■第四章/待つ者たち-2


 よく晴れた空に、一筋の雲が流れている。その日も、シェヘブカイはいつものように水路づくりの作業に精を出していた。昼前頃だっただろうか。何の前触れもなく、突然、村のほうから歓声が上がった。
 「…何事だ?」
彼は手を止め、泥にまみれた手で汗をぬぐった。いぶかしむ人々のもとに、波のように報せが伝わってくる。
 「船だ! 船が着いたぞ!」
 「船? どこの?」
 「帰還兵だよ! 兵にとられた若い衆だ!」
女たちの興奮した甲高い声が響いて来る。間違いでは無いのだ、本当に還ってきたのか。
 誰からともなく、わっと歓声が上がった。家族をとられている者も、そうでない者たちも、みな一様に鍬も籠も放り出して一斉に岸辺へと走り出した。沼地の入り口に付けられた船からは、帰った来た者たちが、ぞろぞろと列になって降りてくる。
 「帰ってきたぞ! おれんとこの甥っ子も、みんな…」
 「兄さん! 兄さん、よく無事で…」
村の入り口は、家族を出迎えに駆けつけた人々でごったがえしている。あちこちで再会を喜び合う声が響き、もみくちゃにされている若者も見えた。シェヘブカイがやって来たときには、すでに船の周りは黒山の人だかりだった。
 「シェヘブカイ!」
ティティスが駆け寄ってくる。その頬は、興奮のためか紅潮していた。
 「カイエトの旦那さんが帰って来たのよ!」
 「カイエトさんの?」
彼女の指した先では、人の群れから離れるようにして、涙でぐしゃぐしゃになりながら男の胸にすがり付くカイエトの姿が見えた。周りには、ぽかんとした様子の子供たちもいる。父親が兵役に就いたときにはまだ幼く、顔を覚えていないのだ。
 「良かった、カイエト。待ってて…良かったね」
ティティスも目を細め、涙ぐんでいた。
 と、見ている前で、レキが突然何か言ってこちらに向かって走ってくるのが見えた。顔を上げ、シェヘブカイとティティスに気づいて、目の前で立ち止まる。
 「こら、逃げちゃだめでしょ。」
ティティスがしかりつける。
 「だってさ」
このところ背も伸びて、すっかり生意気盛りになったレキは、照れたように鼻の頭をかきながら口を尖らせる。「父さんだなんていわれても覚えてないし。おまけに臭いし…」
 「はは、船の上じゃ水浴びも出来ないからな。」
 「それよりさ、師匠探してるんだ俺。」
 「師匠? ――ああ」
メネスのことだ。メネスがいなくなる前、レキは弓の使い方を教わっていた。「そういえば、見当たらないな。…」
 生きて帰って来た者たちは、もうほとんどがそれぞれの家族に迎えられ、再会を喜んでいる。誰にも迎えられていない者は見当たらない。
 「あ!」
その時、レキが目ざとく誰かを見つけた。
 「師匠!」
走り出した方角は、船とは逆の村の方角だ。水辺を辿る土手の下の道を、頭から色あせた布を被って人目を避けるように立ち去ろうとしている後ろ姿があった。背を曲げて、足を引きずっている。
 「メネス? 何やってるんだ、あんなところで」
ティティスをその場に残し、シェヘブカイもレキの跡を追いかける。
 「おい、メネス! なんで、そんな格好…」
 「しーっ」
大慌てで口元に指を当てると、男は、片手で布を少し上げた。見覚えのある顔。だが、肌は真っ黒に日焼けし、髪はぼさぼさで、髭も伸び放題。ひどい顔だ。おまけに額には、頬にかけて走る大きな傷が、まだ癒えきらないまま赤黒く盛り上がっている。
 「その傷…」
 「説明はあとな。それより、おれはもう"メネス"じゃない」
 「じゃない?」
 「名を変えた。"メネス"は死んだことになってるからな。今のおれは、ネジェフという名だ」
顔を隠すように布を引き下ろし、彼は顎をしゃくった。「行こう、さっさとここを離れたい。…おれの家、まだあるのか?」
 「もちろん。ティティスが掃除してくれてる。いつ戻ってきてもいいように、って」
 「そいつあ、在り難いな」
声は元気を装っているが、疲れているに違いない。それは身体だけではなく、心もという意味だ。微かに足をひきずりながら歩くメネスの背中に、シェヘブカイは、聞いてはいけない何かを感じた。
 「なあ師匠、もうどこにも行かないでいいんだよな? ずっと、ここにいる?」
レキが男の腕に自分の腕をしっかとからませる。まるで、そうしないと逃げてしまうとでも思っているかのようだ。
 「おう。おれの役目は終わった。もう―― どこにも…」
レキとメネスの後を歩いていたシェヘブカイは、ふと足を止めた。振り返ると、船は、積荷の人間を下ろし終えて去ってゆこうとしている。家族を出迎えた人々も、それぞれの家路を辿ろうとしている。
 人は船で戻ってきた。だが、神は―― <緑の館の主>は?
 「メネ…ネジェフ、<緑の館の主>はどうした?」
男の足が、一瞬だけ止まった。
 「分からない」
 「分からない、って…」
 「おれにはもう、何も視えないんだ。」
そう言ったあと、再びゆっくりと歩き出す。レキに支えられ、足を引きずりながら去ってゆく男の後姿。シェヘブカイは、ぼんやりとそれを見つめていた。


