第二章/1


 一歩外に出ると、視界が一瞬真っ白になるほどの強い日差し。顔の上に手を翳して、彼は日陰を探した。とはいえこの岩と砂しかない狭い谷間で、日陰などそう多くは無い。せり出した岩の陰は既に労働者たちで占められ、残りは小太りな男がせっせと書類を繰っている天幕の下くらいだ。しかし、まさにその人物こそが、探していた相手でもある。
 口元に小さく笑みを浮かべ、彼は天幕に近づいていった。
 「センネジェム親方」
呼びかけると小太りの男が、額から垂れかかる汗を拭いながら顔を上げる。
 「おお、シセネ。進捗はどうだったかね」
 「西組は問題ありません。東は遅れ気味ですが、休んでいた者が明日から復帰しますから、期日までには何とか」
 「おお、そうか。」
センネジェムがはふう、と大げさに息をつきながら体を動かすと、腰を下ろしていた小さな椅子が、かわいそうなくらい音をたてて軋む。
 「それにしても暑い。うだるような暑さだ。ああ、一刻も早く河辺の町に戻りたいものだ…」
 「もうしばらくの辛抱ですよ。もうじき、増水の季節が始まります」
男は、ちらりと視線を傍らに向ける。
 「お前は、今年もまたここに残るのか」
 「ええ。誰か現場に残っていたほうがいいでしょうし、…おれ、帰るとこないですから。」
 「遠慮せずにうちの家に来ればいいのに。離れもあるし、部屋は余っとる。いくらでも泊めてやれるぞ」
 「…町より、ここのほうが何となく落ち着きます」
 「ふうむ」
センネジェムは、丸っこい指を顎に当てた。
 「お前がここに来てからもう三年になるかなぁ。」
 「そんなものでしたっけ」
 「背はずいぶん伸びたし、少しは男らしくなったものよな。」
にやりと笑い、男はシセネの汗ばんだ胸をこづいた。「どうだ。例の話、真面目に考えてみてはくれんか」
 「例の…って、町の仕事ですか?」
 「そうだ。わしの上司にあたる人が手伝いを探しておってな。お前はまだ若い。こんな辺境の採石場で帳簿つけとるより、ずっと良かろう?」
 「……。」
シセネは、困ったような笑みを浮かべる。返答がないのを見て、センネジェムは一つ溜息をついた。
 「まぁ、今すぐ決めんでもいい。お前がその気になったら、いつでも、な。」
卓の上に広げていた書類を丸めて皮のかばんに仕舞いこみながら、男は椅子から腰を上げた。
 「いつものお参りですか?」
 「ああ。」
差し出されたかばんを自分の肩にかけながら、シセネは、雇い主の男の後ろに付き従った。天幕を一歩出ると、容赦ない日差しに冷えかけていた汗が再び噴出し、肌がちりちりと焼ける。だがこれでも、真昼よりは涼しくなっているはずなのだ。太陽は天頂を過ぎ、影が少しずつ長くなりはじめている。
 センネジェムは、いつもこのくらいの時間に前日の進捗の確認を終え、丘の脇に作られた祠にお参りにいく。それは、欠かさず行われている日課のようなものだった。谷間には、石を切り出す人夫たちの打ち付ける槌の音がこだまし、土埃と汗の匂いとが風に混じって流れてくる。灰色がかった大小の石が切り出されて崖の外に並べられていて、近くまで引き込まれた水路に水が満ちるのを待っている。増水の季節が始まり、水路に水が満たされれば船が着いて、並べられた石を積み込んで目的地へと運んでゆくのだ。
 「こんどの石材は、神殿の建て増しに使われるんでしたね」
シセネは、ちらりと石切り場で働く人々のほうに視線を投げかける。
 「ああ。注文主はお上だ、期日に遅れることは許されん。お前が居てくれて助かったよ。人夫の連中はすぐ誤魔化したがる。わし一人では崖を駆けずり回って進捗の管理をするのは、しんどい話だからな。」
 「お役に立てていれば、嬉しいですよ」
言いながら、彼はふと、この谷へ来たばかりの頃を思い出していた。

