■第四章/戦禍-4


 風が出てきたことに最初に気づいたのは、空を舞っていた鷹だったろうか。
 鷹が急降下してくる気配に気づいて、いつものように水辺に寝そべっていた<緑の館の主>は眼を覚ます。うっすら目を開けると、鷹の向こうに黄色く霞みはじめた空が見えた。さっきまでの日差しも薄れかかっている。起き上がると、僅かにざらついた風が、身体の表面を撫でていく。
 「…砂嵐、か」
毎年、春には、一日か二日は空が黄色く変わるほど強い風が吹く。それ自体はいつものことだが、今日ばかりは様子が違っている。
 「奴が来るぞ」
ホル=ネジェフの真剣な眼差しに、彼はふと思い当たって身体を起こした。
 「――"嵐の神"?」
 「ああ。偶然にしろ故意にしろ、これは奴の力が増す機会だ」
彼は周囲の気配に意識を澄ます。水辺の気配は…変わっていない。
 「<戦女神>は?」
 「東の砦へ行った。血のニオイがするとか言ってな。メネスと一緒に」
東の砦とは、東側の中州に在る、つい最近取り戻したばかりの砦のことだ。
 そこから先は国境近くの民家もない荒野で、小さな砦が点々とあるだけ。国境近くに留まる限り、食料や棲家には不自由する。潜んでいる異民族の集団は、再び砦を襲いに来るしかない。そう踏んだメネスは、敢えて追撃はしないことに決めた。人数差がそれほど大きくないのなら、深追いしても消耗するだけだ。だが、襲撃を待つと言うことは、相手に先手を打たれやすいということでもある。常に全方位を警戒し続けることにも限度があった。
 視界がさえぎられる嵐の夜は、――またとない機会だ。
 「お前もメネスから離れるな。」
 「言われなくても。」
むっとして言うと、鷹はばさりと翼を広げて舞い上がった。「あんたに無茶させんなって、姐さんにキツく言われてるんだ。あんたこそ、勝手に飛び出さないでくれよ!」
 「……。」
<緑の館の主>は、立ち上がりながら風の吹いてくる方角を振り返る。押し寄せてくる砂の気配とともに、見えない気配がうごめいている。黄色く煙る世界のどこかに、青白い輝きを感じた。どこかそう遠くない場所に、あれはいる。自分に向けられている微かな視線を、彼は確かに感じ取っていた。


 異変がおきたのは、日が暮れて間もなくだった。
 「火だ…」
 「火だ! 川上のほうだぞ」
水辺に建てられた幾つもの見張り小屋から同時に声が上がった。火事だ。風に乗って焦げ臭いが漂ってくる。窓に駆け寄ったメネスは、意味に気づいて舌打ちした。
 「あのへんは、ここに一番近い村のあるあたりだな。収穫の終わる季節を狙ってきやがったか…ったく、州軍は何してやがる」
鷹が首を動かした。
 「兵を出すのか? まず間違いなく囮だぞ。」
 「分かっているが、村が襲われてんのに見過ごすわけにいかんだろう。せっかく飢えさせておいたのに、放っておけば食料も確保されちまう。…おい!」
階下に向かって怒鳴る。部下を呼んで偵察がてら賊の追撃に行かせるためだ。間もなく、指示を受けた将校の一人が自分の部隊の兵を集め始めた。伝令が西の砦へ走っていく。辺りはにわかに騒がしくなった。砦の周囲に幾つもの松明の灯りが掲げられ、兵の一団が中州を出て行く様子を<緑の館の主>は、砦の入り口でじっと眺めている。
 ――水の匂いが、いつもとは違う。
 だが、はっきりとは分からない。風は火事の方向から流れていい、風下にある砦周辺は、煙に気配がかく乱されている。ようやく正体が分かったのは、火の放たれた村へ向かう一群が中州の向こうへ姿を消してから、しばらく経ったころだ。
 夜をかき乱すかのように、けたたましく金属を打ち鳴らす音が響く。
 「敵襲! 敵襲だ!」
叫び声と同時に、矢が空を切る音が響く。「奴ら中州を渡って――!」
 それは、事前にメネスが予測していたのとは真逆、西の砦の方角だった。偵察では、異民族たちは東の湿地に潜んでいると報告されていた。東からなら、たとえ負けても国境近くまで退くことが出来る。それに、相手からしてみれば、一度は手にしていた東の砦のほうが攻めやすいはずだった。そう読んで東側に兵を割いていた。逆手に取られた格好だ。
