■第三章/変容-2


 ふと歩みを止め、振り返る。
 ――風が沼地の上を吹きぬけてゆき、枯れかけた背の高い葦が一瞬だけ揺れて、すぐに静かになる。敵意あるもの、人に害成すものの気配はない。ただ微かに違和感を感じるのは、人間たちの動きだ。ここのところ、沼地の周りが妙に騒がしい。
 視線をめぐらせると、中州にたむろしている鰐たちが見えた。以前は季節が変わる頃には川の本流に戻っていったものだが、今年はそこに居座るつもりらしい。どういう心境の変化だろう、と彼は思った。それとも、シェヘブカイが作った水路のお陰で水の流れが変わって、水位の下がる季節でも魚たちが逃げなくなったからだろうか。
 ふ、と視界の端に何かが過ぎった。
 (あれは…)
落ちてくる鳥、いや、…鳥のように見える何か。あれは、初めて見るモノだ。
 それは音もなく、中洲の葦の中に消えてゆく。傾いてゆく日の光の中、彼はじっと、その方角を眺めていた。


 夕暮れの空にあった細い月が沈み、やがて闇と星々の世界が訪れた。
 水の彼方に暗く沈む家々は寝静まり、水鳥たちは草陰に羽根を休めている。水に棲む生き物たちも今宵は静かだ。白い影は、沼地の浅瀬の間を滑るように進んでいた。昼間空からやってきたものの気配は、落ちた場所からまだ動いていない。近づく前から、相手はこちらの気配を察していた。行く手からは、敵意とも、恐怖とも取れない曖昧な気配と呼吸が感じ取れる。
 水から出て中州に上がると、草の陰に何かが蹲っているのが見えた。薄明かりの中に、無造作に投げ出された人間の四肢が見える。一歩近づこうとしたとき、申し訳なさそうな声が足元から聞こえた。
 「ああ…、悪いが、そこまでにしてくれ」
薄ぼんやりとした光に包まれて、小さな鷹がちょこんと地面にとまっている。空から落ちてきたもの。肉体を持つ獣ではなく、ただの霊でもない。
 「それ以上近づかれたら、あんたと戦わにゃならん」
そんなことを言いながら、敵意も、戦意も感じられない。投げやりな口調から感じられたもの、それは、強いて言うなら諦めだった。彼は足を止め、金色の眼で鷹を見つめた。すぐそこに倒れている人間を守ろうとしているからには、その人間に関係した守護神、なのだろうか。それにしては随分と気配が弱いが。
 鷹は、再び口を開いた。
 「一応そいつは、俺の管轄でね。目の前で食ってもらっちゃ困るんだ。もっとも、本人はそれで本望かもしれないが――」
 「…人間を食う気はない。それに、私の<領域>に入ってきたのはお前たちのほうだ」
<緑の館の主>の言葉に、鷹は、怪訝そうな顔になる。
 「あんた、もしかしてこの土地の守護者なのかい」
 「……。」
無言に頷くと、鷹は、驚いた様子で目を見開いた。
 「そいつは悪かった。こんな辺鄙な沼地に土地神がいるとは思わなかったし、しかもそんななりだから、てっきり――。」
鷹は、四肢を投げ出したまま意識を失っているらしい人間の肩に音もなく飛び乗った。「すぐ出て行く、といいたいところだが、見てのとおり、うちの大将は動けそうにない。」
 「死にそうなのか? 若いように見えるが」
 「なに、命に別状はない。ただ、このところ飲まず食わずでね。」
その口調はまるで手のかかる子供か友達にでも対するようだった。
 この人間は、よそ者だ。自分の領域にいるとはいえ、本来なら助けは必要ない。
 そう思いかけたが、このままでは、この人間はここで死んでしまうかもしれないと思い直した。人が死んでも、その躯は簡単には土に返らない。もしシェヘブカイが見付けたら、どう思うだろう。…
