■第四章/戦禍-3


 日が高く昇っても、砦には、ひっきりなしに人が出入りしていた。怪我人の手当て、被害状況の報告。命を落とした味方兵の体を回収して並べる一方、倒した敵兵の数を数える者もいる。戦果の報告のためだ。黙々と死者の数を数えて紙に記していく人間の書記たちの姿は、そのまま、彼らの守護神である<記録者>たる神の姿と重なっていた。
 砦の中ではメネスが、救出された捕虜たちと面会していた。彼らの話では、敵側の砦はここのところ深刻な食糧不足で、捕虜たちも、ろくに食事を与えられていなかったらしい。痩せた二人の捕虜は、出された粥やビールをがつがつと胃袋に流しこんでいる。二人がほどよく食欲を満たすのを待ってから、メネスは、口を開いた。
 「お前たち…名はハルセケル、それにメンケペル、…だったな?」
手を止めて、二人が顔を上げる。「建築技術者という報告だったが」
 「それはメンケペルだけです」
答えたのは、背の高いほうの男だ。細身だが引き締まった身体つきをしている。「ぼくは、ただの傭兵なんです。それがバレると殺されるので、メンケペルが機転を利かせて助手だということにしてくれたんですよ。一時期、葬祭殿の工事に出ていたこともあったので、なんとか誤魔化せました」
 「砦では、何を?」
 「修繕や改造を。あの連中は石の建物なんか初めてみたいだった」
 「ほう。命令は誰から? 敵の司令官は見たのか?
 「ええ、セセビだかイセビだか、そんな感じの名で。もじゃもじゃした髭を生やした大柄な男でした。頬に大きな傷があるんで、すぐに分かります」
答えているのはハルセケルのほうばかりで、メンケペルのほうは、どこか上の空だ。それに気づいたメネスが、メンケペルに視線を向けた。
 「そっちのほうは、体の具合でも悪いのか?」 
 「いえ…。」
 「疲れてるんじゃないかな。ここんとこ、砦を強化しろとか無茶言われてたもんで」
ハルセケルは、そう言って笑う。
 「強化するったって、石材も木材もないのに出来るわけがないからな…」
メンケペルは、ぼそりと呟く。
 「そいつは苦労したな。まずはゆっくり休んでくれ。また後ほど話をゆっくり聞かせてくれ。」
柱の影から様子を見ていた<緑の館の主>は、そっとその場を後にした。


 騒がしい砦を離れて、向かう先はいつもの水辺だ。腰を下ろすと、ふいに疲労感が押し寄せてくる。彼は目を閉じて、しばし風の音に耳を傾けていた。背中に日差しのぬくもりを感じる。揺れる草の葉擦れ、岸辺に生まれた泡の弾ける微かな音。砦の騒々しい人の気配を意識の外に締め出して、彼はしばし、周囲の世界だけを感じていた。
 どのくらい、そうしていただろう。
 半分眠っているような状態から戻ってきたとき、彼は、何かが髪をひっぱる感触に気がついた。細く目を開けて視線をやると、白い手が彼の髪をしきりと引っ張っているのが見えた。
 「…何をしている」
 「ふふん、長すぎて邪魔じゃないのかと思ってー」
ネイトは、彼の髪を幾つかの束に分けて縒っているのだった。垂れ流すままになっていた長い髪の一部が三つ編み状にされている。彼が軽く頭を振ると、ネイトの手から髪がするりと抜け、編まれた部分が一部ほぐれて垂れる。
 「自分の尾が邪魔な奴など、いない」
 「尾…? これ尻尾なんだ! へえぇ」