 「くそ、食料を備蓄してあるほうを狙ったってことか。」
 「行け! 西の砦に増援しろ!」
声が飛び、慌しく兵が水を渡り始める。その多くが布で顔を覆っているのは、吹き付けてくる砂まじりの風のせいだ。松明の火さえかき消されそうになっている。<戦女神>ネイトは、兵たちとともに西の砦へ戻ったようだった。だが、<緑の館の主>は水辺と対峙したまま、動かない。
 彼には分かっていた。
 獣の吐く息と汗の匂い。身体の温度。それらは、誤魔化しようもない匂いだ。金色の双眸が、水の中をゆっくりと進む黒い塊を捕らえている。
 彼は、ちらと砦のほうに視線をやった。メネスは東の砦に留まるようだ。鷹も、側にいる。
 (…お前は、そこを離れるな)
心の中で思いながら、身体に力を込める。
 ざわりと草が動く。
 波の打ち寄せる暗い水辺に、幾つかの影がひっそりと這い上がってくる。腕の刺青が見えた。異民族の戦士たちだ。首には、円筒状の護符らしきものを下げている。そして、現れた異民族たちの後ろには、青白くぼんやりとした存在があった。
 上陸した十数人の男たちは、剣の柄を額にあて何やら祈りの言葉呟くと、一斉に走り出した。<緑の館の主>の側を駆け抜けてゆく。背後で起こる喧騒と戦いの音。最初の剣戟が高く響き渡ったとき、彼は、ようやく自分の相手が動き出したのを見た。
 彼が見ていたそれは、戦士たちの後ろにいたものだった。
 空中に浮かぶ、青白く明滅する<存在>。彼ら異民族の守護者のうち、最も力を持っているもの。見ている前でそれは、ゆっくりと何かを形作ってゆく。髪を振り乱した大柄な男、あるいは手足と頭の威容に長い細身の男か。だが、どんな姿であろうと<緑の館の主>には興味がなかった。小さないかづちのような光が走って、風が沸き起こる。青白く明滅する男は、相手がぴくりとも動かないのを見て、薄く笑った。
 (――ここから先は、私の<領域>だ。)
彼は片手を上げた。腕に嵌めた金の飾りが微かに輝く。
 (お前を通すわけにはいかない。)
それが合図だった。
 青白い光をまとった男は異国の言葉で叫んだ。声は風となり、雷鳴となり、砂まじりの風となって地上に吹き付ける。草がざわめき、水面に風紋が広がった。視界を奪われた一瞬、瞬きしたその間に、彼の目の前に明滅する腕があった
 光が抉るような動きで眼前に突き出される。辛うじてかわした喉元に、間髪いれず長い腕が伸び、体当たりとともに後ろ向けに地面に突き倒される。水がはねた。敵が身体の上にのしかかって、渾身の力を込めて喉を締め付けようとしている。彼は牙を剥いてそれに抵抗した。ギリギリと皮膚のこすれる感覚と共に、互いの輪郭が崩れる。
 生身同士であれば、肉が裂け、血が滴り落ちていただろう。しかし実体なき<存在>にとって、目に見える姿は再生可能なものでしかない。痛みも感じない。敗北は、戦意を失った時だけに訪れる。或いは、守護すべき人間たちが全滅するか、彼らを見捨てて逃げ出した時か。
 水際でもみ合いながら、<緑の館の主>は、数で劣る異民族の戦士たちが勢いづくのを感じていたた。
 暗い天を走る光は敵を鼓舞し、轟(とどろき)は敵側にとっては神の恩寵を意味するのだ。不意打ちを食らったことで兵たちの隊列は乱れている。おまけに風に視界を奪われ、多くの松明が消えて敵の姿が見えていない。砂に目をやられた者もいる。西の砦へと増援を送ったばかりの東側は、今は手薄だ。そこを、急襲によって少人数の手だれで制圧するつもりらしい。いまや<緑の館の主>にも、敵の考えははっきりと分かった。彼は目の前の男を睨む。青白い男は、にやりと笑う。言葉は通じなくても、互いの考えていることは伝わってくる。
 (なるほど。巧くやったものだ…だが)首に食い込む相手の腕をしっかりと摑みながら、彼は小さく唸った。(その程度の策、あいつに破れないと思うのか?)
