■第四章/戦禍-6


 天幕に戻ってみると、メネス、いや、今は名を変えてネジェフとなった男は、まだ寝台の上で眠っていた。ちょうど、医者を兼ねた神官が助手を連れてその側に立っている。負傷者の手当てで駆けずり回ってきたのか、白い衣の裾は血と泥に染まり、二人とも汗だくだ。
 「信じられない」
神官が呟き、患者の胸に巻いた包帯を調べている。
 「呼吸が戻っている。肺まで達していたはずなのに…熱も下がって」
 「どうしてでしょう。ご加護でしょうか?」
 「わからん。寿命を定める知恵の神が、このお方の魂をとどめおかれるよう取り決められたのかも…」
<緑の館の主>は、ちらと天幕の外に視線をやった。"寿命を定める"?
 「どういうことだ?」
 「え…あ?!」
振り返った神官の顔が青ざめ、手から治療の道具が零れ落ちる。助手のほうは、ぽかんとしているばかりだ。彼は、構わず寝台に近づき、神官たちの脇から眠っている男の身体に触れてみた。確かに、ぬくもりと生命力が戻ってきているのを感じた。<記録者>はメネスの身分と名を書き換えただけではなかったのか。
 「…大鰐…様…?」
神官が震えているところを見ると、見えている姿はひどく恐ろしいものに違いない。だが、恐ろしくない姿に見せる方法も思いつかない。彼は構わず、怯えている神官に問うた。
 「答えろ。助かるのか」
 「はい…いえ、しかし少し前までは確かに致命傷でした。」
なおも問おうとしたとき、おもてのほうで、一際大きな声が上がった。先触れが高らかに叫ぶ。
 「上下の国を統べしお方、栄光とともにあられる王陛下のお成りである!」
兵たちが、あるいは荷運びや飯炊きたちがざわめく声がする。天幕の外を慌てて走ってゆく足音。足音の向かう先は船着場のほうだ。神官と助手は顔を見合わせる。
 「陛下が来られた…?」
 「視察では。ここにも来られるのかもしれない」
<緑の館の主>は、振り返って寝台の上を見た。姿を見られてはまずい。
 「お前たち、その男を他の兵たちと同じ場所へ運べ」
 「えっ?」
 「"メネス"は死んだのだ。そこにいる男は、<沼地の村>のネジェフという」
神官は、わけが分からないという顔で男と彼とを見比べる。彼は繰り返した。
 「寝台を空け、死者は葬られたと告げよ。何か聞かれたら、<記録者>がそのように記したと言えばいい」
 「わ――わかりました」
二人の人間は、あたふたと寝台の覆い布をとり、患者を包んで持ち上げた。彼は外に出て、桟橋の向こうに浮かんでいる立派な船のほうへ視線を向けた。帆先には、赤と白の旗印がたなびく。舳先にとまっているのは、いつか沼地を訪れたときにも見た、堂々たる姿をした黄金の鷹だ。離れていても、鷹の発する輝きは見て取れる。それが威光というものだと、今ならば理解できる。わざわざ輝かせて見せ付けているのは、王の守護者たる立場からだろう。多くの人間に崇められた守護者ほど、より強い威光を持つ。目に見えなくとも、それは人ならざる存在<もの>たちの世界での力の強弱でもある。
 鷹の首がゆっくりとこちらに振られ、視線が、彼をとらえる。
 行かねばならない。そう感じた。人間たちが王の命を受けようと御座船に慌てて走り寄っていくように、人の守護者たる者は神々の王に従わねばならないのだ。


 玉座は、船の中ほどの天幕の中にしつらえられていた。
 ここへ来る前、沼地のほとりに張られた豪華な天幕の中で嗅いだのとよく似た、微かな香の匂い。外界と隔てる薄布が四方に垂れた部屋の中に、男はいた。メネスと瓜二つ、だが日に焼けていない肌はメネスよりも白く、重たげな首飾りと腕輪を嵌め、膝の上には金の杓を置いている。御座船の周囲では下船にそなえて付き人たちが慌しく走り回っているが、船に登ってゆく人ならざる者の姿には誰も気づいていない。
 彼が垂れ幕をくぐると、王は慇懃に口を開いた。
 「報告は受けている。期待通り、水際で敵を大いに恐怖させたとか。ご苦労だったな」
 「――。」
