■第二章/回帰-2


 シェヘブカイの建てた新しい"家"に移ってから、しばらく経った。
 水辺に建てられた漆喰塗りの小さな祠は前の家とは比べ物にならない快適さで、小さいながら庭がついている。その庭の端に生えるナツメヤシの下の木陰は、最も居心地のいい場所だった。日差しの強い昼間は、大抵そこで過ごした。少年のほうはというと、一日中、日差しの中で土を耕し、せっせと水を運んでいる。
 植物を育てているのだと気が付いたのは、芽が生えて、それらが見覚えのある実らしきものをつけはじめたときだった。昔、同じような植物を、村人が育てていたのを見た覚えがあった。植物に限っては、人間は、食べる分を自然に生えたものからとらずに、自分たちで育てるのが好きなようだった。それは、自然に生えるぶんだけでは足りないからだろうと彼は思った。
 「人間は、なぜ草をそんなに沢山食べる?」
ある時、彼は、川辺で草の種を熱心により分けている少年に尋ねてみた。
 「草…って、これ? そら豆のこと?」
 「マメ…。」
 「美味しいよ。なんだか、すごく出来がいんだ。アメンティ、何かした?」
 「…さあ。」
うまく育つようにと念じたのは確かだ。望めば、草木は育つ。それが何故なのかも、どうして自分にそれが出来るのかも覚えていないが、昔からそういうものだった。
 「僕これのスープが好きなんだ。食べないと動けないからね。あんたは、いつも魚一匹とかで足りてるの?」
 「十分だ。」
 「ふーん。便利なんだね」
だが、人に与えられたものでなければ意味がない。自分では満たせないのだ。人が去り、長い時の中で何かを渇望しながら朽ちてゆくのを待っていた時間を思い出す。――あれは、人間で言う飢えの苦しみと同じものだろうか。
 豆の入った籠を手に、少年が立ち上がる。
 「そういえばさ、ティティスがあんたにお供え物もってくるっていってた」
 「ティティス…?」
 「僕のとこによく来る女の子。見たことあるでしょ。うちの畑の出来がいいから、自分のとこにもおすそ分けが欲しいんだってさ。ティティスの作るビールは美味しいよ」
言いながら、にやりと笑う。「飲みすぎて一日中寝てちゃだめだよ。」
 「…努力しよう」
真面目な顔で言いながらも、彼は半信半疑だった。自分のところに、他の人間が願いを持って来ることがあるだろうか。
 だが、その数日後、少女は本当に祠にやって来た。最初はおっかなびっくり、だが次第に大胆になり、時々、供え物と一緒に掃除もしていくようになった。シェヘブカイと違って、少女には彼の姿は見えていない。彼も、木陰の花の中に身を横たえて、無言に眼を閉じていた。
 少女の去って行った後、祠には、ビールと干し魚が置かれていた。軽く触れると、そこに残されていた人間の気配から、畑の実りがよくなるようにと、母を亡くしてからずっと一人で支えてくれた父が少しでも楽になるようにという微かな願いが伝わってくる。
 ――貰ったものは、返さなければならない。
あの少女が、沼地と川の交わる辺りの岸辺に住んでいることは知っている。だがそこは、<領域>の境界線上にあたる。そして今の自分にとっては、知覚の及ぶ範囲の外側だ。
 しばらく思案した後、彼は、花の茂みの中から体を起こすと、水辺に向かって歩き出した。川の水位の上昇に伴って、沼の水は、ゆったりと泳げるほどの嵩になっている。音もたてず水の中に滑り込むと、そのまま沼地の外を目指した。泳ぐ後ろに、白い影が長い尾を引いてゆく。身体は軽く、以前のような眠気は、最近ではほとんど感じない。


