■第四章/戦禍-5


 世界は灰色に一変していた。
 どこか懐かしい水の匂い。水辺に質素な家々の連なる小さな村の風景が、葦の茂みの向こうに広がっている。子供たちの笑い声。間の抜けた牛の声と、畑にすきを入れる音。ナツメヤシの木陰で子供をあやしながら縫い物をしている若い母親と、漁の網を肩にかけて背を曲げながら歩いてゆく老人。
 振り返ると、水辺に小さな祠があった。
 石の積み上げは雑で、表面に漆喰も塗られていない。あまりよく乾かさずに積み上げたらしい日干し煉瓦の周壁は、半ば泥に帰りつつある。入り口にかけられた棕櫚の暖簾をめくれば、そこには、台座の上に腰を下ろして首を挙げた鰐の像があるはずだ。
 何もかもが昔のままだった。
 全てが彼にとっては見慣れたもので、記憶の奥にずっと忘れ去っていた、ひどく懐かしいものだった。人の時間で五十年ほど前、かつて沼地のほとりにあった村に祀られていた頃の風景。
 背後で足音がするのに気が付いて、彼は振り返った。やってきたのは、白髪の男だ。手に魚を入れた籠を持ち、祠の前で足を止めると、じっと暖簾の奥を見つめる。
 どのくらい沈黙していただろう。
 やがて男は、籠を暖簾の奥に差し入れ、ひとつため息をついた。
 「娘が、相変わらず言うことを聞きませんでな――」
疲れたように呟くと、男は、細い石の腕輪をはめた左手を差し上げ、眉間に指をやった。「わしももう年をとった。あれには早く身を固めて孫を見せてもらいたいというのに」
 そう、この日のことは、今でもはっきりと覚えている。
 男は村の顔役だった当時の村長で、妻に先立たれたあと、残された一人娘を大事に育ててきた。その娘との仲がここのところ巧くいっていないのは知っていた。子供は成長すれば独り立ちする。獣の世界ではそれが当たり前なのだが、人間の世界では少し違う。親は子が成長してからも長年同居することがあるし、子の仕事や結婚まで口出しすることもある。この男は、その傾向が他より強いようだった。娘は、それに反発していたのだ。
 と、ちょうどその時、葦の茂みの向こうから楽しげに笑いあいながら歩いてくる若い男女の姿が見えた。手をつなぎこそしていないが、恋人同士なのは見ればすぐに分かる。周囲を気にしながら、何か囁きあっている。だが、その声は、耳ざとい男にはすぐ聞き分けられたようだ。
 彼の後ろから、祠の前で祈りを捧げていた男が飛び出してくる。
 「貴様! 娘に近づくなと、何度言えば」
ぎょっとして、若い男女が足を止めた。男のほうは表情を強張らせ、一歩、あとすさる。
 「村長…どうして…」
 「どうして、もう村に戻っているのか、と? ふん、貴様のような男の考えることなどお見通しじゃわい。わしが居なければ娘にまたちょっかいを出すだろうと思って予定を切り上げたまでよ」
 「やめてよ、父さん!」
娘のほうが一歩前に踏み出し、きっとした口調で言い返す。「どうしてそんな風にしか言えないのよ。私たちの仲をどうして――」
 「ええい、もう終わりだ。お前のわがままは聞き飽きた!」
男の額には筋が浮かび上がっている。「今日、町へ行って、わしの姉婿に話を付けてきたぞ。お前の婚約を取り付けてきた」
 娘の表情が、さっと変わる。
 「婚約…?」
 「そうだ。お前は姉婿の息子に嫁ぐのだ。そんな半端者などより、ずっとよい婿にな。町へ行けば、お前のその浮つきも直るだろう」
 「嫌よ!」
娘は怒鳴り返す。
 「父のこのわしが決めたのだ。お前は娘だ。嫌などと言わせん!」
言い捨てて村のほうへ大股で歩き出す男の背を、恋人たちは蒼白な顔で見つめている。男は声も出せずに震えていた。
 「…あんなこと言って。町へですって? 誰がそんな」
 「もうおしまいだ」
 「何言ってるの! あんたまさか、怖気づいてあたしを捨てる気なの?」
 「違う、そんなつもりじゃ…。けど、父親が決めた縁談を蹴るなんて出来ないだろう? そんなことしたら、家を追い出されるぞ」
 「それなら、それでいいわよ」
娘は腰に手を当てて、白い喉を見せるようにしてぐっと背をそらす。だが、それも一瞬だ。ふいに不安げな表情になったかと思うと、男の胸に身を投げた。