 ――とにかく、遠くへ行きたかった。

 行くあてもなくさ迷い歩いていたとき出会ったのが、荒野を越えようとしていた商隊だった。彼らは、シセネに読み書きが一通りできると知ると、途中の石切り場の親方に彼を紹介して旅路を続けて去って行った。それからというもの、彼はずっとここで、石切り場の親方センネジェムの仕事を手伝っているのだった。
 ここからは、川は見えない。川の西岸も東岸もない。
 川の代わりに深い井戸があり、増水の季節にだけ水が張られる水路があり、緑のない乾いた荒野が果てしなく広がっている。白く輝く壁を持つ建物もなければ、きらめく瞳をした長い髪の少女もいない。夜空は町で見るよりずっと孤独で、昼は苛烈で厳しかった。
 ただ、夜明けと夕焼けはここにも同じようにあり、パンと暖かな食べ物と、眠る場所とがあった。
 それで十分だった。生きるために最低限必要なものは、それですべてだ。



 行く手に、石を組み上げて作った、荒削りの小さな祠が見えてきた。砂に埋もれるようにして立つその中には、誰が作ったのか分からない女神像を中心として、採石場で働く人夫たちがめいめいに持ち込んだ大小さまざまなお守りや神像が並べられている。センネジェムは祠の前で足を止め、膝をつくと、地面に平伏するようにして祠に頭を下げた。それが神に祈るときの正式な所作なのだとは、シセネもここへ来てから教わった。肩にかけたかばんを下ろし、同じようにしようとしたとき、視界の端に黒っぽいものが過ぎった。
 顔を上げると、ちらりと尻尾の先が見えた。
 (黒い犬…)
 「シセネ」
センネジェムに名を呼ばれ、彼は慌てて雇い主の隣の地面に膝をついた。
 「すいません、犬がいたから、つい」
 「犬なんて何処にも居(お)りやせんぞ。暑いから見間違えたんだろう。少し木陰で休むか?」
 「大丈夫です」
祠に向かって頭を下げながら、腕の間からそっと、さっき尾が見えたあたりに視線をやったシセネは、息を呑んだ。黒い犬が、ちょこんと腰を下ろしてこちらを見つめ、まるでからかうような表情で舌を出している。
 (……クロ助)
見なかったふりをして、唇を噛み締めながら彼は目の前の祠に向かって何度も礼拝した。あの犬が、こんなところに居るはずはない。きっとよく似た野良犬なのだ。それとも、本当に疲れて幻を見ているのかもしれない。
 犬の姿を見かけるようになったのは、この谷へ来てすぐの頃からだった。
 それも決まって視界の端で、よく見ようと視線を向けると消えてしまう。きちんと姿の見えるのは、人と話をしながら視線をやった時や、寝ているふりをしているときだけだった。この谷では誰も、一度も野良犬など見たことが無いという。餌をやる人もいないのに谷に近づく野良犬などいないだろう、と皆が口をそろえるのだ。
 (おれにしか見えないのなら、幻なのかもしれない)
けれど彼には何故か妙に、その黒い犬は本当にいるのだという確信があった。
 まるで、自分のことを忘れるなと責めているようだと、シセネは思った。
 誰も彼を知るはずの無いこの谷へ来て、過去とは決別したつもりだったのに、――あの黒い犬だけは解けない呪いのように、何処までもついてくる。



