■第三章/黄金の鷹-5


 家に戻ると、メネスが玄関先に石膏板を持ち出して座っていた。
 「よう、遅かったな」
辺りには、葦ペンや落書きされたような素焼きの土器片が散らばっている。
 「何してたんだい?」
 「さっきまで子供らが来てたんでな、読み書きでも教えてやろうかと思って」
 「家庭教師ってわけ? 僕の筆記用具勝手に使って…。ま、いいけどさ」
足元に落ちている土器片を拾い上げ、そこに書かれたヘタくそな線を見ていると、幼いころの自分を思い出してほほえましくなる。
 「で、そっちの絵は何?」
 「ん? これはな」
メネスは、にやりと笑って石膏板を取り上げた。板に漆喰を塗りつけた石膏版は、いつもシェヘブカイが考え事をするときに覚え書き帳として使っているものだ。水で洗えば文字が流れて何度でも使える。メネスの手元を覗き込んだシェヘブカイは、そこに、ワニの頭をもつ男の絵を見つけた。神殿の壁によく書かれているような、儀式的な腰布と冠を被った姿をして、ワニの頭は長い髪を腰まで垂らしている。
 「"大鰐様"さ。どうだ、似てるだろ?」
 「う、うーん…。確かに神様っぽい感じになるけど、でも何か違うよ…。メネスにはこう見えてるの?」
 「ああ。まあ、大体こんな感じだな。お前は?」
 「もうちょっと、だらしない感じ。人間の姿で見えるって言ったら、変わってるって言われたけど」
 「はは、人間ね。しかしだらしないっつーのはなんだ、どういう感じだ。」
笑いながら絵を消そうと手を挙げたとき、メネスの肘の下に、文字が見えた。
 「"緑の冠"? 」
シェヘブカイは、その文字の横に、子供の手によるらしい小さな花の絵が描かれていることに気がついた。
 「ああ、あの女の子…スィトだっけ? 神様には色んな肩書きや別名があるんだって教えてやったら、ワニ様にもそれがほしいと言い出してね」
 「スィトは、いつも神像の欠片に花輪をかぶせてる」
 「だから、だろうな。ワニ様は緑の冠を被って見えるんだとさ。」
そういって、メネスは石版をシェヘブカイに渡し、尻を払いながら地面から立ち上がった。シェヘブカイは、そこに書かれた文字を読んだ。
 「<緑の館の主>、水に棲む者たちの長、豊穣をもたらすもの、打ち倒すもの、沼地の主人…」
 「ほう、分かるのか」
 「読み書きは学校で一通りやったから。だけど、この"打ち倒すもの"って何?」
 「読んで字のごとくだろ。大鰐なんだ、一つくらい強そうで怖い称号もなきゃまずいだろう」
 「……。」
シェヘブカイは、ちょっと視線を宙にやってから、ため息とともに板を置いた。「神官の考えることって、いっつもよく分からないんだよなあ。」
 「気に入らないのか?」
 「気に入るとか、気に入らないじゃないんだけどさ。…そういえば、あんたの守護神は、名前、なんていうの?」 
筆記用具を片付けていたメネスの手が、止まった。
 「あいつの名前なんて忘れた。」
 「自分の守護神じゃないか。このまま見殺しにするつもりなのか?」
 「そうするしか、あれから離れる方法はない。生まれた時からずっとくっついてやがる。あいつのせいで、おれは好きに生きられたためしがない」
