■第三章/黄金の鷹-6


 沼地のほとりに拓いた畑に初めて役人が訪れたのは、ちょうど水が引いて、畑の黒々とした土が姿を見せ始めた頃だった。
 シェヘブカイが沼地のほとりに移り住んでから、二回目の夏の終わり。集落には新たに家畜小屋が作られ、水を引き込む水路と堤防と、メネスのために建てた小さな小屋も出来ていた。
 レキが呼びにきたとき、シェヘブカイは、水路の様子を確かめていたところだった。戻ってみると、家の前には汗を拭き拭き紙の束と筆記具の入った鞄を提げた書記と、土地を測量するための下級役人、それに護衛の兵士がそれぞれ二人ずつ、手持ち無沙汰に待っていた。シェヘブカイを見るなり、小太りの書記は片方の眉を跳ね上げた。
 「ここの代表者は、お前だと聞いたんだが」
 「ええ、一応。」
 「ずいぶんと若いな。」
 「でも、ここの畑を作ったのは確かに僕ですよ」
じろじろと眺めすかしていたが、やがて書記は、手元の筆記具に視線を落とした。
 「建築技師だと――葬祭殿に関わっていた、と聞いたが、まことか。」
 「そうです」
書記は、集落の住人の名前と出身地も記録していた。最初に対応したカイエトが機転を利かせたらしく、メネスは「親戚の男」としている。素性不明の男が住んでいるとなったら、後々面倒なことにもなりかねない。賢明な判断だ。
 「で、ここの住人は成人の男二人に女が一人、子供が二人――畑の面積と労働人数から、今年の税は…」
四角四面な口調で、書記は、シェヘブカイに納めるべき麦の量を告げた。思っていたよりも少ない。シェヘブカイは、思わず尋ねた。
 「それだけですか」
 「ん?」
 「あ、いえ。僕の実家のほうでは、面積あたりの年貢がもっと高かったものですから。計算…合ってますよね」
書記は、むっとして自分の手元の石膏版の計算の跡を突きつけた。
 「ほれ、このとおりだ。他所はともかく、この辺りでは麦はあまり育たんのだ。奥の大湖<メルウル>のあたりもこの税率だ。それとも何か? もっと支払いたいのか」
 「い、いえ。とんでもない――すいませんでした。」
シェヘブカイが頭を下げると、男は、フンと鼻を鳴らして道具を鞄に仕舞いこみ、連れとともに去っていった。見送りながら、シェヘブカイは内心では笑っていた。実のところ、前年の麦の収穫量は、両親と住んでいた村の畑より、何倍も良かったのだ。


 役人たちが去っていったあと、メネスが家の裏手の茂みからひょっこり姿を現した。
 「やあ、逃亡役人さん。カイエトに対応を任せて、どこでサボってたんだい?」
 「そう意地悪な顔すんなよ。おれにだって色々と都合があるんだ」
そんなことを言いながら、メネスはしゃあしゃあとした顔で勝手に台所に入って、水がめから水をすくう。
 「家建ててあげたんだから、自分ちで飲めばいいのに。」
 「ん? いいじゃないか。面倒だし。お前のところの水のほうが美味い」
 「ったく…」
呆れ顔をしながらも、シェヘブカイはもう、なんとなく気がついていた。この男には、生活観というものがない。
 ここへ来た時には、畑仕事も、漁も知らなかった。武器を持ったことがあるといっても、兵役についていたわけではない。指輪磨きや家具の修理をやったことがある、と言っていたが、それは生活の糧を得るためのものではなかったはずだ。妙に博識なところがある反面、時々みせるどこか世間ズレした言動は、確かに、神殿の奥深くこもっている神官のそれを思わせた。
 だがメネスは、自分のことはほとんど話そうとせず、何か聞かれてもいつも笑ってごまかす。その笑顔はいつも作り笑いだった。彼は滅多に本当の感情を見せなかった。ただ、何かに怯え、焦っていることだけは薄々と感じられる。時折、一人の時にだけ見せる切羽つまったような真剣な眼差しの理由を、<緑の館の主>なら知っているのだろうか。
 「さて、税金は安くあがったし、どうしようかな…」
シェヘブカイの呟きに気づいて、メネスが顔を上げる。
 「どうするって?」
 「穀物は長いこと保管できるものじゃないから。種籾と食べるぶんは穀物庫においておいて、残りは何かと交換するんだよ、腐らないものとね。」
 「ほう。」
 「あとでカイエトとも相談してみるけど、何か欲しいものある?」
メネスは顎に手を当て、しばし考え込むと、ふいに空を見上げるようにして、冗談めいた口調で言った。