 <緑の館の主>は鷹の足元に泥の塊のようになって眠り込んでいる若い男をちらりと見た。痩せてはおらず、身体は筋肉質で、力なく閉じた瞼は青ざめてはいたが艶が良かった。農夫ではあるまい。しかも、個人的な守護神を連れた男とは。
 「助けを呼んでこよう」
彼が言うと、鷹が忙しなく羽ばたき、その輪郭が揺らいだ。
 「手を貸してくれるのかい。そりゃ助かるが、…」
 「ここで死なれては困るだけだ。ところで、お前はこの男の守護神なのか?」
 「ああ、遥かな空にあるもの、王冠を抱くもの――黄金の鷹<ホルス>の眷属だ。」
 「ほう。…」
その名乗りの意味するところを、彼は知っていた。いや、覚えていた。
 「…朝を待て。それまでここには、何も近づかない」
言って、彼は再び水の中に姿を消した。何事も無く、静かな夜が過ぎてゆく。<緑の館の主>の言ったとおり、葦草の寝床は、眠り続ける男には、何の害悪も、沼地に住むほかの生き物たちも近づけなかった。


 夜明けとともに、彼は、陸地の奥へ歩き出した。奥といっても祠のすぐ裏手にあるシェヘブカイの家までなのだが、水辺の見えない場所まで出向くのは久しぶりだ。
 沼地の水際から続く道を歩いていると、行く手に集落の光景が広がっていた。今は干上がっている水路と、畑の脇に土を盛り上げた土手、畑を真っ直ぐに貫いてゆく畦道。朝日に照らされた畑には、よく実った黄金(こがね)色の穂が波打っている。もうじき収穫の時期だ。彼にとっては何十年かぶりに見るような、妙に懐かしい風景だった。
 生垣から家の中を覗き込むと、シェヘブカイは、庭で漁のための網をつくろっているところだった。ちょうど起き出して仕事を始めたところらしい。元気盛りのまだらの子猫が、目ざとく彼を見つけて大喜びで生垣の隙間から飛び出してくる。ほんの僅かな間に、ずいぶん大きくなった。足元にとびついてきた時のずしりとした重さで分かる。
 「おーい、あんまり遠くまで行くなよ、…って」
顔を上げたシェヘブカイは、彼に気づいて驚いた表情になる。慌てて駆け寄ってくると、子猫の首ねっこを捕まえて抱き上げた。
 「どうしたんだ、わざわざ訪ねてくるなんて」
 「来てくれ」
そう言って、<緑の館の主>は沼地のほうへ視線をやる。理由は言わなかったが、シェヘブカイは何かを察したようだった。
 「わかった、すぐ行く」
子猫を家の中に入れて、水辺にある葦舟へと向かう。あとは、中洲まで誘導するだけだった。そこから先は人間同士に任せるしかない。彼は、シェヘブカイが中州に倒れていた人間を舟に担ぎ込み、家へ運んでゆくのをただ見守っていた。
 「…恩にきる」
かすかな羽音がして、側にあの鷹が舞い降りてきた。うっすらと、翼が透けて見える。
 「何故こんなことになった?」
 「ああ、まぁ…」
鷹は妙に歯切れが悪い。
 「ここのところ、沼地の周りが騒がしかった。それに、お前は消えかけている」
 「うちの大将はまあ…なんていうかな、逃亡者なんだ。俺からも離れたがってたしな。」
 「離れたがっていた?」
彼は、ちらと鷹に視線をやった。
 「お前は、あの人間の個人神だろう。望まれてついているのではないのか」
 「いや…正確には違う。家の、血筋の…守護者ってやつかな。あの人間が死んで血筋が絶えれば消えるか別の一族の者につくことになるだろうが、自分の意思では離れられない」
 「その前にお前が消えてしまわなければ、だろう」
鷹は、苦笑して微かに胸のあたりの羽毛を震わせた。
 「そうだな。」
