■第四章/待つ者たち-1


 季節が巡る。
 一度は上がった水位が再び下がり始めると、水の引いたあとの畑には川の運んで来た黒々とした土が残される。けれど、川の水の届いていなかった場所には、その恩恵は齎されない。
 昨年ほどではないにせよ、川の水位は今年もほとんど上がらなかった。畑の半ばは川の水が届かないまま、刈り入れの終わったときのまま乾いてひび割れている。近隣の村では、二年連続の不作に見舞われることは確実だった。だが沼地の、シェヘブカイたちの村では、それを嘆く暇はなく、諦める必要もない。
 やるべきことがあった。
 ――たとえ川の水位が上がらずとも、人の手で、畑に実りをもたらす方法がある。


 水路を作る作業は、数ヶ月前から始まっていた。
 王の寄越した書記、行政官のメレルカは口数の少ない男だったが、シェヘブカイの頼みを着実にこなしてくれた。労働者の徴収、日当の配分、出勤簿の管理。ほとんどを一人でこなす超人ぶりで、シェヘブカイは、かつて葬祭殿で働いていたときの自分の仕事と比べて舌を巻いた。そんな有能なメレルカのお陰もあって、シェヘブカイはほとんど事務に煩わされることなく、水路にだけ集中できていた。とはいえ、本業だけでもやるべきことは山積みだったのだが。
 シェヘブカイは今、新たに作った土手の上に立ち、流れてゆく水の方向を見定めている。最初に手をつけたのは川から水が沼地に流れ込む部分。水路を掘り、奥の湖へ流れる水を増やすと同時に、水はけを良くして耕地を増やそうという計画だった。だが地面にはもともと僅かな傾斜があり、水路の方向を決めるのが難しかった。自然な水の流れによって元々出来ている水路とどう交わらせるか、彼はまだ、思いあぐねていた。
 「監督」
汗を拭いながら、腰まで泥にまみれた若者が土手を上がってくる。シェヘブカイは一瞬、それが自分の呼び名だと気づかなかった。"灌漑事業の監督官"、それは確かに与えられた彼の役割ではあったが、未だに慣れない。
 「言われた場所まで掘り進めましたが、深い泥溜まりがあって予定通り土手が作れそうにないです」
 「ああ、それなら少し幅を広げて、そこの葦の生えている辺りまで――」
 「おかしら」
立派な体格の男が、シェブカイの足元にどさりと小石の詰まった籠を下ろす。「こいつは、どこに?」
 「村長、カイエトさん家の羊の子供がいなくなったって」
 「旦那ぁー、明日からここで働く予定の新入りを…」
 「ああ、ちょっと待って。えっと、まず…」
まとまりかけた思考が霧散してゆく。次から次へと持ち込まれる案件を処理しているうちに、一日は終わってゆく。
 「シェヘブカイ」
 「ああ、ちょっと待って。今、もうちょっと…」
 「シェヘブカイったら」
手元から顔を上げて、シェヘブカイは目をしばたかせた。目の前に、ティティスが呆れたような顔で腰に手を当てて立っている。
 「今、僕のこと呼んだ?」
 「他に誰がいるっていうのよ。」
 「ごめん」
あまりにも色々な呼び名で呼ばれすぎて自分の本当の名前を忘れかけていたことに、彼は恥ずかしくなった。肩書きに埋もれて、名前で呼んでくれるのは昔からの知り合いか、カイエトやティティスくらいだ。
 気がつけば、日は傾きかけている。
 水路工事の作業員たちは道具を片付け、寝床として作られた作業小屋へめいめいに戻ってゆくところだ。作業小屋のほうからは、夕食を配る賑やかな声が響いて来る。炊事の陣頭指揮をとっているのはカイエトで、手伝いの女性たちとともに毎日の男たちの食事をまとめて準備している。
 「疲れてるんじゃない? 少しは休んだほうがいいわよ。はい、これ」
そう言ってメリエトは、布の覆いのかかった籠を差し出す。
 「ありがとう」
土手の上に腰を下ろしたまま受け取ったシェヘブカイは、覆いの下からまだぬくもりの残る焼きたてのパンをひとつとって、口に運んだ。
 「うん、美味しい。やっぱりティティスのが一番だな」
隣に腰を下ろしたティティスは、微かに頬を染めながらも平静を装っている。
 「褒めてもおまけは無いわよ。それに、それカイエトと一緒にまとめて焼いたやつなんですからね」
 「なんだよ、僕用に特別なやつはないの?」
 「ありません」
 「ちぇっ」
パンをかじりながら、シェヘブカイは手元の蝋板に視線を落とす。
 「それ、これからの計画?」
 「うん。――やっぱり、村を移動させなきゃダメだなって」
 「村を?」
それは、奥の湖のほとりにある村を、まとめて移動させる計画だった。
 「今、村を作ってる湖のほとりのあたりは、土地が低くて沼地の中じゃないか。"亀の背"に家を建ててもいいけど、水位が上がると孤立してしまうし、狭いだろ?」
 「まあ、そうね」
 「湖をもっと大きくしたいんだ。流れ込む水路を広くしてね。そうすれば、水位の下がる季節でも畑に水がいきわたるように出来るし、氾濫の起きない年にも収穫量を減らさなくて済むと思う。ただ、――納得してくれるだろうか、って思って」
最初に手をつけたのが川から水が沼地に流れ込む部分だったのは、そのためだった。湖の村の収穫量が増えれば、湖の村の人々もシェヘブカイたちのやろうとしていることの意図を理解して協力してくれるかもしれない。王の威光をちらつかせて強制的に移住させることだけはしたくなかった。
 「あの人たちはまだ、祟りを恐れてるのかな?」
 「どうかしらね…」
"大ワニの祟り"がある。――湖のほとりの村には、そう言って憚らない人々もいて、水路工事には非協力的だった。今、工事に参加している男たちの大半は、かつて葬祭殿の建設に関わっていた出稼ぎ労働者たちや、前年の不作で食うに食われず雇われに来た川沿いの村の農民たちだった。
 「でも、きっと分かってくれると思う。ここが豊かな場所になればね。あたしがそうだった」
 「うん」
手にしたパンの残りを飲み込むと、シェヘブカイは、腹を撫でながら立ち上がった。
 「さて、と。僕は、もう一仕事してから帰るから。」
 「無理しないでね」
長い影が土手を伝い、足元をついてくる。日が沈むまでは、まだ時間がある。やるべきことは沢山あった。夜明けから日暮れまで、日が暮れたあともランプの灯りを頼りに仕事を続けて、それでも終わらないくらいに。

