■第三章/変容-4


 太陽の軌跡が高くなり、草の色が一団と濃くなる。夏の始まる気配が近づいている。
 再び一年の始まりだ。いつものなら川の水位が上がりはじめる頃だったが、今年は妙に遅い気がする。水面を眺め、それから、彼はちらと祠のほうを振り返った。ひさしの上に留まった鷹は、もはや気配すらも感じとれない。まだ完全に消えてはいないが、それは奇跡的なことのようにも思えた。
 再び、視線を空に向けた。
 太陽の光、すなわち秩序の照らす真昼の今は、陰すらもほとんどなく、少しの間離れても問題はなさそうだ。彼は水の中に滑り込むと、沼地の外を目指した。河の神のもとを訪れるためだ。
 もう何度目かになる訪問は、馴れたものだった。ゆるい水が穏やかに流れる洞窟の中は、水底でありながら仄明るく、水の中のはずなのに、空気があるような錯覚を覚える。彼がそこへ着く前から、河の神は、訪問客の相手をしていたようだった。
 ざっ、と魚たちが泳ぎ抜けて行く。中に、一際大きな特徴的なひれを持った銀色の魚がいたように思えたが、見えたのは一瞬のこと。それらは、彼には眼もくれず、水面へ泳ぎ去ってゆく。
 「今のは河口の町の守護者だ。」
奥のほうから、静かな声がした。
 『お前も河の水位のことを聞きにきたのか?』
 「…何かが起きている」
 『そうだ。水源に問題が発生している。が、それはわしの管轄ではない』
水がゆらめき、それと同時に洞窟の中の光が明滅した。洞窟の入り口にのそりと姿を見せた大きな人型の影は――、彼が振り返ると、びくっとなって慌てて洞窟の外に這い出し、顔半分だけ見せて、おそるおそるこちらを伺っている。
 『それは冥界への渡し守。冥界の河もここに繋がっているからな――闇に属する連中だが、悪気はない。お前に食われやせんかと思っているようだ』
 「……。」
 『見ての通りだ。みな、不安に思っているのだ。今年は渇水の年になるだろう。水源の守り手たちが動けんのでな』
 「水源?」
 『川のはるか上流にある、水のやってくる場所だ。そこには水源の守り手たちの結界がある。彼らが結界を破らない限り、水は下流には流れて来られない。』
話している間にも、きらめくウロコを持った奇妙な魚、あるいは蛇、頭だけが獣の姿をしたものまで、様々な存在が洞窟に入ってきては通り過ぎてゆく。みな彼のほうをちらりとも見るだけで、洞窟の奥へと消えてゆく。河の神の来客なのか、しもべのようなものなのか、或いはここを通り道にしているだけなのかは分からない。
 「その結界は、誰か別の者が破ることは出来ないのか」
小さな笑い声。
 『それが可能ならな。お前に人間は作れるかね? 大地を照らす光を生み出せるかな? 無理だろう。守護者には、それぞれ受け持った役割が、得意なものがある。或いはお前なら、力任せに壊すだけは出来るかもしれんが――』
 「……。」
しばしの沈黙の後、河の神は、言った。
 『出来ることは、何もない。』
水がため息をつくようにゆらめく。『――わしらに出来ることは、水源での問題が今年中に収まって、来年はいつもどおりの年になるようにと願うことだけだ。』


