■第四章/戦禍-2


 それから何日かは、何事もなく過ぎていった。
 さらに遠方から連れてこられた兵が補充され、兵糧が積み上げられ、見張りやぐらが完成する。彼は中州の端の草むらに寝そべっているだけだった。他にすることが無いのだから仕方がない。ここへ来てどのくらい経っただろう。上流から流れてくる水の流れに微かな沼地の香りを感じるたび、帰るべき場所のことを思い出す。それは、人間たちも守護者たちも同じだろう。早くことを片付けて、元居た場所へ帰りたい。
 だがメネスは、じっくりと攻めることを考えているようだった。兵たちに訓練を続けさせ、ときおり日中に砦に攻撃を仕掛けては小競り合いを繰り返す。それは犠牲を最小限にしながら、兵たちを戦闘に慣れさせるための布石だった。向かいの砦を占拠している異民族たちが、近隣の村や町を略奪して糧を得ていることも分かってきた。川の水位は低く、ただでさえ周辺の集落の収穫は厳しい。頻繁に攻撃して砦から外に出られないようにしていれば、いずれ食料が尽きて苦しくなるはずだ。
 季節は、いつしか冬に差し掛かろうとしている。次の収穫を控え、食料の備蓄が最も少なくなる季節だ。補充は望めない。飢えは兵の士気を下げる。滞る補給を補うため、手の空いている者は率先して漁や狩りに出かけた。時には、司令官自らも。
 「網は持ったか? ひきずらずに持てよ」
いつものように草むらに寝そべっていた<緑の館の主>は、聞き覚えのある声が近づいてくるのに気づいて、うっすらと片目を開けた。メネスだ。網と籠を抱えた兵を二人ほど連れてこちらへやって来る。まだ幼さの残る若い少年たちだ。魚を獲りにきたらしい。
 「魚獲りは苦手ではなかったのか」
声をかけると、足を止めて小さくにやりとする。
 「なに、おれが獲るわけじゃないから心配ないさ。こいつらにやらせてるんだ」
 「あの…?」
誰と話しているのかと、兵たちが訝っている。
 「いま神託を聞いていたところだ。大鰐の神が良い漁場を教えてくれるそうだぞ。」
 「……。」
彼は呆れた顔でメネスを見た。本人は済ました顔だ。「さーて、どのあたりに網をかければいいか…。」
 なるほど。確かに"神託"だ、嘘では無い。
 ひとつため息をつくと、<緑の館の主>は、小さな中洲が流れに分断されているあたりを指した。
 「あそこの草の茂っているあたりを囲むように網を入れろ。水の澱みに群れが留まっている」
 「あそこだな」
メネスは、網を持つ少年たちに指示を出す。「そこらへんを囲む感じで網を投げろ、そっとな。遠くから囲むようにして、少しずつ狭めていくんだ。――そう」
漁のやり方は、シェヘブカイに教わったままだ。<緑の館の主>は、起き上がって漁の様子を眺めた。網を投げ入れる少年たちの姿が、沼地の風景と重なる。やがて、
 「うはっ、すごい! 大漁だ」
網を引き上げた少年たちが声を上げる。
 「だろ? 大鰐様は魚のことならなんでもご存知なのさ。そのデカいのはあとでお礼のお供えにするといい」
 「はいっ」
きらめくウロコの魚たちをつかみとり、次々と籠に入れる。
 「……。」
さわさわと風が吹いて、白い花の花弁を揺らす。一瞬、彼の意識は遠くへ、懐かしい沼地へと飛んでいた。
 「あーあ、惜しいよ全く。あの子にその気があれば、アタシはあの子のほうを支持するのに。」
我に返ったのは、近くで声がしたからだった。彼は、視線だけをそちらへやる。いつのまに来ていたのだろう。隣に、脛あてをつけた白い足が見える。
 「民衆や兵は、頭ごなしに怒鳴りつけるだけじゃあ動かない。兵を纏めるなら今の皇太子なんかよりずっと上さ。あの子が指揮をとるんじゃなきゃあ、アタシはここへは来たりしなかった」
戦女神<ネイト>だった。相変わらず、近くに来るまで気配を感じ取れない。彼は、それとなく体の位置をずらした。
 「あいつを気に入っているのか。」
 「もちろん、弓の腕もいいからね。あんたは違うのかい?」
 「…嫌いではないな。」
 「おやおや。ずいぶんと消極的ねぇ」
振り返ったネイトは、<緑の館の主>がいつの間にか数歩離れていることに気づいて、目をしばたかせる。
 「何故、そう逃げるんだい」
赤い唇がすっと釣りあがった。整った眉、煌く切れ長の黒い眸、魅力的な肢体。人間の男がその姿を見たら、誰もが視線を釘付けにされただろう。だがそれは、美しいとともに、ひどく恐ろしく感じる底知れぬ微笑みだった。
 「――分かるんだね。あんたは強い、だから分かるんだ。」
苦労してとった距離を一瞬で縮めると、女はつ、と白い腕を伸ばし、おもむろに<緑の館の主>の頭に手をやると、くしゃくしゃと軽く撫でた。
 「アタシはあんたも気に入ったよ。」
それだけ言うと、くるりと踵を返し、どこかへ去ってゆく。予想もしなかった出来事に、彼はただ、わけもわからずそこに立ち尽くしていた。


