切れてることはバレてるでしょう。じきにここにもやってきます」
荷運びの人夫は怯えた様子だ。
 「逃げましょう。荷を置いていけば、追ってこない」
 「……。」
シセネは、谷のほうに視線をめぐらせる。向こうはまだ、こちらが隠れている場所に気づいていない。今なら、盗賊たちがいる方向とは別のほうに抜ければうまく逃げられるかもしれない。
 その時、さあっと風が吹いてきた。
 (あ)
思わず挙げた視線の先に、崖の上に、ぽつんと黒い犬が立っている。
 「あっちだ」
 「え?」
シセネは、両脇の男たちを見た。
 「谷の奥に抜けられる道がある。皆を呼び集めるんだ。急いで出立の準備を。こっちは風下だ、大丈夫。気づかれない」
戸惑う人夫たちを急かしたて、シセネは崖を滑り降りて自らもロバに荷をくくりつけに取り掛かった。ラキは仰天している。
 「本気ですか旦那。この数のロバを連れて、盗賊どもから逃げ切ろうなんて」
 「出来るさ。説明は、あとだ。今は急いで」
風が強まってきた。空を薄い雲が帯状になって流れている。間もなく太陽の残した最後の光も消え、辺りは真っ暗になるはずだ。
 火も持たず、シセネは狭い谷の切れ目をぬうようにして歩いた。目の前を行く黒い犬は、時折振り返ってはシセネがついてきていることを確かめる。闇の中にあっても、その犬の姿だけは、不思議と見失うことがないのだ。最初は半信半疑だったラキたちも、迷い無く歩くシセネの後ろをついていくうちに、もしかしたらと思い始めていた。
 やがて、唐突に崖が途切れた。
 目の前に広がっているのはさっきまで歩いていたのとは別の谷間だった。反対側に出たのだ。驚きとともに歓声が上がる。
 「少し遠回りになるが、こっちからでも採石場に行けるはずだよ」
遠ざかっていく黒犬の後姿を見送りながら、シセネは、内心ほっとしていた。谷の切れ目からは、荷をつんだロバが次々と導き出されてくる。最後の一頭は、ラキが押し出してきた。彼は頭をかきながら、今しがた自分たちが通り抜けてきた細い岩の隙間を見上げていた。
 「どうして分かったんです? ここが通り抜けられるって」
 「前にも通ったからね」
シセネは誤魔化して答える。
 「それにしても運がいいですよ。連中に気づかれる前に通り抜けられるなんて――」
 「そうだな。さあ、ぐずぐずしないで先を急ごう。夜明けまでにもう少し距離を稼いでおかないと。」
ロバの隊列を追って歩き出そうとした時、足元に明るい光が落ちてきた。見上げると、ちょうど雲の切れ目から月が姿を現すところだ。天の高いところに輝く、丸みを帯びた月。
 振り返ると、崖の上で光を浴びている黒犬の姿が見えた。舌をだらりと垂らし、こちらを見下ろしている。
 (ありがとう)
声に出さずに心の中で礼を言う。犬はぴんと耳を立て、嬉しそうに尾を振ると、向きを変えてどこかへ消えていった。


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