■最終章 永遠の館


 朝から、村は賑やかだった。いよいよ水路に水を通す日がやってきたのだ。堰には人が集まり、男たち総出で川と沼地を繋ぐ最後の堤。
 「いいな! 合図したら、一気に引っ張るんだ」
 「いくぞー、せーの…」
綱が引かれると同時に、その先に結び付けられていた丸太が引き抜かれた。穴から流れ出る水は最初は少しだったが、やがて地面全体にひびが入り、ドドドッと重たい音と共に決壊した。補強のために積み上げられていた日干しレンガのブロックの脇を勢いよく流れる水を見て、流れの両脇から歓声が上がる。水は定められた道筋に従って沼地の奥へ奥へと進んでゆく。水路が満たされ、奥の湖と繋がる。葦だけの生える荒れた沼地は、緑の耕地へと生まれ変わるだろう。その年によって、作物が出来たり出来なかったりだった貧しい耕地は、毎年安定して作物のとれる豊かな土地に変わるだろう。そしてそこに棲む人々は、豊かな実りを土地の守り手に感謝する。
 全体の見渡せる少し離れた中州から様子を見ていたシェヘブカイは、ほっと胸を撫で下ろして、隣に立つ白い青年を振り返った。
 「うまくいったようだな」
 「うん。よかったよ、今年の増水には間に合わないかと思ってたんだ。」
<緑の館の主>は足元を流れてゆく水に目を向ける。
 「魚たちも流れこんでくるな」
 「何、おなかすいたの?」
 「いや。今は、十分だ」
言いながら、見ている前で葦の間に寝そべってしまう。シェヘブカイは呆れ顔になった。
 「こんなところで昼寝? 家に戻ればいいのに」
 「最近は人がひっきりなしに来て、ゆっくり寝られない。」
 「あ、…そうなんだ」
このところ、沼地のほとりの村人だけではなく、近隣の町や村からも人が訪れるようになり、祠は手狭になっていた。元々、シェヘブカイが一人で建てた小さな祠だ。立派な神像を置いてあっても、礼拝所もなく、専属の神官もいない。供物台はいつも一杯で、床の上まで物が溢れていて足の踏み場もない。最近では、仕方なくティティスが毎日片付けているのだった。
 シェヘブカイは、中州の向こうの村のほうに視線をやった。 
 <緑の館の主>の言うことももっともだ。時間が出来たら、祠の問題も何とかしなければ。
 「おーい、シェヘブカイ」
繋いであった葦舟に乗ろうとしたとき、村のほうからやって来る別の葦舟が目に入った。ネジェフが手を振っている。
 「やあ、これから狩り?」
 「ああ。ついでに流れの様子を見てくる」
舟の棹をとるのは、レキだ。ここのところ急激に背が伸びて、以前より男らしい体つきになってきた。弓の腕も上達し、もう一人でもやっていける、と、ネジェフは誇らしげに言っていた。このところネジェフは側で見ているだけで、実際に狩りをするのは、もっぱらレキのほうになっていた。
 すれ違いざま、レキがいたずらっぽくニヤリと笑う。
 「夕飯は期待して待っててくださいね」
 「ああ」
手を振って、シェヘブカイは舟を流れに漕ぎ出した。浅瀬で大きな魚がとびはねる。水路は、畑だけでなく魚たちを育む立派な養殖場にもなるのだ。


 「あ、シェヘブカイ!」
舟が岸辺に着くか着かないかのところで、シェヘブカイは、ティティスに呼び止められた。背中に赤ん坊を背負い、洗濯の籠を抱えている。
 「よかった、誰かに探しに行って貰おうかと思ってたの。メレルカさんが探してたわよ」
 「メレルカが? 今、どこに」
 「広場のほうへ行ったけど…」
広場は、最近になって村はずれに作った。村人が増えて、皆で集まる時に広い場所が必要だったからだ。穀物の分配、税金の徴収、お祭り、その他さまざまな用事でそこは使われていた。
 広場に向かってみると、ちょうどメレルカがこちらに背を向けて、来客らしき見慣れぬ男たちから巻物を受け取っているところだった。メレルカと同じように、肩から書記の印であるたすきをかけている。シェヘブカイが近づいていくと、書記たちはいっせいにこちらを振り返った。
 「探していたと聞いたけど」
 「ええ。勅令が届きました」
そう言って、たった今受け取ったばかりの巻物を掲げて見せる。
 「勅令ってことは王宮からだね。また、何か言いつけを?」
 「そのようです。農地も増えたので、この地に新たな町を作ることにしたそうですよ。大鰐様を守護神とする町をね。そこに、神殿を建てよとの仰せです。」
 「――神殿?」
シェヘブカイは、思わず耳を疑った。大鰐の神殿だって? 「どんな神殿を建てるんだ?」
 王宮から来たと思しき書記たちは、苦笑する。
 「それは、あなた次第でしょう」
 「……?」
 「ここには、あなたを総監督に任命すると記されています」
と、メレルカはいつもの無表情で巻物を指す。ようやく意味を理解して、シェヘブカイの顔が赤くなった。
 「どうかされましたか」
 「いや…、そんなこと…急に言われても。他にもやることは…たくさんあるし…」
 「水路の工事は、一段落したはずでは?」 
 「少し、考えさせてくれ」
額に手をあてながら、シェヘブカイは足早にその場を後にした。鼓動が早まり、耳の奥で、血の流れる音がする。神殿を建てる――自分の手で。あまりに急なことで、気持ちが落ち着かなかった。