 それから何日も経たないある日の夕暮れ、彼は再び塔へ呼び出された。出向いてみると、そこには戦女神、ネイトも来ている。矢筒を背負い、額に鉢を巻いて完全武装した姿だ。
 「や。」
女が手を挙げ、きらめく目を向けてくる。<緑の館の主>はそれには答えず、距離を取ったまま、鷹を伴って卓の前に立つメネスのほうを見た。メネスも武装している。いつになく真剣な表情だ。
 「今夜、夜襲をかける」
開口一番、そう言った。「水際の闘いになる。あんたの力が必要だ。」
 「…分かった」
 「アタシは何でもいいわよぉ、戦えれば。」
ネイトは指を唇に這わせながら、くすくすと楽しげに笑う。金色の鷹がちょっと翼をすくめる。
 「姐さんは相変わらずですねぇ。」
 「――と、いうわけだ。気休めかもしれんが、神官たちが今、戦勝祈願をやってる。あんたにとっては、嬉しくも何ともないだろうが…」
<緑の館の主>は、メネスの言葉を聴きながら、ちらりと縦長な窓の外に視線をやった。水面は暗く、波に反射する光は微かだ。
 月のない夜。
 記録者たる神は、あとで今日のことを知るのだろうか。


 塔の中庭には、出陣前の兵士たちが集まり、神官たちの戦勝祈願の祝詞を聞いていた。あまり目立たちすぎぬよう、控えめに灯された松明の灯りに照らされ、ひしめきあう人間たちは黒い一つの塊のようだ。祠堂の前には、王家の守護神である鷹の像と鰐の像が引き出され、それぞれの前に捧げ物が積み上げられている。鰐の像は首に草を編んだ緑の環をかけられている。沼地から来た若者の誰かの仕業だろうか。彼は苦笑して自分の首に手をやった。元は子供の作った花輪から始まったことなのに、いつのまにか、それが"大鰐の神"に捧げる当たり前の供え物に変わっている。
 「さてさて。今夜は、嵐の神も出てくるのかしらねぇ」
傍らに目をやると、ネイトは向かいの砦のほうに視線をやっていた。
 「"嵐の神"?」
 「あっちにいる連中が崇めてる、いけすかなーい奴よ。青白い雷鳴とともに現れるんだ」くすくすと笑いながら、眼は笑っていない。短く刈り込んだ黒髪をさらりと撫で、女は、ほの赤い血の輝きを宿す眼を彼に向けた。 「先に言っておくけれど、守護者と守護者の戦いに"決着"はない。力を失えば一時的に消えるかもしれないけれど、それは"死"ではない。トドメを刺せるのは人間自身だけ。意味は分かるかしら?」
 「……ああ」 
 「なら心配は要らないわねぇ」
すれ違いざま、肩に手を置いた。
 「期待してるわよ、<災いの主>。他のひ弱な子たちみたいに、アタシをがっかりさせないで頂戴ね」
その手は、ぞっとするほどひんやりとして重たかった。そして理解する。あらゆる人と人ならざるものたちの死を間近に見てきた者の気配。これまでにも、ここへ送り込まれては戦場に消えていった守護者たちがいたのだ。
 彼は、ちらりと暗い水辺を見やる。戦い? 顔さえ見たこともない、見ず知らずの相手と?
 何をすればいいのかさえ、まだはっきりと分かっていない。それなのに、体の奥で熱く疼くものがある。暗い夜は、忘れ去ろうとしていた制御出来ない荒々しい衝動を思い起こさせる。それもまた――確かに自分の一部ではあるのだが。