 「…弓矢、かな」
 「じゃあ、メネスは弓矢ね。僕は労役用の雄牛かな、レニセネブさんに借りてた老牛だけじゃ心もとないし。あとは…」
 「おい、おい」
メネスが慌てたように割り込んでくる。
 「まさか、本当に手に入れてくるのか?」
 「水鳥撃つのに使えるだろ。心配しなくても、そんないいのは手に入らないよ。」
 「いや、…どうして、おれにまで分け前をくれようとする?」
シェヘブカイは、きょとんとした顔になった。
 「どうしてって、僕らが作った畑の収穫だろ。一緒に仕事をしてるのに、分け前はあるに決まってるじゃないか。」
 「……。」
メネスは目をしばたせ、それから、ふいに笑いだした。そして、まるで初めて気が付いたといわんばかりに呟いた。「そうか、これが"労働の対価"というやつか…。」
 「そうさ。だからサボらないで手伝ってくれよ。ほしいものが手に入るかどうかは、収穫次第なんだからさ」
 「はいはい。」
芽生えた緑は、やがて背に届くほどの高さとなり、中身の詰まった大きな穂をつけた。そして実りの季節には、黄金に色づいた一面の穂が、風に吹かれて波打っていた。


 「うちの畑ね。久しぶりにレタスが花をつけたの」
 収穫の終わる前、手伝いにやってきたティティスはそう言って、戸惑うような笑顔を見せた。「何年も、そんなことなかったのに。まさか本当に、"大鰐"様がうちにも恵みを分けてくれたのかしら」
 「聞いてみたら?」
 「冗談言わないでよ、あんたじゃあるまいし」
そう言ったティティスの口調は茶化すようだったが、表情はどこか真剣だった。
 「この間、湖の村から親戚が来たときにも聞かれたわ。どうしてここの畑だけ、出来がいいのか、って。」
 「なんて答えたの?」
 「あんたがせっせと水路を作ってるからだって答えたわよ。水がはやく引けば、そのぶん早く種が撒けますし、育つときに水が足りていれば大きくなるんですよ、って。」
 「それで?」
 「信じない、って言われたわ。うちの畑は水路なんて引いてないもの。だから、"それなら大鰐様に捧げものをして確かめてみたらどうなの"って答えたのよ。あの時のうろたえぶりったら、なかったわ。」
 「あはは」
 「――本当にね。信じたくないのよ、あの人たちは。自分たちが一度は捨てたものが、本当は価値のあるものだったなんて。信じられたら、どれだけ…」
言葉を切ったとき、ティティスの顔には複雑な表情が浮かんでいた。彼女自身、かつては"大鰐"を何とも思っていなかった。悪しきものでも、良きものでもなく、ただそこにあるものだとだけ。
 「ねえ、シェヘブカイ。"大鰐"様は、あの人たちにもお恵みを分けてくれると思う?」
 「…さあ、それは…。」
かつての守護者を見捨て、屑石として祠ごと処分させてしまった湖のほとりの村の人々に対する<緑の館の主>の怒りが完全には消えていないことを、シェヘブカイは薄々感じていた。彼は許してくれるだろうか。それとも――。
 それから数日して、町からは税収の役人たちがやってきた。きれいに穂の刈り取られた畑を前に、決められただけの小麦の束を引渡すと、役人たちは、麦の束を数え、書類に印をつけては連れてきた労働者たちに運ばせている。船に乗せて、王の貯蔵庫へ運ぶのだ。
 「これで足りてますよね」
 「ああ、確かに。」
書類に印をつけると、役人は、ふと足元に落ちた穂を拾いあげた。
 「しかし、…ここのは、ずいぶんといい出来だな。穂が、奥の湖のほうよりずっと長い。」
 「そうですか?」
シェヘブカイは、そらとぼけた顔をする。「きっと土がいいんでしょう」
 「ふむ。ではまた、来年も勤めるように。」
そう言って麦の穂を足元に落とすと、役人は、書類を仕舞って労働者たちに続いた。
偉そうに言って、でっぷりした腹を撫でながら去ってゆく。ほっとして、シェヘブカイは穀物庫のほうを振り返った。税収で取られなかった分は、一年食べてゆくだけの量は十分にある。余ったぶんは、かねてから相談していたとおり、各々が欲しいものに充てることが出来る。


 「はい、これ」
町から戻ってきたシェヘブカイの差し出したものを見て、メネスは一瞬、きょとんとした顔になった。一つに縛った棒のようなものと弦、それに、小さな袋がくっついている。
 「欲しいって言ってたでしょ」