その時、頭上に新たな風が吹いた。砂まじりの不利な風を押し戻すように、戦場の周囲を包み込むように。砦の上に黄金の鷹が翼を広げている。それはメネスの連れた守護者、ホル=ネジェフの姿だ。
 「ひるむな! 敵は少数だ。落ち着いて倒せ!」
叫びながら、メネスは砦の上で矢を番え、弓を引き絞る。弓弦を放れた矢は風を受けて勢いを増し、闇の中でも真っ直ぐに敵のひとりの胸を射抜いた。さらに次々と矢を番えては、立て続けに放つ。そのうちの一本は、灯りの側を素早く駆け抜けようとした異民族の男の足を射抜いた。その場に転がった敵を見て、味方の兵たちが殺到していく。流れは変わろうとしていた。右往左往していた兵たちが冷静さを取り戻しつつある。もともと人数ではこちらに利がある。不意打ちの勢いを生かせなければ、時間が経つにつれて押されるのは攻撃側。そして、守る側は砦を持っているぶん有利なのだ。
 青白い男が舌打ちし、片目を瞬きした。途端に強い風が沸き起こり、砂が押し寄せる。黄金の鷹はそれに気づいて、翼を振った。生まれた風は虚空で相殺され、地上の人間たちのもとへはそよ風としてしか届かない。
 なおも介入しようとした嵐の神だったが、それは出来なかった。隙をついて<緑の館の主>が相手の拘束を振りほどき、逆に上からのしかかったからだ。
 「余所見をしている暇はないぞ」
 「……!」
――勝ち目がないと思って戦場を放棄して逃げすことは、その人間たちについた守護者の敗北も意味する。
 だが、腕に刺青をした戦士たちは、不利な状況を分かっていながら退こうともしない。死ぬ気なのか。
――守護する人間たちが退かない限り、守護者はそれを見捨てて逃げることは許されない。
 もみ合ううちに、いつしか彼らは水辺の泥の中にいた。泥水がはね飛び、絡まりあい、どちらがどちらともつなくなっている。形勢は逆転していた。腰まで水に浸かった状態で、相手は初めほどの動きのキレがない。水の中では、水に棲むものが有利だからだ。だが、異民族の守護者はそれでもなお抵抗していた。
 <緑の館の主>は男の喉元に爪を突き立てる。目を血走らせながら、男が彼の髪の一端をつかんだ。
 ――化け物め。
 (それがどうした)
手に力をこめ、相手を水の中に引きずりこむ。耳のあたりで濁った泡がはじけ、音が消える。
 (戦うのは、お前が憎いからだ)
自分の中に生まれた激しい怒りの全てを手に込めて握りつぶす。
 (お前たちが、奪おうとするからだ…)
冷たい水が身体の中に染み込んで来る。その瞬間、彼はもう、自分が何者であるかを忘れていた。理由? そんなものが必要あるのか? 無理をするなと? 無理とは何だ。制御? 分からない。何のために――だれの――  ここは――― 何処だ――…。


 目を覚ました時、彼は、泥の中にいた。身体が重い。四肢に力をこめ、ようやくのことで地面から身体をひきはがす。辺りは薄青い靄に包まれて、不気味なほど静まり返っている。生命あるもの、生命の尽きようとしている者。すでに魂の飛び去った躯、折れた槍。ぱちぱちと、松明の残りかすが音をたてている。燃え残った木片がかすかに赤い。血の匂い。
 砦の入り口は堅く閉ざされ、傷ついた兵がもたれかかったまま息絶えている。その近くに、武器を握ったままの刺青の入った腕が見えた。生き残った者たちが、僅かに動いているのが見える。どこかで身内の名を呼ぶ声、船を漕ぐ水音。
