■第三章/黄金の鷹-9


 季節は過ぎ、実りの時が近づいていた。
 去年ほどではないにせよ黄金色の穂が隙間なく揺れる畑を前にして、シェヘブカイはほっと胸を撫で下ろしていた。一番暑い時期、枯れることなく育ってくれたのが幸いだった。香ばしい香りの漂う畑に手を伸ばし、穂を引き寄せる。触れた指先には、産毛を纏う丸々とした実の感触があった。大渇水の年でもこうして収穫の時を迎えられる、自分の設計した水路が正しかったことを知り、誇らしい気持ちとともに、大地と穀物の神に、そして豊穣をもたらす<緑の館の主>に、感謝したい気持ちで一杯になる。
 だが、豊作を心から喜ぶことは出来なかった。刈り入れの時が近づく前かに、近隣の村や町が、ひどい不作に陥っていたことが分かっていたからだ。
 「どうして、ここだけ前年通りなんだね?」
噂を聞きつけてやってきた湖のほとりの村人たちは、口々にそう言った。「王の命により、今年の納税額はどこも半分だ。お前さんのところは、半分にする必要もないじゃないか」やっかみの宿る口調で、そんなことを言う人もいた。「わしらは、半分ですら納めきれんというのに…。」
 周囲から向けられる様々な眼差しは初めてのものばかりで、こんな時どうすればよいのか、シェヘブカイには分からなかった。けれど、彼には自分の手で治水工事をやったという自信があった。何もせずに他者に頼って祈ってきただけではない。
 「水路を作ればいいんです。湖のほうだって、同じことが出来ます。増水のない年には足りない水を引けるし、多すぎる年には排水にも使える、そういう水路を…」
半信半疑で聞く人、笑い飛ばす人もいた。だが、中には真面目な顔をしてシェヘブカイの言うことを聞いてくれる人もいた。そうした人たちは大抵、湖の中心部から少し外れた場所に住む、元々あまり収穫量の望めない畑の持ち主や、最近になって他所から移住してきた人々だった。
 「祟りだかご利益だか知らねえけんどもよ、食ってけりゃあ、なんだっていいのよ」
一人などは、いともあっけらかんとして、シェヘブカイにそう言った。
 「わしらの畑はだめで、あんたんところの畑はたっぷり実っとる。重要なのは、それだけよ。」
後に分かったことだが、この年の不作は、始めにシェヘブカイの考えたよりもずっと深刻なものだった。水辺から遠すぎて麦がみな枯れてしまい、ほとんど実りがない家もあると聞いて、シェヘブカイは、刈り入れの手伝いを募集した。人手のかかる刈り入れを手伝ってくれれば、その中からいくらかを謝礼として渡すというものだった。これには、湖の村から大勢の家族が飛びついてきた。シェヘブカイは、苦労してその中から十人ばかりを選んだ。
 そうして、その年の刈り入れは、前年より畑の面積が増えていたにも関わらず、半分ほどの日数で終えることが出来たのだった。


 刈り入れの終わった畑には、季節の変わり目を告げる砂交じりの風が吹きはじめていた。
 収穫を終えた後も、刈り入れを手伝ってくれた何人かはずっと集落に居続けていた。シェヘブカイから水路づくりのコツを学びたいというのだった。それならと、シェヘブカイも彼らに、自分ひとりでは出来そうに無かった工事を手伝ってくれるよう頼んだ。それは、川から沼地へ流れ込む水路の拡張だった。
 なぜ畑から遠いそんなところを掘るのかと最初は訝っていた人々だったが、工事を初めてみると、彼が何をしようとしているのかが飲み込めたようだった。深く掘り進むほどに、水は、川から沼地へ、沼地から続く畑の水路へと、勢いよく良く流れるようになるからだ。最も効果的に水の流れると思われる場所を選んだとはいえ、シェヘブカイとしても、自分の地形の読みが外れていなかったことを知って、ほっと胸を撫で下ろした。
 そうして来る日も土を掘り、水路を固める作業をしていたある日のこと、作業を任せて先に家に戻ってきたシェヘブカイは、沼地沿いの道を、羊を引いてとぼとぼと歩いてくる一団に気がついた。
 「こんにちは。」
 「やあ、こんにちは。」
それは、十頭ほどの羊を連れた家族のようだった。先頭をゆく年老いた男も、後ろに続く少年たちも、表情は暗い。