 "不毛の沼地<メヒ>を、豊穣の地に変えよ"

それは、最初に思っていたよりずっと苦しいものだったが、出来るという確信は今も変わっていなかった。それに、この戦いは一人で戦っているのではなかった。
 祠には毎朝、仕事に出かける前に祠に挨拶にいく。砕かれた像の前にはいつも欠かさず花環やビールや魚が供えてあり、主の姿はなくても、木陰には変わらず良い香りのする花が咲き続けていた。
 過ぎてゆく日々の中で、彼はときおり人々の噂に耳を凝らしたが、東の国境の話はほとんど流れてこなかった。大きな戦闘に勝利したあと、軍隊はどうなったのか。そのまま駐留させられているのか。息子や親戚を戦場に送り出した人々とともに、彼もまた、遠い地にある<緑の館の主>とメネスのことを思っていた。そして、そこにいるはずの、音信不通の兄メンケペルのことも。
 今、どこでどうしているのか――無事でいるのだろうか。
 遠い空を見上げて思う時はいつも、不思議と、近くに<緑の館の主>の気配を感じていた。



 忙しく日々を過ごしているうちに、時は過ぎてゆく。畑には、収穫の時が訪れていた。
 シェヘブカイたちの村――今や何軒もの家の立ち並ぶ、れっきとした村になっていた――の畑には、今年も黄金色に輝く穂が風に波打ちながら広がり、川の水位が低かったにもかかわらず、他のどの村よりも多くの収穫を得ていた。人々は大いに沸き立ち、賑やかに収穫が始まった。ほんの数年前まで一家族分しかなかった畑の面積は、この一年で何倍にも増えた。多くの黒い頭が金色の波の中を上下しながらせっせと穂を刈り取っているさまは、シェヘブカイには夢のように思えた。
 (…はじめて水を引き込んで畑を作ったとき、ティティスやカイエトたちと、…メネスと、刈り入れをしたんだったな)
畑の畦道を歩きながら、シェヘブカイは思い出していた。あの時、ここにはまだ、家は三軒しか建っていない、本当に小さな集落だった。その前は、何もない、ただの集落跡の荒野だった。
 ふと彼は、顔を上げる。土手の上にひるがえる白い衣が目に留まったからだ。メレルカだ。村の様子を眺めながら、熱心に何か手元のパピルスに書き付けている。
 「それは、報告書?」
声をかけると、書記ははっとした様子で顔を上げた。それとなく手元のパピルスを隠しながら、表情は変えずに振り返る。
 「素晴らしい収穫でした。おめでとうございます、シェヘブカイ。王は満足されるでしょう」
 「まだまだだよ。」
言って、彼は視線をさっきメレルカの見ていた方向に向けた。刈り取られた穂が、脱穀前に乾かすため、ひとまとめに吊るされているのが見える。単に穀物量を記録していたわけでもあるまい。さっき一瞬だけ見えた書付の端を思い浮かべながら、シェヘブカイは漠然と問うてみた。
 「あんたは、たぶんただの役人じゃないんだろうな。」
 「……。」
書記は、眉ひとつ動かさない。
 「王様に直接報告を上げられる君なら、東の国境が今どうなっているかも何か知ってるんじゃないのか?」
 「私は、主よりあなたの手伝いをするよう仰せつかった、しがない書記です。知ることの出来る事柄は限られています。ですが、あなたの言いたいことは分かっていますよ」
振り返ると、メレルカと視線が合った。感情の読めない、仏頂面とも呼べる真顔。この男が持つ唯一の表情。「陛下の憂いが消えれば、あなたの望む者たちも解放されるでしょう」
