■第三章/黄金の鷹-10


 日が暮れて、王の一行は、集落から少し離れた場所に張った天幕に引き上げていた。物陰から伺っていたレキの話では、メネスもそこへ連れて行かれたらしい。周囲には衛兵たちが厳しく巡回し、様子を見に近づくことさえ出来ない。夕方になっても周囲には兵士が巡回して人の往来を厳しく見張っている。ティティスは家に戻れず、シェヘブカイのところに留まっていた。
 「ねえ。何が起きてるの?」
 「分からない。連れて行かれたっきりメネスは帰ってこないし、祠も…」
王一行がいなくなったあと、シェヘブカイはこっそり祠を訪れてみた。だが、そこももぬけの空で、祠の主までも連れ去られたように思えた。天幕の中では一体何が行われているのだろう。まさかメネスは、このまま連れて行かれてしまうのだろうか。
 ティティスとともにそう心配していたとき、表で、桶を蹴飛ばすような音と何かが倒れこむ気配があった。目をこらしながら外を覗いてみると、入り口で、人が立ち上がろうともがいているのが見えた。
 「メネス…?」
 「よう。水くれ、水」
慌てて駆け寄ったシェヘブカイは、むっとする酒気に気づいて、ちょっと顔をしかめた。
 「…酔っ払ってる?」
 「飲めと無理やり勧められてな。おれは、…あいつほど、強くはない」
 「あいつ、って」
ティティスの差し出した椀の水を一気に飲み干すと、メネスは、シェヘブカイの肩を借りて通りに面した塀の側のベンチに腰を下ろした。
 「大丈夫?」 
 「ああ。だいぶ醒めてきた。…泊まって行けといわれたが、あんなところじゃ落ち着かん。」
静かな夜気の中に、微かな花と緑の香りが漂う。すぐ隣の祠に咲く花の香りだ。顔を上げると、庭の向こうに星明りに照らされた白い壁が浮かび上がって見える。そちらの主も、今頃は戻ってきているのだろうか。
 「メネス、あの人、あんたにそっくりだった」
 「……あいつは、…おれの…一つ年下の弟なんだよ。」
それほどの衝撃もなく、シェヘブカイは、その事実を受け止めた。
 いつからか、なんとなく察していた。かつて軍人だったらしいこと、王家の血筋に連なる家に生まれたこと、跡継ぎ争いに巻き込まれるのが嫌で逃げてきたこと。――世の中に疎いシェヘブカイとて、自分たちが作っていた葬祭殿を捧げるべき王のことを何も知らないではいられない。メネスが漏らした過去の断片は、彼が、年老いた王の数多くいる妃たちのいずれかから生まれた王子の一人であることを示唆していた。
 「おれたちの母親は、早くに死んだ。ほとんど記憶もない…。もともと位の低い庶民出の妃でな。跡継ぎ候補なんざ幾らでもいる中で、おれらは殆ど見向きもされなかった。――いつか、お前にも話したことがあったっけ」
シェヘブカイは、小さく頷く。
 「…そんなこんなもあって、家を出たい一心で軍役についた。けど、あいつは要領よくて。気が付いたときには、いつのまにか跡継ぎ候補の一人にのしあがってた…。」
 「それなのに、なぜ逃げ出したの? あの人のことをずっと心配していたのに、どうして」
 「王の暗殺計画があったからさ」
溜め息をついて、メネスは額に手をやったまま小さく首を振った。 「あいつじゃないと、おれは今でも信じてる。あいつはおれなんかと違って頭のいい、女ウケもいいやつだが、後宮の女どもをけしかけたりは…。」

 "巻き込まれるのが怖かった。"