<緑の館の主>は、入り口に立ったまま、玉座の上を見つめる。
 「最初から、殺すつもりだったのか」
 「何の話だ?」
張り付いたような薄い笑みが、男の表情を覆い隠している。「戦場で死にたいと望んだのは、メネス自身だろう。」
 「……そうだな。」
それは、間違いではない。ある意味で、本人の望みはかなえられたのだ。彼は無表情に、布で仕切られた室内を見回した。豪奢な寝台と椅子、小さいが一人で使うにはゆったりとした食卓。狭い船内にあってもここは、まるで王宮の一部を切り取って持ってきたかのようだ。
 「用は何だ?」
 「つれないな、褒美をとらせようというのに。何を望む? 石碑を建て、威光を増したいか。大神殿の壁に名と姿を刻み、存在を腐朽のものとしたいか。それとも、あんな粗末な泥の祠ではなく、もっと立派な神殿を建てて欲しいか?」
 「必要ない」ややむっとして、彼は答える。ここは居心地が悪い。沼地でまみえた時の天幕と同じだ。「私の<領域>に属する者たちを連れて帰らせてもらうぞ」
 「わかった、わかった。徴兵された者たちの帰還は間もなく始まる。心配しなくても――」
言いかけたその時、甲板のほうで慌しい足音が響いた。
 「陛下!」
駆けつけた伝令が、入り口の垂れ幕の前にひざまづく。陽に照らされ、薄布に男の輪郭が影となって映し出されている。
 「どうした。」
 「は、それが…司令官の、メネス殿のご遺体が何処にも見つかりません」
 「なんだと?」
若き王の血相が変わった。
 「報告では、死んだはずではなかったのか」
 「そのはずで…神官たちも、死んだのは確かだと申しております。ご遺体は葬られ、<真実の記録者>トトが記したと――」
 「<記録者>だと?」
はっとして、王は<緑の館の主>に視線を向ける。それは、挑みかかるような凄まじい形相だった。
 「――お前の仕業か」
 「陛下?」
自分に話しかけられたのかと聞き返した伝令に、罵声が浴びせかけられる。
 「まだいたのか。さっさと行け。探せ! 葬ったというなら、どこにどのように葬ったかを聞き出すのだ!」
 「は、はい」
あたふたと、甲板を元きた方角へ走り去ってゆく足音。<緑の館の主>も去ろうとしているのを見て、玉座の男は声を荒げた。
 「どこへ行く。」
 「敵はもういない。私の役目は終わったはずだが」
 「そうではない。答えろ、メネスをどこへやった?」
 「どこへも。あれは死に、鷹神は眠りについた。何なら<記録者>に聞いてみるといい」
 「余を欺こうというのか」
言葉に怒気が増した。男は、膝の上に置いた杓を取り上げる。
 「地方の土地神の分際で。神々の王<ホルス>、こいつを束縛しろ、今すぐにだ!」
<緑の館の主>は、軽く身構えようとする。その時、黄金の鷹が、はじめて口を開いた。
 「――無理だな」
思っていたよりのんびりとした口調で、船のへさきのほうから声響いて来る。「その者は、赤冠の守護者<ネイト>の"息子"となった。王権の守護者たる我は、王権を象徴する赤と白ふたつの冠の後見人、及びその眷属とは争ってはならない。」
 「何?!」
 「証の輪の上から、枷は嵌められぬ」
 「……。」
<緑の館の主>は、自分の手を見下ろした。そこには、自分の息子になれとネイトが言った時に与えられた腕輪がある。そういう意味だったのか。
 王は歯軋りし、荒々しい動作で玉座に背をつけた。不機嫌そうに爪先で肘かけを叩く。苛立ちの中に焦りがある。もはや、最初に見せていたうわべだけの薄い笑みはなりを潜めていた。神経質そうに引きつるこめかみ、しかと握り締めた金の杓。
 「その場所は、そんなに居心地がいいのか?」
 「……。」
言葉につまったような奇妙な沈黙。その表情を見ているうちに、彼はようやく気がついた。かつてのメネスと同じだ。この男は――怯えているのだ。
 「そんなに、奪われることが恐ろしいか」
 「無論だろう? すべてを犠牲にしてきたのだ」
引きつったような笑みという仮面の下から発せられる声は、最早悲鳴のようにも聞こえる。
