■第一章/喪失-1


 記憶に焼付いているのは、怒号と、苦い水の味。血の匂い。
 長い、――長い渇望の果てに、自我が溶けてゆくのを感じていた。ゆらめくように、胸の奥に燃え立つのは、激しい怒り。だが何を欲し、何に怒りを抱いていたのかすら、思い出せない。動くことも、思考することも出来ず、ただ消えようとしていた矢先、どこかから引き摺り下ろされ、意識が引き裂かれ、世界が闇に染まる。
 覚えているのは、それが最後だ。


 ゆらゆらと、波に沿って光が揺れた。
 浅い水底の泥の上に波形が踊り、驚いたように逃げる小魚たちの尾びれの立てた小さな波が、流れてくる葦の切れ端を荒々しく流れの奥へと押しやる。いつからこうしているのだろう。気がついたときにはもう、水の中だった。流れに身を任せ、どこかへ向かっている。
 側を何か大きなものが通り過ぎていく。船だろうか。大きく光が揺れ、波が起き、押しやられるとともに体が何か柔らかいものに突き当たった。淀みに捕まったようだ。どうやら旅は終わりらしい。
 胡乱にもたげた首の先に、堅く絡まった葦の根と、根の間でうごめく黒い小さな生き物たちが見えた。視界の半分は水、半分は空。
 「おい、あんた」
耳元で声がして、なまぬるい感触がぺたりと顔に張り付いてきた。
 「そこ、邪魔なんだがな。うちのおたまどもが通れんじゃないか」
 「――おたま? ああ…これか」
わさわさとゆれている黒っぽい群れは、かえるの子たちなのか。まだ孵化したばかりのようだ。流れてきたことで、彼らの移動をさえぎってしまったようだ。体をずらして葦の上にもたれかかると、通り道のできた黒いおたまじゃくしたちは、群れになって浅瀬のほうへ移動しはじめた。それを眺めていると、額のあたりで、また声がした。
 「あんた、ここらじゃ見かけんお方だな。どこから来なすった」
 「さあ…」
ぺたり、ぺたりと小さな手が視界を過ぎる。茶色に黒と緑の斑模様、いぼのついた背中をいからせた、大きなかえるが一匹、ぴょん、と側の葦島の上に飛び降りた。
 「さあ、って。迷い者かい。あんた――そもそも、"何"もんだい?」
少し考えてから、"それ"は答える。
 「わからない」
 「わからない、って。」
真昼の日差しが照りつけている。瞳を開いているはずなのに世界の半分は暗いまま、それに、やけに眠い。
 「おい、おいってば」
 「……。」
目を閉じる。閉じても世界の半分は薄明るいままだ。ここは悪くない。生ぬるい水と、泥の感触。葦の匂いには馴染みがある。ここが何処であれ、自分が誰であれ、どうでもいい。ここは、自分の棲む世界だ。
 「…やれやれ」
かえるはため息をつくように喉を鳴らして、傍らの土の上に飛び降りた。「まあ、いいさ。何だろうと、疲れてるんなら、ゆっくりしていくがよかろ。」
ぺたり、ぺたりと去ってゆく小さな足音を聞きながら、"それ"は既に浅い眠りの中にある。

 春の日差し。
 ぬるい水の感触。
 水辺に住む生き物たちの気配。
 草と、花の香り――。

何かが足りない気がするというのに、それが何だったのか、今は、思い出せない。


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