 「どこへ行くんですか」
 「町へ、羊を交換にいくんだよ。今年は不作で、来年まで食べていく麦がないんでね」
シェヘブカイは、驚いて手を止めた。
 「麦がないって…税は半分になったって聞きましたが」
 「それで全部だよ、ほとんど全部だ。」
声を荒げて両手を掲げ、男は悲鳴のような声で言った。「わしらのなけなしの実り、ほとんど全部持っていかれたんだ。あの役人ども。魚も上がってこんし、一体どうしたら…」
 騒ぎを聞きつけて、カイエトがやってくる。ちょうど訪ねて来ていたらしいティティスも一緒だ。あら、と声を上げたのはティティス。
 「サトさんとこのおじさんじゃない。どうしたの」
 「おお、レニセネブの娘か。どうもこうも、羊を売らにゃ食っていけんのだ。湖のあたりはどこの家も不作で、うちなんか一番ひどい。このままじゃ、来年までもたんのだ」
 「町で交換してもらうつもり? ほかの村も不作だったら、交換してもらえないかもしれないわよ。交換してもらえても、足元見られちゃうじゃない」
 「構わんさ、飢え死にするよりゃマシだ。」
十頭の羊は、男の財産の中で価値あるものの大半を占めるはずだ。それは、飢えへの恐れに対する本気の表れだった。
 「そんな、それじゃ来年からどうするのよ。ねえ、シェヘブカイ」
 「うん、もし良ければ少しなら、うちのをわけてあげられるけど…」
男は、表情を強張らせ首を振った。
 「そりゃあ駄目だ。大鰐の災いがふりかかっちまう」
 「何を言ってるんですか」
カイエトが、声を荒げて男をにらみつけた。「そんなつまらない意地みたいなもので、自分の家族や子供たちにひもじい思いをさせるんですか? 大鰐様が、あなたに何をしたっていうんですか!」
 「何もだ。何もな、そう、今まで一度だって、何もしてくれたことはない」
男も頬を紅潮させ、言い返す。「つい最近ここへやって来たばかりの若造に出戻り娘が、二人して知ったような顔をして。村の衆を何人もたぶらかして、一体何を始めるつもりだ、えっ? お前たちに何が出来るって言うんだ。こんな…こんな…」
 「やめてよ、二人とも」
ティティスが割って入る。「お願いだから。そんなふうに言い合わないで、ね? あたしは、ただ好意で言っただけなの。無理強いするつもりはないわ。おじさんの好きなようにすればいいのよ。」
 「…ふん」
少女を押しのけるようにして、男は、あからさまに不機嫌な顔をして足早に通り過ぎていった。後ろには、困惑した顔の少年たちと、白黒の毛皮に覆われた羊たちの群れが続く。通り過ぎるとき、奥さんらしき女性がちらりとティティスのほうを見て、スカーフに覆われた頭を小さく下げた。シェヘブカイは、沼地沿いの道を重い足をひきずりながら遠ざかっていく一団が、小さくなるまで見送っていた。侮辱されたという怒りは沸いてこなかった。男の声には、追い詰められた者の必死さと諦めとが、同時に入り混じっていた。
 「悪い人じゃないんだけどね…」
振り返ると、ティティスが土手を降りてきていた。
 「カイエトさんは?」
 「腹たてて戻って行っちゃった。彼女、本気で大鰐様を信じてるのね。」
ちょっと肩をすくめ、それから、祠のほうを振り返った。
 「でも意外。皆、鰐の呪いだなんて、本気で言ってるのかしら。前はただの石ころだなんて思ってたくせにね」
 「石ころっていわれるよりは、祟りがあるって言われるほうがマシだね。確かに」
笑って、シェヘブカイも祠のほうに視線を向け、――思わず、目をこすった。
 「ん、どうしたの」
 「いや。…」
見間違いだったのだろうか。一瞬、祠の屋根の上に人がいたような気がしたのだ。いた、というよりも、舞い降りたというほうが正しいのか。
 ふいに何かに思い当たって、シェヘブカイは周囲を見回した。
 「そういえば、今日、メネスは?」
 「さあ、朝から舟出してたみたいよ。レキも一緒だったから、魚か鳥を獲りにいったんじゃない? どうしたの?」
 「いや、ちょっと…。あ、これ家に戻しといてくれないかな」
手にしていた鋤と籠をティティスに押し付けると、彼は、後ろから追いかけてくる声にも応えずに、水辺の道を祠に向かって走り出した。
