■第三章/黄金の鷹-7


 夏の暑さが増し、太陽の照る時間が一年で最も長くなる季節がやってきた。
 異変には、すぐに気がついた。氾濫の季節<アヘト>が始まったというのに、水路に入ってくる水の量が少なく、水位がほとんど上昇しない。母から聞いた神官たちの予言は、どうやら確かなようだった。
 水位を計るため、シェヘブカイは土手の一部を切り崩して、石の段をつけた階段状の水位計を作っていた。その土手に続く道を歩いていると、水際の木立からナツメヤシを収穫していたカイエトがシェヘブカイに気づいて目で会釈した。スィトも一緒だ。足元の籠には黄色い実がいっぱいに摘み取られている。
 汗を拭いながら、彼女は言った。
 「水位計を確かめに行くんですか? さっき見てきましたが、昨日から上がってませんよ。むしろ蒸発して、下がってます」
 「本当に? あれからまだ下がったなんて」
 「一体どうしたんでしょうね。これじゃあ、今年はどこの村も大変でしょうね」
カイエトの口調に悲壮感がないのは、シェヘブカイたちの畑は水路があるおかげで、増水で水位が上がらなくてもなんとか畑全体を潤すことが出来るからだ。だがそれでも、去年ほどの豊作は見込めまい。
 シェヘブカイは、土手を越えて沼地の水辺リに降りてみた。濁った緑色の泥が岸辺にこびりつき、乾きかけた澱みの中に泡が浮かんでいる。水位計は、わずか下のほうの数段だけが水に浸されていた。容赦ない太陽の光にじりじりと焼かれ、このなけなしの水さえも干上がってしまいそうだ。――これでは、氾濫だけに頼っている下流の浅瀬の集落は、今頃大騒ぎだろう。
 シェヘブカイの脳裏に、ふと、奥の湖の村のことが過ぎった。
 いつだったか、ティティスと一緒に訪れたとき、あの村は水路を整備して流れを安定させればもっと畑が作れるのにと思った。不安定な流れのせいで家々は狭い「亀の背」に縛り付けられ、そこでさえもひどく不安定な暮らしをしているように見えたからだ。
 湖から水路を引けば、今年のような水位が低い年でも不作に悩まされずに済む。だが、あの村では誰も、そのことには気づかないままだろう。おそらく今頃は、どうしていいか分からずに悲嘆に暮れているはずだ。
 (…僕は、一体何を考えているんだ?)
浮かんできた思いを振り払うようにシェヘブカイは首を振った。あの村の人々は、<緑の館の主>を捨てて去って行った。願われてもいないのに、助けが必要だろうか。
 (でも僕は、…僕自身は、あの人たちに何の恨みもない)
逡巡するたび、村を訪れたときに立ちふさがった挑むような目をした老婆の姿が蘇ってくる。射るような眼差しとともに発せられた言葉も。


 家に戻ると、日干し煉瓦を積み上げてある側でメネスが待っていた。弓矢と投げ縄を持っている。
 「よう、舟を出さないか。水鳥を撃ちに行こう」
 「今から?」
シェヘブカイは、呆れたように青年を見やった。「今年は大不作かもしれないっていう時に」
 「焦ったところで、川の流れはどうにもならん。一日くらい付き合え。お前は働きすぎだ、色々とな。」
 「……。」
ため息をついて、彼は渋々と頷いた。確かにメネスの言うとおりだ。出来ることといったら、今ある水路を少しばかり掘り下げて、水を汲み上げやすくることくらいだ。
 背の高い草を押しやりながら葦舟を漕ぎ出すと、茂みの中で鰐たちが動いた。がさがさと茂みが揺れ、こちらを見ている。だが、襲ってはこない。何匹かは浅瀬にいて、ちょうど魚を飲み込んでいるところだった。ほとんど水位が上がってこないとはいえ、流れは川から沼地へと向かって流れている。魚たちも、その流れに釣られて幾ばくかは沼地へ入り込んでいるのだ。
 「"大鰐"様も、今日はお出かけだな」
 「そうなの?」
 「さっき覗いてみたが、もぬけのからだった」