 「それは、戦争が終わればってことだよね。」
 「ええ――」
何やら含みのある表情で頷いて、書記は手元に視線を落とす。
 メネスたちが東の国境に送られて、間もなく丸一年が経とうとしていた。


 メレルカの報告が届いたからなのか、その年は、収穫が終わるとすぐに待ちわびていたように役人たちが税の取立てにやってきた。
 「他の村落は相変わらずの不作でな。まともに取り立ての出来るのは、ここくらいだ」
前年にも見た小太りな役人は、言い訳がましくそんなことを言いながら、部下たちに命じて穀物の束を次々と船に運ばせる。
 「戦の兵糧が足りないんですか」
 「いや、戦はもうすぐ終わると聞いている。」
シェヘブカイは、耳を疑った。「本当ですか? では兵役についた者たちは?」
 「さあ、そこまでは知らん。わしが知っているのは、戦線に送る余分な穀物が不要になるだろうという話だけだ。ま、終わったのならいずれ帰ってくるだろうよ。生きている者はな」
聞けたのは、それだけだった。仕事に追われる役人たちは、取立てが終わるとそそくさと去ってゆき、入れ替わるように王宮からだという身なりのいい上級役人たちがやって来た。彼らは村人を集めて立派な口上を述べ立て、王からの褒美だと言って酒や高価な食べ物を持ち込んだ。たっぷりと税をとられたあとの人々の不満は、これで吹き飛んだ。おまけに神官までやってきて、"沼地の主、豊穣もたらす緑の冠の守護者"のために祭りを催すという。神官特有のもったいぶった口調で <緑の館の主> が褒め称えられるのを聞くのは初めてで、シェヘブカイはこそばゆいような、奇妙な感覚に襲われた。豹の皮をまとった神官は、祠で香を焚き、シェヘブカイにはよく分からない難しい文句で祝詞を捧げ、長ったらしい儀式を行ったあと、砕けた神像に水と油を注いで、こういった。
 「陛下は、この霊験あらたかなる豊穣の神のために、新たに神像をしつらえられた。近々、沙汰があろう。喜ばれよ」
 「…像?」
それは思いがけない報酬だったが、一抹の不安もあった。一体どんなふうに作られているのだろう? ほとんど原型なく砕かれているとはいえ、彼にとっては、長年見続けてきた元の石像の欠片こそが神像だったからだ。
 神官の儀式のあと村に戻ってみると、既に村人たちは大騒ぎで宴会の真っ最中だった。普段口にしたことのない酒や食べ物がふんだんに振舞われ、酔っ払って水路に落ちた者までいる。
 「おいおい、気をつけろよ。酔っ払って溺れ死ぬなんてしゃれにならないぞ」
 「平気さぁ~、そん時は、ひっく、大鰐様が助けてくれるさぁ」
 「何いってんだお前、滅多にお参りにも行かないくせに。そんなときだけ頼るんじゃねえよ」 
 「ははは、ちげえねえ」
酔っ払いたちが大声で笑いあうのを聞きながら、シェヘブカイは、口元にしらず笑みを浮かべていた。――かつての夜のことを、酔ったまま左眼<イアビィ>を追いかけて、川に落ちて助けられた日のことを思い出していた。
 兄との別れ。<緑の館の主>との約束。
 あれからまだ数年しか経っていないはずなのに、どうしてこんなに遠く感じるのだろう。
 地上の喧騒から意識を遠ざけ、頭上に広がる静寂の星空へと目を向ける。そこには天の中心を横切る川、もう一つの永遠の流れが、静かにきらめていた。