言いながら、拾い集めた陶器片を入れた籠を、やや乱暴に台所に置いた。シェヘブカイもメネスを追って家の中に入った。日が暮れて、薄暗がりが迫ってこようとしている。小さな火種がかまどの中で赤く明滅している。その側には、子供たちが持ってきたらしいカイエトお手製のパンが置かれていた。二人分だ。夕飯用に持ってきてくれたのだろう。だが、メネスが手を付けた跡はなかった。
 「メネス、これからどうするんだい」
シェヘブカイは、振り返って家の奥の薄暗がりに向かって話しかけた。寝室は、その奥にある。メネスは早々にそこに引っ込んでしまっていた。
 「昔からの守護神を捨てて、それからどうする? ずっとここに隠れているつもりはないんだろ?」
 「……。」
返事はない。
 「僕には分からないよ。神様を殺さないと好きに生きられないって、どういうことなのか。何があったのか知らないけど、…それは間違った方法のような気がする」
 「――どこでも良かったんだ」
ぽつりと、くぐもった声で言った。
 「身分の高い家なんていっても、いい暮らしじゃなかった。嫡男でもなけりゃ正妻の子でもない。それこそ下男同然の扱いさ。"奥様"の指輪磨きから、"坊ちゃん"の子守までやらされた。で、いずれ相続争いが起きるんだと思ったら、何もかも面倒になってな」
シェヘブカイは、奥の部屋をのぞいた。寝台の端に腰掛けて、メネスはこちらに背を向けている。表情は、薄闇に沈んで、見えない。
 「――怖かった。ただそれだけで、おれは元いた場所から逃げ出した男だ。戻る場所なんて、もうない。それに、おれが戻ればまた、面倒が起きる。おれが生きてれば、あいつに迷惑がかかる…。」
彼は思わず息を飲み込んだ。
 「もしかして、メネス…死ぬつもりだったの?」
沈黙。だが、それは肯定だ。
 頭を殴られたような気がした。メネスが何かに必死なのは分かっていた。それは、生きるために足掻いているのだと思っていた。それなのに、いつも浮かべていた作り笑い、ふざけた口を利いていたその裏で、男はとっくに諦めてしまっていたのだ。
 そう思ったとたん、シェヘブカイは無性に腹が立った。
 「守られてたら簡単に死ねないから? そういうこと? なんで、そんな」
 「お前には分からん話さ」
 「僕はそんなの嫌だ。生きてて悪いものなんていない! 居場所なら、此処にあるじゃないか。あんたはもう、この村の住人なんだぞ」
その言葉は、咄嗟に口をついて出た。
 「……!」
メネスの背が、大きく揺れた。
 「そういうわけだから、明日から、あんたの家つくるからな。ちょうど刈り入れが終わって麦わらが手に入ったとこだしさ。細かく刻んだ麦わらを泥と混ぜると、丈夫な日干し煉瓦を作れるんだ。また忙しくなるな。」
半ば独り言のように言いながら、彼は台所のほうに視線をやった。「夕飯、食べる?」
 「…いや。」
 「そか。じゃあ、残りは朝ごはんにするよ」
わざと明るい声で言いながら、シェヘブカイは台所のパンを手にとって、家の外に出た。メネスを、しばらく一人にしておきたかった。あるいは自分が、一人になりたかったのかもしれない。


