■第三章/変容-1


 河の水位が下がり、朝夕が涼しくなる季節が訪れていた。
 沼地を満たしていた水が引くと、緑の葦に覆われた中洲がそこかしこに浮かび上がってくる。その中州を目指して鳥たちが集まり、狭い水溜りに取り残された魚を狙って騒々しく騒ぎ立てる。その中には、餌を追ってやってきた鰐たちの姿もあった。太陽の船は夏よりも低い位置を巡り、日差しが斜めに村を照らし出す。
 彼が水辺に姿を現すと、近くにいた鰐の何匹かががあわてて水の中に滑り込んだ。残りも、注意深くこちらを伺いながら距離をとる。いつものことだ。鰐たちには、彼の姿は巨大な白い鰐に見えているはずだった。獣は、自分より大きく、力の強いものを純粋に恐れる。ここが彼の縄張りと認識される限り、獣たちは決してその中で彼に属するものに手を出すことはないだろう。
 右眼で風景を見渡したあと、<緑の館の主>は、視線は動かさないまま陸の奥の気配を探った。シェヘブカイは、…相変わらず、畑のほうだ。よくやって来るあの少女、ティティスと話しながら手を動かしている。周囲の気配に気になるところはない。
 それを確かめてから、彼は、音もなく水の中に体を滑り込ませた。
 向かった先は川の流れの行き着く果て、沼地の奥の湖だった。
 河の神のもとを訪れた時、そこがどの神の領域でもないことは聞いていた。彼自身かつて訪れたことはなく、今も知覚の範疇外だ。だからこそ、行ってみたいと思ったのかもしれない。
 泳ぎだしてすぐ、行く手に多数の人の気配があることに気が付いた。
 守護者のいない土地だと聞いていたのに、盛り上がった中州のようなところに家々がぽつりぽつりと建てられ、それらの合間に畑が作られている。家が集まっているのは湖のほとりだ。その先は、かつて河の神が言っていたように、西の荒野へと通じている。

 良い状態ではない。

 水の中に立って村を見つめながら、彼はそう感じた。流れのない水の澱みに村が作られているせいか、病の気配がある。それに土地に力がたりない。川の本流から遠すぎるのだ。水は枯れないかもしれないが、川の流れの運んでくる黒い土が届きにくい。
 ここでは、今のままでは、決して豊かな実りは得られまい。
 だが、彼にできることは何もなかった。この先の村の人々は、自分を望んではいない。むしろ強い「拒絶」を感じた。
 (…あの先には、かつて私を知っていた者たちがいる)
胸の辺りがざわつき、消し去ろうとしていた感情が再び蘇ってくる。彼は、左の眼に瞼の上から触れた。幾度も繰り返した孤独な昼と夜――、罵詈雑言を吐き、自分を棄てて去って行った人間たち…。怒りを飲み干すには、まだ時間がかかるだろう。分かたれた半身はいまだ完全に統合されていない。
 思いを断ち切るように踵を返し、彼は、湖に通じる何本かの水路を見渡した。
 奥の湖は今は手を出せない。ここまでが、自分の領域。
 沼地と湖の交わるところまでが、彼の守るべき場所となる。


 周囲を一巡してから祠に戻ってみると、前庭の木陰に体を伸ばして、気持ちよさそうに眠りこけている少年の姿が見えた。ナツメヤシの幹に体をもたせ掛け、花が両脇から上半身を包み込むようにしだれかかっている。近づいていくと、気配に気づいたシェヘブカイが目を覚ました。
 「…あれ、帰ってたんだ」
 「よく寝ていたな。」
 「うん―― そうみたいだ」
少年は、起き上がって小さく伸びをした。頬のあたりに寝癖がついている。
 「ここは気持ちがいいね。あんたがいつもここで昼寝をしてるのが分かる気がする」
 「ああ」
シェヘブカイの隣のいつもの場所に腰を下ろして眼を閉じると、涼しい風が額の上を通り過ぎてゆく。シェヘブカイでなくても、すぐに眠ってしまいそうな心地よさだ。入れ替わりに、少年が立ち上がる気配がある。何か言いたげな微かな沈黙があったが、少年は、何も言わなかった。
 「じゃあ、僕はもう行くよ」
足音が、気配が遠ざかってゆく。
 まどろみながらも、彼の感覚は周囲の沼地の気配をとらえていた。祠を出て、家のほうへ向かうシェヘブカイ。家には少女が待っている。裏庭には、牛が増えている。それから陸の奥のほうを歩く旅人と、奥の湖のほうから葦舟で漕ぎ出す農夫と…。それは眼で見るよりもはっきりとしたものだ。
 さらに遠く、沼地と河の交わるあたりの岸辺を、見慣れない格好をした一団が汗を拭いながら走り回っているのも見えた。揃いの簡素な鎧を身につけ、長い槍を持ち、岸辺の草の中をまさぐったり、通りかかる農夫に何かを尋ねたりしている。誰か探しているのだろうか。ひどく焦っている様子なのは分かった。
 だが、それらはただの人に過ぎない。"悪いもの"ではなく、"敵"でもない。――