 「すべてを犠牲にして、ようやく手に入れられた唯一のものだ。…生まれついてこの方、ずっと虐げられてきた。妾の子と蔑まれ、誰も顧みてはくれなかった。そこから這い上がって手に入れた。自身の力でだ! そしてようやく、自由に生きられるようになったのだ。ここが余の居場所だ。自分の居場所を手に入れて、何が悪い?」
 「いいや。」
<緑の館の主>は小さく首を振る。「お前は、何も悪くない。当然のことをしたまでだ。だが、」薄布が風に揺れる。「…お前を信じ想ってくれた者はもういない。お前の側には、誰が残った?」
沈黙が落ちた。
 出て行く白い影を、今度はもう、誰も制止しない。
 そう、誰も悪くない。ただ、選択しただけだ。自分も歩んでいたかもしれない道を、――他者を拒絶し、孤高に生きるという道を。


 甲板に出ると、頭上から声がかかった。
 「<沼地の守護者>、いや…<緑の館の主>か」
見上げると、金の鷹がちょっと片方の翼を上げて見せた。舳先の上でこちらを向いている。
 「我が分身たる存在の記憶は、すべて我の中にある。…お前には、世話になったな。」
<緑の館の主>は、曖昧に返事して、逆に問いかける。
 「あの男に付いていくつもりなのか?」
 「先王が選んだ後継者だからな。聖なる玉座は満たされねばならない。これが、我の<役目>だ。」
 「窮屈な制約ばかりだな。」
 「人の守護者を勤めるのが嫌になったか? だがな、うまくやってやれないこともないのだ」
銀の片眼を意味ありげにしばたかせ、鷹は、船首に視線をやった。そこにはいつの間にか、白と黒の衣を纏ったしかつめらしい顔の細身の男が立っている。高級神官が着るような、もったいぶった格好をしているが、<緑の館の主>には何者かすぐに分かった。
 「――先王の死より七十日の喪を経て、天は再生される。新たな王の即位、白冠と赤冠の守護者たちの合意を持って、その名を腐朽の書に記す…」
手にした葦ペンを動かし、もう一方の手にした巻物にさらさらと文字を書き付けていく。人間のふりをしているが、この演技が完璧でないことには、足元が床からほんの僅かに浮かび上がったままだ。
 「あんたに聞きたいことがある。」<緑の館の主>は、船首楼に向かって一歩踏み出した。「あの時、何をした? なぜ致命傷を負った男が回復した?」
<記録者>は、口元に笑みを浮かべた。
 「前にも言ったはずだが。冥界の門をくぐる魂はすべて、ここに記録している」ひらひらと、巻いた紙を振る。「だから書かれていない者の魂は、肉体を離れることは出来ない。」
 「それは、…誤魔化し、ということか」
 「いいや? 虚偽の記録はしていない。死すべき人間は一人だった。そして私は"メネス"の死を記録した。何も問題はない」
内心呆れている<緑の館の主>の頭上で、黄金の鷹がさも面白そうに笑う。
 「年季というやつだな」
応じるように、<記録者>も愉快そうに笑う。
 「そりゃあもう。人の世とは、太陽がこの世に輝き始めたときからの長い付き合いだからね」
ひとり<緑の館の主>だけが渋い顔だ。ペンをくるくると回しながら、神官の格好をした男が楽しげな口調で言う。
 「お役所仕事はね、生真面目にやってちゃ続かないのさ。ねえ、<沼地の守護者>。九つの弓を統べしもの、赤冠の守護者たる戦女神<ネイト>の息子、――打ち倒すもの、豊穣をもたらすもの、水に棲む者たちの長、緑の冠の主――」
 「…なんだ、それは」
 「今の君の正式な名前さ。肩書きをもう二つか三つ、増やしてもいいが」
笑顔でペンを傾けるのを見て、<緑の館の主>は呆れ顔で小さく首を振った。「好きにしてくれ。」
 船を降りると、<戦女神>が砦の入り口に仁王立ちで待っていた。<緑の館の主>を見つけて大きく手を振る。
 「やっと帰って来た! さっきまで、王家の兵たちが司令の死体を捜すとか言い出して大変だったんだよ?」
 「…ネジェフは?」