 行き方は知らなかったが、用があると分かれば通してくれるだろうとは思っていた。
 川に出て水底を目指して潜っていくと、周囲の闇がぐんぐん広がっていくのを感じた。魚たちの気配は遠く頭上へ去り、深い、底の見えない暗がりの洞窟へと沈み込んで行く。
 やがて、見覚えのある薄暗がりの洞窟が見えてきた。衝撃もなく、ふわりと地面に降り立つと、空気の泡が足元からゆらめきながら水面にむけて昇って行った。
 「話がある」
周囲を見回しながら、彼は言った。声が反響して、光が微かに明滅した。
 『川沿いに棲む人間のことか?』
 「あの畑はあんたの<領域>だろう」
 『生意気に、境界線の交渉とは』
だが、その口調は諌めるというよりは、面白がっているようだった。『沼地全体を知覚することもまならぬのに、自らの取り分を増やしたいのか?』
 「そういうわけではない、が――」
 『あそこに棲む人間に報いてやりたいのだな』
口調からして、地上の出来事は全てお見通しのようだった。
 『知ってのとおり、あの沼地には雑霊が多い。もともと水辺には雑多なものが引き寄せられるものだが、ことにあの沼の奥は、西の、死者の国にも通じておる場所でな。』
 「…日が暮れると、色々なものが近づいてくるのは知っている」
 『今のお前には、荷が重かろう』
彼は、小さく首を振る。
 「大したことはない」
 『ふむ。』
 周囲の空気が揺らぎ、頬をなでるように動いていくのを感じた。それは水でもあり、河の神の体の一部なのだと、その時になってようやく気が付いた。姿が見えないのではなく、あまりに普遍的な存在すぎて、生き物の姿としては知覚出来ないだけなのだ。
 すぐ側から、強い視線を感じた。心の中まで見透かされているような気持ちになる。
 『人に飼われた獣でもなく、人に愛されたこともない。だのに――お前はどうして、人の側につこうと思った?』
 「……。」
水辺で蛇の形をした夜闇の生き物に仲間と勘違いされた時、確かに自分もそれらと大差ないと思った。ごく普通の獣として生きていた頃の自分は既に死に、躯も土へ還っている。実体なき彷徨える意志は、本来ならこの世に存在してはならないもののはずだった。
 「…覚えているのは、ずっと昔から人のすぐ側で生きていたことだ。肉体にあったときから、私は獣の仲間を持ったことが無い」
白い鰐は、群れの中でも異質な存在だった。蘇ってくる途切れ途切れの記憶が、かつての自分の思いを再構築してゆく。
 「構ってくれたのは、人間だけだった。時折餌を投げてくれることもあって、返さなくてはと…。…それは…仲間ではなかったが、少なくとも…一人ではなかった」
 『…そうか』
優しく水が揺れる。
 『お前は、人に畏怖されて生まれてきた存在<もの>なのだな。だから人に憎悪を抱くお前の半身は、あれほどの力を持っているのだ。確かにあれが本当のお前だ。だが本当は、人に愛されるものになりたかったのだ』
 「……。」
 『愛と憎しみは一つの感情の裏表。……お前は、お前自身の怒りや憎しみを飲み干さねばならない。それが出来るなら、元の一つに戻れるはずだ』
体を包み込む水の気配が変わり、体の中に何かが入り込んでくるような気がした。嫌な気分ではない。彼はそれにしばし身をゆだね、水の気配が去るのを待った。
 やがて、どこからともなく声が響いてきた。
 『行くがいい。望み通り、沼地の入り口までを、お前の<領域>としよう。』
小さく頷き、去りかけてふと、彼は足を止める。
 「沼地の奥は? 川とは逆に、陸の奥深く水の流れ込む地は」
 『そこは、守護者はいない。<領域>のない場所だ。だが、欲張っても、守りきれぬぞ』
ちらと声のほうに金色に光る眼差しを向けて、こともなげに彼は言った。
 「行ってみたかっただけだ。誰かの縄張りでないなら、特に断りは必要ないだろう」


 川から戻ってみると、祠の辺りは、妙に静かだった。
 (そういえば、出かけると言っていたな…)
祭りに行くから二日くらい留守にする、と、昼間シェヘブカイが言っていたのを思い出しながら、彼は、岸辺に上がって水滴を落とした。もう日はすっかり暮れている。人の気配の消えた、無人の家と畑が、静かに星灯りの中に透けて見える。
 がさがさと足元で茂みがゆれ、小さなトカゲが慌てて駆け抜けていった。
 静かな夜だ。
 彼の知覚の及ぶ範囲には、違和感を覚えるものは何もない。全ては均整が取れて、穏やかに安定している。
 それを確かめてからねぐらに帰ろうと踵を返しかけたとき、何か不穏なものが、意識の中を駆け抜けた。
 (…シェヘブカイ…?)
思わず、足元の水に視線を落とす。鏡のように静まり返った水の表面には、静かに星空だけが映っている。
 眼を閉じると、ここではない場所の光景が広がってきた。自分のものではない視線が、水の中からシェヘブカイを見つめている。だが、少年の様子がおかしい。川の中ほどで何かに捕まりながら手足をばたつかせている。暗い水辺に飛沫がはねた。
 溺れているのだ、とようやく気が付いた。人間は、泳ぎが下手だ。意に反して沈んでしまえば、もう、浮かび上がれない。
 助けなくては、と思った。だが、意識のどこかが微かに抵抗する。
 (行け)
彼は、意識の中でその言葉に力をこめた。
 (あれは私のものだ)
 (…の、もの…)
意識がかちりと噛みあい、ひとつになるのを感じた。その瞬間、彼は久しく忘れていた感覚を取り戻していた。繋がった半身から流れ込んでくる溢れるような感情の奔流、長い年月を蓄積されてきたもの。それは、紛れもない自分自身の思いだ。

 "お前は、お前自身の怒りや憎しみを飲み干さねばならない。"

繋がっていられたのは一瞬。流れ込んでくる記憶の奔流はシェヘブカイを岸に届けた瞬間に途切れ、左目の見ている風景は意識の中から消えうせた。さほど時間は経っていないようで、月は、もとの位置にある。足元の水面には変わらず白い影がゆらめていた。
 しかし、彼は思い出していた。
 かつてただの獣だった時、この岸辺で死んだことを。
 白い大鰐の躯を見つけた人間たちが、恐れを成して祠を建てて祀ったこと。村人の中にいた石工が作った像が供えられ、…年月とともに、"白い大鰐"は、村の守護者となった。
 それが終わりを告げたのは、川の水位が上がらなくなって村が移動した、だけではない。人の思いに応えられなかったこと。――胸の奥が微かに疼く。今でも、どうすれば良かったのかが分からない。
 勝手な願いばかり押し付けて、思い通りにならないと知るや身勝手に棄てて行ったことに対する怒りと。
 人間を理解できず、力及ばなかった後悔と、打ち棄てられたまま過ごした長い年月の哀しみと。
 相反する感情の中でも、人を拒絶する強い怒りは最も大きく、今も胸の奥で痛みとなって暴れまわっている。
 ――だが、それでも、と彼は思う。


 それでも自分は、人とともに生きていたかったのだ。



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