■第三章/変容-3


 刈り入れの季節が終わろうとしている。
 それは人間にとって、一年で最も忙しい季節だ。麦は刈り入れが遅れると良くないらしい、ということは、彼も薄っすらと知っている。それで総出でかかりきりになって刈り入れをするのだ。この数日は朝早くから日が暮れるまで働き通しで、シェヘブカイも珍しく祠に訪れなかった。だが、それも今日までだ。
 畑の麦は綺麗に刈り取られ、何もなくなった土の上には束ねて重ねられ、こんもりとした山を作っている。香ばしい草の香りがする。人間たちの嬉しそうな声。収穫を無事に終えた安堵の気配がある。
 彼は水辺のほうを眺めながら、そんな陸側の気配だけを背中に感じていた。
 「――じっとしてろ」
 「そうは言うがね。たまには使わないと、翼も鈍ってしまう」
おどけた調子で言いながら、鷹が羽ばたいて、側の葦の上にまるで蝶のように降り立つ。姿は相変わらずおぼろげに透き通ったままだが、口調には元気が戻っている。
 「なあ、あんた。どうして通りすがりの俺を聖域に入れた」
 「何のことだ」
 「この神殿――あんたの"家"だ。より上位の力ある守護者ならともかく、同等以下の守護者は、許可なく他の守護者の聖域には立ち入れない。あんたが許さなきゃ、俺はあんたの聖域には入れなかった」
彼は少し首をかしげた。
 「気に入らなかったか?」
 「…いや。」
鷹は小さくかぶりを振る。
 「いい家だ。お陰で少しは元気になれた。」
 「そうか」
無造作に答えた<緑の館の主>の視線は、暗い沼地の向こうに向けられたまま。鷹は、ちらとその横顔を見上げた。
 「あんた、昼と夜じゃ雰囲気が違うんだな。意図的に変えてる気もするが―― おかしな奴だよ。化け物みたいな恐ろしい奴かと思ったら、妙に気を使ってくるし」
 「言っただろう。ここで死なれては困るだけだ」
 「あんたの<領域>だから?」 
 「それもある。が、それだけではない。」視線が動き、金の眸は、はじめて鷹のほうに向けられた。今にも消えてしまいそうな不確かな輪郭。名も呼ばれず、捧げ物もされず、顧みられることのないまま消えてゆこうとしている存在――。
 「…お前には、かつての私のようにはなって欲しくない。」
 「それは、どういう…」
言いかけたとき、背後で人の話し声と足音が聞こえた。はっとしたように鷹が羽ばたく。その姿が夜空へ舞い上がるのとほぼ同時に、祠の入り口のあたりから声が飛んだ。
 「なんだ、ありゃあ」
彼は振り返り、鷹の連れてきた男――メネスと、シェヘブカイのほうを見やる。
 「見えるの?」
 「ああ。真っ白な、えらくでっけぇ鰐がな」
畑からの帰りだろう。彼が近づいてゆくと、メネスは慌てて目をこすった。
 「いや、…違うな。足…人間…? これは…」
 「あれ、その眼」
混乱しているメネスをよそに、シェヘブカイはこちらをじっと見つめている。
 「左眼<イアビィ>なんだね。これ、麦の収穫が終わったから、報告に持ってきたんだけど…昼間のほうが良かったかな」
差し出されたのは、金色に輝く麦の穂だった。豊穣への感謝の思いが込められていることは、触れずとも分かる。そして、触れて受け取らなくても、思いはそのまま彼の中に伝わってきた。
 自分がこうして、当たり前のように受け取ることが出来るモノを、あの鷹は長いこと受けていない。それを与えられるただ一人の人間は、今もすぐ近くにいるのに、だ。
 「…お前の守護神は、そこにいる」
<緑の館の主>は男に向かって言うと、暗い空の向こうに視線を投げた。姿は見えないが、微かな羽音が聞こえる。
 「帰らないのか?」
 「チッ、ったく。どこまでもついてきやがる――あいつとはもう、縁切ったはずなのによ。」強がっているような響き。言葉とは裏腹に、その声には微かな迷いが感じられた。「ほかの連中は、嬉々として離れてったぜ?」若い男の横顔に、微かに滲んだものは…
 「血の守護神、家系を守る者だけは、死ぬまで離れない。あれは自分の意志では離れられないものだ」
 「まったく、面倒くさい縛りだ」
 「メネス、そういう言い方は失礼だよ」
シェヘブカイは、たしなめるように言って少しの間、空を見上げた。だが、シェヘブカイには縁もゆかりもない鷹の神の姿は見えないようだった。
 「なあ、ワニ様。おれぁあいつの監視が離れたいんだが。どうすりゃ離れられるんだい?」
 「――何もする必要はない。じきに消える。そう長くはない。」
男の表情が、はっとしたようになる。
 「お前は長いこと、あれに何も与えてやらなかった。恐怖でも、感謝でも――人が何かの思いをかけなければ、肉体なき存在は消える」
 「……。」
 「殺したいなら、好きにしろ。あれはお前のために存在するものだ」
それだけ言うと、彼は祠の入り口に向き直った。できることは何もない。未来を決められるのは、本人たちだけなのだ。
 空を見上げると、暗い夜空を舞っている翼が微かに見て取れた。本来なら力強く聞こえただろう羽ばたきは今は微かで、浮いているのがやっとのようだ。忘れ去られた守護者は消えてゆくしかない。土地に強く依存する土地神と違い、人間だけに縁をもつ存在は、人との関係が絶たれれば、それだけで全て終わってしまう。
 残された時間は、そう長くない。