 胸騒ぎがした。


 祠の主は、前庭の池のほとりに立って水の中に自らの姿を映していた。いつの間にか生え出した睡蓮の葉の下に、魚たちが泳ぐ影がちらついている。その合間の水面に、白く揺らめく影。声をかけようしたとき、シェヘブカイは、水面の白い影の隣に微かに、もう一つの姿が写りこんでいることに気が付いた。
 はっきりとは見えなかったが、それは、若い男のように思えた。だが、見られているのに気づいたのか、その影はすぐさま水面を離れて姿の映らないところに隠れてしまった。姿は見えない。だが、確かに何かの気配が動いた気がした。
 <緑の館の主>は、視線を上げた。
 「…どうした」
 「あ、ううん。誰かが祠に降りてきたみたいに見えて。それが…その、見えないけど、えっと…」
 「メネスの守護神だ。」
端的に、かつ明確に、<緑の館の主>は答えた。シェヘブカイは、微かな羽ばたきの音を聞いた気がした。<緑の館の主>の視線からして、鷹は、祠の入り口に出っ張ったひさしの上に座を構えたらしい。
 「報せを持ってきた。間もなく、来訪者があるらしい」
 「来訪者?」
 「面倒だな」
一つため息をつくと、<緑の館の主>は祠の入り口のほうに向き直った。と同時に、集落のほうで小さな叫び声と、誰かの騒ぐ声とが聞こえた。
 シェヘブカイは、慌てて祠を駆け出した。声は、家のほうからではなかった。騒ぎが起きているのは沼地と土手の間の道で、遅れて戻ってきた水路掘りの人々と、身なりのいい兵士たちとがもみ合っている。その騒ぎの中に、シェヘブカイは、メネスの姿を見つけた。逃げようとするところを縄をかけられ、兵士たちに押さえつけられている。
 「メネス!」
叫んで、シェヘブカイは駆け出した。走りながら、足元の石をひとつ、拾い上げる。まさか、彼がここにいるのを知った誰かが連れ戻しに来たのか。
 行く手でメネスは、二人がかりで押さえつけられながら抵抗している。既に二人ほど道端に伸びているのは、最初に飛びかかったのをメネスが投げ飛ばしたせいらしい。そこへ水路掘りから戻ってきた人々が、わけもわからないまま加勢に入っているのが、混乱に拍車をかけていた。
 「メネスを離せ!」
シェヘブカイの声を耳にしたメネスが、はっとして顔を上げた。
 「よせ! こいつらは…」
石を投げつけようと手を振り上げたとき、シェヘブカイの動くより早く、すぐ側で水がざわめいた。
 ざ、ざ、ざ、と大きく水辺の草が揺れる。白い尖ったものが高く空中に跳ね上がるのが見えた。そして次の瞬間、シェヘブカイとメネスの間の空中に、真っ白な鰐の巨体が踊りだしていた。
 「――うわああ!」
大きく口を開いた鰐に腰を抜かして倒れこむ一人。驚いてメネスを押さえていた二人の腕の力が弱まった。隙を突いて、メネスは拘束を脱して地面を転がる。追いかけようとした二人の前に、円弧を描いて地面に下りた尾が、どすん、と重たい音とともに土ぼこりをたてた。
 「ひ、ひぃっ」
腰を抜かした兵士たちは、ぎらぎら光る金色の双眸に睨まれて、一瞬で戦意を喪失している。鋤をふりまわして暴れていた人々も、ぽかんとして地面にへたりこんだまま動けない。
 低い声で、メネスが言った。
 「みんな、落ち着け。誤解だ」
溜め息をつき、服を払いながら立ち上がると、ぽかんとして石を握り締めた手を翳したままなシェヘブカイのほうも振り返る。
 「お前もだ。そんなもの捨てろ」
 「え、ああ、…うん。でも…」
石を握った手を下ろしながら、シェヘブカイは辺りを見回した。気がつけば白い鰐の姿はなく、水辺には小さな泡が二つ三つ残っているだけ。残されているのは、気絶して転がっている五人の男たちだけだ。みな同じ服装をして、腰には立派な剣を下げている。
 「メネスを捕まえにきたのかと思って…。っていうか、ずいぶん身なりのいい兵だね」
 「そりゃそうだろ。王家の衛兵だし」
 「は?」
シェヘブカイは、思わず聞き返した。
 「衛兵? 王家の?」
 「そう。やれやれ、大鰐様が仲裁に入ってくれなきゃ、お前たち全員反逆罪で牢屋行きだったぞ」