 眼を覚ました時、空は、黄昏から夕闇へと変わろうとしていた。空の低い位置に、白く月が浮かんでいる。
 彼を呼び覚ましたものは、まどろみの意識の中に捉えたかすかな違和感だった。彼の<領域>の中に、ひっそりと侵入してきたものがいる。
 「…何の用だ」
 「誰だ、とは聞かないんだね」
池のほとりに銀の影がゆらめくと、それは、以前どこかで見たような細身の男の姿をとった。白いたすきを肩にかけ、手には巻物と葦のペンを持ち、いかにも人間の役人のような姿だ。彼の怪訝そうな視線に気づいて、男はちょっと肩をすくめて見せた。 
 「この姿、今の君に合わせたつもりなんだが。気に入らなかったかな」
 「あんたのことは"知って"いる。知恵の神<トト>、記録者が何をしに来た」
 「仕事さ、もちろん。新たに――といっても君にとっては再びだろうが、沼地<メヒ>の守護者となったものを記録するために」
言いながら、男は生真面目な顔で書類を調べるようなしぐさをしたが、それは真似事だけだ。目の前に見えている紙もペンも、ただそこにあるように見せかけているだけの幻だ。神々の書記と呼ばれる存在が使う筆記具は人間の使う紙のように朽ちることはなく、インクのように薄れることはない。
 「…<沼地の守護者>?」
 「気に入らないかもしれないが、君の公式上の名前はそうなる。」
人間らしい演技を続けながら――それはもはや彼に見せるための演出というよりは、半ば自然に身についた癖とでも言うべきものに見えたが――、男は、片手を顎に当てる。
 「名前というのは、実体なき者にとっては<本質>を決定するものだ。人間でも悪霊でも神でも同じさ。我々はたいてい複数の名を持つが、本当の名は一つだけ。そしてそれは、魂の本質を決定付ける。たとえ複数の姿を持っていようとも、その名は<真の姿>を意味する。だから、本当の名が公式に記されることはない」
 「……。」
彼は、無意識に左眼に手をやった。音もなく、男が近づいて来る。側まで来た時、彼は、その男には影がなく、足は地についていないことに気がついた。人の姿をとっていても、人ではない。
 「まだ、うまく半身が馴染めないらしいね」
すべてを見透かすような口調だ。「心配は要らない。君はうまく制御しているよ、その"半分"は、もう離れていったりはしない。それとも、――人を傷つけるのが怖いのかい? あの時もそうだったから?」
 「どうして、…それを」
彼は顔を上げた。月明かりに照らされた、人ならざるもう一人の存在の白いおもてが闇の中に浮かび上がる。
 「無論、あらましだけは知っている。神々の歴史を記録すること、その名を管理することが、<記録者>たる者の役割だからね。君が何故、放棄されなくてはならなかったか…」
男は、すいと指を空に、白く輝く月へと向ける。
 「月は地上で起きるすべての出来事を視ている。」
 「知恵の神…月神…、そういえば、そうだったな」前に出会った時も月のかかる晩だったことを思い出し、彼は合点した。「知っていたなら、何故、そのまま死なせなかった?」
答えは静かな、そして冷酷とも思える口調で返される。
 「――我々を生かすことも、殺すことも、人間にしか出来ないからだ。」
 「そのために、シェヘブカイを巻き込んだのか」
 「そう。でも彼は君を信じることを選び、君は彼と共に生きることを選んだ。それは君たち自身が選んだ結果だ。」
話している背後で、月の舟は、ゆっくりと天の高みへと昇ってゆく。謳うように言いながら、男は、見えない翼をふわりと広げ、舞い上がる。
 「太陽と月は空を巡り、地上の全てを見通すだろう。だが人と、人ならざるものたちの思い内までは見通せない。君やあの人間がどの未来を選ぶのかが誰にも分からなかったように――あの時、君が聞き届けた願いが何だったのか、君が何を思ってどう判断したのか――それは誰にも知りえないこと。」
 「……。」
 「再び同じ過ちを繰り返さないことを願っているよ、<沼地の守護者>。本当の名を手にしたとき、君は新たな存在になるだろう」
羽ばたきとともに姿が消え、一瞬、人の姿が何かに変わった気がした。だがそれは視界にとらえるには短すぎ、気がついたときには気配も、羽音もはるかな空の彼方へと遠ざかろうとしていた。
 空を見上げ、眸を閉じる。
 そしてまた開く。
 (私が聞き届けた願い――…)