 かつて、メネスはそう言っていた。だが本当は、真実を知るのが怖かっただけかもしれない。シェヘブカイは、うっすらとそう思った。対面した時の剣を打ち合わせるような二人の会話は、互いの不審の表れでもある。信じたいと思う感情と、信じられない理性と。
 「東の砦へ行けと、――戦場に戻れと、言われた」
唐突に、メネスは言った。ぼんやりと考え込んでいたシェヘブカイは、一瞬で現実に引き戻される。
 「…承諾したわけじゃないよね?」
 「拒否できると思うのか。あれは間もなく"神王"になる男だ。次期王位継承者として存命のうちの王から指名され、同等の権限を与えられた者に命じられて、選択肢などない。…あいつは、利用できるものは何でも利用する。したいことは何だって叶える。」
諦めにも似た笑みを見たとき、シェヘブカイの胸に、ある感情が押し寄せてきた。だが、彼は黙っていた。どうしても、それを言葉にすることは出来なかった。言えば、とめどなく溢れ出してしまいそうで。
 さわさわと、草の揺れる気配がある。
 月のない夜。静かに輝く星だけが、猫の額ほどの小さな庭を、ぼんやりと見上げるシェヘブカイと、ベンチに背をまるめ、いつしかうとうととしかかっている男を見下ろしている。
 そっと戸口にティティスが姿を現した。二人が話し終えるのを待っていたのだ。
 「終わったの?」 
 「うん。寝ちゃったみたいだ。手を貸して、うちの寝台に寝かせよう」
苦笑しながら、シェヘブカイは隣で背を丸めているメネスの、自分より一回り大きな体に腕を回した。駆け寄ってきたティティスも手を添える。
 二人がかりで家の中へ連れ込んで、土間の脇にある一番近い寝台に寝かせると、メネスはそのまま、本格的に眠り込んでしまった。
毛布の下から小さないびきが聞こえてくる。ティティスは呆れ顔だ。
 「お気楽な顔してるわねぇ、まったく。散々心配かけといて」
 「まあ、…今日くらいはね」
苦笑しつつ、シェヘブカイはちらりとティティスのほうを見た。
 「話、聞こえてた?」
 「少しだけね。でも、聞かなかったことにしておく。」
 「うん。そうしてもらえると助かるよ」
シェヘブカイは、戸口ほうに向きを変え、入り口の敷居をまたいだ。
 「どこいくの?」
 「大鰐様のところ。すぐ隣さ」
<緑の館の主>も、メネスと一緒に居なくなっていた。その場に同席していたのなら、もう戻ってきているはずだ。


 白い門の入り口をくぐるとすぐ、前庭の池に咲く睡蓮の花が仄かに明るく浮かび上がって見えた。静かな夜気の中に、微かな気配が満ちている。昼間と何一つ変わらないのに、そこはまるで別世界のようだ。昼と夜。光と闇。世界は、時に応じて姿を変える。
 池の泥の中で蓮の吐き出す水滴のたてるコポコポという音。シェヘブカイは、池のほとりに目を凝らす。ほんの微かに闇が揺らいだ気がした。間もなく闇に慣れてきた目は、そこに、白い影を見とめていた。金色に輝くのは、両方の眸。けれど気配は夜の姿、左眼<イアビィ>そのものだと、シェヘブカイは思った。この世界がそうであるように、彼もまた、一つの存在の中に相反する二つの本性を持っている。
 「まずは、お礼――昼間、仲裁に入ってくれて、ありがとう」
 「ああ」
 「それから、質問がある」
 「何だ?」
 「……一緒に行くの?」
冷たい夜風が昼間の熱を奪ってゆく。長い、糸のように細い髪がゆらりと揺れる。
 「人の王には、神々の王がともに在る」
<緑の館の主>は、シェヘブカイを見つめたまま静かに言った。「人の守護者たる者は従わねばならない、そういう決まりらしい。」
 一瞬、言葉が出なかった。
 かつて悪霊とも災いとも呼ばれた存在が、今は人の守り手として責務に囚われている。それは喜ばしいとともに、忌まわしかった。そのために彼は、ここから連れ去られようとしている。口を開いたが、声は掠れて尻すぼみになってゆく。
 「でも、どうして…、こんな小さな、村とも呼べないような…土地の…」
 「どうして、だろうな。」
腕を組み、彼はちょっと空を見上げた。「…戦場は水辺だと聞く。そのせいかもしれない」
 「分かってるの? 戦場って、人を殺すところだよ。あんたは――それでいいの…?」
僅かな沈黙。
 「お前の願いには反することになる、な…」
それは酷く悲しげで、夜の姿でありながら、昼の姿の言葉でもあった。シェヘブカイは込み上げてくる熱いものを飲み込んで、俯いた。
 「戻ってくるよね、二人とも」
 「そう望むなら、勤めよう」
 「絶対戻ってくるんだ。また皆で、ここで暮らしたいよ」
守護神に願うただ一つの望み、今のシェヘブカイには不可能に思えてしまう未来。
 「シェヘブカイ、――お前の目には、今の私はどう見えている?」
顔を上げたシェヘブカイは、目じりを必死に拭いながら、闇の中に浮かんで見える、白い端正な顔をじっと正面に見つめた。星明りのせいだろうか、輪郭がぼやけて、祠の側に立つ木立が透けて見える気がした。
 「変わらないよ、何も。最初に出会った時から」
 「そうか」
ふっ、と表情が緩んだかと思うと、白い影は音もなく、暗い祠の中へと消えていった。
 <緑の館の主>が去ったあとも、シェヘブカイは、しばらくその場に立ち尽くしていた。いつかの夜も、こんな風に。――いや。
 溢れかけた涙を拭い、彼は唇をきつく引き結んで踵を返す。
 誰も、大きな流れには逆らえない。これが逃げられない戦いなら、真っ向から受けて立つしかないのだ。

