第一章/10


 町は何時になく賑わっていて、もう日が暮れようという時間なのに歩いている人が沢山いる。神殿から帰って来る人々の列の間を残飯を探す野良犬がうろつき、普段見かけないような物乞いまで出てきていた。そんなごったがえす通りを、シセネは、人の間を縫うように進んでいた。
 通りに面した酒場の入り口は開けっ放しで、中から大騒ぎする酔っ払いたちの声が外まで聞こえてきていた。音程のはずれた歌を歌いながら肩を組んで歩いている者、酔っ払ってそのへんの地べたで寝転がっている者。それらの間を縫うように、夜警たちが忙しく歩き回って、けんかを仲裁したり、スリを見なかったかと聞き込んだりしている。人、人、人の波の中で進むのもままならず、シセネは絶望を覚え始めていた。
 こんなに人がいては、インニを見つけられない。
 だが夜警たちが探し回っているということは、まだインニが掴まっていないということでもある。心を奮い立たせると、微かな希望を持って、シセネは港へと向かった。川のこちら側に来たのだから、小舟を借りたか誰かに乗せて貰ったか、きっと船に乗ってきたはずだと思ったのだ。そして昔からインニは、"仕事"の時に危なくなったら、逃げ回らずに安全になるまで隠れていた。
 港のあたりは流石に人の気配もまばらで、川面に生まれた波が岸辺に打ち寄せるかすかな音だけしか聞こえない。灯りもなく、停泊している船の陰が黒く夜空を切り取っている。シセネは、弾む息を整えながら辺りを見回した。ひんやりとした風が汗ばんだ肩を撫でてゆく。
 誰も居ない。
 (…おれは、何をしてるんだろう)
彼は自問する。インニを見つけたとして、一体どうするつもりなのだ? シセネは、川向こうに戻る気はない。インニも、川のこちら側では生きられないだろう。なのに…
 ふいに、視界の端を黒い影が過ぎった。
 はっとして振り返ったシセネは、舌をだらりと垂らし、尾を振りながらこちらを見ている、真っ黒な犬の姿を見た。
 「…クロ助?」
最初はまさか、と思った。だが、見間違うはずもなかった。意味ありげな視線、ちょっと傾げた首。
 シセネが気づいていることを疑いもしない様子で、黒い犬は弾むような軽い足取りで、闇の中へと歩き出す。
 「待て、クロ助!」
どうしてここにいるのだろう。まさか、インニが連れてくるとも思えない。いや、もしかしたら勝手に付いて来たのか――賢い犬だ。シセネの匂いを探して来たのかもしれない。そう思いながら、彼は走った。
 犬は時々立ち止まり、シセネが追いついてくるのを待ってからまた歩き出す。何処かへ連れていこうとしているようだ。小道を通り抜け、やがて、行く手に細い水路が見えてきた。それは、川から町中へと水を引き込むために作られた運河か何かのようだった。初めてくる場所だ。周囲が暗いせいもあって、ここが何処なのか全く分からない。
 黒い犬の姿は、いつしか見えなくなっていた。
 手探りで運河に沿って歩きながら、シセネは辺りに向かって囁きかけた。
 「クロ助、どこ? 誰かいる?」
闇の中に、もやい綱に繋がれた小舟が揺れているのが分かる。この辺りの家の人のものだろう。運河沿いの細い道は家々の裏側に面していて、ほとんどの家には窓がない。あっても小さな裏口だけだ。
 すぐ側で、息遣いの音が聞こえた。
 はっとして振り返ったシセネの口を、誰かの手が塞ぐ。
 「…声をたてるんじゃねえ」
追い詰められた獣のような殺気に満ちた低い声が耳元で聞こえた。背中に何か、硬いものが押し当てられている。「殺しはしたくねぇんだ…」