死にかけているのだ、と彼は思った。実体をもつ生き物と違い、名と魂だけの存在は、衰弱して動けなくなるようなことはない。力を無くせば、消えてしまう。鷹の姿は既に正確な輪郭を保てなくなっている。守護者と言いながら、今はもう、ほとんど周囲に影響を及ぼすことも出来ないはずだ。昨夜の諦めたような口調も、戦えば確実に死ぬことが分かっていたからだろう。
 「こんなことになっちまったのは、うちの大将が構ってくれないからさ。あんたも守護者なら分かるだろう、俺たちを満たせるものは、人が与えるものだけだ」
 「供物や祈りのことか。あの人間は、何故自分の守り手をないがしろにする?」
 「色々嫌になっちまったらしい。昔からちょいと短気でね。ま、長い付き合いだ。何を考えてるのかくらいは分かるが…」
水のほとりで話している人ならざるものたちの視界の先で、シェヘブカイが、意識を取り戻した新参の男を連れて魚とりに出かけようとしているのが見えた。つくろいの終わった網を肩にかけ、子猫を足元にまとわりつかせながら、舟を水際に押し出している。
 「…人と守護者との関係は、もうずっと前から歪みはじめている」
舟が沼地の奥へと遠ざかってゆくのを見送りながら、鷹が呟く。
 「俺みたいなのは、珍しいことじゃない。新しい守護者が生まれる一方、消えていった者たちも多くいる。戦のせいだ。」
 「戦とは」
 「知らないのかい? 南の国境じゃ、もうだいぶ前から小競り合いが続いてる。来年はヤバいかもしれない。うちのメネスの大将が去る前には、もうずいぶん国境近くまで攻め込まれていたから」
 「…水源か」
 「その通り」
彼は、ついと視線を沼地の向こうに向けた。水源――川の最上流にある、水のやってくるところ。河の神<ハピ>の支配する領域の最南端にあたるそこは、水源と国境を守る神々によって常に監視されている。
 「戦になれば人が死ぬ、土地も荒れる。戦に勝てなかった神は消え去る。俺たちは人と運命を共にする存在<もの>だ。ま、俺はどのみち、大神の一部に過ぎない、分身どころか影みたいなもんだ。死ぬといっても、眠りに着くようなもんだがな」
 「あの人間はどうなる?」 
 「さてね。生きる気がないなら、死ぬかもしれん。死んだつもりで生きることも出来るかもしれん。人生相談は俺の守備範囲じゃない。好きにするだろう」
やや投げやりにも思える、それは彼にとっては不思議な関係だった。長い付き合いといいながら、それでいて突き放したような態度。それにこの鷹は、自分が消えてしまうことは怖くないといい、守護する人間の生き死ににも頓着しないらしい。
 何か言うべきか言葉を捜していたとき、ふと、彼の感覚の端に何か違和感が触れた。
 「――っと」
鷹の翼が下がり、嘴が引き結ばれる。「ここも突き止めて来やがったか。」
 羽音が舞い上がるより早く、彼は無言に水に身を滑らせる。微かな水しぶきとともに滑るような速さで沼地の只中まで進み、次の瞬間には、もう、中洲の一つの上に立ち上がっていた。違和感の主は、空からゆっくりと降りてきた。それは地面に近づくとともに黒いやもやもとした影のようになり、地面に触れるか触れないかのところで何かを形造ろうとする
 パンッ。
 黒いもやが実体化するとほぼ同時にはじけ飛ぶ。ようやく追いついてきた鷹が、驚いて上空をくるりと舞った。
 「あんた、…」
 「何だ?」
 「あ、いや。その」
振り返ると、遠くのほうに、網を張る葦舟がある。シェヘブカイたちは気づいていないようだ。
 「今のは、よく見るやつとは違うな。いつもは夜だけに現れる」
 「…呪詛だ。」 
 「呪詛?」
 「人間同士で悪霊を送りあってるのさ、厄介なことにな。うちの大将は、昔からそうやって命を狙われてきた。」
羽ばたきをやめ、鷹はふわりと近くに突き立っている枯れた細い木の枝の先に降り立った。