 "なぜ止めてくれんかった"
脳裏に蘇る、搾り出すような声。
 "なぜ見逃した?! 毎日お供えをしていたのは、わしではないか!"
突き刺さるような視線と、叩きつけられる感情と。
 今もはっきりと覚えている。あの時、本当は、自分は何をすべきだったのだろう。一体どうすれば、あの時――誰も傷つけずに済んだのだろう。


 ほどなくして、家が一軒しかなかった祠の周りは、急速に賑やかになった。
 住人が増えたからだ。
 「カイエトは、ティティスのいとこ。で、子供たちがレキとスィト。町から来たんだって」
忙しそうにしているにも拘らず、シェヘブカイは、毎日一度は様子を見にやってくる。今日も、朝一番で漁に出てとれた魚を手土産に祠にやって来たところだ。 
 「スィトはうっすら見えるみたいだよね、なんでだろう」
 「稀に、勘のいい子供にはそういうことがある。大人になれば見えなくなるが」
 「僕も、そうなのかな?」
シェヘブカイは、心配そうな顔だ。
 「いや。お前は多分、違うだろう。お前はもう大人だし――私に名をくれた者だ。」
 「そっか。姿が見えなくなると寂しいから、それならいいや」
彼は、祠の前庭の池のほとりに立って背に日を受けていた。会話が途切れると、畑のほうから子供たちの走り回る賑やかな声が響いて来る。 季節は冬に差し掛かり、日差しは鋭さを失っていた。
 「あの人間たちは、ずっとここに住むのか?」
 「うん、そう。たまにここにも来てるって言ってたけど」
 「ああ」
彼は祠の奥にちらりと視線をやった。砕けた像の上には、小さな手が作った少し不器用に歪んだ花輪と、とれたての魚を入れた籠、それにティティスが置いていったビールの壷が置かれている。
 「あの人間たちは、飢えていたのか?」
 「そうかもしれない。町での暮らしは、苦しかったって言ってたから」
祠にやって来た新しい住人たちは、お供えとともに願い事をして帰る。
 「おなかいっぱい食べたい」
 「おとうさんが帰ってきますように」
 「子供たちが無事に成長するよう見守っていてください」。
そうした願いは、たとえ声には出さなくても、祠の主である彼には届いていた。けれど、一番よくやって来る人間の願いだけは読み取れなかった。シェヘブカイの心の中はいつも空っぽだった。まるで晴れた日の空のようだ、と彼は思った。雲ひとつない青い、高い空。凪いだ水は、それを鏡のように映す。
 「お前には、何か望みはないのか」
 「ん?」
少年が振り返る。
 「一杯あるよ。この畑をもっと広くして、どこよりも実りのある場所にしたいな。そのために色々考えてるんだ。水路をどう作ろうかって。あと、父さんと母さん、兄さんが元気で無事で暮らせるといいなって…それから…」
 「それから?」
 「…うん」
口ごもると、シェヘブカイはかすかに頬を染めて俯いた。
 「大した願いなんてないんだ、今は幸せだし。僕はただ、このまま皆と一緒にずっと暮らせたらいいなって。」
その心のうちに、いつも話をしている少女の面影が過ぎったことを感じた。それから、…祠と、その中に住む存在のこと。
 だが、言葉にはしなくても、彼にはわかっていた。シェヘブカイの中にはいつも、ある一つの光景が広がっている。緑に生い茂る豊かな畑が一面に広がる風景だ。川沿いの狭い耕作地だけではない、水辺から見渡す限りの平原が沸き立つような大地の息吹に覆われた、――青い空と、緑とが織り中なす世界。
 緑は生命の色。若さと再生の色。シェヘブカイの意識の中で、<緑の館>は、その世界の中心にあった。
 だが現実の畑は、見渡す世界の全てを覆うほどではなく、水が引いたばかりの畑の作物は、まだ背が低い。
 彼は、祠の外の畑に意識を向けた。
 「この地は、豊かになったな。」
 「うん。あんたのお陰だよ」
 「お前の力でもある」
緑のそよぐ畑には、シェヘブカイの作った水路から水が引き込まれ、滔滔と流れている。
 「…"永遠なるもの"」
しばらく黙っていたシェヘブカイが、ふいに口を開いた。
 「夢、ってわけじゃないんだけど、ずっと昔から考えてることがあるんだ。"永遠"って何なんだろう、って。言葉は学校で習った。書き方も知っている。この空や、地面や、川の流れがきっとそうなんだろうと思ってる。人は死んでしまう。でも、僕が死んでも、この世界はきっと変わらないんだろうって、ずっと思っていた」
 「……。」
 「でも最近、気が付いたんだ。ここへ来て畑を作るようになってからさ、全部じゃなくても、川の流れは変えられる。荒れてた土地も、こんなに実るようになった。世界だって少しずつ変わるんだ。だったら、"永遠"って何だろう。僕は、"永遠なるもの"が知りたい。」
黒い瞳が真剣な眼差しに、未知への好奇心に輝いている。それは、人間だけが時折見せる、不思議な生命の輝きだった。
 「王の葬祭殿は"永遠の家"って呼ばれてた。人は"永遠"を作れるのかな? 僕にも出来るかな?」
 「それは分からない。が――お前なら、出来そうな気がする」
シェヘブカイは、照れたほうに笑うと無言に背を向けた。畑仕事に戻るのだ。彼は、いつもの木陰に腰を下ろしながら考える。
 "永遠なるもの"
それは、古より呪文の中に繰りかえし語られていながら、神々の世界にすら存在することは稀なものだ。人に忘れ去られた守護者たちが消えてゆくように、神にも死があるように、世界もいつかは終わる時が来る。それは全ての獣たちが本能的に知っている事柄だ。全ての命あるものたちは、いつかは死なねばならない。石に刻まれた碑文でさえ砂や風に削られて薄れ、書物に記された記憶もいつかは風化する。
 永遠とは、何なのだろう。
 それは―― 本当に何所かにあるものなのだろうか?