 "願いは、戦って勝ち取るものだ。"

静寂の落ちる夜の聖域に、祠の主の言葉が静かに響いていた。



 翌朝、王の天幕の前には、兵士たちに引き立てられた若者たちがずらりと並べられていた。皆、湖のほとりの村や、近隣の村から連れてこられた、兵役従事者たちだ。列に並ばされ、周りを衛兵たちに囲まれている。その前では、いつか祠で見た筋肉質な役人が書類を手に、名簿を読み上げては印をつけているのが見えた。シェヘブカイやティティスをはじめとする家族や身内の人々は、遠巻きにその様子を見守っていた。一人息子をとられて泣き叫ぶ年老いた母親が、兵につまみだされようとしている。湖の村で見かけたことのある何人かも駆けつけていたが、気安く会話できる雰囲気ではなく、ティティスと視線をあわせて軽く会釈した程度だ。
 人でごったがえす中を搔き分けて、一人の衛兵がシェヘブカイのほうに近づいてきた。
 「セアンクの息子シェヘブカイだな?」
 「え、あ…はい」
 「お召しだ。来い」
誰が、とは言わなかったが、そのことが逆に、誰からの呼び出しなのかを物語っていた。有無を言わさず追い立てられ、シェヘブカイは、心配そうに見守るティティスの視線を受けながら人の輪の中に押し込まれていった。
 連れて行かれたのは、麻生地に藍と緋の糸で縫い取りをした、豪奢な天幕の前だった。そこは畑のはずれで、もとは空き地だった場所だ。天幕の先には、それを運んできたらしい驢馬が何頭か繋がれている。昨日は輿とその周りにいた人々しか見えていなかったが、若き次代の王候補の移動には、生活用品に召使、それに兵や神官、役人まで伴っていたのだ。シェヘブカイは今更のように、昨夜メネスの言った「次期王位継承者として存命のうちの王から指名され、同等の権限を与えられた者」という意味を理解した。
 さっと天幕が開き、中から見知った顔が顔を出した。
 「来たな」
 「…メネス」
 「入れ」
入り口をくぐると、ややきつい香の匂いが鼻を突いた。屋根を支える梁はがっしりとした柱に支えられて、即席で建てたとは思えない。柱には、異国から持ち込まれた高価な木材が使われていた。シェヘブカイは目を丸くして梁と梁の組み合わせ部分に目を凝らした。一体どうやって、これを持ってきたのだろう。もう一度元通り解体することができるのだろうか。組み立てているところから見られれば良かったのに…。
 奥のほうから、くっくっと低い笑い声が響いた。
 「仕事熱心なことだな。そんなに天井が気になるか? だが、それは後にしろ」
はっとして、シェヘブカイは視線をそちらに向けた。昼間から燃やされているランプの向こう、薄い垂れ幕が来客と奥の間とを隔てている。メネスのほうを見ると、彼は小さく頷いた。頭を垂れようとすると、声が制する。
 「よい。お前と少し話をしてみたかった。なんでも、この地の実りは神の加護ではない、半分はお前の力なのだとか」
 「……。」
 「問おう。お前には何が出来る? お前は本当に、この不毛の沼地<メヒ>を、豊穣の地に変えられるというのか?」
はっとして、シェヘブカイは表情を引き締めた。それは、かつて何度も繰り返した思い。胸に抱き続けてきた夢――
 この土地は、水路を作りさえすれば、川から繋がる水の流れを制御できさえすれば、もっと豊かな緑の畑を作ることが出来る。けれどそれは、一人で出来るものではない。もっと大勢の人々の協力が必要だった。今、力を貸してくれている人たちのことを考える。二人いれば二倍。三人いれば三倍。何十年もかかるかもしれない。それでも、――
 「出来ます。人手と時間さえあれば」
 「ならば、それを与えよう。お前は、たった今よりこの地の灌漑建築監督官となる」
 「監督官…え?」
シェヘブカイは、思わず顔を上げた。いつのまにかシェヘブカイの傍らに肩から書記のたすきをかけた男が一人立っていて、無言に彼の目の前に台座に載せた指輪を差し出している。金に輝石をあしらった幅広の、それは実際に指に嵌めて使うには大きすぎる、王の名を意味する環をあしらった権威の象徴だった。
 「でも僕は、何の経験も、肩書きもない、ただの…」
 「肩書きなら、今、与えたではないか」
奥からは、面白がっているような口調の声が響く。
 「出来ると申したのだ。己の言葉に偽りなくば、成し遂げてみせよ。これは王の命により行われる国家事業だ。必要なものは、その男に言うがいい。人でも驢馬でも、必要なだけ揃えさせる」
 「いいんですか?」
 「よい」
思わずメネスのほうを振り返ると、憮然とした顔で正面を向いていた男が、おもむろに口を開いた。
 「お前なら出来るとは言った。だが、もし無理だと――」
 「出来るな?」
奥からの声が重ねるように問う。
 とっさにシェヘブカイは、きっぱりとした口調で答えていた。
 「やります。」
差し出された台座から指輪を掴み取り、一つ頭を垂れる。天幕の外へ向かって歩き出す彼の後ろで、小さな笑い声が響いていた。
 香の匂いのせいだろうか、頭がくらくらする。握り締めた拳の中で指輪が重い。泣いていいのか、笑っていいのか分からない。
 「シェヘブカイ」
入り口を押し開こうとしたとき、追ってきたメネスに呼び止められた。
 「いいのか本当に。出来ませんでした、で済む話じゃないんだぞ。おれと違って、お前にはいくらでも断る口実はある」
 「なんだよ、僕なら出来るって言ったんじゃないのか? そんなに信じられない?」
 「シェヘブカイ、お前…」
 「ありがとう、メネス。あんたのお陰で、この土地は豊かになる。…これは、僕が望んだことだ。」
入り口で立ち止まると、彼は振り返った。
 「これは僕の戦いだ。僕は負けないよ、だから、あんたも諦めないで。生きて…また、ここへ戻ってきてくれ」
 「……。」
何故か悲しげな顔で微笑むと、メネスは、何も言わずに天幕の奥へと姿を消した。
 一瞬のことだった。だが、それは、いつも見せていた作り笑いではなく本当の表情だったと、シェヘブカイは思った。


