■第三章/変容-6


 気が付けば、そこは豪華な天幕の内だった。
 神官たちが祠にやって来て何やら唱えて輿に乗せられ、運ばれてきたのだ。その呪文の効果は半ば強制的でもあり、不思議と抵抗する意志は早々に削がれていた。自分の意思ではなく移動させられるのは、あまりいい気分ではなかった。しかし、ここは祠からそう遠い場所ではない。
 天幕の中に満ちる香の臭いがまとわりついてくる。邪魔な香りを振り払うように、彼は荒っぽく腕を払って周囲を見回した。頑丈な柱に支えられた天幕の奥のほうには、御簾のような布が幾重にも垂らされており、その奥は何かの力によって遮られ、彼の知覚をもってしても、うかがい知ることは出来なかった。
 <緑の館の主>は、かわりに外に意識を向けた。
 この天幕の外側には幾つもの似たような幕屋が張られていて、その間を人間が行き来しているようだ。兵士、神官、女官、それに書記や役人たち。今夜はここで野営するつもりなのだろうか、松明の準備がされている。そんな、人でごったがえす中を、こちらへ向かってどやどやと近づいて来る一群がある。
 ほどなくして背後で空気が流れる感覚があった。天幕が押し開かれるとともに、見覚えのある男が左右から兵に抱えられるようにして押し込まれてくる。
 「おい、そんなに突くな。逃げやしねえよ」
メネスだ。目が合うと、男はばつの悪そうな顔をして、兵の手を振り払い、こちらに歩いてくる。
 「すまん。あんたまで巻き込んじまったな」
すれ違いざま、囁くように尋ねる。
 「お前の鷹は?」
 「……。」
男はなぜか口をつぐんだまま、<緑の館の主>よりも奥に立った。それを待っていたかのように奥の天幕が左右に開き、香の臭いが一段ときつくなった。彼は少し眉を寄せた。こんな妙な香りより、水辺に咲く花のほうがずっといい。
 開いた幕の先には、玉座にも似た豪華な椅子がしつらえられ、立派な衣装をまとった若い男が一人、不遜な態度でゆったりと腰掛けている。今日、沼地のほとりにやって来た、輿に乗っていた男だ。<緑の館の主>は、じっとその男を見つめる。いや、正確には、その男の周囲にまとわりつく、不可解な幾重もの気配を、だ。それは感じるだけでなく視覚となってはっきりと見えた。
 兵たちは何も言われずとも下がってゆき、男の傍らで香を掲げていた女官もかすかな衣擦れの音だけを残して下がってゆく。
 「人払いする必要があったのか」
 「一応な、緊張していては本心が聞けん」
くすくすと面白がるように笑うと、男は僅かに身を乗り出した。
 「――へえ、確かに"大鰐"だ。白い大鰐、本当にこんな神がいるとは知らなかったな」
 「おい、ネ…」
じろりと男が睨みつけ、メネスは、言いかけた名を飲み込んだ。
 「余のことは陛下と呼んでもらう。けじめは必要だ」
 「…では陛下。こちらの守護者殿は表情は変えませんが内心は無風ではございません。後々怒りを引き起こしかねない態度はご自重なさいますよう」
 「<災いの主>が父上の葬祭殿を破壊したときのように、か?」
面白がるような口調で言い、"陛下"は足を組んだ。「余にも同じように襲い掛かるというのか?」
 「無理だろうな。」
<緑の館の主>は口を開いた。メネスは驚いた顔をして振り返る。
 「お前は何重もの加護に守られている。強力な障壁だ」
 「ほう」
 「だがそれ以上に、今の私にはまだ、お前を恨む道理がない。」
 「まるで、恨む理由があれば挑みかかるとでも言う口調だな。」
 「怒りは、私の本質だ。それは制御できるものではない」
表情ひとつ変えない<緑の館の主>の白い表を、玉座の上の男は頬杖をついたまま面白そうに、伺うように見つめる。しばしの沈黙の後、男は体を起こし、ゆったりと背もたれに身をもたせかけた。
 「…ふ、ならば我々が余計な悶着を起こすことは永遠になかろう。ここへは、お前やお前の守護地を荒らすために来たのではない。我が兄の無事を知って直に迎えに来たかった、それに豊穣の神秘を是非ともこの目で確かめてみたかったのだ。」
 「……。」
メネスは何やら異論がありそうな顔をしているが、何も言わない。苦虫を噛み潰したような顔で視線を足元に落としている。
 「さあ、宴にしようではないか。酒をもて!」
