第二章/2


 シセネが怪我をした男を連れ帰ると、採石場は大騒ぎになった。何しろ自分たちの給料でもある物資が丸ごと何者かに奪われたというのだから。それをセンネジェムがなんとか収めて、男の怪我の手あてをし、やっと落ち着いたのは、もう日もとっぷりと暮れたあとのことだ。
 男の話を一通り聞いて小屋を出た時、目の前の低い空には細い月がかかっていた。
 「シセネ」
遅れて、センネジェムも外に出てきた。
 「本当に、今夜見張りを立てなくて大丈夫だろうか?」
 「火を焚く燃料もないのに、真っ暗な中で見張りなんかしたって意味がないですよ。それにもし襲われても、一人で盗賊に太刀打ちするのは無理でしょう」
 「だがな、近くに盗賊がいるというのに…」
センネジェムは、なおも心配そうに胸の前で手を揉みしだく。この男は、善良で辛抱強く皆に慕われてはいるが、町育ちでこうした事態に慣れていないのだ。シセネは、小さく笑って安心させるように言った。
 「安心してください。そいつらだって、ここがお上の命令で石を切り出してる採石場だってことは知ってるはずですよ。ここを襲えば、お上の怒りを買うんです。軍隊に追われるのは誰だって嫌ですよ」
 「ふむ、そうか。」
機嫌を良くしたセンネジェムだったが、またすぐ表情が暗くなる。
 「…しかし、今回の分の物資が届かないとなると、一体どうすればいいのやら。」
 「もう一度、町から物資を送ってもらうしかないですね。この状況も知らせなくてはならないし」
 「途中で襲われるかもしれんのに、誰が行ってくれるというんだ?」
男は頭を抱えている。
 「ご心配なく。おれが行きますよ」
 「お前が?」
 「石材の引渡しまで猶予がないのに、人夫をやらせるわけにもいかないでしょう。明日の朝一番で出ます。親方、手紙を書いてくれませんか」
 「それは勿論。しかし…」
 「大丈夫、ここにいる人たちを飢えさせたりしませんよ。」
もぞもぞと口の中で何か呟いていたセンネジェムだったが、ややあって、覚悟は決まったようだった。深い溜息とともに、「わかった」と頷いた。
 「なあシセネよ。しかしお前は、どうして、あの男に気が付いたのだ? 輸送隊が襲われたことは誰も気づかなかったし、襲われた場所からは物音も聞こえない距離だろう」
 「え、…」
シセネは、返答に窮した。
 「…犬が…教えてくれたんです」
 「いつも言ってる黒い犬か?」
 「ええ。信じてもらえないかもしれないけど…。」
 「ふむ」
センネジェムは、笑いも否定もせず、あごに手をやった。
 「錯覚でないのだとしたら、もしかしたらそれは、お前の守護神みたいなものかもしれんなあ」
 「守護神?」
 「人に取り憑くものには良いものも悪いものもいるが、人を助けてくれるなら悪いものではなさそうだからな。」
 「でも、あいつはただの…。」
野良犬のはずだ。
 「まあまあ。わしも詳しくはないが、黒犬の姿をとる神の御使いもいる。こんど町に行ったら、神官にでも聞いてみるがいい」
 「はあ」
 「もし助けてもらったことがあるのなら、礼はしたほうがいいぞ、シセネ。」
そう言って至極まじめな顔でシセネの肩をぽんと叩くと、センネジェムは小屋の中へ引き上げていく。振り返って、シセネは地平に消えようとしている細い月を眺めた。
 (あいつが神の御使いだって? そんなはずは…)
子供のときから、気がつけば側にいた。だから、あの黒犬はシセネがどんなことをして生きてきたのか全て知っているはずだ。一度ならず墓泥棒に手を貸したことも。インニの悪事を知っていて見逃したことも。神様なら、罪人を助けてくれたりしないのではないだろうか。
 だが、闇の中にじっと目を凝らしていると、不思議と疑う気持ちは消えていった。
 あの黒犬は、今も何処からか自分を見つめている。そんな気がした。



