■第一章/喪失-2


 目を開いたとき、光があった。
 頭上でそよぐナツメヤシの葉、重なり合うその間から、木漏れ日がちらちらと降ってくる。しばらくぼんやりとそれを眺めていると、次第に意識がはっきりしてきた。目を覚ましたのは、誰かの視線を感じたからだ。視線を向けると、黒い堅そうな髪を短く刈り込んだ、やんちゃそうな日焼けした顔が覗き込んでいた。それは、十を少し過ぎた辺りの年頃に見える少年だった。視線が合うと、驚いた顔をした。
 「…生きてる、のか?」
覗き込んでくる少年の黒い瞳に写っているのは、人の形をした白いものだ。それが自分なのだと気づくまでに、しばらくの時間がかかった。
 「どっから来たの? ここらの人じゃないよね。どっか具合でも悪いの?」
 「……。」
 「いや、弱ってる…のか? …えっと、水汲んでこようか」
 「…それは足りている」
不思議だった。
 今まで自分がどんな姿をしているのか意識したことはなかったが、人の姿では無かったという確信があった。そして、こんなに近くまで、恐れもせず、ずけずけと寄って来る人間に出会ったことも多分、無かった。
 その奇妙な人間の子供は何も聞かずに家を建て、魚を獲ってきて与えてくれた。差し出されたものを見たとき、唐突に、長く飢えていたことを思い出した。だがそれは、たった一尾の魚でも満たされた。欲していたものは、魚そのものではない。"誰かに与えられる"ということだ。
 それは、懐かしいような、初めてのような気がする感覚だった。遠い昔、どこかで…同じように、誰かに物を貰った事があった…はずだ。


 痛いほどの輝きを宿す太陽が西の空に没した後、ひんやりとした月の輝きが川辺を照らす。まどろみから目覚めた彼は、水の匂いに惹かれるように、流れの中に泳ぎに出た。水に浸かるのも久しぶりだ。流れに浸って夜空を見上げていると、何かを思い出せそうな気がする。だが、思考はうまくまとまらなかった。自分は何者で、そもそもなぜ、ここにいるのか。体の下を魚たちがすり抜けてゆく。視界の半分は水、半分は岸辺。――それは、馴染みのある光景だった。自分が、水に棲む存在だったことは間違いない。中州をぐるりと回り、岸辺に、寝静まる村の家々を眺める。こんな風景も、昔はよく見ていた気がする。人間の住む水辺、そこが… かつての自分の住処だった…。
 「つっ…」
唐突に、左目の眼窩に鋭い痛みが走った。呻いて、彼は水の中に蹲る。
 「旦那、旦那」
どこかから慌てたような声がする。水しぶきに滲む右目で見上げると、水面近くで、昼間の大きなかえるが喉を膨らませていた。
 「どうしたんですかい旦那、魚でも喉に詰まりやしたか」
 「いや…」
空虚な眼窩から頭の奥まで突き刺されるような痛みとともに、脳裏に、そこに無いはずの眸の見ている光景を描き出す。それはどこかの岸辺で、立派な建物が建てられようとしている場所だった。逃げ惑う人間たちが見える。武器を手にしている者もいる。それを見つめる視線は、自分の感情とは相容れない激しい怒りに染まっている。押し寄せてくる憎悪の奔流に飲まれまいと、彼は、奥歯を食いしばりながら左眼の辺りを自らの手で刺した。
 「旦那…加減でも悪いんで」
 「何でもない。ただの…」
水面がざわめいている。風が出てきたのだ。妙に生ぬるく、魚の腐ったような匂いが空気に染みついている。かえるが、ひょいと首を上げた。
 「嫌な風ですねぇ」
水辺の茂みの中から聞こえていた虫たちの声がぱたりと途絶え、魚たちはどこか水底で息を潜めている。かえるたちの声も、遠のいていった。
 「…もう、巣に帰ったほうがいい」
 「へえ、そうしまさぁ。旦那もお気をつけて」
飛び跳ねながらかえるが葦の奥に引っ込んでいくのと同時に、薄い雲がかかって月の光が翳る。下流のほうから何かが近づいて来る気配を感じた。水がざわめいている。立ち上がった彼は、白い影が水中から迫ってくるのを見た。滑る目の前までやってきた影は、水面に浮かび上がって顔を出す。
 それは、――人ひとり丸呑み出来そうなほど巨大な鰐だった。左眼だけが金色に輝いている。
 見つめた瞬間、全てを察する。
 「お前は…私か…」
 「カケラ… イキテイタノカ…」
それは禍々しいほどの気配を纏う自分の半身、いや、半分以上のものだった。
 (そうだ。これが私の姿だった…)
雲が流れる。夜を晒していた銀の輝きは消え、谷間を吹き抜ける風は、咆哮のような音を立てている。微かに記憶の残滓が疼いた。大鰐――白い大鰐――。腐ったような臭気を纏う巨体。体をひきずりながら、白い影が近づいて来る。飲み込まれる。
 違和感があった。だが、"それ"が、自分だということは分かっている。自分自身と一つになることに、どんな不都合があるだろう。右眼で迫ってくる顎をぼんやりと見つめながら、彼は漠然と考えている。どうして、本来の自分の姿が異物のように見えているのだろう?