 夜半過ぎて、それは始まった。 
 ひそかに下された号令とともに、兵たちは中州の間に舟を漕ぎ出し、或いは徒歩で、敵の詰めるとりでを目指して浅瀬を渡る。特に渡りやすい幅の狭い場所には板が渡された。暗がりに紛れているとはいえ幾らなんでも分かり安すぎる、と<緑の館の主>は思う。それにこれは、メネスが来る前に失敗したという司令官と同じ方法ではないのか。
 敵の砦の上で、松明の灯りが大きく揺れる。あちらも、防衛の準備中だ。金属が煌く。矢を持っている――
 空を見上げると、金の鷹が舞っているのが見えた。メネスは、その下にいるのだろうか。ネイトの姿は見当たらないが、近くに現れるまで気配も感じ取れないのだ。おそらく何所かに潜んでいるのだろう。彼は体を半ば水に沈めたまま、じりじりと距離をつめてゆく軍勢を見つめていた。
 戦闘は、ひゅぅ、と空を切る一本の矢の音から始まった。
 砦の上から放たれたものだった。それを合図に、怒号のような声が響き渡った。砦の城壁の上から家が雨と降り注ぎ、石が投げつけられる。その中に、指揮官らしき影があるのを彼は見た。そう思うのは、隣に、薄ぼんやりとした青白い輝きが見えたからだ。まだ気配は微かだが、あれがきっとネイトの言っていた"嵐の神"というやつだろう。
 「ひるむな、進め!」
味方の兵たちは、頭上に盾を翳して走る。何本かの矢は城壁上の射手をみごとにとらえ、悲鳴とともに転がり落ちてくる者もいる。ネイトの加護を受けた射手たちの仕業だろうか。暗がりの中だというのに、兵たちは怖気づいていない。勝てると信じている。或いは、恐怖を忘れているのか。いくつもの盾に守られながら素早く入り口に駆け寄った兵たちが、隠し持っていた皮袋から油をまいて火をつけるのが見えた。
 「突っ込め――!」
号令とともに、兵士たちが砦の入り口に剣や槌を叩きつける。板が割れ、一部に穴が開く。だが、中にいる敵も必死だ。入り口を突破されないと集中して矢を射かける。その時、裏口から出てきたらしい異民族の一団が、脇から襲い掛かった。
 「伏兵! 新たな敵襲! 脇を固め…」
声が途切れる。混戦状態で、黒い塊となった人の動きは、彼にもはっきりとは見えなくなった。何人かがこちらに向かって走ってくる。武器を失って逃げようとしている兵と、後ろに追いすがる別の兵。
 「ぎゃっ」
声を上げて、逃げようとしていた兵が水辺に落ちてきた。血の臭い。反射的に、彼は落ちてきた若者の体を受け止めた。背に深い傷を負って蒼白なその顔には、…見覚えがあった。――沼地のほとりの村で、シェヘブカイの指示を受けて畑の脇で水路を掘っていた若者だ。――<領域>に属するもの――共に帰らねばならないもの――。
 意識の中で何かが音を立ててはじけた。
 その瞬間、彼は全てを忘れた。