そんなことを言いながら、女はもう一度手を伸ばし、髪の束をつかむ。何を企んでいるのか分からない、底知れない微笑みを浮かべたまま。彼は黙ってされるがままにしておいた。どうせ逃げられないのだ。
 手を動かしながら、女は尋ねた。
 「ね。なんでそんな姿なのよ」
 「姿…」
彼は、ちょっと女の横顔を見た。
 「あんたには、どう見えてる」
 「んー、真っ白な、人間の若い男よ? "大鰐"様なんて言われてるわりに、たまにしか鰐っぽく見えないね。おかしいったら」
手元視線を落としたまま、戦女神は続ける。「ねえ。あんた、人間のこと好きなの?」
 「…好き、というわけではない。この姿は…、名をくれた人間が見ていた姿だ…。」
 「ふぅん。」
奇妙な沈黙。
 「昨夜、怒ってるあんたを初めて見た。なんていうか、憎しみの権化っていうかね。あんたは人間嫌いなんだと思ったのよ。でもそれなら、人の守護なんてしないわね。」
 「……。」
 「当ててみよっか。あんた自分の怒りを制御できないんだろう」
彼は答えない。だがそれは、肯定と同じことだ。
 「やっぱりね。アタシもさ、血が上るとさ、何も見えなくなっちゃうの。」
くすっと笑って、女は手を離した。編まれた髪が再び、ぱらぱらと解けていく。
 「あんたは、昔のアタシに良く似てる。――」
視界がさえぎられた。女が、膝をつきながら顔を寄せてきたからだ。口元は笑っているのに、目は笑っていない。そして次の瞬間、口を開いた女は、予想外なことを言った。
 「ねえ、あんたさ、アタシの"息子"にならない?」
 「――息子…?」
 「だめ?」
絡みつくような視線。彼は、しばし考え込む。
 「…息子とは、子供ということか」
 「そうよ。」
 「…お前は若い女の姿で、…私は、多分、百五十年ほどは生きているはずなのだが」
 「え?」
意表を突かれたような顔になった一瞬後、ネイトは大声で笑い出した。「あははっ、やだこの子ったら!」何がおかしいのか、涙が出るほど笑っている。まるで嵐のようだ。彼は押し黙ったまま、衝動的な笑いが収まるのを待った。
 「ああ、おっかしい。アタシはもう二千年はこうしてるっていうのに、そんなこと心配されるなんて。この世界じゃ百年や二百年生きたって若造なんだから心配しなくてもいいんだよ」
息を切らせ、ようやく笑いが収まると、女は笑いすぎて滲んだ涙をふき取って真剣な表情に戻った。
 「あんたを死なせたくないの。だからアタシの家族になりなさい。ね」
それは、断ることを許さないような断固とした口調だった。それが何を意味することかは分からない。だが、命まで取られるわけでもない。
 ちょっと空を見上げ、それから、彼は不承不承といった口調で承諾した。
 「…分かった」
その途端、腕に何かが絡みつく感触があった。見れば、金の環が両腕と足首に現れている。どこにも継ぎ目はなく、ぴったりと肌にくっついているが、それでいて冷たさも熱さもない。
 「証よ。髪のはオマケ」
言われて頭を振ると、しゃらん、と微かな音がした。さっきネイトの編んでいた髪の先に、同じような金の飾りが下がっている。
 「うふふー、似合ってるわよぉ。眸の色とも合ってるし」
これは何だと尋ねる前に、女はさっと立ち上がる。
 「それじゃ、またね」
 「……。」
赤い衣の裾を翻して颯爽と去ってゆく後ろ姿を、彼はただ、見送ることしか出来ない。
 (これは…どういう意味だ…?)