周囲の風景を眺めながら、メネスは、気楽なふうで櫂を手にしている。舟のこぎ方を覚えたのは、つい先日のことだ。それも最初は、力任せに漕ぎ過ぎて、盛大に転覆させた。初めは漁もそうだった。網を破くほど引っ張ってしまう癖が抜けず、何度もカイエトに謝っては網をつくろってもらっていた。メネスは見た目より力が強い。そして、力加減が下手だ。人に向き不向きというものがあるのなら、このメネスにとってはごく普通の庶民の暮らしの営みそのものが不似合いなのだった。 ――ただ、積極的に新しいことを覚えようとしているのは分かった。それは意外で、必死ささえ感じるほどに。
 本当に死にたいのなら、自ら命を絶っている。
 彼は出来ることなら生きたいと、何かを酷く恐れつつもそう願っているのだとシェヘブカイは思った。
 メネスの操る櫂は、ゆっくりと舟を川との合流点へ向かって運んでゆく。水が少ないせいで、船底は時折、水底の泥にこすれた。流れも濁っていて上澄みが少ない。向かった先は、川の流れが沼地へと流れ込む一番大きな支流の、川との合流地点だ。その辺りは、大きな中州がいくつも連なり、浅い水路が何度も流れを変えた跡が残されている。中州の一つに舟をつけると、たむろしていた水鳥たちが一斉に飛び立った。その羽ばたきで、一瞬、耳が痛くなった。
 「…っと。こりゃ、いい狩場にたどり着いたみたいだな。」
メネスは櫂を岸にさし、舟を横付けにすると、船底に置いていた弓矢を手にして先に飛び降りた。手を翳して鳥たちの飛んでゆく先を見やる横顔は、既に狩人の顔になっている。
 シェヘブカイのほうは視線を地面に向け、川べりの水の流れを眺めた。川べりの土手には水の刻んだ跡があるが、今は、その跡がくっきりと黒く浮かんで見える。いつもの年の半分もない。
 (ここをもっと掘り込めば…、水位が下がっても、うちの畑のあたりは水が枯れないかもしれない)
シェヘブカイもまた、職人の顔になっていた。水に沿って歩きながら、頭の中で地形を何度も描く。石膏版を持ってくれば良かった。この辺りは、まだ測量したことがない。けれど水路を掘るにしても、ここは流れが広すぎて、一人では到底無理だ。沼地に流れこむ水の流れを変えるには、水路だけではなく堤防も築かなくてはならない。それには、何年もかかってしまうだろう。
 考えながら歩いていたとき、視界に、揺れる白いものが映った。
 「――あれ」
葦の茂みの間に、長い白い髪をなびかせる後姿がある。そんな姿をしている者は、他にいるはずはない。
 「<緑の館の主>?」
呼ばれて振り返った、相手の顔を見たとき、一瞬、別人のように見えたのは気のせいだったのか。瞬きをしてもう一度見やったとき、そこにいたのは、いつもの白い青年だった。右目だけが金色に輝き、長い髪に半分隠れた左目の眸は暗い。ほっとして、シェヘブカイは近づいていった。
 「こんなところまで出かけてたんだ。何してたの?」
 「水を、見ていた」
そう言って、人ならざる青年は視線を川に向け直した。
 「ここまでが、私の領域。ここが、沼<メヒ>の果てだ」
 「ああ。ここからは沼じゃなくて、川だもんね。――河の神様、今年は調子が悪いみたいだね」
 「……。」
<緑の館の主>の視線は、川の果て、どこか遠くに向けられている。
 「河の神<ハピ>ではない。上流の…、結界を守る者たちが原因だ」
 「結界?」
 「神秘なる水源と大河<イテルウ>の境にあるもの。ソペデトの輝きとともに、それは破られる。だが彼らは今、<境界>を守ることに忙しい――」
 「…?」
良く分からず首を傾げていたとき、メネスの大きな声が辺りに響き渡った。
 「おーい、シェヘブカイ。どこに行った?」
 「おっと。」
草を掻き分けながら近づいてきたメネスは、縄の先に三羽ほどの水鳥をぶら下げて、得意満面だ。