 「…あたし、あんたがいれば何処へだって行く。父さんがあんなこと言うなら、あたしたちもう村にいる必要ないわよ」
 「だけど…。」
 「それとも、あんたはずっと村にいたいの? 半端者呼ばわりされて、ずっと蔑まれて一生ここで暮らすの? こんな鄙びた村、世界のすべてじゃないのよ」
 「……。」
男は、娘の髪を撫でながら唇を噛んでいる。迷っているのだ。どちらが娘にとって幸せなことなのか、それだけを考えている。男は、自分に父が居ないことを恥じている。母が流れ者の男との間にもうけた父なし子。それゆえに幼い頃からずっと、村では半端者と呼ばれて相手にされなかった。
 「――分かったよ。君がそう望むんなら、おれは…」
ぼそぼそと囁く声がする。
 「あと数日で、月が無い夜が来る。その時に…。」
声が遠のき、風景が溶けて流れてゆく。灰色が濃くなったかと思うと、辺りの風景はほとんど闇の色に変わっている。見上げれば、ぽつぽつと小さな光。星々だ。だが、月はどこにもない。
 どうして今になって、こんなことを思い出すのだろう。
 忘れていたはずなのに―― もう忘れようと思っていたのに、どうして。


 闇の奥から無数の声が響いて来る。村のほうで明かりが揺れた。息せき切って水辺に駆けて来るのは、あの白髪の男だ。
 「どこだ! 娘は… あの男が連れていったのか!」
鬼のような形相で辺りを見回し、葦の茂みの中を覗き込む。あとから追ってきた村人たちも、灯りで照らしながら周囲を探し回っている。
 「村の近くにはいないようです。あいつの家はもぬけのからで」
 「舟は?」
 「ありませんでした。」
 「なんてことだ…」
手を眉間に当てて、男の肩が震えた。「育ててやった恩も忘れて、親のわしを捨てて男と逃げただと? なんという恩知らず。なんという恥さらしだ… なんという!」手にした棒を乱暴に地に叩きつけ、男は吼えた。怒りに燃えた視線が祠に、彼に真っ直ぐに向けられる。
 「なぜ止めてくれんかった」
御簾の奥に向かって、彼に向かって、男は搾り出すように言う。激しい怒り。そして憎しみが、はっきりと伝わってくる。
 「なぜ娘を見逃した?! 毎日お供えをしていたのは、わしではないか! 誰よりも! 報いてはくれんのか。あの親不孝者に神罰を!」
ざわりと、祠の中で闇が動く。金色の眸が開く。
 (駄目だ)
そっと滑り出した気配が水辺に姿を消すのに、人々は気づいていない。
 (この願いは――…)
風景が溶けて流れてゆく。場面が変わり、次に見えたのは、暗い水辺に揺れる小さな葦舟だった。
 月の無い夜、虫たちの声さえ聞こえない、不気味なほどしんと静まり返った闇の中。不安を胸に、恋人たちはしっかりと抱き合ったまま、舟の中に座り込んでいる。白い腕が舟の縁に在る。微かな水音がして、すぐ近くで水紋が広がった。獲物を探す大きな鰐だ。娘が怯えるように恋人の胸に顔を押し付け、男はその肩をしっかりと抱く。

 そう、はっきりと覚えている。
 自分はその様子を見ていながら、何もしなかった。

 村長の怒りの理由は、至極もっともに思われた。人間の感覚では、成人していない子は自分に所属するもの。そして娘は、父親がその処遇を決める。自分に所属するモノを、――自分のモノを奪われる。男には怒りの理由があった。だから―― 
 家を飛び出した恋人たちは、行く先も決めず葦舟に飛び乗って沼地へと漕ぎ出した。対岸に渡るつもりだったのだろう。だが暗い夜、複雑に入り組んだ中州の中で道を見失った舟は、鰐のすみかに近い澱みにはまり込んでいた。
 男は、そこから抜け出すことを諦めて、流れに任せたまま朝を待つつもりのようだった。やがて興奮が醒めてくると、疲労とともに眠気が襲ってくる。娘は舟の底に横になった。かすかな水音。人間たちがうつらうつらしはじめるのを、鰐たちが見逃さなかった。
 水面に顔を出した鰐の一頭が、お伺いをたてるかのように、ちら、とこちらを見る。それはいやにへりくだった、自分より大きなものに対する態度だった。
 彼は目を閉じる。
 しばらくの間があった。鰐は、そこにある美味しそうな生餌が沼地を支配する大鰐の所有物ではないと知るや、そろそろと舟へ近づいていく。その瞬間、鰐にとって目の前にあるそれは、すきっ腹には魅力的に見えるただの無抵抗の肉の塊でしかなくなっていた。――