 ちゃぷん、と微かな水の音。


 ふいに、近づいてこようとしていた白い巨体の動きが止まった。振り返り、僅かに口をあけて岸辺のほうを睨みつける。暗がりの中、川のほとりで腰をかがめて壷に水を汲もうとしている人影が見えた。左目が不気味に輝いて、水の中へ滑り出す。どす黒い憎しみの感情がまとわり付いているのを感じた。肌がひりひりと痛い。側にいると気圧されそうになる、凄まじい感情の奔流。

 ――これは、人間に対する憎悪だ。

 とっさに、彼は影の前に滑り込んだ。
 「ナニヲスル」
 「…駄目だ」
水を汲みに来た人間は、中州で対峙する二つの影に気づかないまま、壷を手にいそいそと陸の奥のほうへ去ってゆこうとしている。大鰐が口元をゆがめた。と、次の瞬間、白い波状のものが彼を打ちつけ、中空へ吹き飛ばした。
 「……!」
耳元で風が唸り、もぎ取られた緑が体の下に散らばる。投げ飛ばされて岸辺に叩きつけられたのだと気づいたのは、大の字になって空を見上げたまましばらく考えた後だった。痛みは感じない。だが、動くことが出来なかった。苛立ったような荒っぽい鼻息が遠ざかってゆく。それとともに、生臭い臭気もどこかへ消えていくのを感じた。
 岸辺の花の香りが、ふわりと戻ってくる。
 眼を閉じ、彼は、しばらくそのままでいた。


 どのくらい時間が過ぎただろう。

 「立てるかい」

誰かの声がした。眼を開けると、すぐそこに、ぼんやりとした白と黒の影が浮かんでいる。
 「……。」
ゆっくりと上体を起こすと、彼は、自分の体を見回した。動くようになっている。
 「特に問題はない」
 「それは何よりだ。」
安堵したような口調。いつしか風か弱まり始め、空を覆っていた薄雲も途切れて、隠れていた星たちが姿を見せていた。
 月が地平線近くに浮かんでいる。その月を背景に、ほっそりとした鳥が一羽、浮かんでいた。だがそれは、鳥のようにも、人のようにも見える。不思議そうに眺めていると、相手のほうから言った。
 「ああ、この姿が不思議かい? なに、君のそれと同じで、人の与えたかりそめのものだ」
そう言って、鳥のような男は彼に笑いかける。
 「お前は、私と同じ…ものなのか?」
 「原則的には。ただしそれは、君がこちら側に留まった場合の話だ。自分の<役目>を覚えているか?」
 「……。」
無言にかぶりを振る。
 「だろうね。だが、人間を庇おうとした。何故?」
 「わからない」
片手を、虚ろな左の眼窩にやる。「ただ…、そうしなければならない気がした。」
 「そうか」
右眼は、翼を、あるいは髪をなびかせて歩く男の後姿を追っている。輪郭はぼやけ、姿もはっきりしない。だがそれが何者なのか、自分は知っていると思った。月の光とともにある、それは"夜の監視者゛だ。
 「何をしに来た?」
 「君をこの世界に留めている思いが何かを知りたくてね。<白い大鰐>」
名を呼ばれ、彼は、眉をしかめた。記憶の中で何かが疼いた。それは――確かに自分の名"だった"。俯くと、長い白い髪が額に垂れる。おぼろげな記憶の中に埋もれていた記憶の一片が蘇ってくるのを感じた。
 「その名を持つものは、もう死んだ。ずっと昔…」
 「そう。君は既に二度死んでいる。生命あるものとしての<大鰐>は百十五年前の冬に。そしてその後、村人によって祠に祀られた村の守護神としての<大鰐>も、村が放棄された四十七年前に<役目>を終えた。今はもう、祀られていた祠もない。」
 「…祠?」
 「簡易なものだったが、神像もあった。それも忘れてしまったのか?」
自分の手の平に視線を落とす。そうだ、黒い石――覚えている。ノミの跡の残る、ざらついた石の表面。一瞬、意識の中に何かの光景が過ぎる。だがそれは、あまりにおぼろげで、はっきりと認識することができない。
 「君は、かつて人の守護者だったんだ。小さな村のね」
 「信じられないな」
反射的に言い返す。「さっきのあれは、まるで…悪霊だった」
 「君は、あれが本来の自分だと思っているのかい?」
 「太刀打ちできない」
 「力は問題ではない。どちらの意志が優先されるか、だ。」
謎かけのような、すべて見透かしたような言葉に、微かな苛立ちを覚える。この男は、どこまで知っているのだろう。かつての自分を知っているのだろうか。
 「私は、どうすればいい?」
 「その答えは持ち合わせていない。君自身が決めることだ。これから何者になるつもりかもね」
 「何者に…?」
 「そのための猶予だ。」
そこまで言ったところで、男はふいと顔を上げた。「おっと、時間か。」見れば三日月は、もう沈みかけている。
 「では、また。」
微かな羽音とともに、気配が空へと去ってゆく。ほどなくして、東の地平が白み始めた。彼は思案している。あれに逢うのは、初めてではない。遠い昔――いつだったか、やはり月のかかる晩に、あれはどこからともなくやって来て、同じようなことを聞いたのだった。

