第三章/黄金の鷹-8


 葦舟を乾いた土手に縁につけようとしたちょうどそのとき、シェヘブカイは、土手の上で大きく手を振っているカイエトの姿に気が付いた。何やら様子がおかしい。口をぱくぱくさせて、何か行っているようだが、距離が遠すぎて聞き取れない。
 舟から飛び降りたシェヘブカイが土手を上がってゆくと、カイエトの後ろから半べそをかいたレキとスィトがついてくる。
 「どうしたんですか」
 「ああ、今、今ね、お役人様が来てて…。」
うろたえた様子のカイエトが、震える指で祠のほうをさす。「待たせてもらうって、"大鰐"様のと、ところに。」
 「落ち着いて。用件は? 一人なの?」 
 「わかりません。名簿を確かめに来たって…シェヘブカイさんに用事みたいなんです。それ以外は聞いてなくて…。どうしよう、もし…もし…」
カイエトの取り乱しぶりから、嫌な予感がした。シェヘブカイは、後ろから土手を上がってくるメネスにちらと視線を向けた。
 「ここにいて。関係ないかもしれないけど、念のためメネスをどこかに隠してくれる? 用件は、僕が聞いてくるよ」
 「わ、…かりました」
言い残して、足早に祠へと向かう。祠の主は先に戻ってきているだろうか。漆喰で塗り固めた白い壁に近づくにつれ、中から人の話し声が響いてくるのに気が付いた。一人ではなさそうだ。
 入り口をくぐると、白い布を肩からかけた書記が振り返った。見覚えの無い顔だった。前に年貢の取立てにきた役人とは違い、小太りながら筋肉質な身体をしている。
 「失礼、何か用と伺いましたが」
 「お前が村の代表、シェヘブカイか」
 「はい。ご用件は…」
書記は素早く書類の巻物を開くと、そこに記された何がしかと彼とを見比べた。 
 「この集落の住人を確認に来たのだ。家は三軒あった。住人は男が二人に未亡人と子供二人、間違いないか」
 「そうです。それだけのために、わざわざ?」
 「王の命により、近隣すべて徴兵の義務が課せられた。」
唐突な言葉は、一瞬、シェヘブカイの次の言葉を詰まらせた。それは、予想していた、どれとも違う用件だった。
 「――して、この村には男が二人、聞けば片方は弓矢を嗜むとか」
 「見習いで猟をする程度です。今も鳥を撃ちに…でも困ります。男手は二人しかいないんです」
シェヘブカイは、必死で言い返した。「半分も取られてしまっては、今年の収穫に差し支えます」
 「どうせ今年は収穫できるものなどない」
護衛だろうか、書記の傍らにいた兵士の一人が、口の端を吊り上げて諦めにも似た表情でせせら笑った。「男手があろうと、なかろうと」
 「ここは違います」
シェヘブカイは、その男を睨みつけて言った。「他所がどうだろうと、ここだけは今年も実りますよ」
 「ほう、何故?」
 「春が過ぎれば分かります。」
 「まさか、そこの祭壇に積み上げてあった石の欠片にご利益があるなどとは言うまいな」
 「……。」
兵士の顔に浮かんでいた薄ら笑いは、シェヘブカイの真剣な眼差しの前でゆっくりと消えていった。しん、とした沈黙が落ちて、兵士は居心地が悪そうに周囲をちらちらと見回した。まるで、今まで何も感じていなかった白い壁の中に何者かの気配が満ちていることに、唐突に気づきでもしたように。
 書記は、静かに笑みを浮かべて巻物をもとどおり丸めた。
 「まあよい。ここは単独の村とは数えられていないのだ。必要な人数は、湖のほとりの村で揃えればいいだけでな。」
その口調は拍子抜けするほどあっさりしたもので、最初から、メネスを連れていくつもりなどなかったようだった。彼は振り返ると、背後に建つ祠の薄暗い入り口を見やった。
 「この建物は、お前が建てたそうだな。」
 「ええ」