しばらく黙っていると、口を押さえていた手が緩んだ。シセネは慌てて、その手を押しのけた。
 「おれだよ、インニ」
 「何?」
暗闇の中、男が目を凝らす。長い沈黙があった。
 「誰だお前は」
 「えっ?」
 「…ってのは冗談だ。ちっ、バカな奴だ。知らん振りしてりゃいいものをよ」
インニは短剣らしきものを腰帯に戻しながら、忌々しそうに舌打ちした。
 「何をしてる、こんなところで」
 「だって、インニが捕まるかと思って。…」
少年が俯くと、男は小さく声をたてて笑った。
 「ははぁ、捕まったらお前のことまで洗いざらい喋っちまうと思ったんだな? 見くびるんじゃねえぞ、えっ」言いながら、インニは少年の胸を強く小突いた。「忘れたのか? 誰であれ、あそこを出たらもう他人だ。それが谷の掟だったろうがよ。てめぇの命惜しさに人を売るような真似はしねえ。死ぬ時は一人だ。お前はもう、俺とは他人だ。関わるな」
 「…そんな掟あったっけ」
 「あったさ。出て行く奴の理由なんざ色々だ、死のうが生きようが知らねぇ。お前のそのなりからして、どこぞの使用人にでももぐりこめたんだろうが。ならもう昔のことは忘れろ。出て行ける奴は出て行けばいい。何処にも行けない奴だけが残る。」
吐き捨てるように言って、男は背を向けた。
 「…一つだけ教えて」
 「なんだ」
 「インニはどうして、おれのこと…拾ったりしたの」
僅かな間があった。だが、すぐに男は顔を挙げ、わざとらしく調子の外れた笑い声を立てた。
 「ハハッ、そりゃお前がカネになると思ったからさぁ。見つけた時にゃいい布に包まってたし、籠もそこらの農夫の手編みじゃなさそうだったからよ。よほどの事情か、訳アリの金持ちの子かと思ってな。手元に置いときゃあ、いずれ誰か引き取りに来て褒美でも貰えるかと思ったのよ。」
 「……。」
 「だぁが見当違いだったな。誰も引き取りに来ないどころか、探してもそんな赤ん坊を産んだ女は何処にもいないというんだ。まったく骨折り損さ。手間のかかった割りにロクでもない、あんな布切れや籠くらいじゃ、手間賃にもなりゃしねえ。」
 「……インニ」
 「だからなぁ、お前が出て行ってくれて、こっちはせいせいしてるのよ。谷での仕事にゃ、足手まといなんざ必要ないからな」
 「でも、ありがとう」
足元の船に飛び乗って、もやい綱に手をかけたようとしていた男は、ぎょっとして顔を上げた。
 「あんたが拾ってくれなかったら、おれ…」
 「よせ。」
言いかけたシセネの言葉を遮って、男は、俯いて手を動かし続ける。辺りは不思議と静まり返って、誰もやってこない。船を盗もうとしているのが分かっていながら、シセネも、それを咎めようという気にはならなかった。
 「インニ、ずっとこんな暮らしを続けるの? また、あそこへ戻るの?」
 「ふん、わしには今更、他に生きていける場所も仕事もない。――あそこはな、全うな生き方の出来ない奴が集まる場所よ。行き場のない、もう死んだような奴が生きながら死ぬ場所よ。世の中に一つくらい、そういう場所があってもよかろうが?」
 「……。」
縄が外れた。船底にあった櫂を取り上げ、それを岸に衝くと、船は揺れながら岸を離れてゆく。最後に男は、じっとこちらを見つめている少年に向かって顔を上げた。薄ら笑みはいつしか消え、深い皺の刻まれた顔には、見たことも無い複雑な表情が浮かんでいた。
 「じゃあな。」
一言だけ言って、大きく櫂を漕ぎ出す。
 何故だか分からないが、きっと、もう二度と会うことは無いだろうとシセネは思った。西へ去ってゆく船が暗がりの奥に見えなくなるまで、彼は、ずっと佇んだまま見送っていた。