 戦場を風が吹きぬけた。それは、思わず背筋に冷たいものが走るような怒気に満ちた衝撃だった。干戈を交えていた敵味方の兵も、ぞくりとして動きを止める。振り向くと、水辺に白い小山が盛り上がるのが見えた。
 「ひ、…」
目の前を白い風が駆け抜けた。思わず頭を抱えた兵は、恐る恐る目を開いた次の瞬間、正気を失ったようになって腰を抜かしている敵の兵を目の前に見出した。足元の泥には、重く巨大な何かが引きずられていったような深い跡が残されている。
 異民族の兵たちは泡をくったように逃げ出した。武器が投げ出され、次々と砦の向こうの湿地帯へ逃亡していく。砦の上から指示を下していた敵の指揮官らしき人物も、気圧されたように動かなくなっている。
 ある者は牛ほどの大きさの鰐を見たといい、ある者には鰐の頭を持つ筋骨隆々の大男に、またある者には、真っ白な長い髪を靡かせた若い男の姿に見えたという。
 ただ確実だったのは、その夜、ほとんどの者が"大鰐の神"の姿を見たと信じたことであった。


 夜が明けた。
 朝になると、砦の上には鷹の旗がはためいていた。勝利の、奪還のしるしだ。兵たちは疲れた顔で、だが勝利の興奮に沸いている。彼は水辺に立って朝日を受けながら、ぼんやりとそれを眺めていた。左眼に手をやる。記憶はある――扉が破られた。勢いづいた兵たちがなだれ込んでゆくところは確かに見ていた。――しかしそれは、まるで、夢の中の出来事のようだ。
 空から金鷹が舞い降りてくる。
 「ずいぶん派手にやったな。体は大丈夫か?」
 「――体?」
 「人間のように傷を負うことも血を流すこともないが、疲れは溜まるはずだ。」
彼は、自分の両手を見下ろした。確かに、少し透けて見えるような気がする。
 「私は一体、何をした?」
 「何、って。あっち側の守護神どもを片っ端から咥えて引き裂いて。連中、自分の守護神がやられるの見て、泣きながら逃げてったぜ。そりゃあすごいもんだった。」
 「……。」
どこからか、女の雄たけびが聞こえた。顔を向けると、視線の先で、砦の上で太陽の輝きを浴びながら弓を掲げているネイトの姿があった。元々赤かった衣の色が、今は返り血にしか見えない。
 「なんだ、あれは…」
人の姿はしていても、自分以上の化け物だ。
 「あれがあのお方の役割だからな。異民族を打ち倒す<射手>、王のために道を切り開く者、中洲の古都の守護者。」鷹はそう言って肩をすくめる。「そして王の<赤い冠>の守護者だ。あの方が頷かねば、誰も王とは名乗れない。」
 「――大した女だな」
水の中へ入ってゆこうとする彼を見て、鷹が驚いたように声をかける。
 「何処へ行く。戻らないのか?」 
 「まだ、やることがある」
そう言って、彼は水辺に目をやった。「すぐに終わる。」


 目を覆いたくなるような惨状だった。
 浅瀬には、息絶えた兵士たちが敵味方入り乱れて横たわっていた。眼を開いたままの若い男もいれば、宙をかくように腕を伸ばしているものも。表情ひとつ変えずそれらの間を泳ぎまわり、彼は黙々と、味方のまだ息のある者たちを岸辺へ運び上げ、窒息しないよう姿勢を楽にしてやった。既に息絶えているものや体の一部を失った者たちも、出来る限り見つけやすい場所に集めておく。彼の周囲では、砦から駆けつけた癒しの女神や死者の女神がそこかしことを飛びまわっていた。うろたえる死者の魂はやさしく慰め、導いてゆく。<記録者>たる神の姿はまだ見えないが、既に何所かで、昨夜の戦死者の名を記録しているかもしれない。
 生と死と、勝者と敗者と。たとえ一つの戦争に勝利したところで、死んでしまっては何の意味もない。
 一つ一つの躯を見下ろしながら、彼は、それらがかつて命を持って動いていたときのことを思い出そうとした。ほんの半日前までは、砦で元気に生きていた人間たちだ。その中には、彼が連れて帰らねばならなかった者もいる。
 (全て守ることは、出来なかった…)
それが不可能な望みとは分かっている。メネスなら、砦を奪還してこの被害は少なかったほうだと言うかもしれない。だが彼にとっては、ただ一つであっても、自らの<領域>に属する者の命が失われることは耐え難かった。
 奪われるなら、戦う。
 相手が何ものであろうと、どんな理由があろうとも。