 刈り入れのあと脱穀が済めば、その後は農作業はない。一年で最も忙しい時期の次にやってくるのは、一年で最も暇な時期だ。だがシェヘブカイは、暇な時期のはずなのに、ほとんど休みもとらずに働き通しだ。建てたばかりの穀物庫の様子を確かめ、来年に向けて建て増しするかなど考えているようだった。
 その少年もさすがに今日は休みで、作りかけの日干し煉瓦が地面に並べられたままになっている。朝やって来たときには、ティティスと二人で奥の湖のほうへ出かけると言っていた。二人の姿は、今は、彼の視える範囲――守護の領域の中にはない。
 一方で側では、さっきからずっと賑やかな声が響いていた。
 「覚えたよぉ! なまえ、かけるようになった」
 「偉いな。忘れるんじゃないぞ」 
 「はーい」
祠のすぐ裏手にあるシェヘブカイの家の庭で、子供たちがはしゃいでいる声だ。メネスの声も混じって聞こえる。
 「よし、じゃあ次な。これが"太陽"。ラーだぞ」
 「らー? 神様?」
 「いんや、それはこっちだ。これを、こうすると"太陽"の"神"になる。太陽も太陽神もラーっていうんだ。」
 「へーっ。じゃあ鰐神さまは?」
 「それはだな…」
子供たちを相手に、文字を教えているようだ。
 ちらと見ると、鷹は翼を畳んで祠のひさしの上に休んでいる。微動だにしないのは、眠っているからだろうか。日差しを受けていても、その姿はまるで陰のようで、姿はもう透明に近くなっていた。
 このところ鷹がほとんど動かなくなっているのに、彼は気づいていた。以前なら呪詛の気配を感じると反応くらいはしたものだが、今はもう、かすかに翼を動かすことも稀だ。彼が排除しにゆくのに付いて来ようともしなくなっていた。
 諦めと無力感。彼自身、その感覚はいやというほど覚えている。消え去る時が迫っているのだろう、と彼は思った。彼の場合は寄り代となる神像があり、土地と結び付けられているせいで何十年とその中にあったが、この鷹にはそのどちらも存在しない。悪しきものたちに魂ごと食われてしまわずに終われるのが、せめてもの慰めか。