 家に戻り、二階の部屋で机に向かって頭を抱えて考え込んでいると、後ろで壁を軽く叩く音がした。顔を上げると、入り口にネジェフが立っている。
 「よぉ、聞いたぜ。神殿の建築監督官に指名されたんだって?」
 「…うん」
シェヘブカイは、力なく微笑んで窓の外に目を向けた。窓からは、水辺の土手の道と祠の庭が見えている。床の上を、足を引きずる音が近づいて来る。
 「何だよ、お前が迷うなんて珍しいな。成功するかもわからん灌漑工事は、あんなに胸張って即返事で受けたくせに」
 「そりゃ、出来るって思ってたからだよ。でも――」
 「分からんな。神殿を建てるほうが難しいもんなのか?」
 「それもある、石造りだからね。簡単に作り直しが効かないんだ。でも、それだけじゃない」
 「ほう?」
記憶の中には、子供の頃に働きに行っていた建設途中の葬祭殿の大列柱があった。はるか奥深く、闇へと続く均一で完璧な形を保つ乳白色の天梁。蓮や椰子を象った美しい彫刻、壁に隙間なく描かれていた聖なる字句。神官に呼ばれて初めて内陣まで入った日に見た光景は、今も目に焼きついている。
 あの頃、あの葬祭殿の美しさに、荘厳さに憧れていた。
 いつか、そこで建築監督の一人を務めた父のようになりたいと願っていた。
 けれどいつか、その願いは忘れ去られていた。この沼地で生きることを決めたときから、自分の夢は、ここで、泥と土で叶えるものだと思うようになっていた。それなのに、幼かったの頃に故郷に置いてきた夢のほうから追いついてくるとは。
 たぶん、怖いのだ。それを手にしたとき、自分が変わってしまうかもしれないことが。あるいは、父との力量差を思い知らされることが。
 ネジェフは、シェヘブカイの思いつめたような表情を見て、ちょっと首をすくめた。
 「まさか断ろうなんて思ってないだろうな。お前がやんなきゃ、一体だれが大鰐様の家を作るんだ?」
 「……家?」
 「だってそうだろ。神殿って、神様の家じゃないか。」
振り返ると、男はあれから伸ばしっぱなしにしている髭の下で、にやりと笑った。「お前の建てた家はいいものだって、おれはよく知ってる。」
 "家を建てる"
 そうだった。この沼地に来た時、最初にやったことが、それだった。その前に、木陰に寝そべっていた<緑の館の主>と初めて出会った時にしたことも、そうだった。ネジェフの家、カイエトの家。新しい出会いがあるたびに、シェヘブカイは家を建て続けてきた。そこは居場所であり、帰るべき場所なのだ。
 「…そうだったね。」
彼は、もう一度祠に目をやった。泥でつくられた小さな家、初めて一人だけで作った神の宿る場所。今は一人ではない。
 「ありがとう、ネジェフ」
 「どういたしまして。」
立ち上がって階段を駆け下りると、シェブカイはメレルカのところへ急いだ。迷いが吹っ切れた今、彼の頭の中には、一日も早く建設を始めることしかなかった。
 もう後戻り出来ない。行く手にあるのは、かつて想像さえしなかった明日だ。