 翌朝、シセネはまだ夜が明け始めたばかりの時間に起き出して、身支度を整えた。
 「いいかシセネ。気をつけて行ってくるんだ。無理はするな。いちばんは自分の命だぞ。」
 「わかってますよ」
 「それから、この書簡は"蝮とシカモア樹の町"の物資監督官に渡すんだ、川のこちら側の町の、港にいるはずだ」
書簡を手渡しながら、センネジェムは心配そうに両手を揉みしだいている。
 「どんなに急いでも、町から往復するのに五日はかかるだろう。食料の残りも少ない。十日経ってもお前が戻ってこなかったら、わしはここの連中を一度、町へ引き上げさせるつもりだ。」
 「…分かりました。それまでには必ず今月分の物資をもう一度、送らせる手配をします。」
水と荷をロバの体に括りつけて歩き出すと、背後から朝日が追いかけてくる。背中に熱を感じて、シセネは歩調を速めた。歩いていられるのは日が登りきるまでの間だけだ。昼間は、暑くてとても歩き続けてはいられない。
 左右は切り立った岩山、足元は歩きにくい石だらけの荒野。ときおりサンダルの緒の隙間に小石が入り、足が砂に取られる。肌がちりちりと焼けて、もう歩くのは無理だと思える時間になったところで、シセネは、岩陰を見つけてそこに入り込んだ。ロバの荷を降ろし、水と飼い葉を与えて自分も休む。次に歩き出すのは、日が傾く夕方だ。夜ならば日の光に焼かれることなく、歩きやすいはずだった。
 岩陰に横たわっていると、熱を帯びた風が通り過ぎていく。この季節は、一年で一番暑い時期だ。日陰にいてもじりじりと、体じゅうの水が搾り取られていくようだった。
 (でも、こんなのは慣れてる)
シセネはぼんやりと、蜻蛉の揺れる陽だまりを眺めながら思った。
 (あの谷は…、いつもこんなだった)
子供の頃を過ごした西の谷は、ここと同じように乾ききって、熱い季節には地面が灼けて、昼間は裸足で歩けないほどになった。水を汲む唯一の小さな井戸は大抵枯れていて、水が溜まっていても先に力の強い大人たちが汲み上げてしまう。乾きに耐えかねて川べりまで水を汲みに行ったことも何度もあった。余分を家に溜めておいても、いつの間にか誰かに使われてしまう。食べ物も飲み物も、見つけたらその場で全部口に入れてしまわないと、後にとっておけば必ず無くなるような場所だった。
 目を閉じながら、彼は遠い日々のことを久し振りに考えていた。何処にも行けなかった、あの頃。酷い場所だと思いながら、何処か別の場所へ行けることを知らなかった。
 今は違う。――この荒野は、自分が選んで住み始めた場所だ。あの谷とは違う。
 熱の宿る風を頬に感じながら、彼が思い出していたのは、黒く日に焼けて痩せた、骨ばった腕を持つ男のことだった。喉の渇きが耐え切れなくなる時、決まって男の腕は、何処からとも無く素焼きの壷を取り出して、どやしつけるようにシセネの目の前に突き出した。壷に入った冷たい水を貪るように飲んでいる間、男は決まって、このくらい自分で出来ないのかとか、どんくさいやつだとか、ずっとぶつぶつ言っていた。そして、空になった壷を乱暴に取り上げて背を向けて、どこかへ行ってしまうのだった。
 (……インニ)
遠く離れ、自力で生きていくようになった今だから、分かる。――あの谷間の集落を離れることが出来なかったのは、単に子供だったからでも、世の中のことを何も知らなかったからでもない。たとえそれが欲から出たものであったとしても…この世でただ一人、シセネを思ってくれた人だったからだ。
 誰も誰かを助けようとせず、誰かに何かを与えることも知らないあの谷で、それでも、あの男は確かに、シセネの命を救ってくれていた。



 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。目を覚ました時、日はもう西へ傾いて、影が長く延びていた。そろそろ出発の時間だ。
 シセネは元通りロバに荷を括りつけ、岩陰を出発した。町のある方角へは真っ直ぐに谷間に沿って、枯れた川の跡を辿っていくだけだから、夜でも迷いはしない。歩きながら、持ってきたパンを一切れ口放り込み、水で流し込む。夕陽は西の崖の向こうに消えて、深く切れ込んだ谷の底はあっという間に影になってしまった。
 昼の光に照らされた地面の熱は冷め、風は急激に冷たさを増す。夜空を星が埋め尽くす頃、彼は荷物の中から薄い上着を取り出して上半身に羽織った。ロバは大人しく、シセネに引かれてついてくる。人気の無い谷に、動いているものはほとんど居ない。時折出会うのはサバクキツネとか、スナヘビくらいのものだ。風の音と、自分たちの足音を除くと、耳が痛くなるくらいの静寂が辺りを支配している。
 その時、シセネはふと何かの視線を感じて足を止めた。
 振り返ると、暗がりの中、なぜかはっきりと黒い犬の輪郭が見えた。
 「…こんなところまで、着いてきたのか」
尾を振ると、犬はシセネを追い抜いて闇の中へと消えてゆく。
 (このまま行けってことなんだろうな)
彼は再び歩き出した。頭上にはぼんやりと白く、天の河が地上と天を繋ぐようにして広がっていた。






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