 「若いのに、良い腕だ。――ここに住処を与えられた者も、さぞかし喜んでいるだろう。」
その口調に、シェヘブカイはかすかな違和感を覚えた。
 「ここの祭神は、大鰐だと聞いた。かつては太陽神の加護に守られた王の葬祭殿を荒らした"厄災"だったとか」
シェヘブカイが訂正しようと口を開くより早く、男は、自らの語尾に重ねるように言った。「――その神がいかに"ご利益"をもたらすことが出来るのか、楽しみにしている」
 巻物をしまいこみ、男は、左右の護衛らしき兵士たちにいくぞ、と声をかけた。はっとして、シェヘブカイは出て行こうとする一行に後ろから声をかけた。
 「あの。…待ってください、徴兵ってことは戦争が起きているんですか? 行き先は、南の水源の…国境ですか?」
役人は参道の入り口で足を止め、振り返った。
 「いや。東の国境だ」
それだけ言うと、男は時間に追われる多忙な役人らしくすぐさま向きを変え、言葉をなくしているシェヘブカイをその場に置き去りにして、視界から消えていった。


 祠のほうからシェヘブカイが戻ってくるのを、カイエトは、手もみしながら今か今かと待ち構えていた。
 彼が浮かない顔で戻ってきたのを見て、眉をぎゅっと寄せた。
 「何を言われたんです? よくないことですか」
 「メネスは? どこにいる」
 「ここだ」
上の方から声がした。見上げれば、カイエトの家の屋根の上からメネスがひょいと顔を出している。
 「どこに隠れてるんだよ」
 「しょうがねえだろ、隠れろって言われたって、とっさにここしか思いつかなくてさ」
そう言って、彼は身軽に地面に飛び降りてきた。
 「で、何の用事だった」
 「徴兵だって。ここには男は二人しかいないって言ったら勘弁してくれたけど、奥の湖から必要な人数を連れていくって。」
メネスの表情が硬くなる。
 「南の国境か」
 「そう聞いたら、違う、東の国境だって」
シェヘブカイは、声を震わせた。「…そこには、兄さんがいる」
 カイエトの表情も曇った。「私の夫がいた砦も東の国境だったわ」
 「……。」
メネスは、肩にかけていた弓を下ろして難しい顔で腕組みをした。
 「どう思う?」
 「長引くかもしれんな。南と東、どっちでも揉め事が起きてるなら」
言ってから、不安そうなシェヘブカイの顔を見て小さく笑う。「なに、そんな顔するな。戦はいつかは終わる。兵役に連れて行かれずに済んだだけでも在り難いじゃないか。お前の兄貴も兵士じゃないんだろう?」
 「心配してるのは、あんたのことだよ、メネス。」
わずかな沈黙が落ちた。それは、さっき舟の上で話していたことだった。
 停滞した不穏な空気を打ち払うためか、ふいにカイエトが明るい声で言って手を叩いた。
 「そうそう、さっきいただいた鳥ね、うちで料理していいかしら? おいしいスープを作るわよ」
 「ああ、それはいいな。」
メネスも応じる。今日の獲物の鳥は、まとめて縛られた状態でメネスの弓筒に吊るされていた。メネスはそこから一羽だけ獲物を抜き取って、残りをカイエトに手渡した。
 「どうするの、それ」
 「ん、お供え。一応な」
彼は畑の向こうの祠に顎をしゃくった。ああ、という顔でカイエトは頷く。だが、シェヘブカイは意外だった。彼が自分の手で獲ったものを祠に持って行くのは、これが初めてのような気がしていた。
 カイエトと別れ、祠に向かって歩く道すがら、メネスは何か考え込んでいるようだった。その彼がようやく口を開いたのは、シェヘブカイの家とメネスの家への道が分かれる辻、つまり祠の外周のすぐ側まで差し掛かった時だ。
 「――その役人、大鰐の祠で何してた?」
 「何、って。僕が行ったときには、前庭で何か話してたけど…」
 「そいつは祠の中身も見たのか」