 その時、彼の耳は、争うような声をとらえた。
 「おい、…待てよ、おい」
聞き覚えのある声だ。砦の裏手だろうか。近づいてみると、靄の中で二人の男が言い争っているのが見えた。以前ここで見かけた、捕虜だった男たち――ハルセケルとメンケペルだ。
 声を荒げているのは、長身のハルセケルのほうだ。メンケペルの腕を摑み、しきりと引きとめようとしている。
 「あいつらと行くだって? 正気なのか。それがどういうことか分かってるんだろうな」
 「離せ、今しかないんだ。奴らまだそのへんにいる。今から行けば追いつける」
 「裏切るのかよ!」
 「そんなわけないだろう。ただ、俺は自分を試したいだけだ!」
言いかけたメンケペルは、はっとして霧の奥に視線をやった。こちらを見ている。彼は、俯いて唇を噛んだ。
 「…止めないでくれよ」
それは目の前にいる仲間の男ではなく、<緑の館の主>に向けた言葉だった。
 「何処か遠くへ行きたかったんだ。俺を知っている人間のいないところなら何処だって良かった。本当は、建築技師にだってなりたくなかったんだ。父さんに認めてもらいたかっただけだ…」
ハルセケルの腕を振り払うと、彼は押し殺した声で続けた。
 「…あいつは、シェヘブカイは、俺なんかよりずっと物覚えが良くて、才能だってあった。父さんにとって、跡取りはあいつなんだ。母さんだってそうだ。シェヘブカイばかり気にしていた。お兄ちゃんなんだから我慢しなさい、面倒を見なさい、ってそればかり…いつもいつも。」
 「おい…メンケペル…?」
 「近くにいれば、きっと俺はまた、あいつを傷つけてしまう。だから…」
懇願するようにそう言って顔を上げた男の眼からは、涙が伝い落ちていた。
 <緑の館の主>が小さく頷くと、男は、ほっとした表情になる。
 「悪いな。…あいつには、あんたから代わりに、謝っといてくれよ。頼む」
そして、ハルセケルの腕を振り払って身を翻すと、振り返りもせずに浅瀬に向かって走り出した。
 「…メンケペル!」
ハルセケルの声。駆け去る足音が、遠ざかってゆく。靄の彼方へ。見知らぬ東の異国へ。そこは言葉も通じず、この国のいかなる神々の加護も届かぬ不毛の地だ。一度外へ出た者が再びこの国の土を踏めるとは限らない。それでも彼は、自ら道を選んだのだ。
 以前なら理解できなかったかもしれない。けれど、今なら分かる。
 愛しているからこそ、共には生きられぬ者たちもいる。自らの居場所が、愛する者と争わずには手に入れられないものだと知ったとき、人は、残された数少ない選択肢の中からどれかを選ぶしかないのだ。
 愛と憎しみは表裏なのだと、かつて河の神は言った。彼は自分の中にある二つの感情のことを思う。そして、今、ようやく理解した。

 ――自分はずっと、人間に憎悪しながら、愛慕していたのだと。

人間たちの声が戻ってくるとともに、意識が遠のいていくのを感じた。霧が晴れ、太陽の輝きが届きはじめている。夜が明けたのだ。戦うべき敵は、もはやここにはいない。身体の輪郭が溶けてゆく。
 眠りに就く直前、最後に見えたのは、靄の切れ目に覗く、棲んだ青い空の色だった。


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