 甲高い悲鳴と水音。視界の端で、灰色だった世界に、一筋の鮮やかな赤が流る。 
 そして、世界は、霧に包まれた。
 霧の中から、女たちのすすり泣く声が響いて来る。水辺に揺れる壊れた葦舟。呆然とした様子で立ち尽くす男の体は血にまみれ、きつく縛って止血した肘から下は失われている。その傍らで、白髪の男が何かを抱いて体を震わせている。その足元には、身体から切り離された白い腕の断片が取り残されている。足元の水は―― 暗い水は、灰色でなければ、赤だ。
 「何故だ…。何故こんな…」
集まった村人たちが口元を押さえて視線をそらす。人の形をした残骸、散らされた生命なき長い髪が草にからまって垂れている。
 「鰐に食い殺されたって」
 「ああ…ひでえもんだ…。舟ごとガブリだよ。ありゃ相当でかいのにやられたな」
 「それって、まさか…あの祠の」
 「しっ」
ひそひそと、村人たちの話し声が聞こえてくる。
 「男のほうは腕とられただけで見逃してもらえたのに、娘だけあんな」
 「神罰ってことじゃないの? だって村長さん、そう願ったんでしょう」
 「だからって…」
 「可愛そうに、一人娘だったのに…なあ」
嗚咽が響く。水と混じった涙が水辺に散らされてゆく。
 「祟り神だ!」
背後から声が飛んでくる。娘を失った村長の悲鳴に似た叫びが突き刺さる。「あれは人も殺す神だ。わしの娘を…わしは…本当は…」
 「化け物!」
 「人殺し!」
 「大鰐を守護神なんて祭り上げたのが間違いだ。獣は所詮、獣だ。人でも牛でも、なんでも食っちまう――」
そうして誰も祠を訪れなくなり、時を同じくして、川の水位が上がらない年が続いた。ほどなくして畑は干上がりはじめ、人間たちは祠をそこに残したまま、水の残るさらに西の湖のほとりへと移動していった。
 十年、二十年。村の消えたあと、誰も訪れることのなくなった祠だけがそこにあった。御簾は腐り落ち、庭は泥で埋め尽くされ、周壁はいつしか土へと還っていった。荒削りの鰐の像は、石の台座の上で埃にまみれ、雨風にさらされながら、無人の村をじっと見つめ続ける。
 時は戻せない。過去をやり戻すことは出来ない。
 これは――遠い昔、もう終わってしまった過去の出来事だ。


 ぼんやりと目を開けると、石造りの天井が目に入った。起き上がると額の上から花が一輪、零れ落ちる。咲いたばかりの瑞々しい香りがふわりと漂う。
 「お帰り」
振り返ると、隣に足を組んだ戦女神<ネイト>が腰掛けていた。今日は武装していない。
 「……何をした」
 「何も。アタシは、ただ此処にいただけだよ。」
言いながら、女はひょいと片手を上げ、彼の額をこつんとこづいた。
 「このバカ息子が。あれほど無茶すんなといったのに」
 「…すまない」
 「ったく」
いつになく勢いがないのは、さすがの<戦女神>でも疲れたということか。意識を失っていたのは、力を使い果たして眠りについていたということか。どのくらいの時間が経ったのだろう。そこは祠堂の中だった。自分の周囲には、――正確には、自分のために置かれた鰐の像の周囲には、魚や、草でつくった花輪の供え物が積み上げられている。
 「それ、あんたの村の人間たちが置いていったよ。生き残れたことに感謝するってね。」
 「……。」
さっきまで見ていた記憶の世界がふと脳裏を過ぎる。かつては、一人の村人が命を落としただけで人殺しの神と恐れられ放棄されたのに、今は、多くの異民族を殺す手助けをしたことで感謝される。――不条理なのではない。それが、人の世界なのだ。
 「身体は大丈夫かい?」
 「これだけ食わされれば」
ネイトは膝を抱えて笑う。
 「そりゃそうだね。」
砦の前庭に出てみると、敵味方の躯が分けて並べられているのが目に入った。血の気を失った、時には身体の一部さえない肢体が一列に並べられているのは、あまり気分のいいものではない。日に照らされ、すでに辺りには腐敗臭が漂い始めている。
 「被害は最小限…それでも、沢山死んじまったね。」
彼の後ろで、ネイトが呟く。
 「<戦女神>なんだろう。慣れているのではないのか」
