■第二章/回帰-1


 その場所に立った時、不思議なほど懐かしさを感じなかったことを覚えている。
 そこはまるで初めて訪れる見知らぬ土地のようで、何一つ見覚えのあるものは存在しなかった。無人の土地を、風だけが駆けてゆく。ただ、淀んだ水の臭いだけが鼻に付いた。貧しい土、かさかさに干からびたヘドロの張り付いた浅い水路、黄色く枯れた葦。
 「これじゃまるで、厄介払いみたいじゃ…」
ついてきた少年が、憤慨したように言う。そうだな、と彼は心の中で呟く。死者の国と、どちらがマシなのだろう。けれど、この荒涼とした風景の中にも、少しは花も咲くだろう。誰も居なくても、ただ独りでも――
 「決めた。あんたの家、僕が作る」
突然、ここまでついてきた少年が意を決したように言った。彼は驚いて振り返る。
 「作る?」
 「言ったろ、僕、こう見えて建築技師の卵なんだから」
少年は胸を張る。「心配しなくていいからね」
 「いや、…」
何故?
 わけも分からないまま、彼は沼地のほとりを駆け回る少年を眺めている。元住んでいた場所だといわれて連れて行かれた場所には、かつて人の住んでいたらしき跡があった。だがそこは、放棄されてから何十年と時の経った後に見えた。人の営みは、あまりにも容易く砂に埋もれ、時の流れに押し流されてしまう。
 (人の寿命は、百年にも満たない…)
変わらないものは空と、川の流れのみ。大地も、そこに生きるものたちも、いつかは消えてしまうのだ。


 春はいつしか夏になり、太陽は天の一番高い場所を通るようになる。川の水位が上がり始めていた。乾いた沼地にも水が流れ込み、澱みが深みにかわり、流れとともに魚たちがやってくる。泥の中で眠っていたハイギョたちが目覚め、それらを狙って鳥たちが飛来するようになった。死んだようだった荒野が、生命の気配に満ちてゆく。
 その時になってはじめて、彼はようやく少し思い出した。
 一年の巡り、日々の営み、季節の移り変わりというもの。過去、何十回も、――おそらく何百回も見てきた、変わらぬ時の繰り返し。魚を追ってあらわれた鰐の群れが沼地の中ほどの浅瀬でたむろしているのを、見るともなしに岸辺から眺めた。姿は似ているが、それらは仲間ではない。獣たちに確固たる意志はなく、ただ日々を生き、子孫を残し、死んでゆくだけだ。
 「いたいた。アメンティ、ここだったんだ」
声がした。視線を動かすと、茂みの向こうから少年が近づいて来るのが見えた。春先より少し背が伸びて、日焼けしている。不思議な名で呼ばれるのも、最近ではようやく慣れてきた。
 「昼飯に魚とりに行ってきたんだけど、あんたも食べる?」
網と魚篭とを手にしている。その中には、獲りたてのイキのいい魚が何尾か入っていた。
 「だいぶ出来てきたんだよ、あんたの家。あとちょっとかな」
 「出来上がったら、村に帰るのか」
 「んー、どうしよっかなー。」
考えるそぶりをしてから、にっと白い歯を見せて笑う。
 「葬祭殿の仕事には戻れそうに無いしさ、することないんだ。ここに畑でも作ってみようかなって」
 「…畑?」
 「今、誰も住んでなくて勿体ないだろ。ま、一人じゃ大したのは作れないけど。」
それは、彼には良く分からない感覚だった。することがないから、畑を作る? 勿体無いとは?
 「シェヘブカイー、いるのー?」
どこかから、耳覚えのある声が響いて来る。ここのところ、よく少年と連れ立っているところを見かけた人間の少女の声だ。
 「おっと、ティティスだ。行って来るよ、それじゃ、これ」
魚を一尾ひっぱりだして彼の手に載せると、少年は笑顔を向け、すぐに踵を返した。そっけなく渡されたそれには、それでも、かつて貰ったことのあるどんな供え物よりも、気遣いと思いが込められている。
 水辺に腰を下ろしながら、彼は思う。
 何も約束した覚えはないのに家を建て、毎日のように食べ物を運んでくるあの少年は一体、何を望むのだろう。自分に何が出来るだろう。
 若い二人の弾むような話し声が陸のほうから風に乗って聞こえてくる。
 それは懐かしいと同時に、ひどく恐ろしいもののようにも感じた。もはや思い出せない記憶の中で何かが古傷のように痛む。人は群れを作る。家族や仲間とともに生きる。けれど、自分にはそうしたものが居た記憶は、ただの獣として生きていた頃でさえ、全く思い当たらなかった。