 「うん、砕けた石が…とか言ってたし。大鰐ってことも知ってた。どうしてそんなことを?」
 「召集がかかるのは、おれじゃなくて、そっちかもしれないってことだ。人間の兵は王が徴兵するが、守護神は神々の王が召集する。あの"大鰐"様の力は、放っとくには惜しい」
 「……?」
一瞬のち、言われている意味を理解したシェヘブカイは驚愕した。
 「どういうことだよ。行く先は戦場なんだろ? 戦神でもないのに…!」
 「なに言ってる。水源の結界を守る南の国境の神々ってのは、みんな豊穣神だぜ。豊穣の神の多くは戦いの神でもあるんだ。そして鰐は、"水に棲むもの"たちの中で最も強い。――違うか?」
うろたえるシェヘブカイの前で、メネスは驚くほど冷静だった。手に獲物をぶらさげたまま、白い壁をくぐり、参道の奥へ歩いてゆく。彼はすぐに、祠の中にゆらめく白い影の前に立ち止まった。後から追ってきたシェヘブカイも、それに気づく。
 「――幾らなんでも手際が悪い。南の国境より先の街道は兵士たちに守られてる。だのにアブの町の守護者が動いたってことは、それら砦が破られて、アブまで攻め込まれているということ。何故だ? 秩序を守る守護者たちは、戦の神々は何をしている? あの程度、とっくに抑えられてもいいはずだ」
喧嘩腰にさえ聞こえるメネスの問いかけは、いつになく切羽詰っているように聞こえた。かすかな空気の流れを感じて、シェヘブカイは意識を凝らした。この気配は…いつもの<緑の館の主>とは違う。これは、どちらかといえば夜の姿だ、
 「何故と、それを問うのか、戦場から逃げ出した者が。」
静かな、だが威圧するかのような声と気配の前に本能が恐れを成す。振り返った白い面立ちの真ん中に輝くのは、左の眼だ。一歩あとすさって、メネスはその前にがくりと片膝を付いた。圧し掛かるような気配に今にも押しつぶされてしまいそうに見えた。
 <緑の館の主>は重ねて続ける。
 「お前は戦える両腕を持ちながら、羽ばたくことを止めたではないか。与えられた道から外れ、鶉のように生きることを望んだのではなかったのか?」
 「しかし、…他にも鷹はいる。王もまだ健在のはずだ」
 「それも、数ヶ月前までのことだな」
 「?!」
メネスは、弾かれるように顔を上げた。その表情に浮かんでいるのは、驚きではなく恐れの色だった。
 「王は倒れた。共同統治者という名で、指名された後継者が既に王権をふるっているという。…だが、…巧くはいっていないようだな。」
 「…巧くいってない? 何故…一体何が起きている?」
 「さあ。私が知っているのは、ここまでだ。道を選ぶのはお前自身だ。」
そう言って眸を閉じると、白い影は静かに闇の中に溶けるように姿を消す。
 「待て」
闇の中に伸ばした片腕は、空しく宙をかく。
 「待ってくれ。どうして…、あいつは一体…」
咳き込むように背中が震え、青年は背を丸めて床に突っ伏した。喉の奥で息がつまるような音がした。
 「メネス」
慌てて駆け寄ったシェヘブカイは、メネスを抱き起こし、背中をさすった。
 「こんな…げほっ、こんなこと…」
 「メネス、落ち着いて」
メネスは荒い息を継ぎがら、胸を押さえている。いま<緑の館の主>が告げたことの半分もシェヘブカイには理解できなかったが、こんなに取り乱すほどのことだったのか。それに、まだ昼間なのに、どうして左眼<イアビィ>が出てきたのだろう。豊穣と暴力の相反する二つの顔。戦場…戦神…、鷹…。
 唐突にシェヘブカイの前に、ある一つの答えが浮かんできた。
 「そうか、メネス、あんたは…。」
 「…呪われてるようなもんだ、全く」