 その日の夕方、シセネは、センネジェムに呼び出された。
 「何でしょう」
 「いや何、今月の物資はまだかと思ってな。」
言われて、シセネはちょっと首を傾げた。谷で消費される食料や衣類など生活用品は、毎月、一か月分がまとめて町から送られている。だが今月分は、まだ届いていない。
 「遅れているようです。ただ、備蓄はまだありますから、すぐに厳しくなることはないかと」
 「ふむ。…気にしすぎかもしれんが、この辺りも最近、治安が悪くなってきたと聞くからな」
あごの肉を撫でて呟くと、センネジェムは言った。「もう一度、食料の残りを見てきてはくれんかな。念を入れるに越したことはない」
 「分かりました。」
在庫を記した帳簿を手に、シセネは、共同で管理されている食料庫に向かった。食料庫は、採石場とは反対側、人夫たちやセンネジェムが寝泊りしている小屋のすぐ側の岩壁を掘って作られている。はしごを上ると、シセネは、手探りで燭台を探り当て、腰の袋から取り出した火打石で火をつけた。細い灯心にともる火が照らし出すひんやりと薄暗い岩の中には、町から送られてきた麦や干した魚、果物などが積み上げられている。
 (全員分として、あと二週間と少しってとこだな)
手元の在庫帳簿と照らし合わせながら、彼は思った。一ヶ月もすれば増水の季節が始まる。次に来る食料は、一年で最も忙しい石材の積み込みの時期のために、いつもより少し多めになっているはずだった。遅れているのはそのせいなのだと、シセネは思っていた。
 (…きっと、数日もすれば着くはずだ)
書類を畳み込み、灯りを吹き消してはしごを降りる。外に出た途端、正面からの強い西日が視界を奪った。
 思わず目を閉じ、そして再び開いたとき、…目の前に、黒い影が落ちていた。
 「…っ」
息を呑み、彼は思わず後退りした。目を何度もこすり、もう一度良く見る。だが、その影は、いつものように消えてはくれない。
 黒い犬が、確かにこちらをじっと見つめて尾を振っている。
 「お前… どうして」
犬はそれには答えずに、腰を上げると、ゆっくりとした足取りで崖の奥へと歩いていく。そして、何歩か歩いたところで足を止めてシセネのほうを振り返った。
 「…着いて来いっていうのか?」
そうだというように尾を振ると、再び歩き出す。
 (ばかげてる。おれは、よっぽど疲れてるんだろう)
だが、それでもシセネは歩き出していた。手にした書類を肩から提げたかばんにまとめて入れて、途中ですれ違った人夫にかばんごと手渡す。
 「えっ、旦那、これ?」
人夫が驚いたような顔をしてこちらを振り返る。
 「親方に渡しておいて。あと、食料の備蓄は帳簿通りだったって伝えてくれるかい」
手早く指示を出しながら、彼は歩調を速めた。犬が走り出したからだ。一体どこまで行くのだろう。この先は、町のほうへ続く荒野の中の道のはずだ。
 やがて行く手に何か、黒っぽい染みのようなものが見えてきた。犬は歩調を緩め、その辺りで立ち止まったようだ。嫌な匂いがする。血の匂い…、それも、そう昔のものではない。
 シセネはようやく、犬が示しているものが何なのかに気づいて足を止めた。
 「…まさか」
地面に広がる血と、散らばる麦の粒や木片、何かを引きずったような跡。踏み荒らされた地面には、生々しいばかりの暴力の証拠があった。
 呆然とし立ち尽くしていたシセネは、黒い犬が、まだ彼を待っていることに気が付いた。こっちだというように岩の前で尾を振っている。
 「何かあるのか?」
そちらへ顔を向けた彼は、はっとした。
 人だ。
 「うう…」
足音に気づいて、岩陰にうずくまっていた若い男がうめいた。どこか痛むのか、顔を歪めてはいるが、顔色は悪くない。
 「あんた町から物資を運んできた人か? 何があった」
 「襲われたんだ…、たぶん、盗賊に。」
 「ほかの人は?」
 「…分からない。…ロバから放り出されて」
シセネは、男に肩を貸して体を持ち上げた。
 「とにかく採石場に行こう。もうすぐそこだ。」
ふと気づいて視線をやると、さっきまで黒い犬のいた辺りにはもう何もいなくなっていた。そして、視界のどこにも、影のようなあの真っ黒な姿は見えなかった。


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