 「これはあんたの役目じゃない。あんたの守備範囲の人間には害を及ぼさない。標的は、うちのメネスだけだ。」
 「迷惑だから手を出すなと?」
 「迷惑というわけじゃないんだが…」
鷹は困ったような顔をしている。
 「なら気にするな。私の<領域>に入ってくる良くないものは、何が目的だろうと排除する」
 「<領域>ね…」
白い影が動き出すのにつられて、鷹も舞い上がる。
 「あんたは、この土地で生まれ育って、ここで"神"になった守護者なんだな。縄張りと仲間を守る、それがあんたの――」
聞こえなかったふりをして、彼は濁った水の中に身を滑らせた。水泡が耳の後ろで弾け、声の最後のほうは届かなかった。


 祠に戻ったのは、沼地を一巡りして夕方になってからだった。黒い影は、そこかしこに潜んでいた。水から這い上がってくるものや、地面の中に隠れているものもいた。彼はそれらを全て探し出して潰してしまった。そして微かに怒りを覚えた。理由はどうでもいい。自分の<領域>に手出しされることが不愉快だったのだ。
 鷹はほとんど何も言わず、消えかかった翼では決して楽ではないだろうに、それでもずっと、ついて回ってきた。祠が見えてきたときにはもう、西の空は紅に染まりかけている。
 「"あんたには"ってどういうことよ。カイエトに何かしたら許さないわよ。」
岸のほうから甲高い少女の声が響いて来る。
 「なんですって?!」
 「ちょっと、やめろよ二人とも。なんで初対面でケンカになってるんだよ」
シェヘブカイの声もする。漁を終えて戻ってきたらしく、葦舟は、もとの場所に引き上げられていた。沼地から畑のほうへ続く道に、三人が向き合っているのが見えた。一人は、鷹の守護する人間――青白い顔で倒れていたのが嘘のように、今は元気そうに見える若い男だ。彼は水の中に立って、しばらくその様子を眺めていた。
 と、その人間はふいにこちらを見た。
 だがそれは、単に何かの気配を感じ取っただけのようだった。視線を水面にさまよわせ、何も見つけられないと知ると、すぐに踵を返した。
 「何故隠れる」
彼は、傍らの茂みの中に目をやった。鷹は何故か、男がこちらを振り返った途端、慌ててそこに身を隠したのだ。
 「…近づくなと言われてるんでね」
ため息交じりに言う。「姿を見たくないらしい」
 「呪詛とやらから守ってもらっているのに、か?」
 「言ったろう、自分の意思では離れられないんだ。あんたが手を出さなきゃ、俺は適当にくたばるし、そうなればあの大将もそう長くは持たないだろうよ」
 「……。」
何故だか、無性に腹が立った。
 「面倒だな」
ぼそりと呟くと、彼は、腕を伸ばして無造作に鷹を摑んだ。
 「何す …こ、こら! 離…」
岸辺にたどり着くと、その足で祠の中へ入り、摑んでいた鷹を庭の茂みのあたりに放り投げた。忙しない羽ばたきとともに、地面にぶつかりそうになった鷹が慌てて飛び上がる。
 「そこにいろ」
そう言って、彼は再び祠を出ていこうとする。
 「お、おい」
 「ついてくるな。お前の音は煩い、邪魔だ」
金色に輝く左の眼に睨みつけられて、鷹はもう、何も言わなかった。


 ――その夜、彼は、沼地や村の周りをくまなく歩き回った。自分が歩いた場所には悪いものがしばらく近づけなくなると知っていたからだ。昼間あちこちを歩き回ったせいか、その夜はいつもより静かなくらいで、時々西の沙漠のほうから姿を見せた奇妙な闇の生き物も、毒蛇やサソリのようなものたちも、陰すら見せなかった。


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