 河の神の洞窟を後に水面に浮かび上がったとき、彼は水の流れの中に見慣れないものがあることに気がついた。船だ。帆を畳み、岸辺から少し離れたあたりに船底をつけている。
 そこは、ちょうど沼地と河の交わるあたりで、茂みの向こうにはティティスの家の一部が見えていた。船はこの辺りの住民が日常生活に使う葦舟よりずっと大きく、船体は木で出来ている。漕ぎ手たちは、手持ち無沙汰を紛らわすために釣り糸を垂れたり、甲板に腰掛けて何やら雑談に打ち興じている。持ち主はどこかへ出かけているようだ。だとすると、沼地のほうへ行ったのかも知れない。
 彼は、水に潜って沼地を目指した。
 水の流れに乗って自分の<領域>へ入った瞬間、微かな違和感が待ち構えていたように彼をとらえた。人ではなく、敵でもない。それは文字通り「待ち構えて」いた何かだった。近くの中洲に這い上がり、周囲を見回した。髪を伝って水滴が足元に落ちる。音もなく近づいてくる影のようなものがいる。自分より遥かに上位にある存在だということは、気配を感じた瞬間から分かっていた。多くの権威と神域を持つ者の、隠すことのない確固たる気配が、辺りに、いつにない緊張感を生み出している。
 その存在は、彼のすぐ側まで来ると、一定の距離を保ったまま足を止めた。
 「お初にお目にかかる、<沼地の守護者>よ。我は先触れなるもの、道を切り開くもの<ウプワウト>。主命により、全土の守護者に報せを運んでいるところだ」
問いかけるより早くそれは言い、足をぴたりと揃えて体の前に降ろした。耳の先から尾の先まで真っ黒な、ほっそりとした大きな犬の姿をしている。金の首輪には青と赤の宝玉が交互にはめ込まれていた。
 「――今年は増水が起こらないという話なら、既に河の神<ハピ>から聞いた」
 「南の国境の戦場が芳くなく、結界の守護者を含む上流の神々が総出となっているせいだな。だが、我が伝えに来たのはその件ではない。」
耳をぴんと立て、赤い舌を垂らしながら犬はきびきびとした口調で告げる。
 「こたび東の国境でも戦がおこり、異民族が侵入している。ゆえに下流地域で戦神たるものは、全て赴くようにとの命が下った」
 「東の国境?」
それは、彼にとって初めて聞く場所だった。
 「海沿いだ。川が下流で別れた、その最も東の支流の先にある中州の砦が落ちようとしている。<沼地の守護者>よ、そなたはかつて"災いの主"と呼ばれ、太陽神の加護のもとにある、王の葬祭殿を襲ったことがあるな。」
 「……。」
彼の表情を見て取ったのか、犬は、続けざまに言う。
 「償いをせよというのではない。そなたには力がある。主上の加護を破り、水に棲むものの長たる河の神ですら手を焼くほどの力だ」
左の眸が、かすかに疼く。彼は無意識のうちに手をそこに当てていた。
 「…それはもう、昔の話だ。」
振り返り、視線を沼地の先に向ける。「私は、ここを豊かな土地にしたいと思ってきた。この土地に棲む者を守るよう望まれている」
 「その思いは、そなたの本質と矛盾するものではない、<沼地の守護者>よ。土地への愛着と所有欲が、その力を与えたのだ。しかし憤怒と闘争もまた、そなたの本質の一方であろう。」
立ち上がって、犬は尾をぴんと立てたまま、彼の周りをゆっくりと歩く。
 「水辺の砦の戦いには、水に棲む者たちの協力が欲しい。そなたは適任だ。」
 「……。」
彼は表情を変えないまま、かすかに眉を寄せた。この黒い犬は、そんなことのためにやって来たというのか。――断ろうと思えば、断ることは出来る。しかし、次に続けられた言葉が、彼の意思を揺るがせた。
 「戦い方を知らぬ、とは言わせまいぞ。王宮より放たれた幾多の呪詛、そなたは、もう何度も跳ね除けてきたのだからな。」
 「…王宮?」
 「そなたが沼地に匿っておる人間に向けて放たれたものだ。」
彼は、思わず意識を祠のほうに向けた。そこにいる、消えかけている鷹と―― 祠の脇の船着場から、今まさに葦舟を出そうとしている男とに。
 「知らなかったのか?」
黒犬は、彼の顔にはじめて現れた表情らしきものを見て、意外そうな顔をしている。
 「"黄金の鷹"が、どの血筋につくかくらいは分かる。だが、継承順位は低いはずだ。そう聞いている――」
 「あれ自体はそうだが、その弟が後継者に指名されて状況が変わったのだ。共同統治者という、王の名代にして半ば実権を握る役目だ。そして、今代の王は床に臥せっている。東の国境に攻め入られているのは、その話が外に漏れたせいだ。今ならば手薄だ、と。」
 「ほう…。」
 「<沼地の守護者>よ。」
いまや黒犬は、最初の頃と違って、仕事めいた几帳面な口調をやめていた。
 「月の神<トト>が気に入ったというから何事かと思ったが、成る程、お前は他の無機質な連中とは違うらしいな。察しも良い。成り立ての守護者にしては珍しいことよ」
笑うように口元をゆがめ、犬は、ぴたりと寄せていた足を崩した。
 「ならばと敢えて言うが、これは人間世界のみにあらず、我らの世界での揉め事でもある。考えてもみるがいい。継承順位の低いものが王の存命中に王と同等の権力を持つとは、どういうことか。――王の権威は、王を支持する神の権威でもあるのだ。――意味は、分かるな? よいか、我が知っていることは、王も既に知っている。そなたがここにいることも、どのようにしてこの地の守護者となったのかもだ。」
先触れは、まるで謎かけのように曖昧に、核心を口にせぬように、遠まわしな表現で言う。
 「お前はもう巻き込まれているのだよ、<沼地の守護者>。そして、王家の鷹に対抗できるのは王家の鷹だけだ。」
ざっ、と風が吹く。緑の草が揺れる。
 「……考慮しよう。」
彼が答えると同時に、犬はゆっくりと背を向けて、静かにどこかへ去って行った。
 水面に視線を見上げる。
 何かが始まろうとしている。
 あれほどの神威をもつ守護者でさえ、役目と存在意義に縛られて生きている。ここを、――自分の<領域>を守るためには、力だけでは足りない。どうすればいい? どうすれば、あの鷹を蘇らせることが…