 一年で最も暑い季節、川の水位はゆっくりと上がり始め、刈り入れの終わったあとの畑を静かに満たしてゆく。作られたばかりの水路を通って、黒い水が畑に流れ込んでいくのを満足げに見守ったあと、シェヘブカイは、足を祠に向けていた。そこは、今では立派な聖域だった。周壁から祠の入り口までは白い敷石で参道がつけられ、水辺に面した辺りには、木々と草花がそよいでいる。ここのところ頻繁に留守にしていた祠の主は、今日は珍しくその前庭の木陰に寝そべっていた。
 「出かけないの?」
シェヘブカイが声をかけると、人ならざる白い人影は、うっすらと目を開けた。
 「…今日は暑い」
 「そっか。」
少し離れた木陰に腰を下ろすと、彼は、花に囲まれて眠っている<緑の館の主>を眺めた。立派な祠という家が出来てからもずっと、彼の眠る場所は、空の下、草の上だ。初めて会った時から何一つ変わっていないように思われるのに、すべてが遠い昔のことのようにも思われた。ひんやりとした、神殿の外壁に背をもたせ掛けながら、彼は、花の香りに意識をゆだねた。
 頭上にあるヤシの葉の間からは、きらきらと光が零れている。シェヘブカイが黙っていると、しばし何か考え込んでいるようだった<緑の館の主>が、再び口を開いた。
 「ここも、賑やかになったな」
 「うん。昔は、もっと人が住んでいたんだろうけど…」
言いかけて、口ごもる。聞きたかったことは、沢山ある。けれど、それを聞いていいのかどうか。
 「畑の出来がよかったし、皆、感謝してる。」
 「…そうか」
木漏れ日の揺れる草のしとね、<緑の館の主>がいつも寝そべっているあたりからは、祠の入り口を通して、沼地のほうが見渡せる。体の向きを変え、シェヘブカイは、同じ方向を見た。草の上に流れる細い真っ白な髪を眺めた。水に棲むもの。緑の冠の守護者。夜の姿は怒りと恐怖の主、けれど昼の姿は、実りと生命の運び手でもある。
 ふいに白い瞼が動き、金色の右の眸が向けられた。
 「――何か、話したいことがあって来たのだろう?」
 「……。」
聞きたくないと思った。けれど、聞かずにいれば、いつまでも心の中にしこりが残る。
 「湖の村へ行ってきたんだ。あんたのせいで人が死んだって、言う人がいて…。」
シェヘブカイは、唇を噛んだ。「…誰かを祟り殺させるのか、なんて」
 「ああ」
<緑の館の主>は、いつもと変わらない静かな声で答えた。
 「それは嘘では無い。直接手を下したわけではないが――」
シェヘブカイは、絶句する。
 「私は、ただ見ていた。命を落とすかもしれないと分かっていて、見逃した。」
 「どうして?!」
 「そう望まれたからだ。死ねば良いと…。」
誰かが、彼にそう祈ったから? 憎しみを抱いた他人を殺してくれと?
 「でも、殺してはいないんだよね」
シェヘブカイは、兄メンケペルとの岸辺のやり取りを、あの時立ちはだかった左目<イアビィ>の殺気を思い出していた。憤怒の主――"打ち倒すもの"――凶暴なまでの力の象徴。人間など、ひとたまりもない。
 しかし、<緑の館の主>は頷かなかった。
 「人の守護者たる存在は、人に直接手を下すことは許されない。直接命を奪えば、元が何であれ、そのものは悪霊となる。だから、――死なせたい者がいるのなら、危険を呼び寄せて守護を解くのだ。或いは、死に至ると分かっていながら手を下さずにいるだけでいい」
淡々とした口調には、何の悪意も殺意もなかった。ただそれが事実だということ。彼は確かに、"見ていた"だけなのだ。人に望まれて、人間を殺すために。
 金の眸が、戸惑っている様子のシェヘブカイを伺うように見、それから、視線が遠くに投げられる。
 「…人の涙の苦さは、あの時に知った。もうそんな望みは聞かない」
付け足すようにそう言って、<緑の館の主>は、静かに右目を閉じた。いくらかほっとして、シェヘブカイは浮かせていた背を壁につけた。
 「そうだよね。」
涼しい風が一筋、木立を揺らしながら通り過ぎてく。
 「メネスのこと、聞いてもいいかな。」
 「何だ」
 「メネスは何かに怯えてるみたいなんだ。知ってる? 彼がどこから来たのか、どうして逃げてきたのか。」
 「…大体の察しはつく。知りたいのか?」
 「いや。それは、本人が話してくれるまで聞かないつもりなんだけど…」
シェヘブカイは、空を見上げた。メネスの守護神は、今もまだそこにいるだろうか。それとももう、消えてしまったのだろうか。
 「村に住んでもらうことにしたんだ。いま、家を作ってる」
 「ほう。」
 「だから、もしメネスに何か危ないことがあるなら、守ってやって欲しいんだ。僕はメネスに生きて欲しい。――たとえ元が、何処の誰だったとしても」
僅かな沈黙。
 「お前がそう望むなら、そうしよう」
 「ありがとう。…」
そう言って、シェヘブカイは表情を緩めた。ここ数日、心の中をしめていた胸のつかえが取れたような気分だった。ひとつ深呼吸して、緑と、花の香りを吸い込んで立ち上がる。
 「もう行くよ、邪魔してごめんね」
祠の主は再び眸を開き、参道を駆け去ってゆくシェヘブカイの後姿を見送っている。

 その眸は、両目とも金色の光を宿していた。

 


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