 「にゃあ」
ふいに、もそもそと何かが腹の上によじ登ってきた。彼は思考を打ち切り、閉じていた眼を開いてそれを見下ろす。毛むくじゃらの、小さな塊が体をよじ登ってくるのが見えた。最近、シェヘブカイの家で飼われはじめた子猫だ。塀の隙間からやって来たらしい。
 「飼い主に似て大胆な奴だ」
苦笑して、彼は子猫をつまみ上げると、傍らへやった。だが子猫は、その指にしがみついて離れようとしない。何やら懸命にニオイを嗅いでいる。
 「魚の匂いでもするのか?」
子猫は答えない。水に棲む生き物ではないため、彼には言葉は分からないのだった。まあいい、と思いながら、じゃれてくるままにして再び眼を閉じる。遊びに飽きればどこかへ行くだろう。
 「セブー、どこなのー」
どのくらい時間が経っただろう。声が近づいて来るのに気づいて、彼は眼を開けた。
 「あー、こんなところにいたのね!」
祠の入り口に、黒髪を肩先で切りそろえた少女が立っている。視線をやると、子猫は、彼の傍らで丸くなって一緒に眠っていた。
 「しょうがない子ね」
子猫を抱き上げると、少女はちらりと木陰に咲く白い花のほうに眼を向けた。彼の姿は見えていないが、何かの気配は感じたのかもしれない。
 祠のほうに向き直ると、無言のまま一礼した。
 そして、猫を抱いたまま走り去る。
 彼はその様子をじっと眺めていた。少しずつ、――何かが変わり始めている。この小さな集落の中で、何かが。


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