**********


 奥庭に足を踏み入れると同時に、ふわりと花の香りが漂った。小鳥たちが飛び立ち、池の中に放たれた魚たちが水しぶきを上げて水草の中に隠れた。ふっと息をついて、シェヘブカイは辺りを見回す。ここは静かだ。庭の手入れをする神官たちを除けば、普段は人も来ない。
 「変わりないようだな」
 「ええ」
彼の後ろに立っているのは、書記のメレルカだ。王の命を受けた日からずっと、事務方の手伝いとして働いてくれていた男は、今ではシェヘブカイの秘書という立場になっていた。
 「――ここが完成してから、もう何年になるだろうな」
 「五年四ヶ月ですね」と、相変わらずの男は記録も見ずにほとんど即答する。「ちょうど、市長の二人目の娘さんが生まれた月でしたから」
シェヘブカイは苦笑して振り返る。
 「その呼び方はやめてくれよ。勝手に押し付けられた肩書きだし、僕はこの町には住んでいないんだ」
 「大鰐を守護神とする町ですから、建前上、あなたを責任者にしておきたいのですよ」
王の命によって作られた、新たな神殿を中心とした町、――それは、かつて湖のほとりの村があった辺りに作られていた。以前は水をかぶって「亀の背」だけが残されていた湿地帯は、水路に流れを統合し、水位を下げたお陰で、今では大きな町になっていた。
 「王は、あなたがお気に入りのようですね。あなたは固辞されてしまいましたが、葬祭殿の建築監督にもご指名でした。」
 「<大鰐>を恐れているだけさ。それに僕はまだ、最初に申し付けられた灌漑工事を完成させていない」彼は、微かに笑う。「…僕の代だけでは終わらないかもしれないな」
 「成る程。そういえば、町で噂になっていましたよ。ワニの巣に入られたとかで」
 「ん? ああ、この間のことか。考え事をしていたら、ついね。入り込んでしまっていたんだ。気がついたら周りはワニだらけだった」
 「よくも襲われずにいるものだと、さすがは大鰐様のご加護だと皆、感心していました。」
 「何、特別なことじゃない。この辺りのワニたちは大人しいんだ。餌は豊富にあるしね。それに、怒らせたりしなければ何もしてはこないよ。」
言いながら、彼は、ゆっくりと歩き出した。神殿の石積みをざっと見渡していく。彼自身の設計であり、仕事でもある石組みは、隙間なくしっかりとかみ合わさっている。美しく彩色された柱のほとんどは緑だった。梁を支える頭の部分は葦と花を束ねた形に作られ、壁面には水とそよぐ草とが描かれている。ここもまた、<緑の館>なのだ。
 「陛下は、葬祭殿だけでなく他に神殿も建てているそうだね」
 「ええ。新都からそう遠くない場所に。それから立派な墓所も計画しておいでのようです」
 「精力的だなあ。自分の名前の刻まれた建物を、そんなにいくつも作ってどうするんだろう」
 「さあ。そうしなければ、時の中に自分の名が埋もれてしまうと恐ろしいのかもしれません。あの方は、いつもご自分の"居場所"を気にしておられましたから」
ふとシェヘブカイは足を止め、振り返った。
 「なんだか時々、きみが王に仕えていたとは思えなくなることがあるよ。」
書記は、静かに微笑んだ。
 「私の主は、常に一人だけです。書記の主とは、我々に知恵を与えしもの。私が仕えるのは、<叡智の主>のみ」
それは、文字を創り出し人に与えたという月神の名だった。はっきりと自分の意思を示さず、影のように付き従うことに専念する空気のような男が、自我をもって語る唯一のものでもあった。メレルカは何一つ自分のことは語らず、めったに表情も変えず、日々淡々と仕事だけをこなす。長年付き合っても、それは変わらない。
 「その神様のことは知ってる。むかし、学校に通っていた頃に毎朝礼拝させられた。先生は、よく繰り返したものだ。"ペンをとる時、人はその神のしもべとなる。" 」
 「ええ。ですから、私は、そうであり続けるのです。」
 "過去にそうであった、他の何者でなくなったとしても?"
心の中でそう問いかけ、だが言葉には出さずに、シェヘブカイは、再びゆっくりと歩き出した。薄暗がりの列柱の回廊を抜けると、行く手に外の光が近づいて来る。
 「問題はありませんでしたね。」
出口までたどり着くと、メルレカは、手元の書類にさらさらと点検の結果を書き入れた。
 「では、これで。私は村へ戻りますが、どうなさいますか?」
 「ん。僕はもう少し、神殿の周りを歩いてみるよ。久し振りに来てみたら、町が色々変わっているみたいだから」
 「そうですか。では、お先に失礼いたします。」
そう言って軽く一例すると、メルレカは踵を返した。
 「メレルカ!」
シェヘブカイは、その背中に向かって声をかけた。
 「明日も仕事だ。朝、遅れるなよ」
 「――ええ」
去ってゆく男の後姿を、シェヘブカイは無言に見送っていた。彼がかつて何者であったかは、永遠に分かるまい。彼は話してはくれないだろう。…ネジェフが、かつてメネスと名乗っていた時代の出来事を、決して口にすることがなかったように。