 「どうよ? おれの腕前は。」
 「すごいな、こんな短い時間で」
素直に感心して、シェヘブカイは、まだ首を絞められたばかりの生暖かい鳥を受け取った。どの鳥も、矢に貫かれた跡がある。メネスは弓の名手なのだ。戦場に行ったことはないと言っていたが、仮に兵士として戦場に立っても、十分な働きが出来るだけの腕前はある。シェヘブカイの前まで来た彼は、足を止め、視線シェヘブカイの傍らに向けた。見えている姿は違うかもしれないが、かつて神官だったことのあるメネスにも、そこにいる存在の姿は見えているらしい。
 「守護地の見回りご苦労様です」
 「……。」
白い影は、視線は向けないまま小さく頷くと、ほとんど音も立てず水の中へと滑り込んで消えていった。メネスは、ちょっと肩をすくめた。
 「嫌われてるみたいだな」
 「そんなことないと思うけど。…なんていうか、…人見知りするほうだから、たぶん」
 「だといいんだが。…なあ、"大鰐"様って鳥は好きか?」
 「え、…うーん、分からない。いつも魚だったけど…どうなんだろう」
<緑の館の主>の消えた水面にちらと一瞥をくれてから、シェヘブカイは、舟のほうに向かって歩き出した。すれ違いながらメネスから獲物と弓を受け取り、二人は並んで歩き始める。
 「"結界"…って、なんのことか分かる? メネス。水源にあるとかいう…」
 「結界?」
 「うん。そう言ってた」
 「ほう」
メネスの口調が、面白そうだという調子を帯びた。
 「それは、上流の"アブ"の町のあたりにあると言われている神々の結界のことだな。この国の南端だ。聞いたことはあるか?」
 「たぶん…、一度くらいは。」
 「この川の水源にあるそれは、季節が来ると水源を守る神々によって破られる。増水が起きるのは、そのためだ。大河の氾濫が正常に起きない年は、水源で何かあったってことさ。ずっと昔、王が水源を守る神々の不興を買ったときには、神々が結界を閉ざしたままにして、国中を七年の渇水が襲ったという」
まるで昔物語をするようなのんびりとした口調で言いながら、メネスは、抜け目ない視線を沼地のほうに向けた。
 「まるで神託だな。沼地<タ=メヒ>の守護者殿は、他に何か仰ってたのか。」
 「ああ、えっと…。彼らは今、<境界>を守ることに忙しい、って。聞いたのは、それだけだ」
 「ふむ」
舟に置いた棹を取り上げながら、メネスは思案するような表情を見せた。
 「上流の結界の守護者といやあ、南の国境の守り手でもある。――また南の部族が攻めてきたのか。世の中は相変わらず忙(せわ)しないらしい」
 「そうなの? 戦争になってるの?」
 「多分な。結界の守護者が手一杯になるってことは、よっぽどこじれてるんだろう」
無関心を装ってはいるようだったが、その口調にはどこか、真剣さがあった。シェヘブカイはつい、聞いてしまった。
 「誰かが、戦場に行ってるの? 昔の仲間とか、友達とか」
 「さあな。馴染みの奴が制圧に行ってるかもしれんが…ま、あいつなら何とかするさ。誰か適当な奴を寄越してうまいことやらせるんだ。昔から――」
言いかけて、彼ははっとして表情を硬くした。
 「…今のは聞かなかったことにしてくれ。」
 「ごめん」
メネスは、むっつりとした顔で流れに棹をさし、シェヘブカイも黙って水の流れを見やった。
 彼はやはり軍人だったのだ、とシェヘブカイは思った。他にどんな役目を担わされてきたにせよ、本来の仕事は戦場において敵を打ち倒すことだった。どんなに農民の暮らしに馴染もうとしても違和感がある。その手に相応しいものは、刈り入れの鎌でも、網でも、棹でもない。弓矢と、剣や盾、――あるいは指揮の鞭なのだ。


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