合図とともに、さっと入り口近くの幕が上がり、手に酒や膳を掲げた女官、給仕係などが次々と入ってくる。部屋の中に椅子と食卓がしつらえられ、メネスはあっというまに宴会の席に座らされていた。手には杯が持たされている。
 「守護者殿には、今、うちの神官たちが祠にたっぷりと供物をしにいっている」
付け足すように言って目配せした男の言葉通り、彼は、祠の供物台が満たされているのを感じ取った。それとともに、神官たちが祠で行っている儀式のことも。敵意が削がれ、体の自由が奪われていくような感覚がある。呪詛とは違う、鎮魂の歌、或いは調伏の儀式か。彼は、注意深く男のほうを見た。
 「…供物だけでは、なさそうだな。」
 「格に相応しい待遇を受けるのは、悪いものではなかろう。神官もつかず、無学な農民たちの粗野な頼みごとと引き換えに生肉を食らっているのでは、理性も鈍ろうというものだ。」
 「……。」
<緑の館の主>は周囲を見回した。
 「ホル=ネジェフは、何処に居る?」
 「どこか空の上だろう。あれは、玉座の前に姿を現すことなどない低級神だ。」
 「それなら私もそうだな。」
食卓を一瞥すると、<緑の館の主>はくるりと踵を返した。「帰らせてもらう」
 「待て」
やんわりとした、だが強制力のある言葉。自然と彼の足が止まる。そうせざるを得ない何かが、玉座の男の声の響きにはある。
 「お前はこの地の守護者であり、神々の王のもとに従う存在だな?」
振り返ると同時に、頭上から羽ばたきの音が近づいて来た。聞きなれた、祠の間借り神のものではない。一羽の羽ばたきでありながら、その羽音は幾重にも重なり、時を越えて遥か地平まで響くかのように力強い。天幕をすり抜け、ふわり、と降りてくる金色の輝き。大きな鷹――羽毛の一枚まで黄金に輝くそれは、音もなく静かに、椅子の背に降り立った。
 「<沼地の守護者>よ。<二つの国の主人>にして至高の神より王笏を預かり地上を統治する者は、お前に申し付ける。余に従い、大地に秩序を取り戻すのだ。国境を乱す者どもを追い返す兵たちを加護せよ。」
ちらりと脇を見ると、メネスと視線があった。その目には、諦めと、覚悟と――そのどちらもが等分に入り混じっている。
 しばし見詰め合っていたあと、メネスは無言のうちに、ぐい、と杯を飲み干した。その杯に、側に控えていた女官が、少しの間も置かずなみなみと赤い酒を注ぎ足す。
 彼は、玉座の傍らにある黄金の鷹を見つめた。
 一度も会ったことはなくても、身にまとう気配でそれと分かる。神々の王。地上にあるすべての守護者たちを従えるもの。最も古く、最も力を持つ神々の中に属するもの。断ることなど、最初から選択肢にないのだ。
 「――従おう。だが、私がいない間、ここはどうなる?」
 「なに。力のある主の残した軌跡は、すぐには消えん。不在であったとて悪しきものどもが容易く入り込むことは出来まい。離れるのは、そう長い間のことでもない」
自分も杯を傾けながら、若い王はこともなげな口調だ。「聖域を持つ身分なら、自分の一部を影として残していくことも出来よう」
 「……。」
 「おっと。そういえば、あそこの神像は砕けたままだったな」
男は杯から口を離し、すぐさま背後に向かって何やら手招きする。奥の天幕の影から、肩に布をかけた書記らしき男が音もなく近づいてくる。何事か話しかけると、書記は手元の神にペンを走らせ、すぐに去ってゆく。
 「新たな神像を手配しておいた。半年もすれば届くだろう」 
いとも容易く、そんなことを言う。神像を刻み、捧げること――それは、最も権力を持つ者にだけ可能なことだった。それは、さっき、<緑の館の主>が理由さえあれば歯向かうだろうとほのめかしたことに対する逆の脅しでもあった。神像を刻む者は、神像を打ち砕き、跡形もなく葬り去ることも出来る。その気になれば村ごと潰すこともできる、それだけの権力があるのだと――そう誇示して見せたのだ。
 <緑の館の主>が微かに表情を変えたのに気づいて、男は、にやりと笑って呟く。
 「察しがよくて何よりだ。」
それからがらりと声の調子を変えて、陽気に笑う。