 細い三日月が天を滑り、銀の星々が闇に散らばっているのが見える。
 彼はねぐらにしている草むらから起き上がり、辺りを見回した。人間たちは眠りについている時間。陸のほうは静かだ。
 水の匂いが沼地に満ちてくる。
 中洲の鰐たちも、水底の魚たちも、みな寝静まっている真夜中すぎ。心地よい眠りから目覚めさせたものは、かすかな違和感だった。音もなく水辺に近づくと、足元に白い影が写りこんだ。沼地に満ちた水が鏡面のように視界の先まで広がっている。氾濫の季節、静かに水に浸されてゆく土の気配。
 右眼を宙に向ける。
 こうしていると、不思議と、周囲の気配がはっきりと分かる。泥の中から息を吹きかえす草の芽、その影に隠れる魚たちの吐く泡。その側で餌をあさりまわる野鼠の微かな足音や、今まさに死んでゆこうとする小さな羽虫の最後の吐息まで、手に取るように感じとることが出来る。眼で見ずとも、世界が分かるのだ。その範囲はひどく狭く、沼地のごく一部でしかなかったが、その風景は”知っている”。
 そうだ。
 ここは確かに、かつて自分の棲んでいた場所だ。
 無意識のうちに水に触れていた。たとえ荒れ果てていても、人の姿が消え、村がなくなっても、土地そのものは変わっていない。土と水の匂い、風の気配。
 ざわりと水辺の茂みが動いた。彼は、水に手をつけたまま、首をそちらに向ける。違和感の正体は、それだ。影のように滑り出してくる細長い身体、蛇のように見えるが、実態は蛇ではない。
 耳障りな割れた声で、それは口を開いた。
 「へへっ、やっぱりだ。お仲間さんがいたぜぇ」
 「仲間?」
 「その異形。あんたも、夜の住人だろうよ?」
濁って輝く不快な眼が、彼の片方だけの金の眸を見つめる。相手の眼にどんな姿が映っているのかは分からないが、少なくとも人の姿ではないようだ。
 「――ここで、何をしている?」
 「何って、食い物探してんのさ。運よく行き倒れの旅人でも見つかりゃ魂が食える。弱ってる奴がいりゃ万々歳よ」
悪びれた様子もない蛇の言葉に、彼は驚いた。
 「そんな悪さをしては、ただで済まないだろう。」
 「何のことだ?」
 「……。」
無意識のうちに、視線を空に向けていたのだろう。蛇はからからと笑った。
 「なんでえ、あんた。そんな立派な図体しといて、ビビってんのかい。月の神にかい? それとも星の神かい? 心配するな、奴らはただ見てるだけよ。太陽様とお仲間たちは地下の死の世界だ。夜はいい。なんたって、涼しいしな」
 「この土地にだって――」
 「この辺りは、誰のもんでもねえよ。河の神もこねぇしな。面倒くせえ神さん連中は素通りだ。お陰で、へへっ、俺らみたいなもんもウロついていられるんでさ」
 「成る程」
おぼろげに思い出してきた。守護者無き土地、ここはかつてそう呼ばれていた。川辺でもなく荒野でもなく、近くに大きな町があるわけでもない。人の住む世界と使者の住む世界の曖昧な境界線上にあった、だから。
 「……。」
彼は、無言に水を打った。飛沫とともに、重たい振動が水面を走る。
 「去れ」
 「ひ、ひぃっ」
蛇が震え上がって、茂みのつくる影の中に滑り込む。
 「あんた…なんだよ、おい…」
 「ここは私の<領域>だ。」
 「わ、わかったよ。あんたの縄張りにゃ手をださねえ…ださねえよ…おっかねえな、もう」
ぶつぶつと毒づきながら、がさごそと茂みを搔き分けて去ってゆく音がする。視界からはすぐに消えたが、もう一つの見えざる世界の感覚が行方をずっと追い続けている。ほどなく蛇は彼の知覚する世界から消えていった。
 一つ息をついて、彼は、足元の水面に視線を落とした。そこには、シェヘブカイという人間の少年が与えた、人間によく似た姿が白く揺らめいている。
 (さっきのは、悪霊か亡霊だな…)
あれの眼には、別の姿が見えていたのに違いない。仲間だと勘違いされたことは少し腹立たしくもある。だが、今の自分は、確かにそれらと大差ないのだ。そう、幾らかつてこの土地の守護者だったとしても、今の自分を信じてくれているのは、あの少年ただ一人。土地を守るほどの力はなく、せいぜいが、今いる水辺と畑の周辺を守る程度。かつての力の大半は、――人を拒絶したまま、いまだ、どこかを彷徨っている。
 意識をそちらに向けると、左眼の奥に、彷徨える半身の見ている光景が写しだされた。砕かれた神像が元の場所に戻されても、左眼の抱く怒りは収まっていない。岸辺をうろついているそれの気配は、さっきの小物など比べものにならないほど禍々しく、<領域>の外にいても感じられるほどだ。
 (やはり、止めねばならないか…)
力で止められるものでないことは分かっている。だがせめて、もう一度、合間見えることくらいは出来るだろう。