 「神官たちが機転利かせて祠堂に隠したから見つかってないわよ。無理に押し入ろうとしたから、神官たちが凄んで、"大鰐様の機嫌を損ねると食い殺されるぞ!"って。アハハ、見ものだったわー」
彼は、ほっとして祠堂のほうに目をやった。ちょうど、そこから神輿に乗せた鷹の像が運び出されようとしているところだった。王の御座船に乗せて持ち帰るのだろう。生き残った兵たちも、帰還の準備を始めていた。
 「アタシも帰るわ、自分の町へ」
そう言って、ネイトは<緑の館の主>の頭に手をやった。
 「いつか遊びに来なさい。いつだって歓迎するから。あんたは、アタシの"息子"なんだからね」
 「…ああ」
赤い唇を吊り上げ、にっこりと笑った女の顔は眩しいほど美しく、戦場の鬼神の形相は微塵も感じられなかった。
 船が去ってゆく。
 戦いが終わり、臨時に徴兵されていた者たちは解雇されるのだ。近隣の町から来ていた者たちは、めいめい荷物を纏めて小さな舟で水路を渡ってゆく。上流のほうから連れて来られた者たちは、行き先ごとに分かれて、大きな船にまとめて乗せられていた。怪我をした者は仲間たちの手を借りながら。動けない者は数人がかりで寝床ごと甲板に運び上げる。物言わぬ躯は連れてゆけず、泣く泣く残してゆく者もいた。帰宅できる喜び、仲間との別れ。桟橋に船が着くたび砦からは人が去り、水際の泥に刻まれた戦いの痕跡を、波が洗い流してゆく。
 時はただの一瞬も止まることなく、日々は続いてゆくのだ。


****


 船は川上に向けて帆を張って、風を受けながらゆっくりと流れを遡っていた。
 乗船しているのは沼地のあたりから徴兵されてきた若者たち。行きの顔ぶれは全てではない。何人かは、欠け落ちている。全員を連れ帰ることは出来なかった。そしてもう一つ、金の鷹の姿もない。
 夕陽が川面を照らし、岸辺には、牛を連れた牧童たちが家路を辿っている。水の流れは今日も穏やかだ。
 役目を終えて家に帰れるとあって浮かれて騒いでいる一群から離れ、負傷者たちは、船尾に近いあたりに固まって、めいめい横になったり船縁にもたれかかったりして過ごしている。食事を配りにやって来たハルセケルは、その中に、どこか見覚えの在る男がいるのに気づいて足を止めた。額と胸に血の滲んだ布を巻き、髭も髪もぼさぼさのまま、遠ざかってゆく川下のほうを放心したように眺めている。
 「ええと、あなたは…? 確か、メネス…」
 「いや?」
男は、驚くほど素早く否定する。
 「失礼、そうですよね。司令官だった人がこんなところにいるわけが…」
言いながらも、ハルセケルは自分の言葉に自信がなかった。やつれてはいるものの、その横顔は、確かに見覚えのあるもののような気がしたからだ。
 「この船に乗ってるということは、<沼地>のあたりの出身なんですか」
 「ああ、あそこに住んでいた。あんたもかい」
 「ええ――妻が、<沼地>の近くの町で暮らしているはずなんですがねえ」
パンの切れ端の入った籠を抱えたまま、男は側に腰を下ろす。「しかし何年も便りを出していないから、もう私のことなど忘れられているかもしれません。カイエト、どうしているかなあ…」
隣の怪我をした男が、目を大きく見開いた。
 「カイエト…? あんたもしかして、子供は二人いなかったか」
 「え? ええ、男の子と女の子、二人。どうしてそれを?」
ハルセケルは、さっきまで沈んでいた男の顔が明るくなるのを見た。男は笑っていた。さも愉快そうに、声を上げて。
 「これが神様の力ってわけだ! 大鰐様、あんたやっぱりすごい奴だよ。」
 「え、あの…」
 「元気だよ、あんたの奥さんは。<沼地>の村で暮らしてるんだ、レキとスィトも一緒だ。あんたが生きてたと分かったら、きっと喜ぶぞ」
笑いながら、男の目尻には涙が滲んでいる。
 「一緒に帰ろう――生きて…待っている奴らがいるんだ」
帰ろう、あの場所へ。あの緑の村へ。


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