 水辺の捜索をほぼ終えたあと、彼は、ふと砦のほうに注意を向けた。そこにもまだ息のある人間がいる気がしたのだ。行かねばならない、と思った。
 入り口の扉は焼け焦げ、打ち壊されている。入り口近くで何かが燃えた跡があり、付近には血痕と敵の死骸とが転がっている。戦いが終わったばかりの薄暗がりの中には血の臭いが満ちて、静寂に包まれていた。
 足元で何かが動く。
 見れば、力を失った護符を握り締めたまま目を見開いて事切れている異民族の兵の胸のあたりに、小さな神が蹲っていた。奇妙な、ツノを生やしたような神だ。視線が合うと、それは小さく悲鳴を上げた。
 「ヒッ…」
だが、彼には興味はなかった。敵には違いないが、それはもう消えかけている。事切れた男の守護神なのだろう。祀る者が死ねば、いずれ消える。わざわざ手を下すまでもない。
 廊下を進んでゆくと、行く手から水の臭いが漂ってきた。砦の先は中州の反対側に繋がっているのだ。角を曲がると光が見える。船着場だ。そして、廊下の突き当たりには階段がある。その下から、ぼそぼそと話し声が聞こえる。
 「…だよ、もう何も聞こえない。逃げるなら今のうちだ」
 「ああ」
カチャカチャと金属音がする。話を理解できるということは、敵側の人間ではなさそうだ。彼が見ていると、階段の下からそろそろと二人の男が上がってくるのが見えた。どちらも髭は伸び、髪はぼさぼさで、粗末な腰布だけをまとっている。格好からして捕虜だったのだろうか。足には、ついさっきまで枷をはめられていたような赤黒い跡が残っている。
 ――合うはずもないのに、目が合った。階段を上がって来かけた男の一人が、足を止めた。
 「…あ」
こちらが見えているようだ。彼は、少し首をかしげ、男の顔をよく見た。どこかで―― そうだ。
 「どうした? メンケペル」
もう片方の男が不思議そうな顔をして名を呼ぶ。
 <緑の館の主>は、思わず呟いた。
 「シェヘブカイの兄、か。」
びく、と男の肩が震える。それは、肯定の意だ。もう一人の男は何も気がついていない。
 「おい、どうした。早く行こう」
 「……。」
<緑の館の主>は体をずらし、道を開けた。メンケペルは、信じられないといった顔で微かに震えながら、仲間に肩を支えられて砦の外へ去ってゆく。
 (そういえば…東の砦に兄がいる、とは言っていたが…。)
見かけないとは思っていたが、探そうともしていなかった。まさか、こんなところで捕虜になっていたとは。
 彼はそっと、左眼に触れる。
 あれは、かつて自分が殺意を抱き、殺したいとさえ思った男だ。あの時の出来事は、はっきりと覚えている。それなのに今は何も感じない。何故だろう――不思議だ。


 ふいに、強烈な視線を感じた。
 彼は弾かれるように振り返った。視線が向けられているのは、崩れた壁の向こうの中洲だった。刺すような、受けているだけでじりじりと肌の焦げるような敵意。草むらの中を走る男たちが見え、その頭上に青白くゆらめく何かが見えたような気がしたが、それも一瞬のことだった。
 (…これで終わりでは無い、ということだな)
敵はまだ諦めてはいない。一度の敗北では、この砦を諦めきれないのだ。彼は思った。砦から逃げた異民族たちは、いずれ再び戦いを挑んでくるだろう、と。


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