 その日、湖のほとりの村と近隣の村を含め、五十名ほどの若者が徴兵され、船に乗せられて、戦場へと送られていった。
 それと同時に、王の命による灌漑工事が告知され、監督官として指名されたシェヘブカイの忙しい日々が始まった。最初にすべきことは、集められた作業者たちの住まいを作り、仕事の道具を集めること。そして、手をつけるべき地点の決定だった。
 地形を確かめるために昼も夜も歩き回り、覚え書きを記した蝋引きの板を前に何度も検討して忙しく過ごしているうちに時は過ぎ、半月が過ぎようとする頃、王が亡くなったという報せがもたらされた。王の死に伴って王宮で陰謀があったという噂が流れたのは、そのすぐ後のことだった。それは、暗殺を企てた王妃と高官何人かが処刑されたとか、王位の簒奪を企てた王子たちが遠方へ送られたとかいうものだった。だが、それはあくまで噂であって、誰も真相を知りはしなかった。
 やがて、もう一つの噂が流れてきた。
 東の国境近くの砦で侵入してきた異国の軍勢と大きな戦闘が起き、防衛軍は、多くの死者を出しつつも勝利したという。


 それは、その年の氾濫が本格的に始まろうとする季節の少し前――水路の工事が本格的に始まろうとしている時のことだった。


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