 宴は、夜が更けるまで続いた。
 一握りの元気な者が朝まで飲み明かそうと騒ぐ中、シェヘブカイは、酔いつぶれた人の輪を抜け出して、川べりの祠ヘの道を辿っていた。家の前を過ぎて、水辺へと続くそれは、毎朝、仕事に向かうときに通る道でもある。闇に沈む祠の入り口には、昼間、神官が燃していった高価な香の匂いがかすかに漂っている。
 「…ここも、ずいぶん賑やかになったよ」
懐に抱えてきたビールの壷を神像の前に置きながら、彼は、台座の上の砕けた神像の縁にそっと触れた。遠い昔、素人との職人が作った、ノミの跡の残る荒削りな像の表面は、割れていない部分もざらざらしている。
 「いま、どこにいる?… もうすぐ帰ってこられるのか? それとももう帰路についていたりするのかな」
答えは無い。
 たとえようのない不安が胸に押し寄せてくる。東の国境へ行った兄は戻ってこなかった。そこは遥か遠くにあり、異国の攻め寄せる危険な戦場で、彼にとっては想像すべくもない場所だった。一年だ。戦場は人が死ぬ場所だということは知っている。そこには花畑も、昼寝を出来る木陰も、きっと無いに違いない。そう思ったとたん、灯りのない静寂の闇の中、シェヘブカイは、ふいに寒さを感じた。思わず両手を胸の前で握り締め、自分自身のぬくもりを確かめる。
 「シェヘブカイ…?」
背後から、声がかけられた。震えながら振り返ると、入り口に立つティティスの姿が、おぼろげに見える。
 「やっぱりここだった。居なくなったと思って…どうしたの?」
近づいてきたティティスの笑顔が消え、シェヘブカイの表情をじっと見つめる。「…何かあったの?」
 「いや…」
言いながら、シェヘブカイは闇の中で祭壇を見つめた。
 「考えてたら…不安になって…。戻ってきてくれるだろうか…って」
 「戻ってくるわよ。」
ティティスは、シェヘブカイの手に自分の手を重ねる。自分のものではない、自分よりもずっと大きなぬくもり。「戻ってくるって言ったんでしょう」
 「――うん」
それは、約束だった。<緑の館の主>とメネス、神と人と、それぞれに交わした約束。戦って、勝ち取るのだと――。
 「ティティス」
 「ん?」
去りかけた手を、彼は摑んで引き止める。
 「一緒に暮らさないか」
暗がりの中、小さく息を呑む音がする。しばしの沈黙。そして、
 「いいわよ」
返事が終わるか変わらないかのうちに、シェヘブカイは彼女を自分のほうに抱き寄せた。暖かい。
 「ちょっと、シェヘブカイ…! 聖域の中で」
慌てて身体を引き離しながら、ティティスは祠の外へするりと逃れ出る。追って外に出ると、星明りの前庭に漂う緑と花の香りが包み込んだ。
 「まったく。あんたね、少しは慎みなさい」
 「…ごめん」
照れたような笑みを浮かべながら、ティティスはくるりと背を向けた。肩先の黒髪の束が揺れる。
 「それにしても、大鰐様の前で、ね。こういうのは、愛の女神<ハトホル>に誓うものじゃなくて?」
 「いいんだよ。僕らが出会えたのは、<緑の館の主>のお陰なんだから」
 「あら。そういえばそうね」
声は耳に心地よく、触れた手に感じる暖かさは一人だけのものではない。
 もう寒さは感じなかった。