 その日の夜、もう随分遅い時間になってから、シェヘブカイはカイエトの訪問を受けた。
 「どうしたんですか、こんな時間に。」
夫が帰ってきて、今夜は家族水入らずでゆっくり過ごすと思っていたシェヘブカイは、扉を開けて驚いた。
 「あの、夫が…ハルセケルがどうしても、今日中にお話したいというので。」
 「話?」
シェヘブカイが見上げると、日に焼けた大柄な男は、小さく会釈して口を開いた。
 「すいません、こんな夜にいきなり、はじめましてのご挨拶も無しに――でも、一刻も早いほうがいいと思って。メンケペルという人を知っていますよね?」
 「え…ええ」
それは彼にとっては思いがけない名だった。
 「兄をご存知なんですか?」
 「やはり。…しばらくその人と一緒に働いていたんですよ、東の国境の砦で。弟が居ると言っていました。」
さっとシェヘブカイの表情が明るくなる。
 「生きてたんですね。今、どこに? 一緒に戻ってきたんですか」
ハルセケルは小さく首を振る。
 「この国にはもう居ません。彼は、誰も知り合いの居ない東の国境の先へ、自分を試しに行くのだと言っていました」
力が抜けていくような気がした。兄は戻ってこないのだ。
 「…そうですか」
だが、生きていてくれたことが嬉しかった。たとえ会えなくても、この空の下のどこかで生きているのなら…
 「兄は、自分の道を見つけたんですね」
いつかきっと、また会える。
 その夜、ハルセケルは戦場でのことを話してくれた。
 前の戦が終わったあと、ハルセケルが何年も戻ってこられなかったのは、以前の戦いで砦を奪った異国人たちに囚われていたからだという。砦の修復のために来ていた建築技師も囚われ、メンケペルはその中の一人で捕虜仲間だった。ハルセケルがメンケペルと別れたのは、メネスの指揮する軍が砦を奪い返して解放された後、最後の大きな戦いの時だったという。
 「戦場にいた者たちはみな、白い鰐の神を見たと言っていました。それは戦女神の息子、<沼地の守護者>と呼ばれていました。」
そうハルセケルは、話してくれた。「解放されたあと、私も少しの間、戦に加わっていたんです。水辺の戦いでした。砦は、川が海に流れ込む中州にあったんです。大鰐様は、恐怖を打ち消し勝利を齎してくれると兵たちの信頼を集めていました。王家の鷹と一緒にね。澱みに突っ込んだ敵の軍が追い返されるところは、一度ならず目にしました。それは凄まじい戦いで――」
 「あなた。わたし、そういう話はちょっと」
 「ああ、すまん。とにかく、それがこの村の守護神だと知ったのは帰還する前のことで、それで、一度はお参りして命が助かったお礼をしようと沼地へ向かう船に乗ったんです。その船の中で、指揮官がカイエトがここに暮らしていると教えてくれたんですよ」
 「指揮官って、メネスさんだったの?」
 「今思えばそうですね」
ハルセケルは、苦笑する。「その時は違うと否定していましたが。ネジェフさんの元の名前は、メネスというんでしょう?」
 「うん。でも、どうして名前を変えたりしたんだろう」
 「さあ。指揮官は、最後の大きな戦いで死んだといわれていたんです。――死んだことにしておきたかったのかもしれません。私は、気がつかなかったことにします。きっと何か訳があるんでしょうから」
 「……。」
夜半過ぎてカイエト夫婦が去って行った後、シェヘブカイは、隣にある祠を訪れてみた。だがやはりそこは空で、しん、と静まり帰ったまま、誰もいない。誰かが捧げていったらしい小さな燭台が、チリチリと音をたててぼんやりと像を照らし出している。
 祠の主は、今、どこにいるのだろう。