 沼地を後にしたのは、まだ日が高いうちだった。なんとなく、夜に沼地を離れるのはあまり良くないと思ったのだ。シェヘブカイは、いつものようにせっせと泥をこねてなにやら作っていた。それが何の役にたつのかはさっぱり分からなかったが、多分、人間にとっては必要なものなのだろう。
 水に身を投じると、微かなしぶきが上がった。驚いた魚たちが水中を散ってゆく。中州にたむろしていた鰐たちが振り返る。水面に反射する日の光が水辺の草に反射していた。だが、流れに逆らって泳ぐ彼の姿を見ているものは、人ならざるものたちばかりだ。
 沼地から川へ出ると、水の臭いが変わった。ここは先ごろ、人間の使う道具――舟とやらに乗せられて遡ってきた道だ。同じような舟が何隻か、魚とりの網を広げているのが見える。人間たちは誰も、こちらには気づいていない。彼は、水の中に潜って速度を上げた。
 やがて、目指す気配をすぐ側に感じられる場所に出た。彼は水面に顔を出して辺りを見回した。
 いた。
 小さな中州にひっかかった朽ちかけた葦舟の残骸の下に、白い身体が見え隠れしている。泥に頭をうずめ、鼻の先しか見えていない。舟のあたりには枯れた葦が覆いかぶさり、まるで日の光を避けているかのようだ。彼が近づくと泥がうごめいた。激しい敵意。開いた口の中に鋭い牙が見えている。金色の片眼が、これ以上近づくなと無言のうちに告げている。それを見つめたまま、彼は水辺に立ち尽くしていた。分かたれてはいても、それは自分の一部に他ならない。言葉を交わさずとも考えていることは分かる。それは、何かに怯えているようだった。一体何に? 何故今も人を憎み続けている? 思考が交じり合う。

 ”ヤメロ”

何かが見えた気がした。

 ”ソレニ フレルナ…”

何かが…。
 その瞬間、泥がはね、水が割れた。
 後ろ向きに水の中に突き飛ばされて、濁った水が視界を埋めつくす。彼は相手が飛びかかってきたのだと気づいたのは、さらに後。水面の向こうに、もう一人の自分が見える。同じ顔。同じ――姿――…。
 喉に手が絡みつき、息が詰まった。渾身の力でもがいても、びくともしない。
 (殺すつもりなのか?)
そんなことをすれば、ともに滅びるだけだ。
 (お前は――死にたいのか―ー?)
絡み合う二つの白い影の周りで、水がはじけ飛ぶ。それは人の眼には見えず、人ならざる者の眼には、巨大な二頭の鰐が互いの頭を食い合おうとしている、恐ろしい光景に見えたかもしれない。
 だが戦いは長くは続かなかった。ふいに、彼を締め付けていた腕が緩み、圧力が消えた。同じ人の姿をしたそれは、輝きを宿す左眼を落ち着かなさげにきょときょとと動かし、周囲の空気を探っている。
 起き上がろうとしたとき、何かが後ろから身体を包み込んだ。
 「!」
声をあげるひまもなく、水中に引きずり込まれる。水面の光があっという間に遠のき、水底の暗い静けさが辺りを包み込む。深く、どこまでも沈み込んでゆく。この川の底は、こんなに深くはなかったはずなのに。
 不思議に思っていると、やがて沈むのが止まった。水の底だというのに、おぼろげに明るい。おまけに空気もあるようだ。辺りを見回し、足元を確かめていると、どこからともなく声が響いてきた。
 『無茶をしたな。正面から行っても、あれはどうにもならん』
それは、ひどく年経たようにも、若々しいようにも聞こえる不思議な声だった。ぼんやりとした輝きに包まれた洞窟の中に反響して、どこから聞こえてくるのかは分からない。
 『心配せずとも、今はもう、あれは人を襲ってはいない。川辺にはわしが、結界を張っておるゆえに。』
それで、声の正体は分かった。
 (河の神…か)
水に棲む者は何者であれ、その存在を最初から知っている。大地を貫き、大いなる水源から海へと続く水の流れを作るもの。この世の始まりから存在し、終わりまで流れ続ける”永遠”なるものの一つだ。それは一つの人格でも、一個の生命でもなく、川の水のいたるところいずこにも、あまねく存在する。
 「…何かを恐れているようだった」
 『お前に引きずられることを、だろう。お前のほうの自我が強くなってきて、怒りを忘れることを恐れておる』
 「怒りを忘れる…」
 『それが、あれの存在理由だからだ。そして人から抱かれる恐怖が、あれの糧なのだ。実体なき人ならざる者たちは、存在意義を無くせば消えてしまうのでな。』
慣れてくると、薄暗かった視界が以前より明るく感じられるようになってきた。彼は声のすると思った方向に一歩、進み出た。
 「力が必要だ。今のままでは、沼地を――人に害を成すものから守れない。」
 『ふむ。』
河の神は、静かに呟く。『お前のほうは、人を守りたいと思った意志なのだな。それがお前の存在理由か。成る程、分かれてしまうわけだ』
 「どうすればいい?」
 『出来ることは無い。何か出来るとしたら、人だけだ。お前もあれも、人との関わりによって生きる存在<もの>に変わりない。お前は戻って、お前の”あるべき場所”で、己の役目を果たすがいい。』
 「……。」
がっかりしたが、河の神がそういうのだから、そうなのだろう。少なくとも、これ以上、人が襲われることはないのが分かっただけでも良しとすべきだ。
 洞窟から出ると、すぐそこに水面があった。浮かび上がってみると、沼地の入り口だ。振り返っても、水底には今まで見ていた世界は影も形も無かった。あの世界は、実体としてあるわけではないのだ。河の神の住まいへの入り口は、川の中のいずこにもあり、いずこにも存在しない、ということだ。