 「それとこれとは話が別さ。戦場に立つ男たちはみんな、アタシの可愛い息子だからね」
元気がないのは、この光景のせいでもあるのか。後ろから、ほとんど気配を感じさせない足取りが近づいて来る。
 「ずっと昔ねぇ。アタシがまだ、ただの人間だった頃… 息子がいたのよ」
 「元は人間だったのか?」
 「二千年は前の話。ま、だからもうほとんど覚えちゃいないんだけどさ」
ネイトは、小さく笑って肩を竦める。
 「…人間はすぐに死んじまう。戦場で死ななくてもさ、寿命とか。気に入った子がいても、すぐにアタシの前からいなくなっちまう…。だからね。」髪が摑まれ、軽く引っ張られる。「あんたは、アタシの前から消えないでよ。」
 「……。」
肩先にネイトの息遣いを感じた。振り返らずに、彼は小さく答える。「そうしよう」
 ――この感情は、もう知っている。
 人も、神も、一人では生きてはゆけないのだ。


 ふいに、大勢の人間の足音が響いてきた。桟橋に船がついて、新たに兵がぞろぞろと降りてきている。
 「あれは?」
 「王直属の軍さ、正規の軍だよ。今更…だけどねぇ。」
そういえば、祠堂の周囲にも見覚えのない顔が多数あった。戦いのあとにやって来たのだろう。
 「敵は?」
 「残党は州軍が国境の向こうまで追ってったよ。けど、指導者は討ったから残りは雑魚みたいなもんさ」
 「…そうか」
東の砦で、門の前に転がっていた刺青の入った腕を思い出す。やはりあれが、そうだったのだ。敵側の守護者は、加護を与えるべき人間を失って去って行った。だが、人ならざる者たちには、人のような完全な"死"は存在しない。あの守護者は強かった。――そしてあれが庇護した、死を恐れぬ人間たちもまた。ひと時の勝ち負けに意味はない。人間たちがあの神を崇めることを忘れない限り、いつかまた、遠くない未来にまみえることもあるかもしれない、と彼は思った。
 「…ところで、ホル=ネジェフはどうした。メネスは?」
問うたとき、ふいにネイトの表情が曇った。
 「どこにいる」
女は、無言に天幕を指差した。砦の外の、躯の並ぶ広場のすぐ近くだ。そこには警備の兵さえおらず、無人のままひっそりと静まり返っている。嫌な予感がした。
 中に入ると、薬草と、血の匂いが混ざり合ってつんと鼻孔を突いた。<緑の館の主>はそこに、寝台の上に横たわっているメネスを見つけた。額と胸にきつく包帯が巻かれ、血が滲んでいる。顔色は蒼白で、枕元には、頭を垂れた金の鷹がとまっている。あの夜に見せた神々しいばかりの姿とは雲泥の差だ。
 近づいていくと、気配に気づいたのか、メネスがうっすらと目を開けた。
 「よぉ…大鰐様。敵の…主神をやっつけたらしいじゃねえか。さすが…<戦女神>の息子…」
 「無理するな」
囁いて、彼は鷹のほうに目を向ける。
 「助かるのか?」
 「……。」
返事はない。
 「お前がついていながら、何故」
 「悪いのは…そいつじゃねえ…」
とメネス。「…俺が望んだ。」
 「望んだ?」 
 「――刺客だ」
鷹が押し殺したように呟く。「敵の大将を仕留めた、その直後に…。誰だかは知らん。味方に紛れ込んでた――」
 「味方に…?」
メネスは弱々しく笑う。
 「邪魔になるだろうな、ってのは、分かってたさ」
喋るだけで、額に汗が浮かび上がり、ひどく苦しそうだ。
 「残ってるのは、あと何人もいない…王位を脅かす最後の存在…」
 「分かっていて従うのか」
 「おれの望みは、あいつが望みを叶えることだ」
 「弟だから――か?」
分かっていたことだ。沼地を後にする前から、繰り返し、メネスは言っていた。「望みは死ぬことだ」と。
 陰謀に巻き込まれるのが怖くて逃げたのではない。嫌疑を引き受けるため、自ら望んで巻き込まれたのだ。
 怖かったのは、自分が死ぬことでも、濡れ衣を着せられることでもなかった。父を手にかけようとする陰謀の裏に弟がいると知ること。自分に対しても殺意を向けてくるということ。その予測が当たってしまうことを――メネスは恐れていた。
 だが、沼地で再会したとき、彼は全てを知って受け入れた。いや、諦めた。あの時に決めた覚悟は、だから、弟の望むとおり殺されてやる覚悟だった。