 翌朝、シェヘブカイはメレルカを呼んで、今日一日は仕事を休むと告げた。 
 「皆、家族が戻ってきてそれどころじゃなさそうだしね。僕も兄さんのことを伝えに行かなきゃならない」
 「ご実家ですね。分かりました」
頷いて、メレルカは村のほうへ去って行った。
 「戻りは、夜?」
と、後ろからティティスが尋ねる。
 「そのつもりだけど、遅くなったら泊まってくる。」
 「そ。せっかくだから、ゆっくりしてきなさいよ。ここのところずっと働きづめだったんだから」
家を出ようとすると、庭で蝶を追い回していた猫のセブがシェヘブカイに気づいて、足元に体を摺り寄せてくる。
 「よしよし。お前もおっきくなったなあ」
日を浴びてぬくもりの宿る毛並みを撫でてやりながら、彼は子猫のセブを連れてきた時のことを思い出した。セブはによく祠に入り込んでは、祠の主の昼寝を邪魔していた。
 「…お前も、待ってるんだよな?」
猫は首をかしげ、不思議そうな顔でシェヘブカイを見上げる。
 「いや。なんでもないよ。…戻ってきたら、教えてくれよな」
ぽんぽんと猫の頭を軽く叩いてから、彼は水辺に向かって歩き出した。


 流れに棹をさして葦舟を操りながら、シェヘブカイは、川の両岸を過ぎてゆく風景をぼんやりと眺めていた。最後にこの川を下ったのは、いつのことだったろう。
 そう遠い距離ではなく、帰ろうと思えばいつでも帰れる場所だった。ティティスが代わりに両親の様子を見てきてくれることもあり、仕事が忙しかったのもあり、…幾つもの言い分けの果てに、シェヘブカイは、帰るのが怖かったのだと認めた。自分の良く知る風景が、自分の知っている人々が変わってゆくこと、それを目の当たりにするのが。
 家に戻る前、シェヘブカイは少し下流の葬祭殿まで行ってみた。王が亡くなった時には、そこで大きな儀式が行われ、壮麗な大型船が何隻も水の上に並んでいたという。だが、それももう随分前のことだ。
 今、丘の斜面の前には、すっかり完成した葬祭殿が立派に聳え立っている。彩色の施された美しい柱。浮き彫りで飾られた壁面。白い石を敷き詰めた斜面は、光り輝きながら川から丘の上の葬祭殿入り口まで真っ直ぐに続いている。舟を止めて眺めていると、葬祭殿の入り口を守る巡回の兵士たちが歩いてゆくのがちらりと見えた。
 "王の永遠の家"。
 墓とは別に、この神殿は、亡き王――先代王の来世での安寧のために神官や王族たちによって祈りを捧げられる礼拝の場所として使われる。かつての賑やかだった建設現場の面影はもはやなく、作業小屋も、労働者たちの宿舎も取り壊されて跡形も無い。水辺と陸の間には、静寂だけがある。
 シェヘブカイは棹をさし、ゆっくりと舟の方向を変えた。一人になるのさえ久し振りで、過ぎてゆく時間の緩やかさに驚いてしまう。
 村までは、ほんの少しの距離だ。