 沼地を渡り、かりそめの家である粗末な祠が建てられている場所に戻ってきてみると、少年の後姿が見えた。砕けた神像の前に立って、放心しているように見える。
 「どうした」
肩に触れた瞬間、少年は、はじかれたように顔を上げた。
 「アメンティ?!」
驚いたように黒い眸が大きく見開かれている。
 「今、あんたが女の子を襲、襲おうとしてるとこ…」
彼は、微かに顔をしかめて外に目をやった。赤い西日が風景を染めている。日が暮れようとしている。あれが動き出したのだ。
 「…それは、もう半分のほうだ。」
言いながら、少年の手にあった丸い石を取り上げてもとの場所に置く。この少年は、時々不思議に、まるで自分の一部のように、自分や半身に同調する。それが何故なのかは、彼にはわからなかった。
 「心配は要らない。もう、誰も傷つけることはない」
 「うん…、誰か襲われたって噂は聞いてないよ。でも、今でも夜になるたびに岸辺をうろついてて…。それに…」
沈黙が落ちた。
 「――教えてよ、どうすれば、元通りになる? あれは、あんたの一部なんだろ?」
 「一部であり、実体でもある」
水に満たされた沼地は、宵闇に沈んでゆこうとしている。太陽の消えた西の空に赤い残り火が静かに揺れている。間もなく、夜の時間だ。少年は、難しい顔をして考えこんでいる。
 (やはりお前も、私を恐れるのか…)
身体を伝って落ちた水滴が、地面に吸い込まれていく。どうすれば元通りに出来るかなど…分からない。
 小さく溜め息をついて、彼は、沼地へ去ろうとする。
 「待って!」
少年が、慌てたように口を開く。
 「鰐は怖いよ、でも人を襲わなければ問題ないんだ。だから、ここに来て欲しいんだ! ここなら、あっちのあんたでも、自由に泳げるでしょ?」
シェヘブカイは、広々とした一面の水に向かって両手を広げた。「ここが、あんたの居場所なんだよ!」
 (居場所…)

 ”お前もあれも、人との関わりによって生きる存在<もの>に変わりない。”
 ”お前は戻って、お前の”あるべき場所”で、己の役目を果たすがいい。”

 「――そうか」
ふいに、目の前を覆っていた薄霞が晴れてゆくような気がして、彼は晴れ晴れとした気分で空を見上げた。そんな彼を、少年は不思議そうに見上げている。
 少年が去っていったあとも、彼は、水辺に立って空を見上げていた。濃い藍の天を埋め尽くす星の煌きの中に、かつて見ていたものを思い出そうとしていた。花の香りを、水辺に萌ゆる緑を。人に糧を与えられ、人に報い、共にここで生きていた年月を―― 。
 花が咲く。花の香りが漂う。
 月の照らす小道、日にそよぐ畑の作物。
 子供たちの声、魚のはねる水しぶき、鳥たちの羽ばたき、風の音。
 その中には、ひどく辛い哀しみの種が埋まっている。古傷のように疼くその種が、自分を引き裂いた始まりの出来事だったと、今は分かる。けれどすべての哀しみは、怒りの感情とともに、もう片方の中にもぎ取られてしまい、彼の中には空虚な無力感しか残っていないのだった。


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