 「…王宮の中でも道端でもなく、戦場なら死んでも良いと?」
彼がそう呟いたとき、メネスは既に眠りの中に落ちている。浅い呼吸は、それが死に繋がる眠りとなる可能性を示している。
 「…私は認めない」
背後で、慌てたように鷹が羽ばたく。
 「どうするつもりだ。あんたには治癒の力なんてないだろう? それに、聖なる玉座にある者に手を出すことは、大神たちでさえ…」
天幕を出ると、眩しい日差しが照り付けてくる。探しているものはすぐに見つかった。この人にごったがえす砦の中でも際立つ気配、<記録者>は、今日もせっせとペンを動かし、死者の名を記録している。忙しくて姿をとりつくろう暇もないのか、今日は人とも鳥ともつかない、そのどちらにも見える格好のままだ。周囲には何枚もの巻物が浮かんで同時に書付けされている。
 「おい」
呼びかけても、ペンは止まらない。
 「メネスを死んだことにしろ」
 「ちょ、おい! なに無茶いってんだよ!」
後ろから怒鳴っているのは、ついてきた金の鷹だ。書記の神はちらと<緑の館の主>に向けただけで、表情も口調も変えなかった。
 「生きている人間を、死んだことには出来ない。」ペンが動き続け、死者の名を次々と書き留めてゆく。「わたしは真実の記録者、虚偽は我が敵となる。それは<存在>に反することだ」
 「"白い大鰐"は死んだ、以前、お前はそう言ったな?」彼は、なおも食い下がる。「だが、私はここにいる」
すべてのペンが、ぴたりと止まった。
 「――なるほど」
知恵の神は、くるりと向き直った。「君は、現在の身分でのメネスという人間の死を希望しているのだな」
 「な、――」
鷹は唖然としている。
 「出来るか?」
 「可能だ。ただしそれには条件がある。誕生と共に与えられた今の名は、鷹の家系に属するものだ。身分は、名と共に死ぬ。今後使うことは出来ない。」
 「いいだろう」
 「…そしてそれは、守護者ホル=ネジェフとの繋がりの断絶も意味する」
<記録者>の視線が鷹に向けられる。返答は、即座だった。
 「構わない」
<緑の館の主>が振り返ると、鷹はにやりと笑って翼を広げた。
 「これが、最後の役目だ。うちの大将を頼むよ。ここからは、あんたが守ってやってくれ。」
 「……承知した」
 「――"我が名、真実とともにある者、記録者<トト>の名において。"」
手を振ると、最も近くにあったペンがさっと動いた。
 「"ここに<黄金の鷹の家系>の者、死せる王<オシリス>と成りし永遠の家の主の息子たるメネスの死を記録する"」
ペンはさらさらと、巻物の上にその言葉をそっくりそのまま書き付けた。黒々としたインクが一瞬輝いたかと思うと、瞬時に乾いて固定される。それとともに、両手を掲げるように大きく広げられた金の翼が、無数の光の粒となり、溶けるようにして消えてゆく。ただ、それは死ではない。かつて消えかけていたときの、力を失くして薄れていこうとしていたときとは違うと、彼は思った。
 「守護者との契約解除は完了した。」
淡々とした口調で、書記は言う。
 「あれは黄金の鷹<ホルス>の眷属。その一部――分身だ。<役目>を終えてただ眠りについただけ、次なる<役目>を得たとき再び目覚めるだろう。」
まるで、彼の胸に浮かんだ微かな疑問を解消するために付け加えたかのような説明だ。<記録者>はさらに続ける。「彼の名は消えた。しかし身体はそこに存在している。私は新たに名を記さねばならない。」
 「…新たな名?」 
 「何とつける?」
<記録者>の眸が、<緑の館の主>をじっと見つめている。ペンは、巻物の上に制止したままだ。思案するように視線を動かしたとき、彼は、鷹の残した光の粒がまだ一つだけ残っていることに気がついた。手を差し出すと、それは舞い散る羽根のように手の平の上に降りて、静かに溶けて消えた。
 「…ネジェフ、と」
<記録者>は、ちょっと眉を上げ、無言にペンを動かした。これまでおよそ表情というものを一切取り去ったようだったその顔が、一瞬、笑ったような気がしたのは、気のせいだったのだうろか。


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