 生家を訪れると、出迎えてくれたのは母イティと飼い猫のニウだった。奥の部屋には、父もいる。ティティスの話では、ここのところ体調を崩して仕事は休んでいるらしい。
 「戻ってくるって知ってたら、いろいろ準備したのに」
そう言って笑う母の笑顔は相変わらず少女のようだったが、額の髪には微かに白いものが混じり始めている。
 「なんだか、…静かだね。村」
 「そりゃあね。若い人たちはみんな、あんたのところの水路作りに行ってるんだもの。相変わらずよ、ここは。」
 「それと今は、王様の新都作りの話もあるしな」
と、セアンク。
 「若い新王は積極的で野心的なお方だ。東と南の国境が落ち着いたら、もう次のことを始めるという」
 「聞いてたんだね。戦が終わったって話」
卓をはさんだ父の向かいに腰を下ろしながら、シェヘブカイは、イティの差し出す水の器を受けとる。
 「東の国境の砦から戻った人で、兄さんの行方を知ってる人がいたんだよ」
 台所に戻りかけていたイティが、足を止める。
 「ほう、あいつは元気にしてるのか」
 「うん。だけど、東の国境の先へ旅に出たらしい。自分を試すとかって。」
 「異国へ?」
母はぎゅっと眉を寄せた。「どうしてそんな遠くへ。手紙ひとつ寄越さず、あの子…」
 「だがいかにも、あいつらしいことだ。」
セアンクは小さく頷いて、少し遠い目をした。「あいつは、昔からどこか無理をしてるところがあったからな。気ままに生きられたほうがいいのかもしれん」
 その日、父とは、久し振りに様々な話をした。
 最近の出来事や、ティティスとの暮らしのこと。葬祭殿と沼地の間に築かれようとしている新都のこと、新たに即位した王の噂。沼地の守護神と、渇水の年にも不思議に実る畑のこと――。
 話が過去に及ぶと、傷の残る膝を撫でながら、セアンクは、懐かしそうな目をした。
 「"災いの主"…か。お前でなければ、あれは収まらなかったかもしれん。あの時の神託は、正しかったな」
 「そんなこともあったね。忘れてたよ」
笑いながら、シェヘブカイは窓の外に見える故郷の村を眺めていた。小さい頃は広いと思っていた村が、今は狭く感じる。立ち並ぶ家々も、今住んでいる沼地の村より少ない。
 時は流れる。
 人も村々も変わってゆく。
 変わらないものは、――空と、川の流れだけ。
 「泊まっていかないの?」
 「うん。やっぱり、今日中に帰るよ。」
 「そう…、じゃあ、またいらっしゃいね。近いうちにね」
。斜めにさす夕陽に照らされて、影が長く伸びていた。家の戸口には、いつまでも手を振っている両親の姿が見えていた。
 舟を止めた場所に戻りかけて、彼はふと、水際の畑の脇に目をやった。しばらく誰も草を刈り込んでいないのか、かつて右目<アメンティ>を見つけたあたりの木陰には鬱蒼と草が生い茂り、二年続いた渇水のせいで、澱みのほとんどが消えている。かつてそこに咲いていた白い花の茂みも、今は跡形も無い。かえるたちの声も聞こえない。しばらく待ってみたが、結局、あの喋るかえるとは再会できなかった。
 棹を流れに差込ながら、シェヘブカイは、魚がはね、水しぶきとともに波紋が広がってゆくのを見ている。夕暮れの色と昼とが交じり合い、黒い川面に光がきらきらと揺らめく。鳴き交わしながら川の上を渡ってゆく小鳥たち。風に微かにざわめく川向こうの葦の茂み。西の空の低いところには、気の早い一番星が輝き始めている。
 時は流れ、風景は少しずつ変わってゆく。けれど、変わらないものもまた、その中にある。


 沼地の入り口に差し掛かったところで、彼は手を止めた。
 「――?」
光が揺らめいた。
 いつしか光は完全に消え、西の低い空に残っていた燃えさしの茜も消えて、辺りには夜の帳が静かに下りようとしている。そんな闇の世界に浮かび上がるように、揺らめくものが立っている。
 「<緑の館の主>…?」
呼ばれて、振り返る白い影。男は、月を背に立っていた。最後に見た時と同じ金色の眸、真っ白な、糸のような長い髪。流れがゆっくりと葦舟を運ぶのを待ちきれず、シェヘブカイは水をはねながら中州に飛び移った。
 「遅いよ、ずっと待ってたんだぞ!」
 「ああ、すまない」
のんびりとした、以前と同じ口調。涙が零れそうになる。シェヘブカイは、慌てて目を何度もしばたかせた。
 「何してたんだよ」
 「"河の神"に戻った報告をな。不在の間、この辺りでずいぶん便宜を図ってもらっていたようだ。それから、――久しぶりに、沼地を見て回りたかった」
<緑の館の主>は、さっきまで眺めていた方向に眸を向けた。「変わったな、ここは」
 「うん」
 「お前も、背が伸びた」
 「…そうかな」
言いながら、シェヘブカイは、自分の視線がかつてのように<緑の館の主>を見上げていないことに気づいていた。隣に立った時、背の高さはほとんど変わらない。少年の時代は終わり、彼は、家族を持つ一人前の男になっていた。
 「話したいことが、たくさんあるんだ」
 「ああ。私もだ」
二人は、どちらからともなく微笑んだ。金色の髪飾りと腕輪が月の光を反射する。
 天には星々の創るもう光の川が浮き上がり、地上の川は鏡のように天の川を映す。人と人ならざる者は今、天と地と、二つの川のはざまに立っていた。


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