 「本当に手に入れてきたのか」
ようやく飲み込んで、苦笑しながらそれを受け取る。袋の中身は、石の鏃だ。
 「退役した軍人さんの持ち物らしいよ。銅の鏃はさすがに手に入らなかった。弓のことなんか全然わからないけど、それで何とかなる?」
 「ああ。弦が少しばかり弱ってるが、作り直せばいけるだろう」
言いながら、早速その場に腰を下ろして、足で下弭を押さえながら弦を張っている。慣れた手つきだ。指で弦を弾き、満足したような顔になっている。
 シェヘブカイの戻ってきたのを察して、子供たちが集まってきた。
 「あーっ、何それ!」
男の子のレキは、メネスの持っている弓に惹かれたようだ。
 「ん、これはな。こうやって弓を射る武器なんだ。矢を作らなきゃいけないからな、もうちょっと待ってろよ」
 「ほんと? すぐ見せてくれる?」
 「ああ、矢が作れればな。」
シェヘブカイのほうは、スィトに服の裾を引っ張られている。
 「ね、牛さんどこ? 牛さん連れてきたんでしょ」
 「裏の小屋。一緒においで。見せてあげる」
シェヘブカイの家の裏には、レニセネブから借り受けたままの老牛と、今日連れ帰ったばかりの若い働き盛りの雄牛とが並んでいる。老牛のほうは、もう鋤を引かせるのも可愛そうなくらい年をとっていた。
 「それと、カイエトさんに頼まれたものも手に入ったんだ。届けに行かないとね」
カイエトが欲しがったのは、床に置いて、膝をつきながら一人で織る小さな機織機だった。糸紡ぎの道具は、少し前に湖の市で手に入れていた。羊の毛とあわせて、これでようやく織物が始められるというわけだ。シェヘブカイは、レキに弓の構造を説明しながら楽しそうにしているメネスをちらりと見やった。
 (親戚の男にするより、猟師って申告したほうが良かったな。)
間もなく、新しく来た牛と入れ替わるようにして、前からいた老牛が死んだ。レニセネブは、もう働けなくなった牛だから問題ないと気にした様子もなかった。
 「もも肉だけ切り取って、残りを返してくれりゃいい」
 「もも肉?」
 「捧げものに丁度いいだろう。こんな機会は滅多にないからな」
言われてはじめて、シェヘブカイは、それが祠への供物なのだと気がついた。牛のもも肉は、神々に捧げられる最高の供え物の一つだ。王家や貴族の祭事でもなければ手に入らない。
 「ありがとうございます。"大鰐"様も、きっと喜びますよ」
レニセネブは、照れたように笑って頷いた。
 「来年も、いい実りをもたらしてくれるといいな。」
いつからだろう。レニセネブはもう、茶化すような口調で"ワニ様"とは、呼ばなくなっていた。


 牛の躯は、レニセネブの家のすぐ側を流れる川で解体された。皮はなめされ、角と骨は干され、肉は取り外されて、一部はシェヘブカイたちも呼ばれての宴に使われた。貴族や上級役人でもない限り、肉を食べることは、滅多にない。村々の暮らしでは、食べるために牛を育てることはなく、牛たちはもっぱら乳と労働のために生かされている。食べられるのはこうして、老齢や不慮の事故で死んだ牛だけなのだ。長年労役に生きてきた老牛の肉は筋張って固かったが、香辛料を刷り込んで煮込んだそれは、祭りの蜂蜜パンと同じように特別な味がした。
 腹が満たされたあと、シェヘブカイは、レニセネブと二人きり、家の前でビールを飲み交わしていた。川の水が満ち始めるまでにはまだ日があり、川べりは、赤っぽい焼けた土肌をさらしている。痩せた川の水面に魚たちが飛び跳ね、水音が木陰に響いてきた。改めて眺めると、ナツメヤシの茂みに囲まれたレニセネブの家の畑は小さく、畦道も崩れかけて、シェヘブカイたちが暮らしている辺りの畑に比べると、ずいぶんとみすぼらしかった。畑と家の間には、ティティスが育てている豆の茂みもある。いつだったかティティスが豆を分けてほしいとやって来たときのことを思い出し、シェヘブカイは、ちょっぴり申し訳ない気分になった。
 「――まあ、もう気がついてるだろうが、うちはあんまり良い暮らしはしてなくてな」
葦を差し込んだ壷からビールをすすりながら、レニセネブは、立てた片膝に肘を置いて畑を眺めている。
 「鰐の神様のお陰なのか、最近じゃ少しは出来がよくなったが、前は二人食べていくのでもやっとだった。ティティスの母親も、そのせいで早死にしたようなもんだ。娘には、苦労ばかりさせてきたな」