 (遅くなっちゃったな)
屋敷のある通りへ戻ってきた時には、既に夜も遅く、空には一面の星空が広がっていた。神殿から引き上げてくる人の往来も途絶え、辺りには人の気配はまばらだ。きっと酒場のあたりにはまだ大騒ぎしている客もいるのだろうが、住宅街は、もうほとんど寝静まっていた。
 通りの入り口に立っていた夜警が、ちらりとシセネに視線を投げる。
 軽く会釈して、彼は歩調を速めた。歩きながら、彼の心は既に決まっていた。
 (全部、話そう)
あの屋敷の人たちに、知ってもらいたかった。自分が今まで何をしてきたのか、どんな罪を犯してきたのか。いつまでも黙ったまま屋敷に住み続けることは出来ない。
 ――あの人たちなら、きっと受け入れてくれる。
 入り慣れた台所に通じる勝手口を押し開くと、嗅ぎなれた台所の匂いが体を包む。かまどの火は、まだ完全には消えていない。キヤはそこに居なかったが、最後の仕事を終えて床に向かってから、まだそう時間は経っていないのだろう。
 裏口の閂を下ろし、中庭に出たシセネは、二階の窓にまだ灯りが揺れているのを見上げた。
 (奥様、まだ起きてるんだ)
だがそれは、珍しいことではなかった。イシスネフェルトは夜の寝つきが悪く、代わりにいつも朝が遅い。この時間ならムトノジュメトは眠っているだろうし、話をするなら今のほうがいいかもしれない。シセネは、向かいの部屋に眠っているはずのムトノジュメトを起こさないようにと、足音をしのばせて二階への階段を登った。イシスネフェルトの部屋の前に立ち、扉を叩こうと手を挙げかけた時、中から話し声がすることに彼は気が付いた。
 誰かがいる。
 珍しく、この時間に客人でも来ているのだろうか。そっと扉の隙間から覗くと、寝椅子に腰掛けたイシスネフェルトの向かいに、両手を上品に体の前に下ろして立つ、小柄な老婆の姿があった。
 「…もう十年以上にもなります。いつまでもご自分を責められませんよう。あの時の奥様は、深く傷ついて、追い詰められておいででした。」
 「そんなものは言い訳にならないわ」
イシスネフェルトは、片手を額に当てて俯いている。燭台の灯が揺れるとともに、二人の女の影もまた揺れた。中に居るのは、屋敷の女主人とアハトだけのようだ。
 「ですが、奥様…」
 「いいのよ。もう放っておいて頂戴。わたくしは、我が子を殺した女なのです。それだけは未来永劫変わらない」
 (殺…した…?)
扉に耳をつけて聞いていたシセネの体が硬直する。これは、聞いてはいけない話だと思った。だがどうしても、扉から離れることが出来なかった。
 「知っているのは私と奥様、あなただけです。他の皆には死産だと言いましたから。奥様の兄上様も、赤ん坊は旦那様と一緒の棺に入れられたと思っております。私は決して言いません。――ですからどうか奥様、いつまでも過去に囚われずに、ご自身の幸せのために生きてください。償いならもう、十分にされたではありませんか」
 「いいえ。償って忘れられるような罪ではない。わたくしは、」深い溜息の音。「…生まれたばかりの子を、鰐か魚の餌にするために川に流したのですから。」
愕然として、シセネは体を起こした。もたれかかっていた扉に力を込めすぎて、板がかすかに軋む。
 「誰?!」
鋭い女の声がしたかと思うと、扉が内側から開いた。シセネはまだ呆然と、そこに座り込んでいた。
 「…シセネ」
イシスネフェルトの驚いた顔が、部屋の中の灯りに後ろから照らされている。立ち聞きしてしまったことを謝らなくては。
 だが、開いた口から出てきたのは、全く別の言葉だった。
 「子供を…川に流したって、どういうことですか…?」
 「あなた、聞いてしまったの」
遅れてやってきたアハトがはっとして口元に手を当てる。「いいこと? それは誰にも言っては――」
 「教えてください。どうして、そんなことをしたんですか。どうして」
 「……。」
イシスネフェルトの表情は、まるで石のようだった。取りつく島の無い、真っ直ぐな壁のようだ。シセネは震えながら、自分を見つめてくる彼女の目を真っ直ぐに見返した。目を逸らしてはいけない。何故か、そう思った。
 「あの人の子だからよ。大きくなればきっと、父親と同じように、わたくしをぶつようになる。…わたくしは、男の子なんて欲しくなかった。」
聞き終わるや、シセネは素早く立ち上がると、くるりと踵を返して走り出した。
 「待ちなさい、シセネ!」
アハトの必死な声が追いかけてくる。だが、彼は立ち止まりもしなれば、足を緩めもしなかった。ただただ、一刻も早くその場から立ち去りたかった。
 目の前は真っ白にぼやけ、次から次へ流れ落ちる涙が胸を濡らした。どちらに向かって走っているのかも分からない。足がもつれ、息が上がって胸が苦しい。だがそれでも、シセネはどこまでも走り続けた。
 もう一歩も動けないということろまで来て、彼は、崩れ落ちるようにして膝から地面の上に座り込んだ。
 「ちくしょう!」
声を上げて、真っ暗な地面に拳を叩きつける。

 ――あそこには、最初から居場所など無かった。
 ――自分だけは、あそこに居てはいけなかったのだ。

地面に大の字に転がって見上げた空はうっすらとぼやけて、星の輝きもよく見えない。
 息を吐きながら、シセネは、胸の中でどくどくと波打っている心臓の鼓動を感じていた。湧き上がったやり場の無い怒りはやがて深い哀しみへと変わり、とめどなく涙が溢れ出した。
 今の自分には、何もない。行くあても、帰る場所も。あるのはただ、生きている心臓だけ――それだけだ。
 四方から迫ってくる闇の中で、彼は目を閉じた。泣きながら疲れ果て、いつしか眠りに落ちてゆく少年の頭上で、空は、静かに明け方へと向けて白み始めていた。



-第一章 了


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