 "これから何者になるつもりかい?"

 (何者…)
ざ、ざ、ざ、ざ。
 風に揺れる草の音とともに、再び、激しい怒りの気配を感じた。そう遠くは無い場所に、自分の一部を感じる。押さえきれない激情に駆られたそれは、今もどこかを彷徨っている。
 (そう、私は死んだのだったな…。)
少年の建てたかりそめの家のある木陰に腰を下ろしながら、彼はぼんやりと、東の地平線を越えてくる太陽の輝きを眺めていた。世界から夜闇が取り払われ、死者と悪霊の時間は去り、朝の光が秩序を連れてくる。
 だが、輝き始めたその世界の中に、死者である自分の居場所は、何処にもない。


 「あのさ、あんたに言っても仕方ないと思うんだけどさ。僕、神官たちからお役目、申し付けられてるんだよ」
その日、やってきたシェヘブカイという名の少年は、唐突にそう切り出した。
 飽きもせず、どうして毎日こうも正体の分からないものに会いにやってくるのだろう。不思議に思いながら、彼は、少年の真剣な表情を眺めている。
 「…この近くの丘の上で、王が葬祭殿の建設をしてる。その葬祭殿が毎晩、何かに襲われてて。その災いの主を探せ、って。手がかりもなにもないし、どうしていいのか分からなくて。…」
 (それは… 私だ)
とは、答えられなかった。言えば、恐れさせてしまう。脳裏に一瞬、誰かの怯えたような眼がちらつき、胸の奥が刺すように痛んだ。
 「ほんとは、ここでのんびりしてる場合じゃないんだけどさ。どうしたらいいのかわかんないし。たまたま、あんた見つけちゃったし。ほっとけない気がしてさ…。」
 「……。」
ここ数日の少年との会話――というより、ほとんど一方的に喋るのを聞いていただけなのだが――で、下流のほうで王のための葬祭殿が作られていることや、少年の家族や村人たちがそこで建設に従事していることは知っていた。その葬祭殿を闇に紛れて襲うものがいる。
 それが、自分の半身、あの夜に見た巨大な白い鰐の仕業だということは分かっている。あれはどういうわけか人に対する激しい憎悪を抱き、がむしゃらに人を襲い、何もかも破壊しようとしている。その感情の激しさは、近くにいるだけで引きずられそうになるほど。
 「アメンティ?」
少年は、自らが与えた奇妙な名で彼を呼ぶ。
 「聞いている」
 「あ、そ。あんた時々、寝てんのか起きてんのかわかんない顔してるからさ」
少年は薄々と何かに感づいているように思えた。葬祭殿を襲う化け物の正体が自分だと知ったら、どんな顔をするだろう。やはり、恐れ、去ってゆくのだろうか。