冗談とも思えない口調で言い、彼は、川から続く道のほうに眼差しを向けた。ゆっくりとその道をやってくる輿がある。陽よけの御簾がかけられて、乗っている人物の姿は見えないが、日脇には扇もちを伴い、香を捧げもつ神官と、さらに大勢の衛兵を引き連れている。メネスは避けようともせず、道の真ん中に立って挑みかかるような眼差しをそちらに向けていた。
 輿が止まる。
 先導していた神官が、奇妙に取り澄ました甲高い声で、周囲に告げた。
 「王陛下の御前である。皆、礼を尽くせ」
わけもわからないまま、農民たちは鋤や籠を投げ捨てて地面に平伏する。シェヘブカイも、慌てて地面に頭を垂れようとする。だが、メネスは動かない。挑むような眸を御簾の奥に向けている。御簾の奥の人影も無言のまま―― じりじりと、時間だけが過ぎてゆく。
 「そなたもだ」
ようやく、精一杯威厳に満ちた口調で神官が言い、メネスは、表情を変えないまま形だけ顔を地面に向けた。
 「それで? こちらにおわしたのは、いずれの王陛下でしょうや。今、この国にはお二人の生けるホルスが座しているとか?」
 「問いは認められていない。そなたは答えることのみ求められている」
 「よい」
輿の中から若い声がして、御簾の上がる音がした。思わず顔を上げたシェヘブカイは、危うく声を上げそうになるのを懸命にこらえた。そこに在った顔は、――彼のよく見知っている顔にほとんど瓜二つに思えたからだ。メネスが複雑な表情を浮かべるのが分かった。肩が、かすかに震えた。
 美麗な装束で着飾った御簾の上の男は、杓杖を片手で弄びながら、もう片方の腕を肘掛に置き、うっすらと笑みを浮かべている。
 「二重の意味で面白いものを見せてもらった。噂の大鰐――それに鷹のほうも、爪は衰えていないようで何よりだ」
神官の指示で、後から来た衛兵たちが伸びている仲間たちを担ぎ上げ、腰を抜かしたままの者を立たせて、どこかへ連れていく。メネスは答えない。ふいに視線が自分のほうに向けられるのを感じて、シェヘブカイは慌てて頭を下げた。
 「して、そのほうが、セアンクの息子シェヘブカイとか申すものか」
 「は、はい」
 「葬祭殿の災いを収めたという話は聞いている。その後、"白き大鰐"をここに祀ったという話もな」
声は、輿の上の遠いところから降って来るようだった。「何でも、不作の年でもこの辺りの畑だけは普段どおりの実りがあったとか。」
 「まさか、そんな噂を確かめに来たわけではないのだろう?」
 「これ」
神官の咎めるような叱責も、メネスは無視した。
 「――王は倒れられたと聞いた。ご無事なのか」
 「生きてはいらっしゃる。だが、もう起き上がることもままならぬ」
さらりと、輿の上の男は言う。頭を垂れているシェヘブカイにはメネスの表情は見えなかったが、彼がどんな顔をしているのかは、声の調子から想像できた。
 「何故、倒れられた?」
 「鷹もいずれは老いる。葬祭殿は間もなく完成する。葬儀には間に合うだろう」
 「共同統治者とはどういうことだ。王が存命であるうちに、もう一人の王が立つなどと…」
 「以前はなかったこと、か? だが、今は在る。それが必要だからだ。玉座の確実な継承のためにな」
まるで剣と剣を打ち合わせるような会話だ、とシェヘブカイは思った。二人は良く似ているのに、雰囲気は全く違う。メネスは直も問いかけたいようだったが、輿の上で動きがあり、神官が高らかに告げた。
 「陛下は祠に行かれることを所望されている。下がれ」
 「……。」
がちゃがちゃと武器防具のこすれる音がして、衛兵たちが傍らを通り過ぎてゆく。道の脇に避けたシェヘブカイの隣に、憤然とした表情のメネスが引っ張って来られた。ちらりと見上げると、彼は今にも爆発しそうな感情を堪えているかのように、きつく口を結んだまま、ただ一点を見つめていた。
 そしてそれは、シェヘブカイが見たメネスの、その日最後の姿になった。その後は、――シェヘブカイたち無関係な村人は、兵士たちに追い立てられるように、土手の向こうへ追いやられてしまったのだ。



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