 ――それからそう日がたたないうちに、神官の告げたとおり、村に近い岸辺に王の工房からの贈り物を載せた船が着いた。
 運ばれてきた神像は最高級品の白い石で作られていて、玉座に腰を下ろす鰐の頭をもつ男性の姿をしていた。それは、いつかメネスが蝋引きの板に描いて見せた姿にそっくりだと、シェヘブカイは思った。祠を訪れたとき、若き王にもそんな姿で見えていたのかもしれない。
 神官の先導で新たな神像が祠に運ばれてゆくのを、人々は手を休めて見守った。
 「あれが、神様の姿なの?」
 「へえ、立派なもんだな…」
周囲から聞こえてくる声を聞きながら、シェヘブカイは、神官とともに祠へ向かってくる。土手の上に並んでこちらを見下ろしている女性たちの群れの中には、ティティスやカイエト、それにカイエトの娘のスィトもいる。スィトは、ちょっと眉を寄せて、怪訝そうな顔をしていた。「あんなふうじゃなかった」と言っているのが聞こえて、シェヘブカイは心の中で微笑んだ。似ているかといわれたら、似ていない、と彼も思っていた。この神像のような、立派な腕輪や冠をつけた、威厳に満ちた姿だったことは、今まで一度もなかった。でもきっと、普段のだらしなく寝そべっている姿よりは、こちらのほうが正しいのだ。


 祠に王から下賜された神像が納められたことで、沼地の村にはちょっとした変化が起きていた。
 豊穣をもたらす神の噂を聞きつけて近隣の村や町からも参拝者が訪れるようになったのだ。以前は「ワニの祟りがある」などと恐れていた湖のほとりの村の人々も、それは過去の迷信だったと思うようになっていた。何と言っても、地上における権威の象徴たる王が認めた守護神なのだから、悪霊であるはずはない、というのだ。
 祠には、以前にも増して多くの捧げものがされるようになり、狭い小さな祠が手狭に感じられる時さえあった。朝早くや夜遅い時間でもなければ、一人で落ち着いて神像と向き合える時間はないほどだった。
 そこでシェヘブカイは、自宅の裏庭にもう一つ、小さな祠を作ることにした。それには、以前からあった砕けた神像のかけらのほうが、眸だった二つの黒い丸い石とともに納めてあった。神官が引き取って処分しようとしていたのだが、新しい神像が据えられたあとでも、破片を捨てる気には、とてもなれなかったのだ。
 日干し煉瓦を積み上げて、藁をかぶせただけの小さな祠。それは、アメンティを舟に乗せ、はじめて沼地のほとりにやった来た日に、ティティスの家の近くに建てられていた、粗末な小屋を思い起こさせた。
 「準備が出来ましたよ」
メレルカの声で、庭先に立って祠を眺めていたシェヘブカイは、我に返る。
 「行きましょうか」
 「ん」
メレルカの傍らには、つい最近、湖のほとりの村からやって来たばかりの男たちが数人、付き従っている。彼らは村を移転させるための土地を調べに来たのだ。今日はその打ち合わせの日だった。
 「提供できる畑の大きさは、最初はそれほどでもない。ただし開拓すれば広がる。準備できる土地は十分にある。協力してくれさえすれば、今もっている畑より面積が広がるだろう」
 「へえ、ですが家を建て直さにゃならんので」
 「そのための土地もある。土手で水から守られた場所になる。"亀の背"より住みやすくなるはずだ」
土手の上に登り、周囲を指差しながら男たちに村の移転計画の詳細を告げる。耳を傾ける熱心な表情を見ながら、シェヘブカイは、気が引き締まる思いがしていた。まだ、満足には程遠い。やるべきことは、たくさんある。これからだ。
 荒れ果てて何もなかった枯れた葦の茂る浅瀬が、水路によって区切られた整然たる畑へと変わってゆく。少しずつ、沼地のほとりに緑の耕作地が広がってゆく。
 一年ごとに、一歩ずつ。


 季節が巡り、川の水位の上昇とともに干潟を渡る鳥たちが群れをなして空を飛ぶ。
 帰還兵を乗せた船が着いたのは、澄み渡る夏の青空の広がる日の午後早くのことだった。


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