少しずつ呼吸が落ち着いてきた。胸を押さえながら顔を上げたメネスは、おぼろげな眼差しを祭壇の上の砕かれた神像と、その背後の壁とに向けた。その表情は、まるで、死を宣告された病人のように白く血の気を失っていた。
 「おれの望みは、そんなに忌まわしいものだったのか? なあ。どうしてだ―― おれなんか居なくても変わらないはずじゃなかったのかよ…」
シェヘブカイの手を振り払うようにしてふらりと立ち上がったメネスは、挑みかかるような口調で言いながら、獲物の鳥の首をつかんで祭壇に向かって突き出し、虚空をにらみつけた。
 「義務? それが義務だっていうのか。いいだろう。何処までもついてくるというのなら、そのふざけた両眼が見えなくなるまで戦わせてやるとも。だが、その先には何もないぞ。――おれの望みは分かってるんだろうな、ネジェフ!」
風が動く気配がした。だが、シェヘブカイには何も見えない。振り返ると、メネスは鳥をそこに置き去りにして、とっくに祠を出ようとしていた。
 生暖かい気配とともに、見えないものが祭壇の傍らに降り立つのを感じた。聞こえない羽ばたき、長く飢えた時の果てに、ようやく獲物にありつく何者かの気配。
 (天空神、黄金の鷹――王の血筋の守り神、<ホルス>…)
シェヘブカイは、心の中で呟き、そっと目を伏せて入り口のほうに向き直った。
 メネスが逃げたかったものが何だったのか、少しだけ分かった気がしたのだ。だがきっと、それは簡単に逃げられるようなものではない。
薄暗い祠から出ると、眩しい日差しに目がくらんだ。思ったより長いこと、中に篭っていたらしい。自然と肩の力が抜けて、シェヘブカイは、自分でも意識しないうちに緊張していたことを知った。


 メネスを追って参道を歩き出そうとしたとき、ふと花の香りに気づいて彼は足を止めた。そして何気なく滑らせた視線の先に、――いつもの低位置に、のんびりと横になっている白い姿に気づいて、思わず声を上げた。
 「うわっ」
 「何を驚いている」
 「だって、さっき祠の中に…」
開いた口が塞がらなかった。木陰にもたれかかるようにして"だらしなく"寝そべっている青年からは、ほんの少し前の"神様らしい"威厳も威圧感も消え、気が付かなければふんづけてしまいそうな、のんびりとした気配だけを纏っている。光を宿しているのはいつもと同じ右の眸のほうだけで、左眼は暗いままだ。
 気安い雰囲気につられるようにして、シェヘブカイは、近づいて<緑の館の主>の顔を覗き込んだ。
 「どうした」
 「その眸、ほんとは、もう両方見えるんじゃないの」
<緑の館の主>はかすかな笑みを浮かべたが、疑わしげなシェヘブカイの言葉を否定はしなかった。
 「見えすぎると、困ることもある。」
良かった、いつもと変わらない。ほっとして、シェヘブカイは隣に腰を下ろした。
 「さっきは、どうしてあんなことを?」
 「そろそろ限界だった。ああでもしなければ、…あの守護者は消えていただろう」
そう言って、白い青年は視線をちらと祠のほうに向けた。
 「私では、守ってやれない。あの者には自分の守護者が必要だ。」
 「メネスの守護神のこと? それで…メネスを守るために?」
<緑の館の主>は小さく頷いた。
 「逃げるだけでは、望むものは得られない。願いは、戦って勝ち取るものだ。――この世界は、そうやって出来ている。」
眸を閉ざし、再び眸を開いたとき、その金の輝きは、どこか遠く空の彼方を見つめていた。
 「…戦いが始まる。人の世と、人ならざるものの世界の両方で、混乱が起きている。この戦いは長引くだろう。いずれ…」
言葉は途切れ、シェヘブカイは、胸に不穏な余韻を覚えた。
 メネスが危惧していたことは、本当なのかもしれない。
 いずれ遠からぬ日に、<緑の館の主>が、何処かへ召ばれる時が来るのだと。


前へTOP次へ