 足音が近づいてくるのに気づいて、彼は意識を引き戻した。シェヘブカイだ。メネスと鳥を撃ちに来たらしい。近づいてきたシェヘブカイは、彼に気づいて足を止めた。
 「――あれ、<緑の館の主>?」
一瞬、何かに驚いた顔をしたものの、すぐにいつもの表情に戻って近づいてくる。
 「こんなところまで出かけてたんだ。何してたの?」
 「水を、見ていた」
そう言って、彼は視線を足元の水面に向けた。それは嘘では無い。一定の速さで流れ続ける水の流れは、思考の流れによく似ていた。
 「ここまでが、私の<領域>。ここが沼<メヒ>の果てだ」
 「ああ。ここからは沼じゃなくて、川だもんね。河の神様、今年は調子が悪いみたいだね」
 「……。」
彼は、川の果て、南のほうへと視線を向ける。
 「河の神<ハピ>ではない。上流の…、結界を守る者たちが原因だ」
 「結界?」
 「神秘なる水源と大河<イテルウ>の境にあるもの。ソペデトの輝きとともに、それは破られる。だが彼らは今、<境界>を守ることに忙しい――」
 「…?」
シェヘブカイは不思議そうに首をかしげ、何か聞き返そうとしたとき、メネスの大きな声が辺りに響き渡った。
 「おーい、シェヘブカイ。どこに行った?」
 「おっと。」
草を掻き分けながら近づいてきたメネスは、縄の先に三羽ほどの水鳥をぶら下げて、得意満面だ。
 「どうよ? おれの腕前は。」
 「すごいな、こんな短い時間で」
シェヘブカイの前まで来たメネスは、足を止め、こちらに視線をやった。表情がかすかに硬くなるのが分かる。
 「守護地の見回りご苦労様です」
 「……。」
彼は、メネスが手にした弓矢と水鳥に視線を走らせた。その弓は、メネス自身が望み、シェヘブカイが与えたものだった。――戦場を去り、戦うことをやめても、この男は全てを忘れ去ったわけではないのだ、
 あの鷹を蘇らせることが出来るとしたら、これは、最後の機会になる。
 「…たまには鳥もいい」
聞こえるか聞こえないかの声で呟くと、彼は、するりと水の中に身を躍らせた。これは賭けだ。本来なら自分が介入すべきではない事柄だったが、それがシェヘブカイやこの沼地の運命に関わることなら、敢えて見過ごすわけにもいかない。
 祠に向かって泳いでいたとき、彼は、何者かがその祠に近づいているのを感じ取った。人間だ。だが、この辺りに住むものではない。あの船の持ち主だろうか。水の中に潜みながら、彼は、その人間たちが祠の中を見回し、話し合うのを聞いていた。その内容は、さきほど黒犬の伝令の神から聞いたことを思い起こさせるものだった。

 "東の戦場に送る兵が必要だ"
 "すべての戦の神たちの加護を必要とすると、陛下は仰っている"
 "兵を出さぬと言い張る貴族たちもいるが――"

 "――ここの神は、使えるのだろうか?"


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