 ――風が出てきた。
 ふいにある気配に気づいて、<緑の館の主>は祠から外に出た。土手沿いを歩いていくと、葦の茂みの中で、猫が水辺を覗き込んでいるのが目に映った。なにやら興味深そうに見つめている先には小さな鰐がいて、口を半分開いている。食べられるものかどうか伺っているようだった。
 彼が近づいていくと、鰐はさっと口を閉ざし、すぐに水に沈んでいってしまった。元気盛りの若い猫は、不思議そうな顔で彼のほうを見上げる。
 「水辺に近づきすぎるな。悪意がなくとも口に入るものは食う」
 「にゃあ…?」
まだらの猫は一声鳴いて、立ち上がり、彼の足に体を摺り寄せた。ひとしきり首をこすりつけたあと、土手のほうへ去っていく。理解したのか、しなかったのか。彼は視線を沼地のほうへ向けていた。さっきの鰐は興味本位で陸に近づいてみた子供のようだ。群れの大人の鰐たちはほとんど陸には近づいて来ないし、人間や人間のニオイのするものには触れようとしない。それが、この沼地で最も力を持つものに所属すると知っているからだ。
 人の近づいてくる気配がある。
 沼地に視線をやったまま、彼は近づいて来る足音を聞いていた。やって来たのはメネスだった。
 「へえ、猫の子の面倒まで見てるのか。土地神ってのは、普通人間しか興味ないと思ったんだが」
面白がっているような口調だ。
 「…あれはシェヘブカイのものだからな。」
 「あいつが悲しむから、ってことか。優しいね、大鰐様。」
 「さすがは"貪欲"だと?」
それは、以前メネスとシェヘブカイが会話していた内容だった。振り返らずとも、メネスの表情が微かに強張るのが感じられる。
 「――<領域>の中で起きていることは、見聞きできる。その場にいなくとも」
 「何でもお見通し、恐れ入りました」
 「だが、お前の考えていることまでは分からない。<領域>の外のことも」
彼は、ゆっくりと振り返る。メネスはその正面に、やや緊張した面持ちで立っている。
 「お前に"呪詛"をかけているのは誰だ?」
 「あいつから…聞いたのか」
 「余計なものが村に入り込んでくる。私にとっても敵だ」
 「そいつは、悪かったな、迷惑かけて」
 「大したことはない。毒虫を潰すようなものだ」
彼は、なぜメネスがシェヘブカイと同じように自分の姿を見、対等に会話しているのかを不思議に思わなかった。時折見せる謙った態度がまやかしであることも分かっていた。人ならざる者たちの姿を見ることの出来る人間がいることは昔から知っている。その中でも、守護者たちと対等か、それ以上の態度をとることを許された一部の者たちがいる。黄金の鷹の守護神が守護する家系。この男は、そこに属している。
 「…おれの一族の誰かだ」
わずかな沈黙のあと、メネスは、そう答えた。
 「血の繋がってる身内に命狙われてる。ばかばかしい話だろ。それもこれも、おえらがたの血筋なんぞに生まれた結果さ。末席の――ほとんど相続権もないようなおれまで、生まれた時からずっとこんな目にばかりあう」
 「それを守ってくれたものを見捨てるのか」
 「守ってくれと頼んだ覚えはない!」
声を荒げてから、男はすぐにさっと顔を赤らめて反射的に俯いた。
 「…悪かった。いや、申し訳な…」
 「あの鷹は、お前が会いたがらないと言って、ずっと隠れている。隠れて――お前を守っている」
男は、押し黙ったまま唇を噛む。
 「お前たちは良く似ている。あれは、お前の分身のようなものだろう。あれが死ぬとき、お前の一部も死ぬことになる。棄ててしまって本当にいいのか、よく考えることだ。」
 「――…。」
風が吹き、水辺の葦草と彼の長い髪とを揺らして過ぎてゆく。男の眸には、白い影が映っている。それは人とも鰐ともつかない、シェヘブカイの見ているものとは違う、不可思議な姿をした存在だった。見ようによっては化け物のようでもあった。それでも、この男は彼の正面に立っている。
 「私を恐れないのだな。」
 「は?」
男が不思議そうに顔を上げ、何か聞き返そうとしたとき、家のほうから子供たちの声が聞こえてきた。
 「メネスにいちゃん、どこー?」
 「セブ、帰って来たよー」
 「おっと。いけね。猫がいないっていうんで、探しに来たんだった…」
頭をかき、メネスは慌てて振り返る。立ち去りかけてふと見た時にはもう、先ほどまで会話していた白い影の姿は、そこには無かった。


 祠に戻ると、前庭の池のほとりにさしかかったあたりで、鷹がうっすらと片目だけを開けて話しかけてきた。
 「…うちの大将と話をしてたな。」
 「聞いていたのか」
 「この距離なら、さすがに今の俺でも聞こえる」
顔を羽根に埋めたまま、鷹は力なく小さく笑った。
 「なあ、あんた… 俺が消えても、あいつを守ってやってくれるだろうか」
 「……。」
彼は答えなかった。というよりも、答える前から、鷹はもう、答えを知っているのだと思った。この場所に住み続ける限り、彼の<領域>の住人である限り――、素性が何であれ、何処から来たのであれ、それは彼にとっては"守るべきもの"だった。
 代わりに彼は、聞き返した。
 「お前は、それでいいのか」
 「いいも何も、それ以外に何がある? 何を望む? 俺たちは、人間のように生き方を選べない」
 「恨んではいないのか?」
 「そんな感情は、元より無い。<存在>は<役目>と同義で、俺たちは、役目を果たすために存在する。役目がなくなれば消え去るだけだ。役目を果たせなければ存在する意味もない」
 「…<存在>は変化するものだ。」
 「そうだろうな。俺はかつて戦の鷹だった。今の俺は、ただあいつを見守るだけの存在だ。赤ん坊の頃から見てきた人間だからな、それでも良かった…今のあいつは、前よりずっと…楽しそうだから…」
声が弱まり、小さく震えた。
 「眠らせてくれ。喋っていたら、何だか疲れてしまった…」
祠のひさしの上で、鷹は静かに目を閉じた。そしてその後、再び眼を覚ますことはなかった。


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