 『祟り神だ!』

記憶の中に誰かの声が蘇る。また、捨てられてしまうのか。また… 長い時間を… 独りで…。



 人々の寝静まる夜、月の出るのを待って、彼はねぐらを抜け出した。行き先は、下流の葬祭殿だ。実際に赴くのは初めてだったが、そこがどんな場所なのか、左眼を通じて既に過去に見ている。
 流れを下っているときから既に、行く手で怒りに満ちて悶える気配は感じていた。人間たちと、白い影とがもみ合っている。松明の火が揺れる。悲鳴――石の台座の崩れるのが見える。投げ出されて暗い川に頭から転落する人間が見え、彼は水の中に身を躍らせた。水中に沈みかける体をとらえ、岸辺に引き上げる。だが、その体は奇妙に折れ曲がり、命の火は、既に尽きようとしている。
 (何故…)
背後に気配を感じた。
 振り返ろうとする間もなく、尾が叩きつけられる。
 「く…」
 「ジャマヲ スルナ」
ぎらぎらと輝く左眼が、すぐそこにある。
 「殺す…な」
伸ばした腕はしかし、空しく宙を摑んだ。大鰐は、今や輪郭もおぼろな黒い影のように見えた。本来の姿さえ失い始めている。
 「やめろ…」
水辺で起き上がろうともがきながら、彼は必死で自分に向かって念じた。

 人を殺せば、"悪霊"になる。
 それだけは嫌だ。

 「トリモドス…」
呟きとともに、左眼の思考が流れ込んでくる。はっとして、彼は陸の上の葬祭殿に目を向けた。今まで気づかなかった、微かな気配が漂っている。それは、入り口の太い柱の脇、石を積み上げて作った壁だ。表面に貼り付けられた白い化粧石は剥がれ落ち、中の不ぞろいな石の断面があらわになっている。その中に、黒い石の…
 (ああ、そういうことか…)
体の力が抜けていくのを感じた。自分の半身が感じていた怒りを、人に対する激情の理由を知った瞬間、彼の意識は左眼と同調し、虚無感が襲ってくるのを感じた。目の前が真っ暗になる。人々の騒ぐ声を聞きながら、彼は手で、右眼を覆った。
 葬祭殿の中に使われているのは、かつて自分の寄り代だった神像の欠片だった。
 (私は…棄てられたのか…)
不要な神として、ただの石材として新たな建設の礎に使われてしまった。人に棄てられたものが、人を守護することは出来ない。ここにいる自分は、ただの残骸に過ぎなかったのか。


 どこをどう泳いで戻ったのかは覚えていない。
 気が付くと彼は、元いた木陰に傷ついた身体を横たえて、ぼんやりと空を眺めていた。
 何も出来なかった。
 半身の抱く怒りの正当性を知ってしまった今、もはや自分自身を止めることは出来ないと分かっていた。あの怒れる大鰐は、奪われたかつての身体を、黒い石を取り戻そうとしているだけだ。元いた場所から放逐した人間に恨みを抱くのは当然のことだ。
 だが彼の胸には、怒りは沸いてこなかった。ただただ、空しさだけがあった。必要とされていないのに、何故、人を守らなければならないなどと思ったのだろう。何故、今でも人を憎む気持ちにはなれないのだろう。自分は一体、何を恐れているのだろう…。
 草を踏み分ける足音が響き、畑の向こうから少年が姿を現した。
 「アメンティ…」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、少年は、崩れるように地面に膝を落とした。
 「どうしたらいいんだ。僕には無理だよ…わかんないよ…」
 「無理? 何が」
 「父さんが怪我したんだ、昨夜。」
表情は変えないまま、彼は、沈んだ心の中で呟く。
 (それは… 私がやった)
 「川から来たものに襲われたって。葬祭殿を襲ってるやつを探さなきゃならないんだ、でもどうすればいいのかもわかんない。出来っこないよ…」
 (すまない。止められなかった…)
言葉は出てこない。言えば、この少年は、――今の自分を認識してくれているただ一人の人間は、きっと恐れ、去ってゆくのだろう。
 少年の眼から、涙の雫が、地面に落ちる。
 (苦い…)
何も出来ないのなら、いっそ消えてしまえればいい。そうだ。自分が消えれば、もう半分も消えるだろう。胸の奥に手を差し込むと、彼は、微かなぬくもりを宿す自分の破片を探り当てていた。
 「それ…どうしたの…?」
顔を上げると、少年が心配そうな顔で覗き込んでいる。それ、と言われているのは、身体の傷のことだった。いつの間についたのだろう。人間のように血は滲んでいなかったが、それは奇妙に彼の意識をひきつけた。
 「昨日、あれからどこか行ったの?」
 (分かっているだろう)
 「駄目だよ、傷は手当しないと。ちょっと待ってて、手当ての道具を――」
 「不要だ」
軽く苛立ちながら、彼は傷を隠した。さっきまで泣いていたくせに、なぜこんな、些細な傷くらいでそんな顔をするのだろう。
 「お前たちの薬は意味がない」
 「そっか、あんた人間じゃないんだっけ…。でも、痛くないの?」
 「……。」
痛かった。
 しかしそれは、傷のせいではない。胸の奥で何かがしくしくと、思い出した古傷のように痛みを感じさせている。こんなとき、何と言えばいいのか分からない。今の自分がどんな顔をしているのかも分からない。人間のように泣ければ楽なのかもしれなかった。自分が消えれば、全て収まるのだ。それなのに、死のうと思った途端、最後にもう一度だけ賭けてみたくなった。