 「さあ守護者殿。そんなところに居ないで戻ってきて、話を聞かせてもらおうではないか。どのようにして<災いの主>たる大鰐が<豊穣の守護者>となったのか。この地の豊穣の奇跡についてもな?」
椅子の背の上で、黄金の鷹がじっとこちらを見つめている。それは良く知った鷹とも、かつて見たもう一羽とも違う、無機質で底知れない眸だった。


 宴がはね、解放されたのは、もう夜も更けてからのことだった。泊まってゆけというのを固辞して、見送りも断って天幕を出たメネスは、最初こそ勢いがよかったが、松明の灯りの届かないあたりまでくると、急にふらつきはじめた。
 「大丈夫か?」
 「ああ、なんとか…ちと飲みすぎただけだ」
<緑の館の主>は、それとなく周囲の気配を探った。神官たちは既に祠から引き上げ、ほとんどの天幕が村と同じように眠りについている。だが、この急場ごしらえの野営地に最初は大勢いたはずの兵士のうち幾ばくかは、気配がなくなっている。どこかへ出かけているのだろうか。夜になっても戻っていないということは、別の場所にも野営地があるのかもしれない。
 月明かりが足元を照らしている。
 「ここでいい」
そう言って、メネスは後ろについてきた<緑の館の主>のほうに手を振った。よろめきつつ入って行く生垣は自分の家ではなく手前のシェヘブカイの家の入り口だが、酔っていてそんなことは忘れているのかもしれない。家の中から声がして、シェヘブカイとティティスがメネスの側に駆け寄ってゆくのを見届けてから、彼は、自分の家たる祠のほうへ足を向けた。
 入り口に達したところで、彼は、塀の端にちょこんと見慣れた小さな鷹、ホル=ネジェフがとまっているのに気が付いた。
 「ずっとここにいたのか」
 「いや、今戻ってきたところさ。その…」
ホル=ネジェフは何故か妙に口ごもる。「…何でいなかったのか、って聞くんだろう。大神が来てるのに、俺なんかが出て行く必要はないからさ。それに、神官どもは苦手だ」
 前庭に入ってみると、天幕の中で焚かれていたのと同じ香の臭いが辺りに強く漂っていた。妙に鼻に付く。嗅ぎなれた花の香りを打ち消しているからかもしれない。祠の中には、新たに運ばれてつくられた木製の供物台上があり、見たこともない果物や菓子が美しい皿に盛り付けられている。その傍らの床の上では、神官たちが残していったらしい香油のランプが燃え尽きようとしていた。
 彼は黙ってそれらを眺めると、祠を出て、前庭の池のほとりに立った。鷹は、祠のひさしの上に移っている。
 「あそこで何を話したかは、だいたい想像がつく」
 「……。」
 「血の順位を越えて自分の才覚だけであそこまで登りつめた奴だからな、馬鹿じゃない。あんたが力で従えられるタマじゃないことくらいは分かってるからこそ、自らここへ来たのさ。そうすれば、逃げられない。うちの大将も、あんたも」
鷹は、うす雲に隠れるようにして、半分ほどの月が静かに浮かぶ空を見上げた。
 「月の神<トト>に会ってきた。王の後継者の一人と王妃が、王の暗殺をたくらんだ首謀者として裁判にかけられ、即日自刃した、という。」
 「……。」
<緑の館の主>は、かすかに表情を動かす。メネスの言ったこと――「あいつ、死んだな」という言葉と、自信満々に見えた鷹とが記憶の中を過ぎる。
 「王宮内には、王位を争う者はもう、ほとんど残されていない。」
それが意味するところを、彼は理解した。
 「だから、逃げたんだな」
 「…ああ」
諦めと覚悟。――メネスと同じだ。この鷹は、守護すべき人間と運命を共にしようとしている。
 「それでも、行くのか。」
 「うちの大将の望みはな、戦って死ぬことだ。逃げて野たれ死ぬよりは、ずっと誇らしい死に方だからと。――俺は、最後まで付き合うよ。」
そう言って、ホル=ネジェフはかすかな羽音とともに空に舞い上がる。銀の月の照らす夜を、鷹の翼が生み出す金の軌跡が遠ざかってゆく。彼は、じっとそれを見つめていた。
 (戦い…人間同士の…殺し合い)
ざわりと風が吹き、前庭にわだかまる香の臭いを吹き消してゆく。白い髪が広がる。
 (何故、そんなものに付き合わねばならない? 我々は、一体何のために<存在>する?…)
問いかけに答えるものはない。物言わぬ月の光は、白く彼の姿を世界の中に浮かび上がらせていた。


前へTOP次へ