**********


 辺りにしん、とした闇が落ちている。だが、目には見えなくても、気配がそこにあるのは分かった。
 月の光が照らしだす前庭に立って緑の気配に包まれていると、まるで時が巻き戻されたように感じられる。彼はしばし、夜気の中を漂う花の香りを楽しんだ。ここだけは、昔からずっと変わらない。
 木陰で、何かが動いた。
 「――シェヘブカイ」
 「やあ。<緑の館の主>」
闇の中で、白い青年が身体を起こす。左右の金の眸が闇の中でも明るく見えた。
 「よっこらしょ、と」
手で地面をまさぐりながら、石の上に腰を下ろし、傍らに磨り減った杖を立てかける。
 「しばらく来られなくて、すまんかったな。崩れかけてたところは、孫たちがうまいこと直してくれたようだ――」言いながら、壁のひび割れの上に塗りつけた漆喰を確かめる。「泥で作ったものだからなあ。年を食うと、人も建物もあちこちガタがくる」
 「私は気にしていないが。」
 「昼寝の最中に落ちてきたら困るだろう?」
笑って、シェヘブカイは<緑の館の主>の姿をじっと見つめた。最初に会ったあの日から、ずっと変わらない。白く長い髪、整った顔立ち。時が流れても、木陰に腰を下ろす人ならざるものは、若い男の姿のままだ。
 「ここを建ててから、ずいぶん経ったな」
 「…そうだな。人の一生分の時間だ。わしも老いた」
膝の上に置いた自分の手に、視線を落とす。過ぎ去ってきた月日。共に過ごした時間。語りつくせない積み重ねた思い出は、今も胸の中にある。何も言わなくても、こうして顔を合わせて側に座っているだけで、お互いの感情は伝わってくる。
 しばしの沈黙のあと、シェヘブカイは、口を開いた。
 「昔から、ずっと考えていたことがあるんだ」
 「何だ?」
 「"永遠"とは、一体何だろうかと。」
そう言って、小さく笑い声を立てる。
 「いつか、話したことがあったっけな。――思うにあの頃は、自分がいつかこの世から消えていくことが怖かったんだ。自分が死んでしまったあと、何も残らないと思っていたからな。それが、今はちっとも怖くない。町も神殿も、いつかは朽ちて無くなってしまうかもしれないが、子供たちがいる。わしの名は忘れられても、血を分けた者たちは生き続けていく。それに、――それに、あんたは、わしのことをずっと覚えていてくれるだろう?」
<緑の館の主>は目を伏せ、静かに頷いた。
 「決して絶えないものを"永遠"と呼ぶのなら、私は永遠に、お前との記憶を胸に留めよう。」
 「ありがとう。」
一滴の涙が、年老いた男の頬を伝い落ちる。
 「…ありがとう」
終わらない時などないことを、本当は彼も知っている。人よりも長い寿命を持ってはいても、いつかは人ならざるものたちも消えてゆく日が来るのだと。
 それでも彼は、永遠が本当にあればいいのにと思った。別れの時など来ずに、永遠に、共に暮らせたらと。
 けれどそれはきっと、世界の始まりをもたらしたという大いなる原初の神でさえ、実現不可能な望みなのだろう。


**********


 風が髪を散らし、水面を揺らす。そこに白くゆらめく姿を見ている者はいない。
 世界を赤く染めながら夕陽が地平に沈んでゆくのを、彼は、じっと眺めていた。
 (お前にもらったものを私は、返せただろうか)
何度も繰り返した問いかけに、記憶の中の少年は、いつも笑って頷いてくれる。
 あれから幾つもの王朝が立ち、何人もの王が玉座に座っては飛び立っていった。町が消えて新たに作られ、神殿が崩れてまた建て直され、墓が暴かれたかと思えば新たに作られ、人の言葉も、装いも、少しずつ変わっていった。
 それでも、変わらないものはある。
 水に映る空の青、そよぐ水辺の緑。吹き抜けてゆく風の匂い。


 千年の時が流れ、やがて――また、沼地に春がやって来る。









fin.


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