分からない。分からないから、その場に元通り横になる。
 日の光が暖かい。緊張が解けてゆくとともに、のしかかるように闇が、重たく疲労がのしかかってくる。まどろみながら彼は、どこかで自分に向けられる祈りを感じている。人の思い。願いと感謝。恐れと嘆き。渦を巻く人々の話し声。
 「あれはアタシの息子だよ」
どこかでネイトの声。
 「見たんだ、確かに」
 「ああ。おれも…あれを見たとたん体に震えが走って、もう何も怖くなくなっていた」
人間たちの囁き声が、幾重にもなって聞こえる。
 「敵は恐れを成して逃げたんだ。あれは戦神だ。祟り神なんかじゃないよ」
 「葬祭殿を壊したって――」 「神像を壊したから――」 
 「怒らせちゃいけない」
 「あれが側にいると、自分が分からなくなって、無茶苦茶に戦ってしまうんだ」
誰かが呟く。
 「あれは本当は、とても恐ろしい神様なんだよ」
やがて、意識は沈黙の中に飲み込まれていった。


 賑やかな声とともに、浅瀬に渡された板の上を荷を積んだロバが渡ってゆく。川の水位は低く、草の背丈は低い。風が埃っぽいのは、そろそろ春の嵐の季節だからだ。
 取り戻されたもう一つの砦にも兵が寝泊りするようになったお陰で、元々の砦の過密さは少しは薄れていた。荷が運ばれ、荒らされていた内部が整えられて、元通りに作りかえられようとしている。指示役を務めているのはメンケペルだった。建築技師としての腕を買われて、引き続き砦の修繕などを行っている。
 偵察の話では、逃げた異民族たちは、砦より湿地帯のあちこちに隠れ潜んでいるという。追撃を用心してか寝泊りする場所を点々と変え、足取りはつかみにくい。東の国境に至る道は大小の浅瀬が連なる草原で、ほとんど集落もない。
 「追撃は可能だが、こちらも手勢が少ない」
東の砦の視察にやって来たメネスは、腰に手をやりながらそう言った。視線の先には、鬱蒼とした原初の緑が広がっている。
 「増援は来ないのか?」
<緑の館の主>が尋ねると、彼は馬鹿にしたように鼻で笑った。
 「正規軍を送れ、と要求したが、突っぱねられた。新王は忙しいらしいぜ。……」それから、僅かに表情が曇る「…先王が身罷られた後の処理で」
その報せは、つい前日に届けられたばかりだった。王の使いだという気取った役人が書簡を読み上げ、新王の即位を告げたのだった。とはいえ、それは一部の人間を除いては、特に大きな衝撃とはならなかった。砦に詰めている兵士たちの関心ごとはもっぱら、食料の補給が滞りなく行われるかと、自分たちがいつ家に帰れるかだけだったのだから。
 メネスは間違いなく、衝撃を受けた一人だっただろう。役人が王の即位を告げにやってきたその夜、彼は祝いの宴ではなく、先王の死を悼み、冥界神<オシリス>となる旅路についた王のための祭祀を神官に執り行わせた。泣き女こそいなかったが、簡易的な葬儀のようなものだ。その余韻のせいか、今日は砦はやけにひっそりしている。
 「いいのか?」
ちらりとメネスのほうを伺う。
 「おれは簒奪者<セト>になる気はない」
そう言いながら、表情は揺れている。怖いのだ。それは、沼地のほとりで暮らしていたときから時折メネスの表情に表れていたもの。具体的な理由は一度も口にしようとはしなかったが、<緑の館の主>は今ではその恐れの正体に気づいていた。
 微かな羽音がして、様子を見に行っていた鷹が舞い戻ってくる。羽音が、彼らの傍らの崩れかけた石塀の上に降りたった。
 「いたか?」
メネスが尋ねると、ホル=ネジェフは、ああ、と頷いた。
 「南東の支流だ。指導者らしい奴もいたな。逃げる気はなさそうだった。奴ら、そのうち仕掛けてくるぞ」
そう言って視線をメネスと同じ方角に向ける。それは川の上流――都のある方角だ。
 「何人だ?」
 「数十人ずつ分散して、…」
 「そうじゃない」
鷹はくるりと目を動かす。しばしの沈黙。問われている意味を理解するまで、十秒ほどかかった。
 ホル=ネジェフは、少し嘴の端をゆがめた。
 「――十七人。王の死に際して陰謀を企てたとして、後宮の女官、大臣、役人、それに王子たちが処刑された」
 「……。」
 「大将、今ならまだ」
彼は薄っすらと笑い、手を振った。「いいんだ。おれは、おれに出来ることをやるだけだ。」
 去ってゆく背を、鷹は、そして<緑の館の主>は、じっと見つめていた。


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