 「…信じられるか?」


 「えっ?」
少年は顔をあげ、大粒の涙の溜めたままの瞳をこちらに向けている。
 「私を信じてくれるか」
それは、ひどく漠然とした問いかけだった。けれど、少年は頷いた。
 「信じるよ」
偽りの無い言葉だと思った。彼は、握っていた手の平の中のものを少年の手の中に置く。青黒い丸い石――かつて自らの寄り代だった像の中で、右眼だったもの。
 「……これ」
視線のあった一瞬で、互いの思考が繋がった気がした。少年は、それが何なのかを悟ったようだった。
 「分かった。行ってくるよ」
 「……。」
振り返り、振り返りしながら、少年は村のほうへ去ってゆく。
 (これで、最後かもしれないな)
木に体をもたせかけながら、彼は心の中で呟く。
 (お前になら、預けられる。)
 自分の始末を他人に押し付けることを身勝手だと思いながら、彼は眼を閉じる。風とともに、微かな記憶の残滓がおぼろげに蘇り、閉じた瞼の裏で踊る。

 "私を止めてくれ"

涙は苦い。誰も傷つけたくは無い。
血の匂いを振り払うように花が咲く。

 "私は… 人に恐れられるものにはなりたくない… "

 そう、自分は、人を守る存在<もの>だったことがある。
 それと同時に、人に災い成す存在<もの>でもあったのだ。


 朝日が昇る。
 光は相変わらず熱かったが、それは昨日までの肌を刺すような厳しい輝きではなかった。木陰から、足元から追いやられてゆく夜の名残から取り残されて、彼は光に手を翳す。
 眩しい。
 翳した手の平が透けて、その向こうに赤く輝く太陽円盤が見える。夜が去っても、自分は生きている。手を、顔にやった。左眼は相変わらず空虚なままだ。
 「アメンティ!」
振り返ると、朝日のさす畦道を、息せききって駆けて来る少年の姿がある。「アメンティ、帰れるよ。元の場所…」息を継ぐのと喋るのと、傍らにしゃがみこむのとがほぼ同時。急いできたのだろう。額には、玉粒の汗が幾つも浮かんでいる。怪我はしていないようだ。
 「…あいつは?」
 「あ、うん。消えちゃったけど…」息を整えながら、上目遣いに左の眼窩を見やってため息をつく。「…戻ってないんだね。像を元に戻さないと、だめなのかなあ」
 「元に戻す、とは。」
 「うん。神官様に報告してさ、あの壊れてる像、元あった場所に戻してくれることになったんだ。家も建て直してくれるって、だから心配要らないよ」
 「……。」
川の流れに目をやった。
 「そこへは、どうやって行けばいい?」
 「え、どうやってって。」
 「…場所が、分からない」
覚えているのは、水辺だったことだけ。そこが、遠いのか近いのかすら、見当もつかない。
 「そっか。じゃあ送るよ、場所が分かったら。それまで、ここに居ていいから。」
少年は、屈託なく笑う。
 「俺も様子見に来るからさ。…お役目は終わったけど、葬祭殿の仕事には、戻れ無さそうなんだよね」
不思議そうにじっと見つめている視線に気づいて、少年は喋るのをやめた。
 「どうかした?」
 「…お前は表情が忙しいな。泣いたり、笑ったり」
 「え、そうかな」
手で自分の顔をぺたぺたと触っている。
 「あんたもさ。たまには笑えばいいのに」
 「笑う?」
 「そ、いっつも悲しい顔してる。せっかく綺麗な顔なのにさ、勿体無いなって。そんな顔してたら楽しいことが逃げてっちゃうよ。」
 「――そんなことを言われたのは、初めてだな」
 「ふぁあ」
小さな欠伸をして、少年は目をこすった。「あー、ちょっと眠くなってきちゃった。戻って寝てくる。それじゃまたね、アメンティ」
 やって来たばかりだというのに、言うだけ言って去ってゆく少年を見送りながら、彼は、胸の中が少し暖かくなるのを感じていた。
 (まったく、忙しないな…)
笑うということがどんな事なのかわからない。どうやって人間のようにころころ表情を変えればいいのかは知らない。だがそれはきっと、こんなときにする顔なのだろう。


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