 「……。」
シェヘブカイは、そっとレニセネブの横顔を伺った。
 「前から聞いてみたかったんことがあるんです」
 「ん?」
 「いま、僕らが住んでいるあたりにあった村の人たちは、みんな奥の湖に引っ越してしまったんでしょう。どうして、この家だけはここに留まったんですか? 親戚も、湖のほうに居るってティティスは言ってましたけど」
それは、もうずっと前から疑問に思い続けていたことだった。湖のほとりの村との行き来はいまも途絶えていない。それならどうして、この家だけが沼と川の交わるこんな僻地にぽつんと建っているのか。
 「ジィ様の代からのな、けじめみたいなもんだ。」
 「けじめ?」
 「ああ。この話は、ティティスも知らん。だがまぁ、あんたにならいいだろう」
壷を置いて座り直すと、男は、淡々とした口調で語り始めた。
 「もう五十年も前のことだ。わしのジイ様、つまりティティスの曽祖父にあたるお人がな、若い頃に村で醜聞を引き起こした。婚約の決まっていた、当時の村長の娘と駆け落ちをしたのよ」
 「駆け落ち…ですか」
 「ちょうど刈り入れ時で皆が忙しくしとる時だったらしいな。娘とは昔からの恋仲だったらしい。収穫が終われば親の決めた別の男と結婚するはずだった、その娘にせがまれて――いや、相手の言い分からすれば"かどわかされて"だが、夜半に葦舟を漕ぎ出したんだという。――だが、不幸な結果に終わったらしい」
ひとつため息をついて、レニセネブは手元に視線を落とした。シェヘブカイは、かすかな胸の疼きを感じた。
 「何があったのか詳しいことは誰もしらん。ジィ様は、片手を無くして戻ってきた。数日後に見つかった娘の体には、それは無残なもので、ひどい噛み傷がついていたと聞く。鰐にやられたんだ。村長はひどく怒ってな、鰐神様を詰り、錯乱して祠を壊そうとしたとか。やがて祟りの噂が流れた。沼地の水が届かなくなったこともあって、村は奥へ引越しちまったんだ。ジィ様だけは、ここに留まった…当時は村長がまだ生きておって、一緒には行けんと思ったのかもしれん。…ここは、恋人だった娘の遺体が打ち上げられた場所だったそうだ。それから何年もして、ジィ様は他所から来た流れ者の娘と結婚した。ま、わしが知っとる話は、そのくらいだよ。」
遠い目をしながら、レニセネブは再びビールの壷に手を伸ばした。
 「湖の村の連中は、いまだに鰐神様を祟り神だと恐れとるのかね」
 「はい」
 「そうか。まぁ無理も無いな。…だがな、最近わしは時々、思うんだよ。人が亡くなったのは不幸なことだが、…神様は、ただ、誰かの望みを叶えてくれただけなんじゃないか、とな。…」
言葉を切り、しばし考え込むような顔をしたあと、男は、ふいに照れたような笑みを浮かべた。
 「この話はもう、しまいにしようか。なあ、あんた、ティティスは最近よく笑うようになったんだ。がさつなやつだが、少しは娘らしくなったと思わんかね?」
 「はあ」
唐突な話に切り替わりについていけず、シェヘブカイは、上の空で返事を返す。
 「わしも年をとった。何かあっても、あいつが一人でやっていかずに済むと思うと、大鰐様に感謝したい気持ちになる。不幸はもう沢山だ。あんたが来てくれて良かった。あんたが、ここへ来てくれて……」
さわさわと風が吹いて、木々と下草を揺らしてゆく。
 その言葉の意味に気が付いたのは、レニセネブのもとを辞して家路についてしばらくたった時だった。


 両親と暮らしていた家に戻るのは、二ヶ月ぶりのことだった。そう間を置いたわけでもなかったが、シェヘブカイにはずいぶん久しぶりのように思われた。家の戸口に立つと、懐かしい匂いが鼻孔をくすぐる。母のイティはいつものように台所にいて、彼を見つけると、笑顔で振り返る。
 「あら、お帰りなさい!」
ほっとするような、変わらない笑顔。飼い猫のニウが足元に体をこすりつけてくる。猫を抱き上げて灰色の毛並みを撫でてやりながら、シェヘブカイは家の中に入った。
 「父さんは?」
 「それがね、町に出かけてるのよ。残念だったわ」
 「そう。――今年は、また、畑を作るんだね」
村に入ってから家に着くまでの間に、畑の周りの畝が整えられているのを見た。これから川の水を引き入れて、畑を肥やすのにそなえるためだ。ここ何年も久しく見かけなかった光景だ。村人は総出で王の葬祭殿の建築に出かけていて、畑を作る暇がなかった。
 「そうね。工事も一段落したから。でも、あんまり良くないかもしれないわ。しばらく耕していなかったから土が固くなっているし、それに」
 「それに?」
 「天を見る神官様の言うには、来年はあまり水位が上がらないかもしれないそうよ。」
川が氾濫し、農地が水に浸されることで土地に十分な栄養が染みこむのだ。水位の上昇は、よほど上がり過ぎない限りは収穫量と比例する。水位が上がらず、畑が水に浸されないということは、不作を意味する。
 シェヘブカイが難しい表情になったのに気づいて、イティは明るく笑った。
 「そんな心配することじゃないのよ。うちは大丈夫。村のみんな、蓄えは十分あるから。葬祭殿も、まだ完全に出来上がったわけじゃないから、食べ物は手に入るわ。どうせ一年だけよ」
 「……そう」
本当にそうだといいのに、と、シェヘブカイは思った。かすかな予感をムリに胸の奥に押しとどめて、彼は、猫を床に下ろしてやった。
 「最近、兄さんから何か、連絡は?」
母は静かに首を振った。
 「一度、手紙が来たっきり。どうしてるんだか。噂じゃあ、東の国境はまた物騒になってきてるらしいけど。」
ティティスの従姉妹、カイエトの夫は、東の国境の兵役についていて、小競り合いに巻きこまれて生死不明になった。昔から、夜盗や移民、隣国からの侵入で争いの絶えない危険な地域なのだ。
 「便りがないのは元気な証拠、だよ。きっとね」
 「…そうね。そうだといいけれど」
弱々しく微笑んで、イティは小さくため息をついた。
 「それを聞きに、わざわざ戻ってきたの?」
 「あ、いや…。それだけじゃないんだけどさ」
 「何かあったの?」
イティは、息子の複雑な表情に気づいたようだった。
 「特に何が、ってわけじゃなくて…。最近、いろんなことがあって…。ねえ、僕がずっと向こうに暮らしてて、母さんたちは、困らない?」
 「そりゃあ、あんたがうちで一緒に暮らしてくれたら嬉しいけれど…。」
そう言って、母は、諦めたように微笑んだ。「あんたは向こうでやることがあるんでしょ。自分のしたいようにしなさい。あんたにしか出来ないことをね」


 母と話したあと、シェヘブカイは、家の外をぶらぶらと散歩に出かけた。眩しい日差しが乾いた畑を照らし、川べりの緑と木立の下に濃い影を作る。葬祭殿の仕事が終わりに近づき、暇を出された人々が来年のための畑の支度をしていた。顔なじみの村人たちがシェヘブカイを見止めて、挨拶してくる。水の満ちてくる季節、川から畑に水を引き込むための下準備をしている光景をこの村で見るのは、何年ぶりだろう。かつて<緑の館の主>の寝そべっていた辺りも、水路を作るために土が積み上げられ、真新しい土手になっていた。
 木陰に腰を下ろすと、草むらで、ぽちゃんと小さな音がした。
 振り返ると、葦の間に大きなかえるが一匹、喉を膨らませながらこちらを見上げている。
 「やあ」
 「やっぱり、あんただったかい」
 「人間の区別がつくようになったんだね」
シェヘブカイが笑うと、かえるも喉を鳴らした。
 「顔の見分けはつかんが、そこの木陰を眺めて立ち止まるのはあんただけだって、分かってるからね」
 「僕も、僕の顔をじっと見つめるかえるは、ジェドだけだって分かってるよ」
ぴょんとかえるが陸に上がり、シェヘブカイの足元に近づいて来る。
 「白い旦那はお元気で?」
 「元気っていえば元気かな。前とあんまり変わってないよ」
 「そいつぁ、何よりで。」
喉を膨らませて、かえるは畑のほうにちらりと視線を向けた。「陸は、ずいぶんと変わっちまいやしたね。人間が大勢歩き回って、今年はおたまを育てる場所をうつさにゃならんかった」
 「それは悪かったね。」
笑いながら、シェヘブカイは緑の茂みの向こうにある川の流れと、対岸の岸辺とを見やった。それは、かつて<緑の館の主>が眺めていた風景。変わりゆく人間の村と違い、川の流れは、いつまでも変わらない。どんなに時が流れても、たとえ増水が起きなくても、水の流れは決して枯れることなく、そこにある。あと一月もすれば、今年の水位が分かるだろう。
 いつしか時は巡り、シェフヘブカイが沼地のほとりに住むようになってから三年目の年が始まろうとしていた。


前へTOP次へ